えにすのはなはなほ

4

「それは否定しないけど、その、感染症とかは充分気を付けろよ」

兄の慶太郎が弟のセクシャリティを知ることになったのは、エンジュが一浪の後に大学生になり、同居するようになったときのことだ。兄とその彼女と同居では彼女も連れてこられないんじゃないのか、と兄が心配したので、エンジュは一度も喧嘩をしたことない兄を信じてカミングアウトしてみた。

すると、ゲイであることはともかく、感染症の方が気になるという顔が返ってきた。

「まあもうそれも古い話かな。避妊のイメージだけで、感染症予防という概念がなかったわけだから」

そして納得も早い。

弟のエンジュから見ても、兄は完璧な人だった。喧嘩らしい喧嘩は本当にただの一度もしたことがない。ベタベタ仲良しというわけではないが、「強い男」を強要する両親に弟が傷ついていると、「お前に強い男になられたら、オレは何も勝てないから困る」などとさらりと慰めてくれるような人だった。

小学生の頃から文武両道、中学くらいまではとにかく同性に好かれて友達がいっぱい、部活に勉強に全力投球。両親大歓喜。それが高校進学を機に具体的な将来設計に向かうようになり、友達との付き合いを抑えて勉強の割合を増やし、少々のアルバイトに控えめな彼女。そういう毎日を過ごしていた。

しかし高校時代に付き合った彼女とは大学進学を機に袂を分かち、学生時代は時折「学生らしい」無茶を挟みつつ、学生時代3人目の彼女と落ち着くことになる。この時はまだ学生だが、就活も順調で、非の打ち所がない状態だった。

そして弟のカミングアウトにも、20秒位で納得してしまった。

19歳のエンジュには、完璧な人に見えた。

「それだけ?」
「えっ、何か考えを述べた方がいいの?」
「そうじゃないけど……
「だってさあ、別にお前が誰を好きでも、オレとの関係って変わんないじゃないか」

まあそうなんだけど。それでもエンジュはどことなく居心地が悪くてもぞもぞしていた。

「親父たちはどうせ変わらないし、あの人たちはオレが引き受けるから、お前は好きに生きればいいんじゃないか。有名大学に入らなきゃだめだって強制してるのも向こうなんだし、のんびり学生やって、そのあとは自由に外の世界へ出たらいいじゃないか。次男なんだし」

高校3年生の時に、4つ年上の男性と付き合っていたエンジュ。後にも先にもこんなに激しく人を愛したのは彼だけ、というほど夢中になった相手だった。女性化願望はないのに、叶うことなら女に変身して彼の子供を産みたいと願ったくらいに愛した相手だった。

彼の方もまた同じくらい激しくエンジュのことを愛していて、まさにお互いのことしか見えないという状態が長く続き、それが原因となってエンジュは大学受験を一度失敗する。

それと同時にそれほど激しく愛し合った彼とも破局せざるを得ない状況になってしまい、抜け殻のエンジュは浪人期間中、丸々恋愛なしという時間を過ごした。そのおかげかどうか、今度は無事に合格。学校にも近いから兄のマンションに居候したいという申し出を両親が許可してくれたので、一気に肩の荷が下りた。それも手伝ってのカミングアウトだった。

兄には嘘をついたことがない。ゲイであることも、唯一の隠し事だった。

「ていうかさあ、同性異性以前に、大人になったら結婚して子供を育てて初めて一人前! みたいなのって、そのうち絶滅すると思うんだよな。いろんなライフスタイルがあって、それこそ日本だって日本人だけの国ではなくなっていくだろうし、そんな時に人のライフスタイルにとやかく口出ししてたら社会が回らなくなると思うんだよ。そうしたら嫌でも扉は開くさ」

兄が言うと、本当にそうなるような気がした。

兄と、その彼女との生活は楽しかった。彼女もエンジュがゲイと知っても「あ、そう。じゃあ今度一緒にマッチョカフェ行かない? 慶太郎には内緒で」と言うだけだった。エンジュは大笑い。親元を離れてみたら、そこには彼に「強い男」を強要してこない世界が広がっていた。

そして、清田信長に出会った。

まるで小学生がそのまま大きくなったかのような少年性、太陽のように明るくて、動くたびに跳ねる髪がキラキラと光って見えた。だというのに、稀に見せる薄っすらとした影は一体何なんだろう。エンジュはすぐに彼が気に入り、告白しても大丈夫そうかどうか観察し始めた。

完全にノンケって感じだけど男社会で育ってそうだし、案外いけるかも――

ノンケ相手にいきなり告白はリスクが高い。しかし、もうその場で「キメェ」と言われて罵倒されるのは気にならない。地球上に人間なんて何十億人もいるというのに、想いが通じ合うということは、奇跡なのだ。オレは、それを探しているだけ。

それが本当にいるなら、男でも女でもいい。愛し愛される誰かを探している。もうずっと。

親友ふたりに全てブチ撒けたエンジュは一気に疲れが出て、由香里のおにぎりを詰め込むと倒れるようにして眠ってしまった。本人の口から言わせたいから細かい話はまた明日、と前置いてが1階に降りると、新九郎とカズサもぐっすり眠り込んでいた。

リビングでは由香里と頼朝がアマナと寿里を抱っこしていて、ふたりはまだ眠くないらしいという。というかアマナと寿里は横に並べて座らせておくとずっと遊んでいるのだと由香里が目尻を下げていた。

そこに慌てて帰宅してきた尊もざっと事情を聞きつつ、アマナと寿里が並んで座っているところをずっと撮影していた。同じくらいの大きさのよちよち歩きがふたり。かわいい。

結局、1階の和室で由香里と尊がアマナと寿里を挟んで寝ることになった。寿里は驚異の人見知らずで、誰が抱っこしてもぐずらないし、嫌がらないし、むしろアマナと並べておくと機嫌がいいようだった。尊伯父ちゃんデレデレ。

さてその翌日である。前日の雨はすっかり止んでいたが、やっぱり庭はビチャビチャ、隣の家の桜も花がほとんど残っていない。日曜だが6時に朝食の清田家のダイニングには、カズサとエンジュと尊以外の全員が揃い、いつものようにわいわいと朝食を済ませた。やっぱり寿里はぐずらない。

「なんかいきなり来た割に馴染んでるわね……
みてえだな」
「どういう意味よ」

私だって最初は戸惑ったし緊張してたとは主張するが、誰もそうだねと言ってくれない。

ひとまず朝食が終わり、犬の散歩も終わり、全員が身支度を終えたところではエンジュを起こしに行った。そろそろ8時、エンジュはぐっすり眠っていたが、昨夜寝る直前まで泣いていたので目が腫れぼったい。せっかくの切れ長の目が台無しだ。

「寿里、いい子にしてるよ。すっかりアマナと仲良し」
「えっ、そうなの。手が早いな」
「まあ、エンジュの子だから不思議じゃないけど」
ひどい」

寝起きで甘えたがるエンジュを追い立てて着替えさせ、リビングへ連れて行く。朝っぱらから長い話になるのは目に見えているので、尊がカズサを外に連れ出してくれることになっている。尊伯父ちゃんはスイーツ男子なので、母さんからの許可さえあれば、ソフトクリームやらジュースやらは進んで買ってくれるタイプ。カズサはそれを知っているのでウキウキで出かけていった。

リビングの上座にあたる指定席に新九郎がどっかりと腰掛け、その両側に由香里と頼朝。今のところ清田家と清田工務店はこの3人が中心になって動かしているので、何か大事な話ということになるとこの配置になる。エンジュはテーブルを挟んで向かいの席につく。

寿里は起きてきたエンジュに抱かれるとぺちぺちと顔に触れて不思議そうな顔をしていたが、頬にキスされるとケタケタと笑った。それにまた涙ぐんでいたエンジュだったが、両隣にと信長についてもらうと、深々と頭を下げた。

そして、自分が95パーセントの割合で男性の方が好きだということから、全部話した。

時折由香里が質問を挟み、と信長がフォローしながら答えていくという状態だったが、新九郎と頼朝は頷くだけで何も言わず、黙って聞いていた。やがて全て話し終えると、全員が一斉にお茶で喉を湿し、そしてまずは頼朝が顔を上げた。

「弁護士は心当たりがあるから、それはいつでも紹介するよ」
「ありがとうございます」
……だけど、ひとりで大丈夫か?」

いつもこの家では、言いにくいことを言うのが頼朝である。というか本人がそれを自分の役目だと自覚しているところもある。エンジュは少し俯き、控えめに頷いた。頼朝は続ける。

「僕も甥っ子たちが生まれるまでは子育てを軽く考えていたタイプだし、今でも大した手伝いはしていないけど、それでも大変なことだってわかってるつもりだよ。君は末っ子で下にきょうだいもいないし、甥姪もいないようだし、小さい子供自体、ほとんど接したことないんじゃないのか」

そうは言うが、頼朝と尊は4歳差、頼朝には弟ふたりが生まれてからの記憶が鮮明に残されている。小山田夫婦の子供や、従業員や下請けの子供がバーベキューに遊びに来ることも少なくない。そういう意味では彼もまた「子供慣れ」はしている人だった。しかしエンジュはそうではない。

「何も寿里くんを手放した方が……と言ってるわけじゃない。だけど、不慣れで経験もない君がこの子をひとりで育てていくのはあまりに負担が多いのでは、と考えてしまうんだけど」

とまあ、ものが何であれこういうことを進んで言い出すので、頼朝はすぐに嫌われるケースが多い。しかし、口には出さずとも全員の心の底の方にちらちらと見え隠れしている懸念には違いない。エンジュはそれをきちんと理解しているので、改めて頷いた。

「おっしゃる通りです。今僕にあるのは寿里と離れたくないという気持ちだけで、計画的で明確なビジョンがあるわけではありません。そこは……確かに寿里と僕にとってリスクです」

と信長も助け舟を出してやりたいが、何ともフォローに困る。これでエンジュが実家と仲良しなら、助けてくれる手もあっただろう。もしかしたら兄が一緒に暮らそうと言ってくれたかもしれない。しかし何しろ「強い男」を強要するマッチョな両親である。無理だ。

その上運の悪いことに、この時エンジュには彼氏も彼女もいなかったのである。子供がいたなんてと逆上してしまう可能性もあるが、パートナーがいれば、ひとまずふたりで育てるということが可能だったかもしれない。今エンジュはとことん孤独な状況にある。

さすがに頼朝もそれ以上は言葉にするつもりがないようだが、心配しているのは、そんな状況のエンジュがひとりで子育てを始めて、それに疲れ、ストレスが溜まって、愛情が破綻する可能性だ。虐待、育児放棄、一歩間違えれば誰にでも起こりうる可能性。

現実問題エンジュのオフィスは都内にあり、自宅もその近辺にある。そんな都会のど真ん中でひとり、慣れない子供を抱えて助けの手もなく、大丈夫か? という、頼朝の懸念だった。すると、熊の置物のようにじっと座ったままだった新九郎がヒゲを震わせて顔を上げた。

「エンジュくん、君自身のことはよく知らないんだけども、信長ととはずっと仲がいいよな?」
……はい、学生の頃から、仲良くさせて頂いています」
「こんな状況だからちょっと失礼なことを聞くけど、いいかい」
「はい、何でも」

エンジュのはっきりとした受け答えに新九郎は何度も頷くと、改めて両親とどういう距離感にあるのか、現在の仕事について、収入について、そして健康に問題はないのかと問いかけた。エンジュはそれも全て包み隠さず答えた。

「強いて言えば、視力が弱くて、秋がシーズンの花粉症があるくらいです」
「そうか。そうしたら、しばらくこの家にいたらどうだ」
「はい、そう――は!?」

エンジュのみならず、つい惰性で頷いたたちも、驚いて素っ頓狂な声を出した。

「信長たちに聞いたことがあるかもしれんが、この家はオレがガキの頃からこんな風に家族が多くて、最初は隙間風の入る掘っ立て小屋みたいな家だったけど、継ぎ足し継ぎ足ししてたら、こんな長屋みたいな家になっちまった。だけどそれは、みんなで暮らすためにやったことだ」

確かにこの家は信長たち兄弟が生まれる前にも、新九郎のいとこやら由香里のいとこやら、あれこれたくさんの人が生活をしていた。そして今も実際、部屋は空いているのである。

「早起きしなきゃならんだろうが、一応通えない距離ではなさそうだし、収入も問題ないようだし、君の場合、助ける手があれば、気力を維持していけるんじゃないかとオレは思う」

大人たちが一斉に変な声を出したので、アマナと寿里はキャッキャと笑いながら、ウロチョロしていた。そして、笑いながらテーブルの周りを回っていた寿里が、ヨタヨタしながら新九郎の膝に倒れ込んだ。新九郎は寿里を抱き上げ、そして不意に顔をしかめたかと思うと、ワッと泣き出した。

この時信長と頼朝が小さく「えええええ」と言っていたのをは聞き逃さなかった。

「そりゃあ色んな事情で赤ちゃんの頃から親と一緒にいられない子もいるだろうさ。だけど、どんな子だって、どんな親だって、少しでも長く一緒にいられるに越したこたぁないじゃないか。こんないい子が、母ちゃんがいなくて、じいさんにも持て余されて、だけど父ちゃんはどうにかして一緒に暮らしたいって願ってる、それを黙って見てられるわけねえだろうよ。
幸いうちには空き部屋があって、同い年のアマナがいて、こんなオッサンやらばあちゃんでもいいなら手はいくつもある。うちは始終やかましいし、雑だし、おしゃれで綺麗な家でもないが、この子が寂しくないように、君がこの子と安心して過ごせるようにすることだけは、他のどの家にも負けねえと思うんだよ。なあ、ぼうず、どうだい、うちの子にならねえか」

えっどうすんのこれ……という顔をしていたと信長だったが、ちらりと隣を見ると、エンジュはまた涙ぐんで萌え袖で口元を覆っていた。またちらりと顔を上げると、由香里と頼朝は諦めた顔で黙っている。えっ? エンジュ、ここに住むの!?

「あの、エンジュ……?」
「信長、、だめ、かな」
「いやあの、えーと」

新九郎が寿里を抱いてめそめそしているので、そっちを由香里に投げた頼朝が近寄ってきて、身を乗り出すと声を潜めた。一応社長で家長の判断なので、こうなってしまっては覆らないだろうし、確かに寿里の安全を考えると、この家に暮らすというのは悪くない。

「エンジュくん、寿里くんを育てながら、またパートナーを探すつもりでいた?」
「いえ、当分それはいらないと思ってました。それより寿里と一緒にいたいです」
「よし、親父がああ言い出したらたぶん聞かないし、君もそれでいいみたいだけど」
「はい、僕は嬉しいです。このお家が好きだし、寿里と一緒にいられるなら」
「じゃあ、これは僕からの条件だ。君が本気なら、以後収入は一旦全てうちに入れてもらう」
「は!? ちょっとお兄ちゃん――

いきなり金の話かよ! と驚いただったが、頼朝は手を挙げてそれを止める。

「一般的なご家庭がそうであるように、君はそこから小遣いをもらって、働きに出る。うちはその金を食費、光熱費、その他諸々君たちの生活費に充て、余剰分は貯金に回し、寿里くんの将来のための蓄えにする。そして、その管理はに一任すること。これが僕の条件だ」

それはまるで誰かと結婚をして所帯を持ったかのような。頼朝の言わんとしていることがわかった信長は頷き、にも目配せをした。困ったような顔をしていたが、もややあってから頷いた。

頼朝はいつでも言いにくいことを言う。安心して子供を預かってくれる家があって、安心して預けられる人がいる。それに寄りかかって「責任」を忘れないために。全ては寿里のため、寿里と一緒にいたいというエンジュの気持ちのため。

エンジュは何度も頷き、萌え袖で目頭を押さえる。

「そのようにお願いします。それでいいです。には迷惑をかけるけど、お願いしたいです」
「まあ、年齢にしては高収入のようだし、には謝礼を弾んでやったら?」
……そうだね。エンジュ、前にお小遣いくれるって言ってたもんね?」

ニヤリと笑ったが顔を近付けると、涙目のエンジュはエヘヘと笑った。カズサが生まれた時、既に退職していたに「転職したら収入増えるからお小遣いあげるね」と言ったきり、音信不通だったのだ。それを思い出したんだろう。

そして頼朝はやっと緩んだ顔になり、息を吐きながらソファに背を預けた。

「実際、なんだか寿里くんは初めて来たとは思えない馴染みっぷりだしな」
「いきなりアマナと仲良くなってる辺り、さすがお前の子だよなあ」
「ちょっと面白くなさそうだね、お父さん」
「そりゃそうだよ。でもなんか、寿里だと思うと嫌な感じしねえんだよなあ……
「はー、これはもうリフォーム待ったなしだなあ……

そして信長も頼朝も、苦笑いと共に勢いよくため息を付いた。

いつでも他人が出入りしていて騒がしい家だが、これまで完全なる赤の他人が住み着いていたことはない。基本的にはみんな家族だった。そういうわけで、社長で家長の新九郎の勢いとは言え、清田家にはとうとう他人が混ざることになったのである。

「でも父に遠慮せず、寿里くんが大きくなったらうちを出てもいいんだからね」
「えっ、はっ、はい、そうですね」
「お前今出て行きたくないと思ったろ」
「ちょ、やめて信長、そんなことオレは」
「あのね、お兄ちゃん。エンジュ、好きな人いるんだよ」
「はあ?」
やめて」
「エンジュはもうずっと前から信長と私が好きなの」

焦るエンジュはワサワサと手を動かしていたが、頼朝はふん、と鼻で笑った。

「何だよ、じゃあ願ったり叶ったりじゃないか」
「すいません、はい、その通りです、今ちょっとわけわかんないです」

一転、真っ赤なエンジュは萌え袖で顔を覆い、そのままぺしゃりと潰れた。