アンリの爆弾発言から数日、悩みすぎて頭がパンクしそうになった水戸はに助けを求めた。既にリセやアンリの話を知っているのと、この時たまたますぐに連絡がついて一番時間の都合を付けてもらいやすいのがだったからだ。前回逃げた信長もいるというので、またのアパートに転がり込んだ。
「悪くない話だと思うけど……何を迷ってんの?」
「……少なくない金と時間と労力が動くことなので責任の重さが思った以上に重い」
「でもそれアンリくんの金なんだろ」
清田夫婦(予定)がしれっと首を傾げるので、水戸はテーブルに額を打ち付けた。
「プレゼンしてみればいいじゃん。そこからの判断はアンリくんの責任だろ」
「それもなんか無責任じゃねえか? オレ悪くありません、みたいな」
「投資なんてそんなものじゃない? アンリくん困らせたくて騙すわけじゃないんだし」
「だとしても結果的にあいつを困らせたくないだろ」
「……アンリくんすっかりお友達だな」
というより、アンリとはたまたま夜の街で知り合っただけの、お互いに喋る以上の素性は何も知らない「薄っぺらい」付き合いの「知り合い」なのである。もしアンリの言うことがまたいつかの持ち逃げ犯のように全て嘘という可能性もゼロではない。もっと病んでる子かもしれない。深入りしていいのだろうかという疑問は残る。
信長は「お友達」などと言うが、水戸にとっての大事な友人はやはり桜木軍団の4人であり、晴子であり、永源の仲間である。アンリはそれとは少し違うのではないかという気がしてならない。
「プレゼンて何やんの? 料理食わすとか?」
「それもそうだけど、どういう店にしたいのかとか、そういうことじゃなくて?」
「アンリくんは『僕は親切だから一応言っておいてあげるけど、〈お客様が笑顔になれるような明るく温かいお店にしたい〉とか言ったらその場でこの話はなかったことにするからね』と言ってる」
「アンリくん引きこもりじゃなかったらいいビジネスマンになってたんじゃないの」
そういう精神論はいいから具体的な「自分の店」に対する展望をプレゼンしてみろ、と言いたいようだ。遠恋5年もやっている間にドライ思考が癖になってしまったはニヤリと唇を歪めて拍手をした。自分の夢を掴むためには金を貯めるしか方法がなかったは、アンリくんの合理的なところは嫌いではないらしい。
「実際にどういう店にしたいのかってことは考えてるの?」
「誰でも入れてうまい飯が食えて酒も飲める店」
「そう来たか」
「雑すぎないか」
というか具体的に考えたこともなかったのだ。現実的じゃなかったから。
「別に必ずアンリくん出資で店やるって決まったわけじゃないんだし、少し考えてみたら?」
「飯と酒っつったって、その飯もどういう飯なのかとかさ」
「内装の話だっていいじゃん! てかその際はうちでよろしく!」
清田工務店の三男の嫁(予定)のは満面の笑みで身を乗り出した。当の三男はそれをすっかり忘れていたらしく、顔を背けて吹き出した。そういえば家業がそんなんでした。
「……水戸はなんでも難しく考えるようになっちゃったね。頑張って貯めたお金を盗まれたら誰だってそうなっちゃうと思うけど、でも、本来の水戸って、ダッシュで突っ込んできてジャンプしてキック! っていう人だったんじゃないかなって、私は思うよ」
私たちのこと助けてくれたときみたいに。の言葉に水戸は少し首を傾げつつ、頷いた。
「お前、5年も貯金してて、心折れなかったか?」
「折れてる暇がなかったっていうのが正直なところなんだけど……でも、つらかったよ」
「どうやって耐えたんだ?」
「耐えたっていうより、それが自分のやりたいことだったから」
ちらりと信長を見てみれば、彼もまた目を少し伏せて頷いている。
「仕方なくやってたとか、やりたくないけど他に方法がないとか、そういうんじゃなくて、私はどうしてもここに帰りたかったし、それとお母さんの人生が交わらなかったことは、私もお母さんも譲らない以上はもうどうしようもなかったし、それが私とお母さんの意志だったから」
17の時に決めた覚悟は自分で望んで選んだ道だった。誰に強要されたわけでもなく、自分で考えて自分で選んで自分で歩き出した道だったのだ。それはつらくても折れそうになっても、手放したくない彼女の「夢」だった。
「お店のことも、リセちゃんのことも、水戸が本当にこれでいいんだって思うことが大事なんじゃない?」
ミチカと一緒の時は反論できなかった水戸だったが、のこの言葉だけはやけにすんなりと頭に入ってしまった。必要だったのは、自分が本当にこれでいいんだっていう、そんな答えだ。
と信長に相談をした水戸は、翌日には早速店長に事のあらましを説明した。すると彼は「だから相手してやっといてよかっただろう」とまるで事態を読んでいたようなことを言い出した。いわくアンリが水戸に懐いているのはすぐわかったし、8桁の人間と仲良くしておいて水戸に損はないと思ったとかなんとか。
そこで改めて具体的なビジョンがまだないこと、自信もないこと、それは大きな金が動くからだということも正直に申し出た。すると店長もまずはプレゼンのことだけを考えてイメージを探ってみたらどうだと勧めてきた。夢物語でいい、それが実現できるかどうかはまた別の話だ。
さらに、ひとりで始めるのもいいけれど、今例の特別なグループのうちのひとりが実務4年で調理師免許の受験を考えているから、最初はそいつと始めたらどうだと勧めてきた。当人は6人の中では1番自分で開業ということに消極的だし、なんなら永源とかけもちでもいいと思うと言う。
水戸のぼやけていた世界がまた少しクッキリし始めてきた。
だが一応アンリの手前、まずはひとりでプレゼンの方がいいだろうし、水戸はどんな店にしたいかということはひとりで悩みつつ、仮に店で出すとしたらという前提でメニューの試作を繰り返し、その試食にはとミチカを呼んだ。永源の厨房を借りての試作だったので深夜になるからだ。
「なんであたしらなん」
「深夜でもイケるから?」
「それもあるけど、料理は女性の方が厳しいと思ったからね。よろしくお願いします」
水戸がせっせと試作品を用意している間、誰もいない閉店後の永源でとミチカは小さくなっていた。深夜でもいいとはいうが、もミチカも平日は仕事。金曜の夜だった。週末に試合のある信長は来られないので、ふたりだけで来た。店長は元々湘南をご迷惑バイクで駆け抜けていた人だが、兄貴肌ゆえ紳士的だ。
店長が用意してくれた酒を飲みつつ待っていたふたりの前に試作品が出てきた。途端に歓声が上がる。
「ちょ、ごめん、完全に予想外のが出てきた」
「えっ、これ試作品? 完成品じゃなくて?」
「試作も試作だよ。採算とか何も考えてねーもん」
深夜に試食とかやべーな、と苦笑いだったとミチカだが、目の前に並べられた料理に目を輝かせ始めた。とりあえず見た目が色鮮やかで美しかったからだ。永源と水戸というイメージからは想像できない彩りに興奮が加速する。これで試作だなんて! ふたりはさっそく手を付ける。
「えっ、おいしいよ!?」
「うまーい! やばい酒進むよこれ!」
「ちと濃い目だけどつまみならこんなもんでいいんじゃないか」
、ミチカ、店長、全員好感触だ。だが、少しして3人とも首を傾げ始めた。
「ただ……ちょっとお子様っぽくないか?」
「ああうん、そうだね、優しい味かもしれない」
「あたしももう少しスパイシーな方がいいかなあ。酒飲むなら余計に」
揃って水戸を見上げると、彼は腕組みのまま頷く。わかっていることのようだ。
「……花道と、アンリくんが美味しく食べられる料理、てことで考えたんだ」
ミチカがひとりぽかんとしているが、と店長は言葉に詰まった。桜木花道とアンリ、水戸が自分の店を持つという夢を手に乗せている以上、このふたりは絶対に切り離せない。そして、夢を具体的に考えれば考えるほど、夢の先にはこのふたりがいる。
「……でも、方向としてはいいんじゃないか」
「うん、別にこれが悪いわけじゃないし、本当においしいよ」
「ありがとう。もう少し考えてみるよ」
これ以降、水戸は毎週のように試食会を開き、プレゼンはいよいよ現実味を帯びてきた。アンリは「君にパワポ使ったプレゼンなんか期待してないよ」と言うし、水戸もそんな身の丈に合わないことをするつもりもなかった。スケッチブックを買い、何度も書き直してイメージを膨らませていった。
そうしてアンリの爆弾発言から約1ヶ月半、や店長の意見も取り入れつつ、水戸のプレゼンの準備が整った。やはり場所は深夜の永源。使える厨房がここだけだし、アンリは夜にならないと家を出られないし、そういうわけでまた金曜の夜である。
本日はやミチカはなし。店長立ち会いのもと、水戸とアンリのガチンコだ。
「では先に、どういう店にしたいのか。そっちから」
「よし、いいだろう。そのスケッチブックは嫌いじゃない」
アンリはやっぱりヨーグルトリキュールのカクテルをもらいつつ、リュックを胸に抱き締めて前のめりになった。
水戸はとにかく老若男女・人数を選ばない店にしたいこと、食事が取れる店であること、だけど酒も飲めること、など大まかな前提を説明しつつ、価格帯やメニューのイメージ、内装からBGMにいたるまで、スケッチブックをめくりながら詳細をアンリに語りかけた。アンリひとりでも入れる店にしたい。
「洋平、これひとりで考えたの?」
「基本的には。店長とか友達にも相談したけど、自分で考えたよ」
「そっか……」
アンリは何を思ったか余計なことを喋らなくなり、ある程度スケッチブックプレゼンが終わったので、水戸は試食の準備に取り掛かる。店長とふたりで待つとアンリのストレスが加速するので、今日は店長がアシスタントだ。想定するメニューカテゴリから一品ずつ。
元々下準備はしてあったので、20分ほどで料理が出てくる。アンリはそれを見るなり、息を呑んだ。
「オムライス……」
「オレの店なんだとしても、アンリくんが何も食べられなかったら困るじゃん?」
「卵で包んであるオムライスだ……」
「オレもそっちの方が好きだから」
有名店を模したオムレツタイプでもなく、半熟の卵で覆ってあるわけでもなく、アンリの前にあったのは、彼が一番好きだという薄焼き卵でケチャップチキンライスを包み込んであるものだった。アンリはいつものような一方的なコメントを差し挟まずに、すぐに一口食べてみる。また一口。もう一口。
「辛くない……」
「辛いのが好きな人には胡椒多めにします」
「ケチャップ酸っぱくない……」
「オムライス用に作るよ」
「洋平……僕、これ、好き」
アンリはいつもおどおどしていて、だけどひ弱に見えてプライドはしっかりあり、どうせ僕なんかと言いつつも主張は曲げない、だからしかめっ面をしていることが多かった。苦虫を噛み潰したような顔ばかりしていた。けれど今、アンリは目をキラキラさせてパクパクとオムライスを食べていた。
自分の作ったもので、誰かが喜んでくれたのはこれが初めてだった。また少し腹の奥がこそばゆいけれど、ずいぶん嬉しいものなんだな。水戸はちょっとだけ感動していた。こんな風に心を動かされるのも、悪くない。
アンリは無言でオムライスを平らげると、スプーンを置き、背筋を伸ばして水戸を見上げた。
「洋平、もし君の店ができたら、いつでもこれが食べられるの?」
「そう」
「僕が毎日食べに行っても怒らない?」
「怒らないよ」
「毎日オムライス食べても怒らない?」
「野菜も食べてほしいなと思うけど怒らないよ」
「ずっと?」
「……ずっと。アンリくんがもういいって思うまで」
水戸はそう言うと、長く息を吐いた。そういう場所でありたいのだ。それは全て伝えられたと思う。桜木はもちろん、アンリでも、と信長でも。オレはいつでもここにいるから、腹が減ったら顔出せよ。そう言えるようになりたい。これなら胸を張って「それがオレの夢だ」と言える気がした。
するとアンリは席を立ち、水戸の前に進み出ると手を差し出した。
「洋平、僕その店がほしい。投資家としては君に将来性とかあんまり感じないけど、君の店、行きたい」
やっぱり一言余計だったけれど、アンリはオモチャをねだる子供のような目をしていて、水戸はつい笑った。将来性? そんなものオレだってあるとは思わねーよ。最初の店を足がかりに事業拡大したいわけじゃねーしな。
「店長さん、もしこの話が進んで、洋平が独立しちゃってもいいの?」
「そりゃあもちろん。そうやって元バイトたちが巣立っていってくれたらオレも嬉しいよ」
店長もニヤニヤしつつ、最近土地を買って店で使う野菜を育てたいと思い始めたから、オレのプレゼンも聞いてくれない? とアンリに言い始める始末。アンリは「野菜嫌い」と即答しつつ、投資としては悪くないと返していた。
ひょんなことから拾ってきたアンリだったけれど、このおどおどしたコミュ障のおかげで20歳の頃から止まったままだった水戸の世界は突然動き始めた。遠くで孤軍奮闘していたは戻ってくるし、まさかの独立話が進むし、本当に人生どこで曲がり道になるかわかったものじゃない。
そういや花道のやつも、晴子ちゃんに誘われて人生が180度ひっくり返ったな――
水戸が遠い日の思い出に胸を押さえていると、アンリが口を開いた。
「さて、君のプレゼンはよくわかった。僕たちは素人同然だし、2年後を目安ではどうかな?」
「お、おお、そうだな。オレももっと料理の腕上げないとな」
「そっちは任しといてくれ。オレが仕込むよ」
「よし、じゃあ最後の条件だ!」
「条件?」
なんだか満足げでドヤ顔のアンリは、両手を腰に当てて鼻息が荒い。水戸と店長はそんなアンリをキョトンとした顔で見つめていた。条件?
「共同経営を前提に考える上で、僕と君のような、水と油の人間同士でもうまくやっていかれるんだって、そういうの関係なくどんな人でもご飯が食べられる店にしたいんだって、それを証明してみせろ!」
水戸と店長の首が前に伸びる。それは店を出した後にやることなのでは?
「例のグダグダになってる女の子に告白してこい! OKもらえたら話を進めてやる!」
深夜の永源、誰もいない店内に、水戸と店長の情けない悲鳴が響き渡った。