えにすのはなはなほ

6

「しばらくだな。変わりないか」

父親の声だった。しかしそれは親が子の声を聞いて喜んでいる色ではなかった。

一体何の用だろう。もう父親とも母親とも何ヶ月も話していないし、最後に連絡を取ったのはもう半年以上前になるし、引っ越したことも知らせていない。エンジュがどんな生活をしていようと、基本的には彼らには関係がないからだ。

訝しむ気持ちを巧妙に隠して、エンジュは父親の通り一遍な挨拶代わりの世間話を受け流していた。

「というかお前は、その、もういい年なんだし、結婚とか、しないのか」
「結婚? どうしたの突然。そんな予定はないけど」

おそらくはこれが本題だったんだろう、父親は世間話が終わったところで突然そんなことを言いだした。エンジュが自身で決めたことはことごとく気に入らず、そのため興味もなかったくせに、なぜ今そんな話を。エンジュは窓辺に寄り、カーテンを引いて外を眺めながら音を立てずに深く深呼吸した。

「だけどお前、子供は欲しいんだろう」
「兄さんから聞いたの? まあ、子供は好きだし、そういう願望は昔からあるけど」
「だったら少し真剣に考えた方が――
「だからどうしたの突然。仕事も忙しいし、正直婚活してる暇ないよ」

電話の向こうは静かだった。吐息も聞こえない。

「てかオレを急かさなくても、兄さんと義姉さんがいるだろ」

また長く沈黙を置いて、父親はくぐもった声を絞り出した。

…………慶太郎は、子供を、作れないそうだ」
「ああ、まあ義姉さんも仕事忙しいだろうしね。兄さんも――
「そうじゃない、あいつは、子種がないんだ」
「いそが……は?」

いつになく静かな清田家、そして重苦しい沈黙が流れる電話の向こう。エンジュは思わずぎゅっと携帯を握り締める。確かめるまでもなく、手の中にじわりと汗をかいているのを感じた。

……結婚してもなかなか子供が出来ないから、何やってるんだって何度も聞いたけど、仕事が忙しいって言うばかりで、だけどもう嫁も三十路だっていうのにどうなってるんだと、先週、慶太郎に話をしたら、結婚して2年くらいした頃に、子供が出来ないから検査をしたら、嫁に異常はなくて、子供が出来ないのは、慶太郎の方に、問題がっ……

父親は声を詰まらせて言葉を切った。泣いているのではない、悔しそうだ。

「あんなに、健康で、何ひとつ悪いところはないっていうのに、そこだけ」
……そう」
「だから、なあ寿一、お前はどうなんだ。このままだと遠藤家の跡取りが――

エンジュの中で冷たい炎が燃え上がった。こんな感覚はつい先月、初めて寿里に引き合わされた時に味わったばかりだ。全身が氷のように冷たい。なのに、怒りの炎が身の内をじりじりと焼いている。

そうか、あの完璧に思える兄は、何もかも両親の願いどおりに育った兄は、生殖能力が、ないのか。

全身を焼いていく怒りの片隅で、エンジュはなぜか笑いだしそうになった。

兄とは仲良くやって来たし、兄に対して悪い感情はないし、兄だけを思えば劣等感や嫉妬はない。しかし、兄は隠していたのだ。自分が原因で子供が出来ないことを、両親だけでなく自分にも隠していたのだ。わざわざ言うことではないのかも知れないが、それでも兄はとっくにわかっていた結果、子供が作れないという事実を隠していたのだ。

結婚をして子供を持つだけが全てではないと朗らかな顔をしていた兄は、弟に隠し事をしていた。

両親にとって、エンジュ――寿一は何もかもが不完全な息子だった。ナヨナヨしていて、まるで女の腐ったやつ。腑抜け。勉強もスポーツも肉体も、何もかも兄の慶太郎の方が優れていた。

だというのに、ここに来て兄には両親にとって最大の「欠陥」が見つかってしまった。

ああ、今ここに父と母と兄がいて、そしてオレが寿里を抱いていたら、あいつら、どんな顔をするんだろう。そりゃあ母親にはちょっと問題があるかもしれないけど、健康な男の子、きっとあいつらにとっては喉から手が出るほど欲しい「遠藤家の跡取り」だろうに。

どっちかっていうと男の方が好きで、「元彼」なんてたぶん20人くらいいて、もちろんそういうわけで「処女」じゃないし、何の目的もなく彼氏の会社にコネ入社して、ナヨナヨしてて、なにひとつ親の喜ぶことなんか出来ない、そういう人間なのに。

だけど、オレには寿里がいるんだ。

両親や兄がどれだけ欲しても手に入ることのない、血の繋がった子供。それを、オレは持ってる。

繰り返すが兄には悪い感情はないのだ。けれど、エンジュはつい笑ってしまいそうになる頬を手のひらでギュッと押さえ、静かに息を吐く。自分の人生、大切なことはいつも残酷な形でしか現れないと絶望したこともあった。しかしそれは、いつか通り過ぎる錯覚でしかなかったのかもしれない。

エンジュは背筋を伸ばし、息を吸い込み、さらりと言った。

「跡取りなんて、そんなこと、『腑抜け』に出来るわけないじゃないか」

寿里はお前たちの孫ではない。彼に祖父母があるとすれば、それは彼を抱き締めて心から慈しみ、頬にキスをしては目尻を下げている新九郎さんと由香里さんだけだ。

寿里は幸せな子なのだ。父がいて、もうひとり父がいて、母がいて、祖父母にひいお祖母ちゃんもいて、伯父がふたり、兄がひとり、同い年の姉がひとり。それだけだ。父を苦しめ続けてきた祖父母など、彼には存在しない。行方不明の母も、縁側に置きっぱなしにする祖父も、いない。

「慶太郎が出来ないのに、オレに出来るわけないじゃん。そうだろ」

かすかに父の喉が鳴る音が聞こえる。エンジュはまた笑いをこらえて続ける。

「それに……オレ、あんまり女に興味ないんだよね」
「どういう……意味だ」
「そのままだよ。女の子ってものに、興味がわかない人間みたいで。ほら、腑抜けだし」
「なんてことを」
「だから、結婚とかそういうのはないと思うよ。一生しないんじゃないかな」

嘘ではない。女にはあまり興味がない。他人への興味のうち、95パーセントは男性に限られる。女性は5パーセントしかない。それも、女は自分の夢である「子供」を生んでくれる存在であったからだ。エンジュの偽らざる本心では、それさえなければ男性100パーセントなのである。

つまり、寿里という存在を得た今、女性への興味はほぼゼロにまで落ち込んでいる。

強いて言えばを心から愛しているくらいだろうか。しかしそこはあまりに特別、「興味」で括るにはその範囲を大きく逸脱している。それに、ひとりを単体で愛しているのではなく、信長とふたりまとめてという感覚の方が強い。

まるで、ずっと探し求めてきた愛し愛される存在が男女ふたつに分離しているかのようだった。

信長にきつく抱き締められたいと願うのと同時に、を強く抱き締めたかった。ふたり並んで休んでいるその間に潜り込み、ふたりに両側から愛されたい。そういう存在だった。

嘘は何ひとつついていない。毎日は忙しくて婚活してる暇などない。結婚の予定はおそらく一生ない。女にはあんまり興味がない。そして、「遠藤家の跡取り」を作ることなど、出来ない。

「まあ、そういうことだから、今更オレに期待しない方がいいと思うよ」
「寿一……
「明日も早いんだ。毎日忙しくてさ。じゃあね」

一瞬待ってみたが、返事がなかったので、そのまま通話を切った。忙しいんだよ、本当に。

しかしエンジュは携帯を再び持ち上げ、しばし考えたのち、電話をかけた。

「もしもし? どうした」
「あ、兄さん? ごめんね、いきなり」

電話の向こうの兄の声は、いつもと変わらない朗らかで落ち着いた声だった。

「あのさあ、さっきいきなり父さんから電話が来てさ。結婚しないのかって言われたんだよね」

兄には何でも話してきた。些細な日常の話題から、自分がゲイであることまで包み隠さず。エンジュが何を言っても兄は全て受け止めてきた。「強い男」を強要してくる両親と弟の間に入り、弟には自然なままでいい、そう言い続けてきた。

「今までそんなこと言われたことないのに、急にどうしたんだろう。何か知ってる?」

さらりと聞いたエンジュに、兄は初めて、隠しようのない間を置いた。

…………いや、何も、心当たり、ないな」

もしかしたら、エンジュが気付かないだけで、兄の慶太郎は弟に対してたくさんの嘘を持っていたのかもしれない。何でも話せてありのままを受け入れ、頼りになる兄――というのも、虚像だったかもしれない。彼にどんな感情があったのかなど、もう知るすべはない。

彼は、子供を作れない体であることを、弟には知られたくないらしい。

どうしてだろう、何でも話せて頼れる兄だったはずなのに、エンジュはまた笑い出しそうになる頬を強く押さえた。仲の良いたったひとりの兄弟だったはずなのに、なぜだろう、こみ上げてくる愉快な気持ち、それを言葉で言い表すなら「勝った」というのが一番ぴったりくるような気がした。

もしかして、兄さんはオレを広い心で受け入れていたのではなくて、父親たちと同じように感じていたのではないだろうか。だけど、兄さんは頭のいい人だ。オレがナヨナヨしたままであればあるほど、自分の評価は上がる。そう、確か、オレが「強い男」になったら、困るんだったよな――

しかしそれもエンジュの憶測。真実を知る術も意味もない。

兄に嘘をついたことはなかった。ゆえに、嘘をついた兄に寿里を知る権利はない。しかし彼をいじめたいわけではないのだ。エンジュは複雑に絡まり合う感情を押し止め、肩の力を抜く。

「そっかあ。ま、女と結婚する予定なんかないよって言ったんだけどね」
……でもお前、確か女もいけるんだろ」
「そんなの、やろうと思えばやれる、っていうくらいのものだよ。願望はほとんどないし」

現状、そんなところだ。今いちばん大事な存在も、男の子だ。

「てか兄さんはどうなの。義姉さん元気?」
「ああ、変わりないよ。最近昇進したんだ」
「えっ、そうなの!? おめでとう! 何になったの? 確か兄さんの部署って――
「いやいや、オレじゃないぞ」
「えっ、義姉さん昇進!? すごいな、男ばっかりの会社なのに。さすがだな」

通り一遍な挨拶代わりの世間話。エンジュの耳にはあまりに白々しく聞こえる世間話。

「前に兄さんが言ってたみたいに、色んなライフスタイルがあるし、そういう義姉さんみたいな女性が当たり前になっていくんだろうな。結婚して子供育てて一人前みたいな古臭い価値観、早くなくなればいいのにね。さっさと扉が開いてくれればいいのに」

これも嘘じゃない。恋愛性愛対象の95パーセントが同性である身としては、切実な問題でもある。

少子化問題とは裏腹に加速する個人主義、こんな清田家のような大家族は絶滅危惧種に等しい。4世代11人、犬も交えて毎日みんなでわいわいやっているというのに、日曜になればさらに他人を招いて飲んだり食ったり、プライベート第一な多くの現代人には耐えられない環境に違いない。

多様化するライフスタイル、また結婚や出産子育ての在り方も細分化され、かつてのような「右に倣え」ではまかないきれなくなってきている。だから、結婚や出産は「しなければならないこと」ではなくなりつつある。他でもない、慶太郎自身が、そう言っていたはずだ。

時の流れに扉は勝手に開いていくかもしれない。兄さんは、どう?

……ああ、そうだな」

オレの扉は、開いたよ。

槐の木の真っ白な蕾が花開くように、オレの扉は開いたんだよ。

もごもごとくぐもった兄の声を耳に残し、エンジュは通話を切った。

と信長の部屋に戻ると、子供たちが一列に並んでまだスヤスヤと寝ていた。エンジュは寿里とアマナの頭にチュッとキスをして、カズサの頭は普段から本人がキスを嫌がるので撫でるだけにして、リビングのように設えている部屋の方に移動した。

「あ、お疲れ。お風呂ありがとね」
「てかお前明日早いのに悪かったな。寿里はオレたち見るから、休んでていいぞ」

そろそろ結婚から6年が経とうかというふたりは、ソファでくっついて座っていた。信長の腕がの肩を抱いている。高校時代から常に愛を求めていたエンジュは、そんなふたりの姿を見ると、嬉しくなってくる。仲良きことは美しきかな。それに勝るものはない。

「何言ってんの。部屋でひとりぽつんと寝てるのなんて、やだよ」

もちろんエンジュの体調を気遣ったつもりの信長は「はいはい」と呆れた声を出す。エンジュは鼻でふふんと笑いながら、ふたりの間に強引に体をねじ込み、その上と信長の腕をぐいぐいと引っ張って自分の体を囲ませた。

「ほんとに、息子より父親の方が甘えっ子だよね」
「いいじゃん、甘やかしてよ。どれだけ甘やかしたって困ることないだろ」
「まあそうね、休みの日は寝てるだけで家事を丸投げするタイプでもないし」
さん、濡れ衣です。夫をそういう目で見るのはやめなさい。ちゃんとやってるでしょ」

両側のやり取りにエンジュは嬉しそうに笑い、またふたりの腕を引いてまずはぺたりと信長に頭を預けてくっついた。彼の柔らかい髪が額に触れてくすぐったい。そして、テーブルの上に置いてあったスナップに手を伸ばす。今日、写真館でおまけしてもらった笑顔のショットだ。

「ねえねえ、なんだか、本当の家族みたいに見えない?」
……ああ、そうだな」
「ママがいて、パパはふたりもいて、子供たちはみんないい子」

言いながら今度はにもたれかかって、手を繋いだ。

……オレ、ずっと本気でふたりと結婚したいと思ってた」
……そうだったね」
「そんなの、魔法使いになりたいってくらい、叶わないことだと思ってた」

自分の望むことは全て世のルールからは外れていて、つまりそんな幸福は何ひとつ手に入らないのだと、そう思ってきた。女より男の方が好きなのに、子供が欲しいという欲求を自覚してからは余計にそう思った。夢は叶わないもの、そう思ってきた。

愛した人と結婚して、子供を持ち、家庭を作り、共に生きていく。そんな人生は得られないのだと。

「だけど、今、夢が叶ってる気がしたんだよね」

愛したのは、信長と。子供は寿里。思わぬ形だったけれど、こんな大きな「家庭」の中に入ることになり、彼が「強い男」じゃなくても何も言わない人々と生活をともに出来る。

そりゃあエンジュと寿里は清田家から見ればただの同居人だ。戸籍上は何の関係もない。だが、だから何だと言うんだ。血の繋がりはなくても、書類を提出していなくても、エンジュにとってはずっと夢見てきたことが現実になった。

「ねえ、ふたりと結婚したと思ってもいい?」

その現実さえあれば、他に何もいらない。

……うーん、の夫はオレひとりがいいから、お前嫁な」
「えー。嫁は私だけにしてよ。エンジュ、夫ね」

と信長は少しだけニヤついてそう言いながら、代わる代わるエンジュの頭を撫でた。

「ほんと? 大丈夫大丈夫、オレどっちも出来るから」
「出来るって何の話だよ」
「あ、そうだ、明日指輪買ってこようかな。つけてもいいよね?」

も信長も、こんな嬉しそうなエンジュは見たことがなかった。エンジュはいつでもゆったりとしとやかで落ち着いていて、言いたいことをずけずけと言う、そういう人だけれど、こんな風に子供のように無邪気に喜ぶ姿は見たことがなかった。

と信長も、それでいいと思った。エンジュはそれでいいと思った。

彼が彼でありさえすれば、他のことはどうでもいいのだ。

「いいけど、だったら私にも指輪買ってよ。私、嫁だから」
「買ってあげる買ってあげる! どんなのがいい? 今度一緒に選びに行こうか」
「おいおい、近所でふたりで買うなよ。エンジュ、オレには腕時計買ってくれ」
「何言ってんの、腕時計この間買ったばっかりでしょ。指輪なら買ってあげる」
「嘘、また買ったの!? 年末に買ったばっかりじゃない!」
「うわやべ、しまった! いやその、限定品で! ラス1で!」
「のーぶーなーがー」

これは信長が悪い。エンジュはふたりの間でけたけたと笑いながら、ふと中学生の頃の「初恋」を思い出していた。地球上に人間なんて何十億人もいるというのに、誰かと思いが通じ合うということは奇跡だ。あの時、奇跡が起こったのだと思った。

そこから、何度も何度も奇跡だと思っては、奇跡でも何でもなく、ただのまやかしでしかなかったことを思い知る日々だった。けれど、本当の奇跡は絶望と共にやって来た。

雨の中、初めて会った寿里はぐずりもせず、大人しくエンジュに抱かれたままいい子にしていた。電車を乗り継ぎ、不慣れなバスに揺られ、清田家への道を歩くエンジュには絶望しかなかった。春の雨は生ぬるく冷たくて、雨粒の立てる音が銃弾の音に聞こえた。

肌を打つ雨、無残に千切れた桜の花びらを踏みしめて歩く道は永遠の責め苦に感じた。

それを通り過ぎた先には、奇跡が扉を開いて待っていたのである。

END