きみのためならしねる

5

夢見心地で足元が覚束ない……はもうずっとそんな状態にあった。

広島までインターハイ観戦に遠征したはいいけど、思いがけず牧に見つかってしまった。これはガミガミとお説教だな、いますぐ帰れと言われてしまうかもしれない。そう覚悟して牧と会ったのだが、彼はを責めるようなことは何ひとつ言わなかった。

そして別れ際、薄暗い公園で彼はを抱き締め、耳元で「ありがとう」と囁いた。

その晩、は旅の疲れがあるというのになかなか寝付けず、翌日は寝坊、この日も第二試合だった海南の試合開始には滑り込みという有様。その上コートの上で走り回る牧を正視できなくて何度も頭を抱えた。やばいよー私の好きな人めっちゃかっこいいよーやばいってー。

にはこの日も海南はサクッと勝ったように見えた。なので、浮ついた気持ちはまったく落ち着かず、せっかく時間を有効的に使おうと思って持ち込んだ宿題にも手がつかず、ただひたすらベッドでゴロゴロとのたうち回っていた。

なんかやっと前世の約束に近いようなことが起こったのでは。もう最近では牧に400年前の幼馴染の影がちらつくことは殆どなくなっていたけれど、自分たちを引き合わせたのが400年前の約束であることは変わらない。それが成就に向かい始めたのではないか。

どうしよう、紳一が好き。本当に好き。泣きたくなるくらい、好き。

はカプセルホテルのベッドの上で枕を抱き締めて本当に泣いた。誰かを想って涙が出てくるなんていうことが自分に訪れるなど、予想もしなかった。まだほんの高校1年生、だけどどこかで誰にも本気になれない気がしていた。恋は遠いものだと思っていた。

それなのに、恋は向こうから勝手にやってきた。春の温かい風に背中を押されて出会った牧に、こんなにも焦がれている。この気持ちは400年前の名残じゃない、私の、現代を生きるのものだ。

そりゃ、400年前の恋心も忘れたわけじゃない。全然覚えてる。お前はもう外で遊んではいけないと家の中に閉じ込められ、武士になるための鍛錬に励む幼馴染を羨んで眺めていたこともある。けれど、日増しに逞しくなっていく幼馴染を見つめながら、彼を他の誰にも渡したくないと強く思っていた。

あれは私のもの、他のどんな女にも渡したくない。あいつはずっと私の幼馴染で、友人で、私だけの言うことを聞いて、私を守り、もし死ぬようなことがあれば私を守って死んでほしい。やがて成長して彼とは一緒になれないのだと悟った時は、沢に身を投げたくなったものだった。

でもそれは400年前の私の気持ち。今の私の気持ちは違う。ただ好きなだけ。

しかし海南がすべての試合を終えるまで無事に過ごし、神奈川に帰る、それは他でもない牧との約束だ。は牧でいっぱいになってしまう頭を必死で抑え込み、粛々と観戦を続けた。正直頭の中は「紳一かっこいい、好き」で埋め尽くされていたけれど、安全第一。

そうしては全ての試合を観戦し、何のトラブルも起こさずにちゃんと神奈川に帰ってきた。

インターハイから帰ってきたばかりの牧は数日を置いてすぐ休みに入ったが、それこそ家族揃って帰省してしまい、は広島でほとんど手がつけられなかった宿題にかじりついていた。牧が戻り次第1日デートをしてもらう約束だ。それまでに出来るだけ片付けておかねば。

そうして世間がお盆休みを終える頃、今度はの両親が帰省していった。ついでにプチ旅行である。は寝ぼけた顔でそれを見送り、宿題をしているか寝てるか食事をしているか、という2日間を過ごした。そしてその翌日。

暑いというより、もはや痛い。そんな日差しに焼かれながら、はめかしこんで家を出た。

牧は、インターハイ疲れも手伝って田舎ではずっと寝て過ごしていたというので、夜になってから会う約束になっていた。暑いし、田舎から帰ってきたばかりの牧に朝寝坊をさせてあげたかったし。

なので、この日のデートの予定はというと、夕方から会って少し街をぶらつき、食事をして、両親のいないの家に戻る。そこでふたりで花火をして、映画を見よう。そういう予定になっていた。

家はが小学校高学年の時に引っ越してきた新築の分譲住宅なので、まだ新しく、しかも両親の趣味で庭にはテーブルセットが置かれ、整えられて青々とした芝生が広がる。そこでのんびり過ごそうというわけだ。家から牧の家までは電車で2駅ほどだし、牧なら少しくらい遅くなっても大丈夫。

ていうかむしろ泊まっていってくれてもいいんだけどね!?

は当然そんなことを考えつつ、まああの石頭がそれを許すはずがないけど、と自嘲気味に笑いながら歩いていた。待ち合わせは海南の最寄り駅の隣にあたる大きな街。牧がインドカレーが食べたいと言うので、その店の近くのファストフード店で待ち合わせ。

はその店に向かって歩きながら、広島の地でのあの修行僧のような自己制御は一体何だったんだというくらい、フワフワ浮ついていて、もうとにかく今日は紳一と手を繋いで歩けるかなだの、付き合ってって言っても大丈夫かなだの、むしろもう自宅に連れ込んだ時点で襲いかかってみようかだのと、妄想にどっぷり浸かっていた。

なので、耳も遠くなっていて、気付いた時には両側を同世代くらいの男に挟まれていて、まっすぐ進めないように妨害されていた。一瞬で我に返ったは血の気が引く。

「せめて無視はやめようよ」
「え、あの」
「返事くらいした方がよくね? 失礼じゃね?」
「はあ?」
「てかどこ高? 高校生だよな? 中坊でも別にいいけど」

全部で3人、何が失礼なんだよ頭悪そうな顔してるけど中身はもっと悲惨みたいだな。はそう思ったけれど、逃げられないし、怖い。というかこんな街中でナンパされるなんていう経験は初めてだったので、どう対処すればいいかわからない。毅然とした態度で拒否しても平気なの? 余計怒らせたりしない? てか通り過ぎてく大人の男の人って、本当に誰も助けてくれないんだね。

「てか地元民じゃないとか? なあ、高校どこよ」
「えっ、か、海南」

高校どこよと言いながら肩を抱かれてしまったので、は気持ち悪いあまり身震いがし、そのせいで判断力が鈍ってつい正直に答えてしまった。すると、3人はを取り囲んだままスッと背筋を伸ばした。牧ほどではないにせよ、より背は高いし、力では敵いそうもない。

「海南……
「マジかよ」
「えっ? あの、ちょっと」
「海南かー」
「それが何か……

わけがわからないの右側から、重苦しい声が降り注ぐ。

「オレらさあ、去年さあ、海南に負けてんだよねえ」
「はあ?」
「三浦台って知ってる〜? バスケ強いとこなんだけど」

は一瞬恐怖を忘れ、高1なのに去年のことなんか知るかバカ、ていうかそんな高校知らないけどバスケ強いとかウケる、紳一に勝てるわけないのに……そう考えていた。だが、3人の目つきが思った以上に真剣なので、また恐怖がぶり返してきた。まさか負けた腹いせにとかそういう……

細かく震えだしたは手首を掴まれて小さく悲鳴を上げた。怖くてじわりと涙が滲む。

「あ、あの、やめ……
「あー、今思い出しても腹立つー、なんだっけあのムカつくやつ、おっさんみたいな顔の」

の全身が一瞬でつめたく冷えた、その時だった。

「おい、何してる」

低く落ち着いているけれど、溢れんばかりの怒りを纏った声が響いてきた。

「あ? ……って噂をすれば〜久しぶりじゃん」
「えっ、この子お前の女? なにそれすげえ偶然なんだけど」

が首を伸ばすと、牧が、愛しの紳一が、凄まじく怖い顔で立っていた。そんな牧の向こうに一瞬400年前の幼馴染の面影が見えて心が震えたはしかし、まだ血の気が引いていた。これはマズいのでは、もし喧嘩みたいなことになったら、それがバレたら紳一は、神奈川で一番の人なのに、そういう選手なのに。

…………誰だお前ら」
「なっ……

しかし、3人のことなど記憶になかったらしい牧は、真顔で「誰だ」と返し、火に油を注いだ。の手首を掴む力が強くなる。はつい「痛い」と言ってしまい、慌てて口を押さえた……が、後の祭りだ。鬼より怖いんじゃないかというほどの、憤怒の表情で牧は詰め寄ってきた。

……手を離せ」
「じょ、状況見て言えよな、3対1だろ」
「だから何だ。今すぐその手を離して、ここから立ち去れ」
「う、うるせえな! 痛い目に遭わされてえのかよ!」

何しろ上背はあるし、大人っぽいし、神奈川の王者海南の絶対的カリスマ、本年度神奈川の高校バスケット男子における頂点・最優秀選手、その妙に説得力のある迫力は本物だ。の腕を掴んだまま喚く3人に対し、牧はぐいぐいと詰め寄る。マジで顔が怖い。

「痛い目に遭わされるのはお前たちの方だ。その子を傷つけてみろ、後悔させてやる」
「えっ、ちょ、ダメだよ、紳一、それ絶対ダメ!」
「お、おう、後悔するのはお前の方だよな! 喧嘩、怪我、どっちもニュースになるぞ!」

焦ったの声に、3人の脳裏には「バスケットの名門校の主将が夜の繁華街で喧嘩」というニュースの見出しが踊ってしまったんだろう。少々ビビり気味だったのが一転、また強気に出てきた。

しかし、牧は退かない。の手首を掴む男にさらに詰め寄る。優勢になったと思っていた3人は徐々に牧が気味悪くなってきてしまった。

「もう一度言う。手を離せ、今すぐ」

至近距離まで牧に詰め寄られた男はヒッと短く悲鳴を上げたが、むしろその恐怖での手を離せなくなってしまった。怖い怖い、こいつ丸腰なのになんか武器持ってるみたいに怖い!

それを見上げていたは、一瞬だけ頭が空白になり、心が400年前に戻っていった。あの幼馴染の若武者も体が大きかった。自分を「ちび」と呼び小馬鹿にされているようにも感じていたけれど、死ぬ間際に抱き締められた腕の逞しかったこと、あの時自分を守れなかった彼の後悔が長い時を経て花開いたように思えた。今も昔も、紳一は私を命がけで守ってくれる人なんだね――

その時だった。既に一歩二歩後ずさって逃げ出すタイミングを伺っていた他のふたりが、「ぐうっ」とくぐもったうめき声を上げてその場にうずくまってしまった。驚いたが首を捻ると、牧に負けず劣らず大人っぽい……というか老け顔でガラの悪そうな男が拳を掲げてしかめっ面をしていた。

「すまん、牧。去年まで部員だった連中だ」
……早く手を離すように言ってくれ」
「引き剥がしてくれて構わん」

きょとんとするの頭上で何やら話がついてしまったらしく、の手首を掴んでいた男は牧に腕をギリギリと締め上げられた上に指を無理矢理開かされた。すると、ガラの悪そうなのがの前に進み出てペコッと頭を下げた。

「申し訳ない。怪我はないですか」
「い、いえ、大丈夫です」
「何かあれば必ずご連絡ください。こちらで対処します」
「えっ、あの、こちらって」
「すぐそこの、三浦台高校。もう引退しましたが、バスケ部の主将だった村雨といいます」
「は、はあ……

ガラが悪そうな割に村雨とかいう男はそう言うと再度頭を下げ、バツの悪そうな3人をどつきながらその場を立ち去って行った。はまだ少しぽかんとしていて、その遠ざかる4人の後ろ姿をぼんやりと眺めていた。すると、ふんわりと肩が暖かくなった。

それに気付いて我に返ると、柔らかく牧に抱き締められていた。今度は一瞬で顔が燃え上がる。

「し、紳一……
「怖かったろ、もう大丈夫」
「えっと、今、何が起こったの?」

往来で牧に抱き締められた興奮を努めて抑え込みつつ言うに、牧は少し笑った。

「もう少し行ったところに、三浦台高校ってのがあるんだよ。去年の県予選で当たったんだ」
「えーと、それで負けて紳一に恨みを持ってたとか、そういう?」
「元部員って言ってたしな。元から不心得者だったんだろ」
「バカじゃないの。紳一に勝てるわけないでしょ」

がさも当然という声色で言うので、牧はつい吹き出した。

「勝負は何が起こるかわからないからな」
「はあ? 何言ってるの、紳一よりバスケ上手い人なんかいないの!」
……だったらどうして優勝できなかったんだ?」
「そ、それは……

本年度の高校総体男子バスケット、海南大附属は準優勝に終わった。決勝戦まで駒を進めた部員たち、その家族、のように現地まで応援に来た人々は、優勝を信じていた。部員たちはそれぞれに高い能力を有する選手たちばかりだが、牧がいれば、牧さえいれば優勝には手が届くはずだと信じていた。

しかし、優勝に手が届くことはなく、今年予選からインターハイまで一度も負けなかった牧は、ついに敗北した。それは事実なのだが、まあにとってはそんなもの「時の運」程度でしかない。

「で、でも、ほら! まだ国体と冬の選抜あるし!」
「まあな」
「だから喧嘩とか怪我とか、絶対ダメだからね! ああいうの絶対やめてよ」

は牧の腕の中で背筋を伸ばし、人差し指を突きつけて言った。バスケット部にとっての最重要人物である牧が問題行動や怪我などとんでもないこと。さも当然という顔のは、ちょっと鼻息が荒い。だが、そんなの腰を牧の両手がぐいっと引き寄せた。

「えっ!?」
「それはわかってるけど、お前のことを守るのはオレの使命だ」
「だ、だからそれは400年前の――
「違う。今の、400年前とは関係ない現在のオレの意志だ。お前のことはオレが守る」

いっそ笑ってしまいそうなほどの真剣な真顔だった。は全身の力が抜けてしまい、へなへなと牧にもたれかかった。気が緩んだせいで怖さが戻ってきてしまった。

……あの頃のオレは、死ぬ時はお前の盾になって死にたいと、そう思ってた」
「し、紳一……
「そのために強くなって、殿に認められて、いつかお前のために死にたいと思ってたんだ」

400年も遠く過去の話だ。現代とは死生観も異なるし、特にふたりが生きていた時代に死はすぐ隣にあるものだった。自ら腹を切って果てることが潔い最期とされていた時代でもある。幼い頃の失敗が元になって、今度こそ命がけで姫を守ってみせるのだと若武者は意気込んだ。

だが、守るどころか一緒に瓦礫の下敷きになってしまった。

「でも今は違う。400年前も今も、オレはお前のために死ねるけど、そんなのは無責任だ」
「紳一……
「今度こそ守ってみせるって、思ったんだ。今度は一緒に、死なずに一緒にいられるように」

の胸に、400年前の燃え盛る城での最期の時の気持ちが蘇る。

死にたくなかった。こんなところでたった十数年の命を散らしてしまうのは嫌だった。ずっと思い続けてきた幼馴染とふたりで取り残されたことを後悔し、しかし運命を共にすることを少し嬉しくも感じ、ああ今部屋の壁が外側に崩れでもしてくれれば、ふたりで遠くへ逃げ出すのにと思っていた。

そしてどこかで身分を偽り、ふたりで静かに暮らせないだろうかと思った。

夫婦となり、ふたりで力を合わせて日々を暮らし、子を生み、寄り添って生きていきたかった。

は牧にぎゅっとしがみつくと、熱くなるばかりの目を閉じた。

「紳一、あの約束、まだ有効?」
……ああ」
「今度は、一緒になれるの?」
「ああ、なれるよ」
「400年前の約束に縛られたりしてない?」

涙声のがそう言うと、牧は腕を緩めて少しだけ微笑んだ。

「してないよ。、今度こそずっと一緒にいよう。ふたりで、生きていこう」

そしてまたをぎゅっと抱き締め、声を潜めた。

「でも、400年前の記憶で好きなんじゃないぞ。新しく、惚れ直したんだよ」

も鼻をグズグズ言わせながら少しだけ笑った。そうだね。私も。私も惚れ直したの。

「私も。私もね紳一、紳一のためなら、死ねるからね」

心からの本音だった。

――が、牧は一言。

「それは許さん」