えにすのはなはなほ

3

エンジュこと遠藤寿一が初めて付き合ったのは、中学3年生の時の同級生の女の子だった。

しかしどうにも彼女はエンジュに対して「頼れる彼氏」を求める傾向にあり、付き合い始めてから2ヶ月が経過する頃になると、エンジュの方がそれにうんざりするようになっていた。付き合うのに良いと思われる条件ばかりを気にして、判断を誤った。

ただでさえ両親から「強い男になれ」と強要されているエンジュは完全に逆の人物であり、だからこそたくさんの女の子に好かれたのである。それなのに、彼女までもが自分に対して両親と同じことを要求していると感じたエンジュは、急速に気持ちが冷めていった。

そしてエンジュの方が彼女を避けるようになり、部活を引退する頃になって別れた。

君の望むような彼氏にはなれないみたいだし、自分を偽るのは無理だと言って別れたのだが、彼女の方はしかめっ面で腕を組み、「そんな自己中な人だと思わなかった」と言って怒りを顕にしていた。エンジュには一体どの部分が自己中なのか、よくわからなかった。

そして高校に進学、部活に入るつもりはなかったのだが、つい勧誘に負けて水泳部に入った。そこで彼は「自分は男の方が好きかもしれない」と気付き始める。豪快で頼れる先輩は後輩全員を異様に大事にしていた。それはまるで、先輩が彼氏で後輩たちが彼女のようだった。

それがあまりにも心地よかったのである。

性自認が女性だから恋愛対象が男性――というのではなく、とにかく彼は「強気な男性にリードされたい」という願望が強いことに気付いた。女の子になりたいとか女の子の装いをしたいとは思わなかったが、とにかく自分が押し付けられてきたような「強い男」に可愛がられたいと思い始めた。

そうか、自分はホモだったのか。高校1年生のエンジュはそう考えた。しかし、彼には同時に抗いようのない願望がもうひとつ生まれた。子供がほしい。自分の家族がほしい。

それは単に両親と折り合いが悪いがゆえの、自分が理想とする家庭を求めていただけかも知れない。けれどそのためには女性のパートナーを得るのが近道であり、男性に可愛がられたいという願望を自覚したばかりだが、女性と関係を持つことには嫌悪感を感じなかった。

ただ彼は自分が女性的役割でいたかっただけなのである。世の女性が差別だ、男性優位社会だと憤るような、そういう古い女性像、それがエンジュの理想だった。それを手っ取り早く現実にするためには、元気で単純で、だけど胆力があって強気な男性と付き合うのが一番早い。

もし女の子で自分に「強い男」を求めない子がいたら、結婚して子供が欲しいな。そう考えつつも、エンジュは校内で彼氏をゲットできるとは思えなかったので、外に飛び出た。何とか同性のパートナーを求める人々のコミュニティに入り込み、高校1年生の夏休み全てを費やして彼氏を探した。

女性化願望はないエンジュだが、肌は白くつるりとしていて、切れ長の目を持ち、艷やかな黒髪で、そして、体操をやっていたせいか、大変きれいな肢体を持っていた。特に足がまっすぐで美しい。まさに美少年、大人の男性からたくさんアプローチをされた。

初めて付き合った男性は20代後半、エンジュが思い描く理想的な「強い男」だった。強引で我が強くて性欲が強くて、しかし包容力を感じさせる。エンジュは夢中になった。すぐに体の関係も持ち、部活の先輩のところへ行くと嘘をついて何度も泊まりに行った。

だが彼とは数ヶ月で破局。彼にとっては体の相性がいまひとつ、だったそうだ。

以来、エンジュは強気な彼氏を転々とする生活を送るようになった。

彼がゲイであることは誰も知らなかった。親も、兄も、学校の友人も。

「生まれてたことすら知らなかったって、じゃあ寿里の母親とは……
「そう。妊娠したことも知らなかったし、別れた時も何も」
「ちゃんと付き合ってた子なの?」
……最初は、一晩限りのはずだったんだけど」

全て話すと言った手前嘘はつけないが、言いづらそうにエンジュは喉を詰まらせた。

「前にも言ったけど転職してしばらくはオフィスで3人だけで黙々と仕事してることも多くて、残業も多かったから、その3人で飲んで帰ることがよくあって、そういう時にたまたま意気投合したっていうか、まあその、最初は酔った勢いだったんだけど」

恋多きエンジュだが、目が覚めたらホテルのベッドで隣に女が寝ていた……という経験は初めてだった。が、酔った勢いのことだったし、連絡先を交換することもなくその時はそのまま別れた。

「だけど、また会社の近くのバーで再会して、それで会うようになって」
……それって本当に偶然だったの?」

の言葉にエンジュはぎくりと肩を強張らせ、信長は驚いて顔を上げた。

「え、何それ、どういう意味だよ」
「だって、その人が寿里くんの母親なんでしょ。今の状況考えると……
「察しがいいね。たぶん、本当の偶然じゃなかったと思う」
「本当の偶然じゃない?」
「近くの店を転々としてたんじゃないかと思うんだけど……

エンジュのオフィスは都内のターミナル駅から10分ほど歩いたところにある。職場はオフィスビルの中の一室でしかないけれど、周辺にはいくつもの飲食店がある。出会った時にオフィスが近いと話していたので、周辺の飲食店を回っていればエンジュが現れる可能性は高い。

「おいおい、ちょっと待て。酔った勢いでホテル行った子が、待ち伏せしてたってこと?」
「まあ、そうなるかな」
「お前のこと気に入っちゃったとかそういうこと?」
「たぶんね」
「たぶんね、って付き合ってたんだろ?」

は何か勘付いているようだが、信長は首を傾げている。

……詳しくは知らないけど、少なくとも彼女の父親は、病名が付いてるらしいと言ってる」
「えっ、何? 病名?」
「でも、治療とか、してなくて、おそらく放置になってるんだと思う」
「病気なのか? ちょっと待って、オレ全然意味分かんないんだけど」
「精神障害を持ってるかもしれないってこと」

にダイレクトに言われると、信長はグッと身を引いて黙った。

「自覚がないケースも、あるしね」
「彼女は多分、子供の頃からそういう人だったんだと思うんだけど、親がかなり高齢で」
「未だに精神疾患は診察にかかることに抵抗がある人、多いから」

信長はの声に遠い日の記憶を思い出していた。夫を亡くして途方に暮れたの母親は精神的に参ってしまい、日常生活に支障をきたすまでになった。それを心療内科に連れて行くまでが本当に大変だった。自分は異常ではないから精神科には行きたくない、と彼女はずいぶんゴネたものだった。

「父親が言うには、小学生の時に保健医に勧められて一度受診したことがあったらしいんだけど、自分の子供が『おかしい』と診断されるのではないか、社会から隔離されるのではないかと思って、行かせるのをやめた、だからたぶん病気だけど詳しくはわからない、って」

そんな風に考えてしまう辺りが前時代的自己判断である。「おかしい」と思わないための、社会から隔離させないための受診であるはずなのに、彼女は真逆の環境へ置かれてしまったことになる。

「付き合ってた頃は、ものすごくさっぱりした性格で、オレがゲイだって知っても何も気にしないって、何なら男と二股してもいいよなんて笑ってたくらいで、なんていうか、頼れる姉御みたいなキャラでさ。やっぱりそういうのに惹かれちゃうんだよね、どうしようもないね」

に頭を撫でてもらったエンジュは笑いながら涙をこぼした。

「何で別れたの?」
「彼女は、リア充が大っ嫌いでさ。今にして思うと、そこだけは隠せなかったんだろうね」
「でも……今リア充って言っても、人によって程度が違うよな」
「まあ、わかりやすく言うと、君たちみたいな人のことだね」

聞き慣れた使い慣れた言葉だが、まさか自分たちがそれに当てはまると本気で考えている人はほとんどいないはずだ。皆、自分より少しでも優位に見える人物を指して言うに過ぎない。なのでと信長も返答に困った。

「お金、見た目、恋愛。その辺が順調そうなカップルなんかを見ると罵倒してた」
「でもその時はエンジュと付き合ってたんじゃないの?」
「そう。付き合ってたし、仕事もしてたし、ていうかすごくきれいな子だったんだよ」

写真はすべて消去したから残っていないけど、と前置きをしたエンジュは女優の名を挙げた。キリッとした目つきの、男勝りな役どころが多い女優で、男性より女性に人気があるタイプ。それに似ているという。それが事実ならリア充嫌いどころの話ではない。

「それで別れたの?」
……ふたりのこと、ちょっと話したことがあるんだ」
「なんでそんなこと……
「自慢、したかったのかも。詳しくは話してないよ。だけど途中で火がついちゃって」

親友がプロのバスケット選手なんだよね。大学の同期で1コ下なんだけど、そいつの嫁とも友達でさ、そいつの家すごい大家族で、楽しいんだよ。そんな風にざっくり話をしただけだったのだが、彼女は突然キレた。暴力を振るうことはなかったけれど、狂ったように喚き散らした。

……怖く、なったんだ。付き合ってく自信がなくなった」
「そりゃしょうがねえよ……
「最初はこの子なら『強い男』にならなくてもいいのかもって思ったけど、別の意味で違った」

やっと手に温みが戻ってきたエンジュは、繋いでいた手を解いて紅茶に口をつけた。

「別れたいって話を切り出すときもすごく怖かった。だけどなぜかそれはすぐに納得してくれて、その場で別れることが出来たんだけど、たぶん、妊娠わかってたんだろうね」

しかし結局、彼女の目的が一体何だったのか、わからないままだという。

……さっきから彼女の親父さんがよく出てくるよな」
「そう。別れてから数ヶ月後に会社に突然現れた」

正確なところはわからないが、ゆうに70は越えているように見えた。最初は彼女の祖父が訪ねてきたのかと思ったくらいだった……とエンジュはため息を付いた。

「わざわざ地下街にある薄暗い喫茶店に連れ込まれて、オレと別れてから娘が不安定になってしまって手に余っている、自分たちは高齢で先が短いから不安でならない、あとにひとり娘を残していくのは忍びないので、見捨てないで欲しいって言い出して」

エンジュの口調が徐々に憎々しげになっていく。

「その時、どう考えても寿里を妊娠してたのはわかってたはずなんだ。だけどあの父親はオレにそれを言わずに、隠したまま、娘は病気なんだ、君のことを心から愛しているから、どうか結婚してやってくれないか、自分たちに代わって面倒を見てやってくれないかって、そんなことを言ったんだよ」

それでエンジュが「はいそうします」と頷くと本気で思っていたのなら、彼もずいぶん歪んでいる。エンジュは当然その話を拒否、話もそこそこに帰ってしまった。

「それで生まれたのが、寿里」
「エンジュの名前から一文字取ったのかな」
「たぶんな。だけど、寿里が1歳になる少し前から、彼女は帰ってこなくなった」

と信長は小さく頷く。だからエンジュはこの雨の中寿里を抱えてやって来たわけだ。

「一昨日、突然彼女の父親から連絡があって、どうしても会って欲しいって言うから、今日、オフィスに来てもらったんだ。誰もいないから。そしたら寿里を抱いて現れて、君の子供だよって言われた時の絶望、悔しさ、怒り、それはどんな風に言えばいいのかわからない」

ずっと望んでいた「自分の子供」が突然現れたことによる驚きよりも先に、取り返しがつかない時間への絶望、生まれたその日から共に暮らせなかったことの悔しさ、こんなに大きくなるまで隠していたことへの怒りの方が先に湧いてきた。

エンジュは寿里を奪うと優しく抱き締め、涙を流しながら老父を罵倒した。

「だけど、聞こえてても頭に入ってないみたいでさ、いくらオレが怒っても、娘が帰ってこなくて、自分たちだけではこの子を育てられない、とうとう無理がたたった妻が入院してしまった、私ひとりでは何も出来ないって繰り返すばっかりで」

それでもエンジュが辛抱強く聞き出したところによると、寿里の母親はもう何ヶ月も家に戻っておらず、捜索願は一応出してあるが進展はなし、連絡もなし、行方不明になる直前にはやはり何度か夜遊びがあったそうだが、手がかりになりそうな特定の人物などはまったく心当たりがないという。

「それでその父親、なんて言ったと思う? また『娘と結婚してくれ』って言うんだよ」

たおやかで柔和でにこやかな、いつものエンジュではなかった。汚いものを見るような目つきで顔をしかめ、紅茶のカップを持つ手の甲に骨が浮き上がった。

「つい、行方不明なのにどうやって結婚するんだって突っ込んだらさ、うちに来て一緒に生活してくれないか、そしたらあの子は戻ってくるから、そしたら結婚してくれればもうどこにも行かないだろうし、自分たちも安心だからって言い出してさ。もう笑うしかなかった。こいつ、どこまでも自分のことしか考えてないんだって思ったら、反論する気力もなくなって」

高齢が故にモラルを欠いた思考になってしまっているのか、または元からこうした歪んだ考え方しかできないのか、それはわからない。しかし何をどう話しても「娘と結婚してくれ」に着地してしまうので、エンジュは腹を決めた。

「本当に寿里がオレの子かどうかはちゃんと鑑定して確かめる。でももし違ってもオレが引き取る。だけどあんたの娘とは結婚しないし、よりも戻さないし、二度と関わりたくない。あんたと次に会う時は家裁で、それきりで最後だ、っつって追い返した」

しかし何しろまだ2歳にもなっていない幼児である。その場で泣き崩れたエンジュは、ロッカーに置いてある換えのシャツを引っ張り出すとビリビリに裂き、それを抱っこ紐にして寿里を抱き、コートでくるんで清田家までやって来た。

寿里を抱いた瞬間、この子は自分の子だと確信したエンジュだったが、しかし突然現れた幼児、何をどうしたらいいかさっぱりわからない。当然実家には頼れない。そんな絶望の淵にあるエンジュの思考の片隅にほんのりと明るく暖かい場所が1箇所だけあった。それがと信長だった。

……寿里を引き取るということは」
「頼朝さん、弁護士に知り合いいないかな。家裁でちゃんと親権取りたい」
「いると思うよ。まあ母親が行方不明で祖父母が高齢なら何とかなりそうだよな」
「その前に児相に連絡して、DNA鑑定して、オレの、子供だって、確かめて」

エンジュも不安定になっているのだろう。また顔を覆って泣き出した。がそっと肩を抱くと、エンジュはそのままするりと抱きつき、の肩にボタボタと涙をこぼしながら呻いた。

「寿里の、生まれたその日に、一緒にいたかった。あの子が初めて笑って、お座りして、歩いたのを見たかった。泣いても笑っても抱っこして側にいたかった。それをずっと望んでたのに、どうしてオレにはこんな残酷な形でしか現れないんだろう」

現在2児の母であるもつい涙腺が緩んだ。実際に生まれたその日から子育てに挑めばまたそれなりに苦労を感じたこともあっただろうが、それでもエンジュの根底にあるものは、強くて深い愛情でしかない。それがわかるので、は彼を強く抱き締めた。

「でももう一緒にいられるよ。まだ2歳にもなってない。これから先寿里くんの長い人生、エンジュと一緒にいる時間の方が長くなるんだよ。ねえ、自分が2歳になる前のことなんて覚えてる? 覚えてないでしょ。これから先、寿里くんと一緒にいるのはエンジュっていうお父さんだけだよ」

間に合った――とは言えない。果たして寿里がどんな風に一年半ほどを過ごしてきたのかもわからない。しかし、の言うようにこの先の寿里の将来にはエンジュという父がいて、それはずっと変わらない。エンジュのいつか薄れゆく記憶の中に、寿里の母親と、その身勝手な祖父の影があるだけだ。

「エンジュ、親権取った後はどうするつもりなんだ」
「まだ具体的には考えてないけど、でも何があってもオレが育てるよ」
……万が一寿里が中学生くらいでグレて『死ねよ』とか言い出しても、変わらないか?」
「変わらない。約束する。あの子が自分の望む生き方が出来るように、何でもやるよ」

エンジュの目は真っ赤だったが、真剣だった。寿里という子供と出会うまでの道筋はずいぶん荒れていたけれど、エンジュが抱き続けてきた、ある意味では「夢」だった自分の家族が現れたのである。青天の霹靂だったので驚いたし頭にも来たけれど、喜びもある。

……信長、頼みたいことがあるんだけど」
「おう、なんだ」
「オレ、寿里のために生きたい。だから、オレの頭のネジが外れそうになったら、止めて」

目を真ん丸にした信長を見て、エンジュはやっと微笑んだ。

頭のネジが外れそうになったら止めてくれ――それは、と遠く離れて過ごす信長がエンジュに頼んだことだ。心ではただひとりを想い続けていたいのに、そういう覚悟をしたいのに、理性は簡単に吹き飛んだ。もうそんな思いはしたくない。だから、オレを止めて欲しい――

そうして信長は部活以外の時間の多くをエンジュと過ごし、5年の遠距離恋愛を全うした。

「わかった。どっかの男にフラフラしそうになったら、襟首掴んで止めてやるよ」
「よくわかってるね、それほんとに頼む」
「でもそこは無理に押し込めることじゃ……
「いいんだよ、オレ、しばらくは寿里との時間を1番優先したいんだ」

気が乗らないものを無理に決意しているようには見えなかった。そもそもが恋多きエンジュなだけに、子供がいるから恋愛はできないと頭から決めてしまっては、いずれ歪みが出るのでは……は思ったのだが、それもエンジュの「寿里とふたりがいい」という気持ちが落ち着いたらで構わない。

「明日、ゆかりんたちに話すけど、大丈夫?」
「もちろん。ただ、迷惑かけて、それだけはごめん」
「迷惑なんて思ってねーよ。ひとりで思い詰めて壊れたら、そっちの方が困るわ」

も信長も、どこかでこんな風にエンジュの「助け」になることを望んできた。こんな残酷な形で現れることまでは願っていなかったけれど、どんな形であっても受け入れると決めていた。だから、これでいい。と信長は改めて間に挟まるエンジュを抱き締めた。

エンジュが大事にしているものなら、自分たちも大事にしたかった。