キアロスクーロ

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7桁は見たことあるけど、さすがに8桁は初めて見た。水戸はアンリと過ごした夜以来、思い出してはちらちらと目眩を感じる日々を過ごしていた。そりゃリュック奪われまいと必死になるよな。

そしてアンリの言うように、見た目の印象で人物像を決めてかかっていたことが少なからず響いていた。ショックと言うほどではないけれど、ぬるま湯育ちのお坊ちゃんお嬢ちゃんよりは人生経験があると思っていたし、その分人を見る目はあると思っていただけに、余計に引きずる。

というかアンリは自己像が歪みすぎて家族にも疎まれていると思っているようだが、いくら引きこもり気味でもそんな金ヅル手放すわけねえだろうよ、と思うと可笑しい。親のタイプにもよるが、結婚と孫にこだわらないなら、充分すぎる孝行息子だ。

そういえばリセには兄がいて、彼も人付き合いが苦手だけれど、すごく繊細で優しくて自分を子供扱いばかりするのだと零していたことを思い出す。リセの方が子供の頃からお転婆で、大きな喧嘩をしたこともなかったという。本人曰く、争いを好まない家風だとかなんとか。

優しい父と母、更に輪をかけて優しい兄。その3人に愛されて伸び伸びと育ったリセ。

そういう絵に描いたような家庭は想像に難くない。自分やアンリのようなハードモードな人間は発生しない家庭、藤井家はきっとそんなところだろうと思う。でなければリセのあのふわふわ感は育つはずがない。

だから、そんな優しい世界からお前を引きずり出すわけ、いかねえだろ――

「お兄ちゃんもみこっさんも高収入って話だけど、さすがに8桁は……
「毎年8桁の年収ってわけでもないらしいけど、残高は普通に8桁だった」

仕事が早上がりだったある日、先週末信長が初の勝ち試合だったとが連絡を寄越してきた。ので、出てこないかと誘ってみた――ら、がひとりで来てしまった。彼氏持ちが別の男とふたりきりはさすがにマズくないか、と思ったが、信長を誘ったら明日早いのでひとりで行ってきてくれと言われたので構わないと言う。信長の水戸に対する信頼の現れなのだろうが、本人は苦笑いだ。

しかもが最近信長と飲む時に使うという店に来ている。いいんだろうか。

「でも水戸はそういう人と接点がなかったから、逆に新鮮なんじゃないの」
「新鮮……そうか、そんな感じかもしれん」
「湘北だってそういう人いないわけじゃなかったけど、まさか桜木軍団とは触れ合わないもん」

はやっぱりジンベースのカクテルを飲みながら笑っている。

「でも、その8桁くん」
「ああ、名前ね、アンリくん」
「えっ外国人?」
「日本人」
「ああそう、そのアンリくん、でも言ってること水戸とおんなじだね」
「はあ?」

が「新鮮」と言い表したように、アンリは水戸が初めて触れるタイプの人間なので何もかもが驚くし、共感はしなくとも見識は広がる気がした。しかし、なにひとつ共通することはないはずだ。だが、はチチチ、と人差し指を動かすと、そのまま水戸を指した。

「こんな元ヤンの自分なんかダメって言われるに決まってる。リセちゃんは別の男の方が幸せに決まってる」

言われるなり、水戸はそのまま固まった。

「だってそれは……
「リセちゃんの親はきっと元ヤンの男なんか嫌だっていうに決まってる」
「元ヤンと8桁の投資家とじゃ話が……
「親切接客と引きこもりコミュ障だったら?」

はしかし、水戸が何も言い返せなくなっているので話を切った。すると、そのの後ろから突然派手なコーンロウの女性がガバッと飛びついてきた。背中まで届くコーンロウ、大量のワッペンがついたジャンプスーツ、ボディピアス、鼻ピアス、そしてカラコン。一体何事だ。

「おまったー! おまたおまったー! んー、ちゅっちゅ!」

そして口を開けばこれだ。水戸はさらに面食らって身を引いた。何だこの女。

「ごめんね、急に」
「いいよ全然ー。ヒマしてたしー。これがヨーヘイ?」
「そー。前言ってた永源て店にいるんだけどね」
「おいおい、どうなってんだ」

水戸が真顔で突っ込むと、とコーンロウはにんまりと笑う。

「信長に逃げられたから友達呼んじゃった」
「ウィース! あたしミチカ! よろ!」
「誰だよ」
「君の3つ年上の湘北の先輩だよ、ヨーヘイくん!」
「え!?」
「ついでにみこっさんの元カノ」
「今はのオトモダチ」

キャッキャと騒いでいるとミチカだが、水戸はやっぱり引き気味だ。先輩はめんどくさい。しかしまあ、なるほどこれなら馴染みの店で彼氏以外の男と飲んでいてもOK、というわけか。

「ねーねー、チュカはさ、彼氏がもし『親に反対されるから付き合わない』って言い出したらどうする?」
「殴る」
「参考になんないー!」
「何よ、ヨーヘイくん、反対されてんの?」
「ううん、自分は元ヤンだし彼女んちが穏やかな家だから、って」
「彼女の親に聞いてみたの?」
「いや、そこまでは」
「そこは聞いてからにしろよ」

ミチカは言って鼻で笑った。もほら見ろ、という顔をしている。

「てか何、彼女んちが理由で逃げてんの? 元ヤンのくせに根性ねえなあ」

ミチカは悪びれずに言う。バカにしている様子もない。当然の話という声色だ。

いやお前らもリセのこと何も知らんだろうが、あんなに真っ白でまっさらなリセを見たらそんなこと言えるわけがないのに。優しい両親と優しい兄に愛されて大事にされてきたというのに、その相手が居酒屋勤務の元ヤンじゃ可哀想だろうが。お前らみたいな鉄メンタルとは違うんだよ。

なぜだか水戸はそれを口に出して言えなかった。

こういうのを懐かれるって言うんだろうか。水戸は金曜日の夜、永源で少し遠い目をしていた。

「僕が株を始めたのは小学生の時で、ああもちろん親に代行してもらって、だけども」
「あのねアンリくん、ここキャバクラじゃないから」
「なんでここがキャバクラだと思うんだよ。ここはオムライスのない居酒屋」
「だからね、オレここでアンリくんの相手してられないの」
「なんだよ、じゃあ店長に言ってきてよ、洋平1時間分買うからって」
「だからそういうシステムの店じゃないの。だったら休みの時に外で会えばいいじゃん」
「そんなことしたら友達になっちゃうじゃないか。嫌だねそんなの」
「アンリくんマジわけわかんねえ」

あれ以来アンリはビクビクしながらもリュックを抱き締めて永源にやって来るようになった。そして水戸がいるかいないかを確かめて、いれば入店、いなければそのまま帰る。バイトの子や社員仲間たちからは「あれで女だったらな」と笑われている。アンリは細身で色白艶やかな黒髪という美少女風27歳男性だからだ。

そして水戸がいると半個室のカップル席に陣取り、水戸相手に喋りたがる。

「アンリくんアンリくん、オレここで喋ってるとサボってることになっちゃうから」
「サボり? 接客してるんだろ」
「そりゃお客様がアンリくんひとりならいいけどさ」

ランチタイムが終わる頃だと、店内に客がひとりふたり、ということもある……がしかし金曜の夜である。店内はほぼ満席、入れ替わりも激しい。厨房は戦争状態だ。その中をひとりアンリの相手でぼーっとしているのも心苦しい……ということはアンリに理解してもらえていない。

だが、説明がてらポロッとアンリの預金額が8桁であることを店長に漏らして以来、可能な限り相手してやれ、というお達しが出ているので、水戸は渋々アンリの傍らで話を聞いている。

さてそういうわけで、この日早番だった水戸は22時に退勤、永源は現在24時ラストオーダー25時閉店のため、私服に着替えてアンリの席に戻ってきた。21時頃やってきたアンリは、苺ミルクとアップルマンゴークラッシュゼリーソーダとラムネで3杯目。8桁なので水戸は遠慮せずにアンリの伝票で酒を飲む。肉も食う。

「アンリくんたまにはチーズと卵と牛乳以外の物も食いなよ」
「別にいいだろそんなこと。好きなもの頼んで何が悪いんだよ」
「アンリくん酒飲まないの?」
「の、飲んだことないし、別に僕はこれでいいから」
「アンリくんこれ普通に友達同士になってねえ?」

アンリは確かにの言うようにコミュ障なんだろう。だが、そういう人付き合いの苦手な人物にも色々種類がある。今のところ水戸はアンリに苛ついたりすることがないので、少し面白がりながら相手をしている。アンリくん人と関わりたくないとか言いながら水戸以外のスタッフの名前を覚えるのも早かった。

そういうアンリとの日々がどれだけ続いただろうか。相変わらずアンリは永源以外の場所で水戸と会いたがらなかったし、水戸以外のスタッフには注文すら出来なかったけれど、水戸相手にはすっかり友達状態になっていた。本人は友達関係を否定するが、家族以外唯一の他人の連絡先が携帯に入ったらしい。

「持ち逃げ、っていくらやられたんだ」
「えーと、オレは50万くらいかなあ」
「まだ捕まってないの、それ」
「手がかりが少ないんだよね。履歴書の内容も嘘だったし」
「金はもうとっくになくなってるだろうけど、制裁は加えてやりたいな、それ」

見た目はひ弱なアンリだが、言うことは割と攻撃的だ。水戸は話したつもりになっていた例の事件のことを説明していた。今日もカップル席でおひとり様のアンリはテーブルの上にスマホとタブレットとゲーム機2台を置いて、ヨーグルトリキュールのカクテルを飲んでいる。ジュースだと騙して飲ませてみたら気に入ってしまった。つまみはやっぱり基本チーズ系。

「だってその事件がなかったらもしかして支店の店長になってたかもしれないんだろ」
「いや、そこは確定じゃないよ。そういう目標だったってだけ」
「そしたら遠慮せずに告白出来ただろうに」
「そこも関係なくない?」

そしてズルズルとリセのことも話してしまった。高校時代から付かず離れずの関係が続いている女がいる――という程度の説明だったのだが、アンリも「洋平がビビッて告白できない好きな子」という認識になってしまった。何度訂正しても直らない。彼にとっては誤認識ではなく、そういう解釈、なのだそうだ。

「僕と違って毎日外に出てるっていうのに、洋平は世界が狭いよ」
「そうかなあ」
「日本人なんて昔悪かったけど更生して結婚して子供います! てのが大好きなんだよ」

それは二十歳を過ぎたあたりからいつも感じている。中学高校時代の様子を知る人に出会い、現在の状態を話すと大袈裟に感心される。水戸にしてみれば同世代の誰とだって比べるようなことではないし、自分がそれほど大層な努力をしたとは思えないのだが、人は水戸を指して「人より立派」と言いたがる。

それじゃまるで真面目に生きてた方が損じゃないか――。リセを見ていると余計にそう感じてしまう。

「それに元ヤンつったってちゃんと高校は出てるし、今は正規雇用なわけだし」
「引っ張るね。アンリくん恋愛とかどうでもいいんじゃなかったの」
「僕はどうでもいいよ! だけど少なくとも君は違うだろ!」

アンリくんはコミュ障が高じて女嫌いが加速したタイプである。水戸はその様を見るたびにの友人であるミチカを思い出す。あんなのに引き合わされたらアンリくん卒倒しそうだな。

「そうか、うーん、ねえねえ洋平」
「えっ、なに」
「自分の店を持ちたいという夢はあるんだよね?」
「何を突然」
「あるの? ないの?」
「漠然とは思ってるけど、まだ全然現実的じゃないでしょ、そんなこと」

適当に受け流そうとした水戸だったが、アンリは続ける。

「そんなだからダメなんだよ。洋平、前に僕の通帳見せたろ」
「うん、見た」
「もし洋平が本気で自分の店をやりたいって思うなら、僕が出資してもいい」
「はい!?」

言ってる内容も驚くが、そんなこと永源の店の中で話すようなことか!? 水戸は面食らって思わずアンリの口を塞いだ。そうやって無警戒だからクソガキに目をつけられてカツアゲされるんだろうが!

「ちょ、確かに残高すごいことになってたけど、なんでそうなる!」
「なんで? 別に悪いことでもないだろ。共同経営でもいい」
「いやそうじゃなくて、だってほら、アンリくんオレとは友達ですらないんじゃなかった?」
「そうだよ。これはビジネスの話だ。友達同士で遊ぶ計画立ててるわけじゃない」

そう言われると水戸も返事に詰まる。確かにそうなんですけど……

「だからさ、だとしたらアンリくんはなんでオレの店に出資しようと思うわけ?」
「まだ出資するって決めたわけじゃない。それは君のプレゼン次第だ」
「え? オレがプレゼンすんの!?」
「そりゃそうだろ! 洋平も言ってることおかしいよ!」

つまりアンリは、もし水戸が自身の店を持ちたいという明確な目標とビジョンがあるなら、ぜひプレゼンしてみてくれ、それが出資に値する内容であれば、考えなくもない。金ならありますので。ということらしい。

水戸の脳内にアンリの預金通帳の残高がぐるぐる渦巻いていた。確かにあれだけの資産があれば店を出せる気がする。支店を出した時に少しだけ金の動きを見ていたけれど、例の持ち逃げ事件のように居抜きの賃貸だったら充分いける気がする。

水戸が自分の店を持ちたいという理由はいくつかある。

ひとつには、一度就職した先があまりにも合わなくて、人の下で働くということが自分には途轍もなく不向きだと思っていること。今の店長は例外。自分の店なら自分のペースでやっていかれる気がする。そして、桜木の存在。もし自分が店を持っていたら、彼がいつ何時どんな状況にあろうと、腹を空かせていたらいつでも食わせてやれる、と思っていることだ。

だから小さな店でいい。人を雇う余裕のない店でいい。そういう風に自分のホームグラウンドがあって、そこにいつでも親友たちを招いてやれる状態だったら。それは確かに「夢」だ。

だがしかし自分はまだ23歳で……

「プレゼンがよかったら明日からお店をプレゼント! ってなるとでも思ってんの?」
……思ってないです」
「その見込みを僕は見てみたいと言ってるの。もしひとりで始めるなら料理の腕も見ないとならないし」

確かにその通りだ。仕事でも自宅でも料理はするが、それは自分が責任を持って料理を提供するという前提にはない。自分の思い描いていたイメージは漠然としすぎていてぼやけていたけれど、アンリのツッコミのおかげで少しだけピントが合ってきた気がする。

しかしまだ素直に「やってみたい」と思えない。なんとなく、怖い気がする。

水戸はあれこれ講釈をたれているアンリを見つつ、少しだけ体が冷たくなった。これ、怖いって、こういう気持ちだったっけ。なんだかもうずっと遠い昔から、この「怖い」という感覚を味わったことがない気がする。そりゃそうだ。喧嘩だろうがなんだろうが、怖いなんて思ったことはない。

だけどどうだろうか、自分がこの妙な友人の出資で店を出す? それは怖いような気がした。

避けそこなったパンチを食らっても、自分が痛い思いをするだけだ。ノーヘルで原付に乗っていて事故ったら、自分が怪我をするか死ぬだけだ。だけどこれは違う。一歩間違えたらたくさんの他人に損害を与え、迷惑をかけることになる。自分ひとりが痛いだけではすまない。

そういう賭けみたいなことで、いいんだろうか。ギャンブルは足、洗ったんだけどな――