キアロスクーロ

3

のアパートでの宅飲みから半月ほど経った頃、水戸は夜の街をひとりで歩いていた。この日は支店の方の仕込みに入り、それが終わったら本店に戻ることになっていた。支店に大きな予約が入っていたからである。移動の間に自分も食事をしてしまって、少し休んでからまたひと仕事である。

大きな信号に引っかかったのでポケットから携帯を引っ張り出すと、からメッセージが来ていた。とうとう最初のシーズンが開幕した信長が2戦目に出場したとかで、その写真が添付されていた。清田信長と言えば紫と黄色の海南カラーというイメージがあるので、新しいユニフォームには少し違和感があった。

は「信長見ても面白くないかもしれないけど、リセちゃんとデートするならぜひどうぞ」と書き添えていた。

水戸はついゴフッと吹き出して口元を手で覆った。はいつまでも「リセちゃん可哀想」と言ってしつこかった。酒が入ってるから感情的になっているだけだと思っていたが、そうではなかったらしい。気持ちはありがたいが、正直余計なお世話である。水戸は他にメッセージがないことを確認するとまた携帯をポケットに戻し、信号が青になったのを確かめると歩き出した。

この信号を越えて少し行けば永源本店である。もはや自宅のように慣れ親しんだホームグラウンド。さて今日は誰がいたっけな、最近ではファミリー層の利用が増えてきたから、特に経験の浅いアルバイトは気をつけて見ていないと、店長のモットーである「親切接客」が損なわれることがある。

からのメッセージで、彼女の家からの帰り道を思い出した水戸はまた鼻を鳴らして笑う。親切接客ね。腹の奥がこそばゆい。朝に晩にひと気のないところで喧嘩を繰り返していたようなのが、親切接客。

ここ数年の間に、深夜営業帯の乳児幼児の入店が増えた。店長はそれをあまり快く思っていないそうだが、だからと言って追い出すわけにもいかない。水戸はそういう客にも笑顔と明瞭な言葉で接客をしている。小さな男の子にオモチャの武器を向けられればダメージを食らったふりをしてやる。

こんなオレ、高校時代のオレが見たら、苦笑いしか出てこねえだろうな――

そういう自虐的な感傷に陥っていた水戸は、永源の手前の路地で久しく見ていなかったものを目にして足を止めた。古臭い言い方をすれば、カツアゲだ。気弱そうな男性が、どう高く見積もっても高校生くらいの男数人に囲まれて胸に抱いたバッグを引っ張られている。

水戸は一瞬迷った。気弱くんを取り囲んでいるのは4人。全員細身。袖をまくり上げているのがひとりいるが、白っぽくて柔らかそうな肌をしている。バッグを引っ張っている手もすらりとしていて喧嘩慣れしていないように見える。水戸はそれをちらりと見て、全員倒せるなと思った。一発で沈むやつもいそうだ。

しかし、別に気弱くんを助ける義理はねえよな、と思った。気弱くん、前髪が長くて顔が見えないので年齢は判然としない。Tシャツにネルシャツを重ねて、色の薄いジーンズに履きつぶしたスニーカー、そして胸に抱えるバッグはヨレヨレのリュックだ。典型的だな、と水戸はまた少し鼻で笑った。

スーツに革靴のリーマンなら一生懸命働いて帰宅しようとしていたところをクソガキに目ェつけられて可哀想に、と思えたろうが、気弱くん、どう見ても学生かニートかというような佇まいだ。店長が深夜の乳幼児入店を嫌がるように、水戸はこうしたインドアでネガティブなタイプを嫌悪する向きがあった。

だが、迷う水戸の前で気弱くんはバッグをぐいぐい引き戻して、何やら喚いている模様。ヤンキーというほどでもない、ただ無分別に人から奪うことを何とも思わないようなクソガキ数人に対して、気弱くんは屈するつもりがないようだ。なんだよ、根性あるじゃん、と水戸は目を丸くした。

腕を上げて時間を見てみれば、まだ余裕がある。水戸は携帯を取り出してオンにし、耳に当てたままスタスタと路地に入っていく。クソガキ数人も気弱くんも気付かない。

「あ、もしもーし、今恐喝目撃してるんですけど、来てもらえませんかねー?」

声高にそう言いながら近付くと、全員が勢いよく顔を上げた。可愛らしい幼い顔立ちの男数人と、真っ白な頬をした気弱くんはポカンとして水戸を見ている。

「えーとね、たぶん10代ですかねえ、これ。それがいち、にぃ、4人、こっちは成人……かな? 男性を取り囲んでバッグを奪おうとしてるっぽいですねえ。あ、場所ですか、えーっとね」

水戸がそんなことをぺらぺらと喋っていると、推定10代の4人は浮足立ち、水戸の横をすり抜けて夜の街に逃げ去った。それを確認すると水戸は携帯をポケットにしまい、気弱くんに目を落とした。ホッとしたのか、彼はしゃがみこんで大きく何度も息を吐いている。

「おにーさん、怪我ないかよ」
「な、ない……
「取られたもんは? 財布無事?」
「ない、平気」
「てか立てる?」

気弱くんは少し震えているらしい。水戸はついしゃがみ込み、リュックをぎゅっと抱き締めている彼の顔を覗き込んだ。が、俯いているので余計に前髪が長くて顔がよくわからない。それにしても肌が真っ白だ。この白さはリセを思い出すなと思いながら、水戸はつい気弱くんの肩を突っついた。

「おにーさんやるじゃん。ビビッて金出して逃げちゃえってならないんだな」
「な、なんで僕の金を、あんなクソガキに、やらなきゃならないんだよ」
「あはは、そうだよな〜。てかホント大丈夫か? 息出来てる?」

気弱くんはわざとらしく息を吸って吐いている。そうでもしないと無意識に呼吸が出来ないような感じだ。

「喘息持ってるとか? タクシー呼んだげよっか?」
「い、いい、いらない」

だが、そう言いながら気弱くんは地面に手をついて咳き込みだした。

「おいおい、無理すんなよ。具合悪いなら……
「平気だって言ってんだろ!」
「あのねおにーさん、助けてやったのにずいぶんな物言いなんじゃないの」

声色の変わらない水戸にそう言われると、気弱くんはまだ少し震えながら唇を噛み締め、そして青白い顔をして「ありがとうございました」とか細い声で呟いた。

「ほんとに具合悪くないね? ほら、手ェ貸したげっから」
「す、すみませ……
「なんだよ、おにーさん、女の子みたいな手してんなあ。ちゃんと食べてる?」

気弱くんの手はふにゃふにゃで指もほっそりしていて、水戸が今本気で握り潰したら粉砕できそうだった。

「昼に、食べた」
「昼……ってもう21時になるけどほんとに大丈夫かよ。おにーさんこれ震えてんの低血糖なんじゃないの」

気弱そうでも威勢はいいようだし、そうするとこの白さと震えは低血糖を起こしているのでは、と水戸は疑った。手のひらもちょっと冷たいような気がする。なんとなくこの気弱くんに馴染みが出てきてしまった水戸は、その手を掴んだまま路地を出た。

「ちょっ、何するんだ、おい」
「オレそこの居酒屋で働いてんだけど、飯食っていきなよ」
「は!?」
「あんたね、こんな真っ白な顔してヨロヨロしてっからあんなクソガキに絡まれんだよ」

気弱くんは口では文句を言いつつ、しかし引っ張られるまま水戸に着いていく。気弱くんが逆らわないので、水戸はそのまま永源まで引きずっていき、表から入ってカウンターを仕切った形の半個室カップル席に通した。今日も永源はほぼ満席、この時間帯は回転も早く、おひとり様が一杯引っ掛けていくだけという席も多い。

「オレちょっと支度して来るから、メニュー見ててよ」

ポカンとしている気弱くんはそう言われると肩をすくめつつ、大人しくメニューを手にして開いた。水戸はそれを確かめるとのれんから出て、通りがかったバイト君にこの席はオーダー取らなくていいと言ってバックヤードに入っていく。そして手早く着替え、厨房に入る。

忙しく働く店長を捕まえて事情を話し、1時間出勤を遅らせてほしいと申し出ると、店長は無言でバックヤードに向かい、水戸のタイムカードを押してしまった。店長はだいたいこの手のアツめな展開がお好きだ。

それを笑いながら、水戸は気弱くんのいる半個室へ向かった。のれんの中ではブルーのネルシャツが小さくなって背中を丸め、メニューを覗き込んでいた。

「決まった?」
……オムライスないの」
「居酒屋だしなあ。あるところもあるだろうけど。だし巻き玉子ならあるよ」
……じゃあそれ」
……だけ!?」

驚いた水戸が声を上げると、気弱くんはびくりとすくみ上がる。いや、怒ってるわけじゃねーよ。どうやら居酒屋に慣れていない様子なので、水戸はメニューをテーブルに置かせてああだこうだと見せていく。結局気弱くんはだし巻き玉子の他に、もち明太チーズグラタンとモッツァレラチーズの天ぷらと焼きプリンと苺ミルクをオーダーした。水戸は店長の意図を察して自分の分のオーダーも入れて一旦厨房に戻る。

……珍しいな、お前がこんな拾い物してくるなんて」
「たまたますよ。てかチーズばっかりだな」
「チーズばっかり?」

水戸の手元を覗き込んだ店長はそのチーズばっかりのオーダーを確かめると、声を潜めた。

……乳製品と卵だらけだな。ストレス溜まってんじゃないのか」
「え、そうなんすか?」
「自分で拾ってきたんだからしっかり面倒見てやれよ」

店長はそれだけ言うとまた仕事に戻った。水戸は苺ミルクと自分の飲むウーロン茶を用意して半個室へ戻る。

「はいよ、苺ミルク。てか今更だけどおにーさんいくつ? まさか中学生ってことはないよね?」
「そ、そんなわけ、に、にじゅ、27」
「にじゅっ、なな!? 若いね!?」

若いというか、27にしてはあまりに頼りない。見るからにひ弱でオドオドしていて、「27歳の男性」という言葉から来るイメージよりかなり幼く感じる。水戸はウーロン茶を吹き出しそうになりながら、つい笑った。

「そりゃ申し訳ない。オレ23なんだけど、そんなに変わらないくらいかと」
「べ、別にいいよ年なんか、大して変わらない、意味もない」
「おにーさん名前は? オレ、洋平」
「なまっ、名前!? え、ええと、あ、アンリ」
「お、おお、可愛い名前だね」

気弱くん改めアンリはじろりと水戸を睨む。ひ弱で色白ならアンリも似合うと水戸は思ったわけだが、それでもアンリは「かわいい」という表現は気に入らないらしい。見かけによらず気骨があるではないか。水戸はこのアンリという人物が面白くなってきた。

「仕事は?」
「し、仕事!? なんでそんなこと気になるんだよ」
「気になるっていうか、まあ無難な自己紹介の際の質問かなと思っただけだけど」

6年に渡る接客業で身につけた無難なスマイルを貼り付けた水戸はそう言ったが、本音は「そんなヨロヨロの27歳って普段何やってんだよ」という興味、という程度だ。しかし即答できないということは、こりゃやっぱりニートだったか、と水戸は思った。見たまんまだ。

アンリは返事に詰まると、バッグの中から携帯やらゲーム機やらを引っ張り出してテーブルの上に並べ始めた。ニートにしてはいいもの持ってんな、と水戸が考えていると、バッグの底から小さなポーチを取り出し、中から薬を出して慌てて飲み込んだ。

「なんだよ、やっぱり具合悪いんじゃないの」
「違、これは、精神安定剤みたいなもので」
……アンリくん、ちょっとしんどい感じ?」

アンリの方を見ずに言うと、ややあってから頷いているのが視界の端に映った。店長の読みは正しい。アンリくんは職業を聞かれてふたつ返事できない状態であり、なおかつ精神状態もあまり良くなく、しかしカツアゲに遭ってもクソガキには屈しないという。水戸はこのアンリくんに興味が湧いた。

何のことはない、こういうタイプの人間と知り合ったことがなかったからだ。

水戸の23年の人生の中で関わり合ってきた人々、その中で1番おとなしいのはリセだ。しかし彼女はおとなしいだけで、人前で喋れないとか、そういうことではない。なので、このアンリのような極端な例は初めてだった。何しろ親友は頭にモップ叩きつけられても平気で生きてるようなバケモノ、世界が違いすぎる。

「しんどいのに外出て平気なん?」
……夜になれば、平気」
「何してたの?」
「げ、ゲーム買いに、きた」

ちらりとアンリの方を見ると、リュックの口からゲームショップのビニール袋が覗いている。というかビニール袋の中はゲームのパッケージがいくつも入っている。水戸はピンと来た。

「もしかして店でゲームたくさん買ってたの見られたんじゃない?」
「そ、そうかもしれない」
「自分で働いて買えってんだよなあ」

薄笑いで言う水戸に、アンリはカクカクと頷いている。ということは、この大量のゲームは自分で働いた金で買っているということになるか……。水戸はますますアンリの「正体」が気になってきた。

そこにオーダーした料理がやって来たので、水戸は一旦話を切り上げ、チーズと乳製品だらけの皿をアンリの前に並べていく。水戸が自分でオーダーしたのはステーキ炒飯とチキン南蛮と砂肝の唐揚げ。それも少し可笑しい。肉食と乳食。

……おいしい」
「おお、よかった。うちのだし巻き、昔から人気なんだよ」

アンリはオーダーした料理をちょこまかと手を付けては、ちょっとずつ口に運んでいる。水戸は遠慮せずに大口開けてガバガバ食べる。すると、おいしいものが口に入って気が緩んだのか、アンリの方がぼそりとこぼした。

……君は、人付き合いとか、得意そうだね」
「これでも6年接客やってるからね」
……顔も、イケメンだし、コミュニケーション能力高そう、人生、楽しいでしょ」

アンリがカツアゲされているところを見るまでの水戸なら、この卑屈極まりない物言いにイラッと来ていたに違いない。しかし今はこの初めて接するアンリが一体どんな人物なのかという興味の方が勝っているので、何も感じなかった。水戸も何も考えずに言う。

「そうでもないよ」
「彼女とか、いそう」
「それもないねえ」
「嘘だ」
「今は丸くなっちゃったけどさ、ま、要するに元ヤンだよ。普通の女の子とは付き合えないっしょ」

すると急に背筋を伸ばしたアンリが、苺ミルクのグラスを片手に水戸の方を見た。背筋を伸ばすと意外と背が高く見える。水戸は砂肝をゴリゴリ噛み締めながら、目を丸くした。どうした急に。

……そういう、そういう人を区別して差別するのが当たり前だから、僕は外に出たくないんだ」
「じゃあアンリくんは差別しないの?」

単純な疑問だった。何も考えずにそう言った水戸にアンリは上ずった声を上げる。

「しっ、しないよ。他人に関わりたくないから僕は誰がどんな人間でもどうでもいい。ヤンキーだろうがなんだろうが、この世には僕を攻撃してくるか、してこないか、二種類の人間しかいない。きっ、君はいい人そうに見えるけど、だけどもし僕と友達みたいになったりしたら、いつか必ず僕を嫌うようになる。うちの家族だってそうだ。平気な顔してるけど、本音では早く出ていけばいいのにって思ってる」

こりゃあ、そこそこ重症だな。水戸はそう思いつつ、それにしてはアンリに嫌悪感を感じないなと首を傾げた。

「まあでも、しんどいうちは家族と一緒にいた方がいいんじゃない? ひとりだと、もっとつらいでしょ」

アンリの言葉を否定しても始まらない。水戸はそういう判断で軽く受け流し、以後は食べ終わるまでどうでもいいことばかり話して濁した。初めて話すタイプだから、アンリが一体どういう人物なのかは今とても興味があるが、それでも本人の方がこれだけ頑なでは、教えてもらえそうにない。

なので、水戸はすっかり空になった皿をまとめつつ、言ってみた。

「アンリくん、会計どうする? 乗りかかった船だし、おごったげようか」

だが、アンリはまたじろりと睨みあげてきた。おいおい、なんだよ。

……金はある」
「そっか、そりゃ悪かった」
「洋平って言ったっけ。僕のこと引きこもりでオタクの働かないニートだと思ってるんだろ」
「いやそこまで思ってないけど」

なんか謎の収入源を持つメンヘラと思っていた、とは言えない。苦笑いの水戸に、アンリは声を潜めた。

「どうしてそう人を見た目とか様子で判断するのが当たり前みたいに思ってるんだ。僕は少なくとも君よりよっぽど稼いでるし、貯金額も桁違いだし、こうして外には出られるから引きこもりじゃないし、ゲームやってるからオタクなんていうのは昭和の発想だ」

いやいや、引きこもりでオタクの働かないニートは自分で言ったんだろうよ……と思ったが、水戸は笑って受け流した。自分だって高収入ではないけれど、それでも充分にひとりで生活していけるくらいは稼いでいる。というかなんでアンリくんより低収入ってことになるんだ。

するとアンリくんは水戸の考えてることを読んだのか、リュックの奥底から通帳を引っ張り出した。

「仕事は何だって聞いたね。僕は簡単に言えば投資家だよ。年収は8桁行くこともある」

そして固まる水戸に向かって通帳を突き出した。

「僕の目標は働かずに1億貯めることだ。居酒屋勤務の君に、年間8桁稼げるのか?」

見開かれた水戸の目の前に通帳。残高は、確かに8桁を記していた。