きみのためならしねる

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男の戦いに女が口を挟むなとか、そんな前時代的なことはまったく考えていなかった。だが、を守りたいと思うのと同時に可愛いと思ってしまうことも止められなくて、牧は意識的に彼女から遠ざかってきた。特に部活の時。集中したいのにがいては台無しだ。

一応その点はしっかりと言い聞かせておいたので、日々の練習でも予選でも、の姿を見ることは殆どなかった。おかげで400年前のことなど忘れ、神奈川の絶対王者である海南の主将として、また頂点を目指すひとりのプレイヤーとして集中できていた。

その一旦の区切りとなるのがインターハイだった。夏のインターハイ、秋の国体、冬の選抜。高校における3大タイトルの全制覇が目標となるわけだが、全てを同一線上に考えても意味がない。ひとつひとつ、確実に攻め上げていかねば。牧はそういう考えでインターハイだけに集中していた。

初戦は難なく突破、試合経験の少ない後輩たちもインターハイの空気というものを肌で感じることが出来たし、トーナメント表による勝敗予測から逆算して最初の山となる3日目あたりにピークを持ってくるつもりで調整していた。

それなら牧など出場しなくてもよさそうなものだが、その辺は「勝負」と考えているし、プライドの問題もあるし、相手を見くびってベンチに座ったまま試合をスルーするなんていう卑怯な戦法は取らないのが海南流でもある。

そうやって優勝までの道筋を丁寧に構築していたのだが、の出現でそれが一気に崩れた。

波乱の第二試合が終わったあと、観客がざわついて落ち着かなかったので、牧たちは観戦していた場所で待機していた。ある程度観客が外に出てから帰るつもりだった。

「まさかひとりじゃないだろ。親とか、友達とかと一緒に来たんじゃないのか」
「でもひとりだったろ」
「一緒に来てくれた人が興味ないのかもしれないじゃないか」

だが、牧は確信していた。あいつはひとりだ。

騒がしい体育館を背に、牧の心はまた400年前に戻っていった。あいつは子供の頃から目的のためには手段を選ばないやつだった。まだ男女の区別もなく泥だらけになって里山を駆け回っていた頃から、鬼ごっこでも戦ごっこでも、勝つためなら汚いことも平気でやっていた。

ごくごく幼い頃の話だし、おなごだてらに狡猾な戦略は殿を喜ばせていたし、これで姫が男だったら……と皆がため息混じりに目尻を下げていたものだった。

牧は監督に声をかけ、幼馴染が観戦に来てくれたらしいので、挨拶で外に出ることは可能かと申し出た。

普段地元でなら高校生は誰しもアルバイトや予備校や遊びで夜の街を平気で歩いているわけだが、仮にもインターハイ、県代表。基本的に外出をして自由に過ごす時間は認められていない。それに、多くの強豪校がそうであるように、海南もまた市内の夏休み中の学校の体育館を借り受けて調整を行えるようにしてあったし、そもそも遊んでいる暇はなかった。

牧の申し出に、タブレットを見ていた監督はちょっと目を丸くしたけれど、「門限は20時」とだけ言ってまたタブレットに目を落とした。監督はの件を知らないはずだが、何しろ牧の場合はインターハイ期間中に外出して遊んでくるなんていうことからは最も遠い人物である。

監督の許可を得た牧は足早にのところへ向かうと、腕を掴んで壁際に押し付けた。

「どこに泊まってるんだ」
「え、えとチェックインまだだけど、広島駅の近く。路面電車の駅の目の前でコンビニも近――
「ひとりか?」
……そうです」

移動や会場の都合で牧たちが宿泊しているホテルからは少し距離があったが、幸いの宿泊先は路面電車の停留場の目の前。到着したら連絡するから、そしたら出てこい。

「これから一旦ホテルに戻って、ミーティングだから、その後」
……わかった」
「時間まではホテルの中から出るんじゃないぞ」
……はい」

しょんぼりと萎れたにしっかりと言い聞かせると、牧はまた仲間たちのもとへ戻る。ホテルまではチャーターバスでの移動になるから、とは一緒にいられない。複雑な気持ちは努めて顔に出さないようにしていた牧だったが、走り出したバスの中でこっそりため息を付いた。

インターハイの期間中は、あいつのことを思い出すつもり、なかったのに……

監督の門限が微妙に遅いのは、ホテルに帰ったあとすぐにミーティングの予定だったからだ。というかインターハイには試合をしに来ているのだし、就寝までの時間を翌日の試合の対策のために有効に使わねばならない都合上、ミーティングはさっさと始めてしまわねばならない。休むのはそれから。

本日の試合結果によって明日の対戦相手が決まったわけだが、監督の判断では「そんなに気負わなくていい相手」だそうで、むしろ彼は本日の試合結果を受けて見えてきた3日目の試合の方が気になっている様子だった。

誰もわざわざ言葉にして言いはしないけれど、牧がいる今年は海南史上最も優勝に近いチームなのである。勝利を重ねていけば決勝までは4試合、間に休みが挟まることはなく、連日の勝負となる。しっかり先を見据えて戦っていかないとどこに落とし穴があるかわかったものではない。

そういうわけで、ホテルに帰還した牧たちはすぐにミーティングを始め、また別の会場で行われていた明日の対戦相手の試合の録画を見るなどして対策を練った。それが終わると、もう17時を過ぎていた。

監督に許可をもらった牧は私服に着替えてホテルを出た。制服を着ていても社会人に間違えられるので、私服だともう完全に成人にしか見えない。まあ、監督は牧のこの特徴をわかっていて許可を出したのかもしれない。身長は184センチもあるし筋肉質だし、心配はなさそうに見える。

目的の停留場にたどり着いた牧は、ホテルの入り口で軽装で佇むを見つけると、また腕を掴んでその場を離れた。ホテルの真裏に児童公園があるので、そこに向かう。真夏でまだ明るい時間帯だったけれど、この日は雲も多かったし、そもそもが住宅街ではないのでひと気もなかった。

牧はそこでベンチに腰掛けると、手に持ったままだったペットボトルから水を流し込む。

……バイトはこのためだったのか」
「そう」
「そんなに試合が見たかったわけじゃないんだろ」
「そ、そういうわけじゃ……ただ私は紳一が……
「ちゃんと親の許可もらってるんだろうな」
「それは、もちろん」

牧の脳裏にまた400年前の記憶が蘇る。

子供同士、棒切れを手にきゃーきゃー騒ぎながら毎日遊んでいたわけだが、先述のようには勝つためなら手段を選ばないお姫様だったので、幼い頃の若武者の方もつい夢中になってしまい、ふたりが6歳の頃、姫に怪我をさせてしまったことがある。

一応直接手を下したというわけではないのだが、父親から「姫を見守るように」と言いつけられていたのに、夢中になってそれを忘れ、気付いた時には彼女を見失っていた。慌てて近くを探すと、姫は石に蹴躓いて斜面を転がり落ち、藪の中に突っ込んで顔中切り傷だらけにしてしまった。

姫は怪我などなんのその、勝負はまだついていないと鼻息が荒かったのだが、別の家臣の息子が真っ青になってを城まで連れ帰った。仮にもお姫様が顔に傷である。若武者は父親に首根っこを掴まれてほとんど使われることのない牢に放り込まれてしまった。

そこで自分がやらかしてしまったことに気付いた彼は、もう明日にでも自分は首をはねられてしまう、父親も切腹かもしれないと思って、一晩中眠れなかった。だが、夜が明けると、父親とともにの父親、つまり殿様がやって来て牢の中に入ってきた。

そこで彼は、姫の傷は大したことはないけれど、父上から言いつけられたことを忘れて姫から目を離したこと、これが一番問題なのだと言われた。父上のお言いつけは城主である自分の言いつけも同様であり、それを守れぬものはこの家で武士になる資格もなく、その上三男なのだし、なんならこれから山ひとつ向こうの寺に預けてもいいのだぞと叱られてしまった。

子供ながらに父と同じ立派な武士を夢見ていた彼は半泣きで殿に頭を下げ、それだけはご勘弁くださいと何度も繰り返した。すると殿は、父上のような武士になりたかったら、まずはあのお転婆を命がけで守るようにと言い、しかし少し笑って頭を撫でてくれた。

以来、を守ることが一生の使命となったのである。

試合会場でと鉢合わせた時は、全身に寒さを感じるほど血の気が引いた。

こんな遠いところまでひとりで来たのか。そう思うと、胸がざわついて仕方なかった。

もし何かあったらどうするつもりなんだ。遠く家族からも離れて、ひとりで、自分もいなくて、取り立てて興味があるわけでもないバスケットの試合なんか。ていうか一体何泊する気なんだ。予算大丈夫なんだろうな。言いたいことは山のようにあった。

だが、そんな不安に苛まれた腹いせにをなじるのは嫌だった。

牧の、400年前の武士ではなく現代を生きる牧の心の片隅に、抑えられない感情が湧き上がる。

、オレに会いに来てくれたのか――

テスト休みの間は毎日朝から晩まで体育館にいた。終業式の翌日には合宿に出発していた。合宿から帰った2日後にはインターハイに出発していた。とはほとんど顔を合わせてなかった。それは、さすがのも最後のインターハイを控えた自分を気遣ってくれているのだろうと思っていた。

こんな遠くまでオレを見に来るためにバイトしてたから……だったなんて。

……でも、よく許してくれたな、親」
「ええと、うん、なんかあんまり咎められなかった。少し援助もしてくれたし」

が姑息な嘘を付きまくってきたことなど知る由もない牧は、親に内緒で……なんていうことではないのでひとまず胸を撫で下ろした。聞けば試合観戦以外では外に出ないつもりで宿題まで持参してきたと言うし、本人から話を聞けば聞くほど不安が取れていく。

しかも、カプセルホテルと言えど女性専用フロア。高級ホテルに泊まってますと聞かされるよりホッとした。コンビニも近いし、繁華街のド真ん中でもないし、男子バスケットの会場も遠くないし、新幹線に乗るまでも徒歩圏内。お子様だと思っていたにしてはしっかり計画されている。

安堵の気持ちがゆったり広がっていくのを感じながら、しかし牧は腹に力を入れて呼吸をコントロールし、自分を宥めていた。そこまでしてが自分の試合を見に来てくれたということ、それが想像以上に嬉しかったのだ。

また400年前を思い出す。

姫は活発な子だったけれど、殿はおしとやかな姫を望んでいた。彼女はやがて外で遊ぶことも禁じられ、武家の娘として立派な嫁になれるよう教育を受け始めた。若武者の方もやがて剣術や槍術を習い始め、父のような立派な武士になるべく鍛錬に励んでいた。

その鍛錬のさなか、たまに姫が遠くから見つめているのに気が付いた。

今思うと、幼馴染を見つめる姫には恋心があったのだろうが、若武者だった頃の牧は姫が期待を寄せているように思えた。鍛錬に励む自分を見て、その成長に感心してくれるのではないかと思っていた。待ってろちび、お前のことはオレが守ってやるから。そんな風に思っていた。

今のこの嬉しさは、それに似ている気がした。

が見えるところにいたらきっと集中できない、気持ちが乱されて冷静なプレイが出来ないのではとずっと思ってきた。を守らねばという意識が邪魔をして、バスケットだけを考えていられないのではと思っていた。しかしどうだろう、そんな気はしない。

むしろ、がひとりで遠征してまで見に来てくれたのだから、自分の持つポテンシャル以上のものを出さねばという意欲がふつふつと湧いて出てきた。30分程度で覗きに来られる地元の予選とは意味合いが違う。最高の舞台の勝ち試合をに見せたい。

そして全てが終わったら、褒めてほしい。

そんな願望に気付いた牧は凄まじい照れと自己嫌悪に襲われるわけだが、ひとまずそれは頭の片隅によけておく。落ち着け、まだ初戦が終わったばっかり。ここ広島。の泊まってるカプセルホテルの裏の、公園。門限20時。19時半にはここを出る。

「決勝まで行くとしたら、あと3試合なわけでしょ」
「ああ、そうなるな」
「だから、どんなに長くても決勝戦見たら、帰る。その日の午後の新幹線、押さえてあるから」

もそもそもは牧に見つかる予定ではなかったので、すべての試合を観戦し終えたら、もう用はないのである。万が一途中で敗退した時も何とか新幹線を押さえてすぐに帰るという。深夜にかかってしまっても、地元に帰り着きさえすればいいのだ。駅からはタクシーでもいい。

「ねえ、でも例え優勝しても、お盆休みくらいは休めるよね?」
「学校自体が全部閉まるからな。暑い時期の練習は控えるようにも言われてるし」
「ね、ね、そしたらさ、1日くらい、会えないかな、何時間かでもいいよ」

春に400年ぶりに再会して以来、牧は恐らくもっとものことを愛しいと思った。そして今、には自分が全てなんだろうと思った。自惚れなのではと疑う余地はなかった。春からこっち、ちょっと鬱陶しいくらいにはずっと自分だけを見ていた。

そして、きっとは400年前の武士ではなくて、今現在の自分を見てくれているに違いないと気付いた。だからこそ試合を見に来たに違いない。

「うちも田舎行かなきゃいけないから、1日くらいしか空かないけど……
「あー、それじゃあ疲れるよね……
「いや平気。インターハイのあとは少し練習が縮小されるから」

と言ってもすぐに秋の国体が迫ってくるので、8月の最終週からはいつも通りの練習漬けに戻る。インターハイの疲れを残さないため、夏休みの宿題をきちんと片付けさせるため、万が一負けたり怪我をした場合に備えるため、少しだけ休みを挟む。そんな程度だ。

「どこか行きたいところでもあるのか」
「えっ、別にそういうわけじゃ、ないんだけど」

つまり、ただ会いたいだけ。牧の胸がぎゅっと軋む。

「ほ、ほら、予選始まってからずっと、その、ゆっくり会えなかったから」
「バイトはいいのか」
「そんなにたくさん入れてないもん。それに、前借りの分は来月くらいで返せるし」

思いがけず親から援助があったので自分で稼ぐ分はずいぶん少なくて済んだらしい。だから余計に会えないかな、なんてことを言い出したんだろう。牧はなんと応えたものか、少し迷った。

今突然への愛しさが溢れ出たのは、非日常的すぎるシチュエーションがそうさせているのではないかという気もする。育った町から遠く離れ、ふたりを知る者が通りすがるなんてことがほぼ100パーセントありえない真夏の夕暮れ。気持ちが高ぶるのはそのせいだ。

まだ門限には早いけれど、少しずつ空が暗くなってきた。牧は立ち上がり、に手を差し出す。

「帰ったら、連絡する」
……会って、くれるの?」

牧は上手い返しを探すことを放棄して、頷いた。途端にの顔が綻ぶ。

「じゃ、じゃあ、その、試合、頑張ってね! 負けないでよ!」

嬉しくて嬉しくて、それを隠せていない。牧に叱られるのではないかと怯えていたんだろう、しょんぼりと眉を下げていたは、頑張ってニヤついてしまいそうな頬を堪えている。

を可愛いと思うことに、もう苛立ちはなかった。腕を引き、ぎゅっと抱き締める。

「え!?」
……神奈川に帰り着くまで、気をつけろよ」
「し、紳一……?」
「もしどうしても困ったら、ひとりじゃどうにもならないと思ったら、連絡しろ」

まさに今、を守れるのは自分しかいないから――

驚くあまり硬直していただったが、ややあってからぎゅっと抱き返してきた。牧の胸に頬を擦り付け、大きく息を吸い込んでいる。そういえば400年前は、こんな風に抱き合ったまま死んだんだったな。そんな思いが胸に去来するふたりの背を、真夏の風が撫でていく。

……
……なに?」

本当は言いたくなかった。でも言いたくなってしまった。

「来てくれて、ありがとう」