キアロスクーロ

6

「もー、なんでいちいちここで悩むの!?」
「話を全部知ってるから」
「悩むことねえだろ。いいスポンサーが付いて新規事業の見通しが立ったっていうのに」

また宅である。プレゼンが上手くいって開業の話が現実味を帯びてきた……と思ったらリセに告白してこい、が最終条件になってしまった。自分の店を持つということとリセの件はまったく別物と考えていた水戸は頭を抱えた。そっちはまだ何も考えてねえっつーの。

「しかしアンリくんは面白いところに目をつけるな。立場の違いなんかないって証明しろ、とはね」
「てかもうそんなのないも同然じゃない。アンリくん普通に友達じゃん!」
「それとこれとは別だろ〜。なんで店のこととリセのことを一緒くたにしなきゃいけねえんだよ」
「根本的なところで同じだからだよ! 水戸にそういう気持ちがある以上はクリアになってないってことだもん!」

自分でもわかっていることなので反論できない。というか頑張ってプレゼンしてみたというのに、結局リセとの関係にけじめをつけろという点に着地してしまったので、余計に不貞腐れているわけだ。オムライスもスケッチブックも意味ねえじゃん。だったらプレゼンなんかさせるなよ。

しかし珍しく不貞腐れている水戸にと信長は辛抱強く付き合ってくれた。

「改めて聞くけどさ、リセちゃんじゃ不満なわけ?」
「不満とかそういうことは……付き合いも長いしな」
「じゃあリセちゃん自身に問題はないわけね。だったら彼女の家族? 元ヤンなんか許さないって?」
……それは聞いてない」
「そこがまずおかしくない!?」

この理詰めの論法は信長の長兄である頼朝仕込みだ。また信長は笑ってしまいそうになるのを堪えつつ、の空になったグラスを引き寄せて、オペレーターというカクテルを作ってやる。最近がハマっている白ワインとジンジャーエールにレモンジュースを少し。自分ではやっぱり焼酎。地方に出ては地ものの焼酎を買うのが楽しくなってきてしまっている。

「元ヤンでもいいなんて言うのは元ヤンの親だけだと思う」
「そんなことないって!」
「そんなことあるって! あいつも可哀想だろよ……真面目に生きてきてんのに相手が元ヤンじゃ」

店の件とリセの件を混ぜられてしまったので、水戸はとことんヘソが曲がってしまっている。は信長の作ってくれたオペレーターを少し飲むと、テーブルの上にべったりと伏せている水戸の方へ首を伸ばした。

「あのさあ、リセちゃんにとって何が可哀想って、いつまで経ってもあんたがはっきりしないで変な付き合いが続いてることだと思うけど? 水戸がリセちゃんじゃダメだっていうなら、ちゃんと別れてあげなよ。そうしなかったらリセちゃん水戸が気持ち決めるまで何も出来ないじゃん」
……別にあいつが嫌ならいますぐやめたっていいけど」
……水戸、ちょっと話聞け」

何か引っかかったらしい。は怖い顔をして座り直し、水戸を覗き込む。

「私がこっちに引っ越してきて少しした頃、この間のチュカ、ミチカたちと知り合った頃に、信長に言われたことがある。お前、まだまだあんな風に遊んで誰かと付き合ったり別れたり楽しんでていい年なのに、清田に嫁に入りたいとか一生のことをもう決めちゃっていいのか、それはなんか可哀想な気がするって」

信長にはミチカだけでなく、「みこっさんの元カノ」である少し年上のお姉さんたちは皆、働きながら人生を思いっきり楽しんでいるように見えた。高価なバッグやアクセサリーを身に着け、愚痴やら笑い話やら言い交わしながら酒を飲み、いい男いないねー! とはしゃいでいた。

も、もっと長い時間をそういう風に過ごした方がいいんじゃないか、まだ20代に入ったばかりだというのに、いくらでも人生好きなように変えられるというのに、自分の家に嫁に来るのが夢なんて可哀想な気がしてしまったのだ。だが、そう言った信長には悲しげに笑った。

そしたら別れるの? 私信長に振られる方が可哀想だよ。

「そのために5年間頑張ってきたのに、私はまだ神奈川に帰ってきたばっかりで、もう一度自分の楽しみとか喜びとか探していこうとしてるところだし、なのに可哀想だからって振られたら、そっちの方がよっぽど可哀想なんだけど、って。リセちゃんもきっと同じだと思う。6年間ズルズルと関係を続けてきちゃったかもしれないけど、水戸が本気でリセちゃんは違うなって思ったんならともかく、お前が可哀想だから、なんて理由で6年間を全否定される方がよっぽど可哀想。水戸はリセちゃんのことはっきりさせられない理由をリセちゃんに押し付けて逃げてるだけだよ!」

はオペレーターを煽ると、思わず信長の手をギュッと握って続ける。

「もし本当に水戸がリセちゃんのこと好きなら、彼女の家族がどうとか言う前に、水戸自身がどうなのかってこと、正直に伝えてあげるのが1番誠実なんじゃない? もしそれで彼女の家族が反対したとしても、それは水戸のせいじゃないでしょ。リセちゃんとご家族の問題。リセちゃんがどういう選択をするのか、それもまた別の話でしょ。お店のことと一緒だよ。水戸自身がどうしたいのかってことがちゃんと伝わってないのに、可哀想だから、は理由にならないよ! 本当に可哀想だと思うならさっさと決別しておいでよ!」

酒が入っているせいか、は目を赤くしている。が、言っていることは正しい。もし本当にリセが可哀想だと思うなら、グズグズ言ってないでさっさと解放してやるべきだ。だが、プレゼンの結果がリセとの関係に着地したことでストレスを貯めていた水戸は、言ってることはわかるが心に響かなくて、勢い「すまん」と頭を下げた。

これ以上長居しても、わかっていることをに言わせるだけのような気がした。水戸はまた歩いて帰ると言ってのアパートを出る。話を聞いて言葉をかけてくれたには感謝しているが、素直に頷けなかった。すると、とぼとぼと歩き出した水戸の後ろから信長の声が聞こえてきた。

……どうした」
「ちょっと機嫌が悪いから、甘いものを調達しに」
「悪いな、せっかくふたりで過ごせる時間だったのに」
「気にすんなって。そういう時間も必要なんだよ」

信長は疲れた顔をしている水戸に向かってにんまりと笑った。

……と離れてる間、どうだったんだ?」
「オレ? まあそりゃ、楽ではなかったよ。つらかった。学生時代丸々だからな」
「他の女に目移りとかしなかったか?」

信長は少し肩をすくめると、鼻で笑う。

「自分から進んで、ってのはなかったけど……後輩に言い寄られたことはあったよ」
「それ、どうしたんだ」
「高校ん時は、が戻ってくる保証なんかない、この子が可哀想だから付き合ってあげた方がいいんじゃないかって思って、そうする方がよかったんじゃないかって思って一晩眠れなかった」

また「可哀想」が出てきたので水戸はウッと息を呑んだ。

「他にもちょっとグイグイ来る子がいたりして、その時も正直グラッと来たことはある。それは認める。だけど、前にが言ってたのと同じ。オレはを待ちたかったんだよな。なのに簡単にグラついたりして、オレはもう腹くくってるからこれでいいんだ、って堂々と言えないのがとにかくつらかった」

そういう意味ではより信長の方が誘惑が多かったといえる。も引っ越した先で年の離れたバイト先の社員だとか、そんなのにちょっかいを出されていたというけれど、どれも「大したことないのばっかりだった」そうなので、グラついたことはなかったらしい。

「5年間戦ってくるって覚悟してあいつは引っ越していった。だけどもし別の女と付き合いたくなったら、遠い場所に行きたくなったら自分のことなんか忘れてほしいから、別れてくれって、そこまで言ってあいつは戦いに行ったんだよな。それに応えられる人間になりたいって、そう思ったんだよ」

そうして5年間を乗り越えて、今なんでもない日常をふたりで過ごしている。コンビニに向かう信長、駅方面に向かう水戸は、住宅街の十字路で足を止めた。信長は右に、水戸は直進だ。

「もしかして……考えたことないんじゃないか?」
「何を……
「可哀想だからと解放した結果、リセちゃんはいつか、誰か他の男のものになるぞ」

水戸はまたウッと息を呑んだ。確かに考えたことがない。信長はまだにんまりと笑っている。

「ずいぶん身勝手な話だとは思うけど、オレは最終的にそれがアンカーだったな。他の女と付き合ってもいいのかななんて考えながら、だけどそれでと別れたら、あいつは誰か別の男と付き合うようになるかもしれない。オレ以外の男と付き合ってキスしてセックスするかもしれない。それが耐えられなかった」

水戸の目が見る間にまん丸になっていく。

「今、想像したな? 嫌だろ? すっげえ嫌だろ?」
……オレ、リセとは、何も」
「うぇ、まじか。だとしたら他のことはぜーんぶ持って行かれんだぜ、お前のことなんか、忘れて」

信長はある意味では煽っているんだろう。それは水戸も充分気付いている。けれど、それを補って余りあるこの嫌悪感は何だ。リセは真っ白でまっさらな、そういう女なのに、自分が手放した先にあるのはどこかの知らない男との未来だなんて。そんなこと考えたことなかった。

「別にからかってるつもりないけど、リセちゃんのこと、好きなんだろ」
……たぶん」
「たぶんて何だよ」
「ずっと、蓋をしてる気がする。好きになったら、ダメだって」

それでなくとも水戸はリセにこだわらずとも女に困ることがなかった。だから高校時代はリセ以外にも気楽にたくさんの女と遊んでいたのだ。それを今更、そんな純愛みたいな、オレが? そんな少女漫画みたいなことすんのかよ? そういう気恥ずかしさもあった。

だが、そういうプライドめいたこだわりに執着していると、真っ白でまっさらなリセは誰か他の男と手を取り合って、あの無垢な笑顔を自分以外の誰かに向けるかもしれないのだ。

……から聞いてるかもだけど、元ヤンだろうが居酒屋だろうが、オレの兄貴よりマシだかんな」

信長が真剣な顔をして言うものだから、水戸は思わずゴフッと吹き出した。

「ちょ、おま、よっぽど兄貴の性癖嫌なんだな」
「嫌に決まってんだろ。本人たちは楽しそうにしてっけど、それで傷ついた女だっているんだし」
「ミチカさんも全然気にしてないもんなあ」
「オレももうわだかまりはないけど、だからお前なんか自分が気にするほどのことじゃないぞ」

確かに、お嬢さんと付き合ってる男ですが他に何人も女がいまーす! に比べたら、大概の男はマシな方になってしまうな。水戸は落ちていた気持ちがふわりと上がった気がして、背中にずっとのしかかっていた重さを忘れた。自分で思うより、物事はもっとずっと簡単で単純なことなのかもしれない。

信長と別れた水戸はぼんやりと夜空を見上げて息を吐く。

高校時代は、明日明後日くらいのことを考えるので精一杯だった。1年後とか2年後とかは、うまく思い描けなかった。そんな先の未来にどんなことが起こるのかなんて想像すらもできなかった。ただ目の前にある現在進行形のことに夢中になるだけで全ての力を使い果たしていた。

けれど、気付いたらそんな時代はとっくに過ぎていて、明日明後日より先のことも見えるようになってしまった。

信長の言うように、もしリセと決別したとして、高校時代ならその後に誰と付き合おうと気にならなかったはずだ。信長がに言ったように、付き合ったり別れたり遊びながら好きにできる頃だったから。だけど、今はもう違う。一度リセの手を離したが最後、彼女はいつか別の男を生涯のパートナーに決めるかもしれない。

そういう未来が向こうから迫ってきている気がした。具体的で現実的で生々しい、出来れば目を背けてしまいたいイメージが見えている。だけどそこから逃げても、暗くて先の見えない袋小路に入り込むだけのような気がした。アンリのように、隠れる影がなければ外に出られない、そんな風に。

アンリなんか、自分とは真逆のメンヘラコミュ障の引きこもりだと思っていた。金はあっても話は微妙に通じないし、頑なだし、わがままだし、子供っぽいし。だけど彼は水戸の影だった。強い意志も主張もあるのに、自分なんかどうせダメだから放っといてくれと拒絶し、迫り来る未来を先送りした。そういう水戸の影だった。

このままでは本当にアンリになってしまう。それは嫌だ。じゃあ、どうすればいい? 答えは簡単だ。向かってくるものには立ち向かえ、売られた喧嘩は絶対買ってきたじゃないか。タイマン上等、喋ってねーでやり合おうぜ。

アンリも店も、そしてリセも。勝負の時だ。

それから数日後、水戸はまず店長に再度洗いざらい話した。リセのことは詳しく話していなかったし、なんでアンリがあんなことを条件に出してきたかということも含め、自分が未決のまま放置にしていたことが何なのかを全部話した――ら、店長もと同じ怒り方をした。

何しろ店長にも娘がいる。相手が誰であろうと娘がそんな風に何年もはっきりしない関係でズルズルになってる方が許せん、と台ふきんでビシバシ叩かれた。返す言葉もない。

そういうわけで、リセの件をはっきりさせることと、アンリとの店を前向きに考えたいと宣言した。なので、アンリの目論見通りなら2年、それが遅れても数年のうちにはこの永源を出ることになるのかもしれないと言った。だが、店長はいつかのように「お前がいなくても平気だ」と返してきた。

「なんかそれ『お前なんかいらねえ』って言われてる気になりますけど」
「お前は変なところでピュアだよな、実際」
「ピュアとかいう問題すか」
「オレも近いうちアンリくんにプレゼンすんだからな。畑始めることになったらお前も一枚噛めよ」
「何でそんな話になってんすか。オレ畑は別に」
「そりゃそうだろお前の店なんかうちの支店みたいなもんだからな」
「違いますよ」
「違わねえ」
「一緒にしないで下さい」
「何だとこの恩知らず」

店長はアンリくんザ8桁を前に、自分の畑で取れた食材を使ったメニューという夢が膨らんできてしまったようだ。最近は「手の届くプレミアム感」は必須になりつつある。野菜嫌いのアンリだがビジネスとしては悪くないと言っていたし、こちらもアンリ次第で動き出すのかもしれない。

店長との話がまとまると、今度はに電話をかけた。実際に会って話すと酒が入るし、そうするとも感情的になってしまうし、それには振り回されたくなかった。つい都合がいいものだからあれこれと手伝ってもらったけれど、5年も遠く離れていた人なのだ。深入りさせすぎた。

「リセに話してみようと思う」
「そっか。もう迷ってないの?」
「いや、まだ全然迷ってる。でも、お前が言うように助走つけてドロップキックの方がオレらしいよ」

はケタケタと笑った。信長に絡んで彼の腕を折ろうとしていたヤンキーも、その助走つけてドロップキックで全員なぎ倒された。俯いて悩む水戸なんか知らないけれど、そういう水戸ならよく知っている。

「つっても店が出るまでにはまだまだ時間がかかるだろうし、大した礼もできねえけど」
「いいよそんなこと。私にお礼してる時間があったらリセちゃんと過ごして」
「清田との時間、邪魔して悪かったな」
「それも大丈夫。結婚したらどうせ同じ家で暮らすんだし、今はそれでいいの」

結婚、という言葉に水戸はちくりと胸が痛んだ。そういう可能性が自分たちにもあることが、見えてきたから。

「お前さ、今更振られる方が可哀想って言うけど、本当に結婚しちゃっていいのかよ」
「うーん、私はもうずっとそのつもりでいたから、迷うことはないんだけど」
「言い方悪いかもしれんけど、他にもっと誰か、って思ったこと、ねえの?」
「いやその……他は信長の前に痛い目を見てるもんで……

今度は水戸がけたたましく笑った。そういやそうだ。

「もっといいの、って一般的には収入だとか社会的地位だとかそういうことなんだろうけど、私別に大量のお金使わないとイライラするタイプでもないし、じゃあ人間性とか人格、ってことになったら、私は信長が1番だと思ってるから、不満がないんだよね。独身でいた方が身動き取りやすい夢がある、ってわけでもないし、今だって働いて信長の近くにいながら友達と遊んだりしてるの、楽しいよ」

は満ち足りているのだ。水戸はそう思った。5年間戦った末に望んだものを手に入れたので、今はその勝利の証を目一杯楽しんでいる。彼女にもまたいつか迷うことは現れよう。それまではこうして満ち足りた日々を享受していればいいのではないだろうか。

「結局、後悔がないのが1番なんじゃないかなあ」
「まあそうだよな。やってもやらなくても、自分が納得してれば後悔はないわけだし」
「これだけ待たせたんだから、素敵なところに誘ってあげなよ」
「何だ素敵なところって」
「えっ、それはほら、景色のいいところとか、あるでしょ色々」
「どこがいいんだ?」
「それは自分で考えなよ! リセちゃんのこと考えて、リセちゃんが喜びそうなところ!」

まったく女ってのはめんどくせえな、と思いつつ、しかし水戸はそうすると言って電話を切った。

リセはどこへ行っても不満そうな顔をしたことがない女だ。ただ辛いものが苦手だと言うので、辛いものしかない店だけは勘弁してほしいと言うだけで、行き先がどこでもそれなりに楽しんでいるように思える。だから、これと言って特別な場所もないし、これなら絶対リセ大歓喜! という定石もない。

しかし水戸は一箇所だけ思い出していた。高校時代、ふたりで何度か行ったことのある場所だ。

なぜかそこでリセと会いたいと思った。