きみのためならしねる

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牧は部活が終わると無駄口も叩かずにさっさと帰る。疲れているので寄り道もしない。特にこの海南大附属高校の場合、部活は真剣勝負のための鍛錬であって、友達と仲良く遊ぶ場ではないので、なんか食って帰ろうぜ〜なんていう話にもなりにくい。

なので牧は本日の担当である同学年の部員に戸締まりの念を押すと、後輩たちにもひと声かけて部室を出る。自宅までは徒歩と電車と自転車で1時間ほど。電車が30分ほどかかるので、その間に予習復習をしてみたりもする。それくらい牧は寸暇を惜しんで部活に邁進中。

――だったのだが、と再会してからというもの、そんな生活をすっかり乱されてしまった。

というか遡ること3ヶ月ほど前、月に一度の部長会議でよく顔を合わせるバドミントン部の部長である同学年の女子とちょっといい感じになっていた。結局彼女とは付き合うまでには至らなかったものの、もしそういう関係になってしまっていたらと思うと血の気が引く。

付き合って日の浅い彼女がいるのに、そこに前世で「生まれ変わったら結婚しようね」と約束した女が現れる。そんなアホな話があるかよ。

その点にはホッとしていた牧だったが、が不貞腐れるほどには彼女のことを蔑ろにしているわけではない。彼もまた突然蘇ってきた記憶に翻弄されて、しかも忙しい身ではそれだけに構ってもいられず、ずいぶん疲弊していたのだ。

それに、ものすごい音がしたかもしれないが、一瞬で絶命したにはあの煙と熱で喉と肺が焼かれていく感覚はわかるまい。波乗りが好きで、太陽光に肌を焼かれたあとに海水に浸かった時のあのひんやりとした感覚が大好きで、それがまさかあんな過去の記憶に繋がるなど思っていなかった。

春の校舎、暖かい風に吹かれながら、初々しい新入生の中にを見つけ、甦る記憶の中でと姫が重なった時のあの得も言われぬ高揚感、そして心に渦巻く忠義の心、または彼女を愛しく思う気持ち、それらもわかるまい。直後に殴りかかってきたくらいなんだから。

そう、これでも一応、を愛しく思う気持ちは持っているのだ。甦る記憶とともにと認識した瞬間から殴りかかられるまでの、ほんの十数秒、いい感じになった女子がいてもどこか現実感のなかった「心から愛しく思う女性」に巡り合ったのだと思った。

もしあの時が殴りかかってきたりせず、「本当に会えたね」などと言って涙目になって微笑んでくれさえすればもっと素直になれたのだろうが、牧もこの気持ちを持て余していた。

一体この気持ちは過去の記憶だけなのか、それとも今も本心から相手を愛しく思っているのか、よくわからない。とふたりで並んでいると、オレがこの子を守ってやらねばと言う気になってくるが、一体この現代で何から守ろうというのか。現実感に欠ける。

400年前なら、彼女を守るということは、即ち命を守るということだった。戦乱の世、死はいつもすぐ隣にあって、幸いにも牧とが生まれた家は武功の名高い名家というわけでもなく、豊臣の大群が押し寄せてくるまでは割と長閑な暮らしを営んでいたけれど、それでも風向きが変われば一瞬で攻め滅ぼされる。実際、簡単に滅ぼされた。

その点で言えば、天守閣があるような巨大な城ではなかったというのに、を守りきれずに共に瓦礫の下敷きになる羽目になったことは、元服したばかりとは言え一応武士であった身としては後悔の残る過去だ。特に今も勝負の世界に身を置いているので、悔しさは募る。

当時の自分たちの家族がどうなったかを知る術はないだろう。よっぽど決定的な史料が残っているならともかく、記憶が戻ってすぐに調べたところ、城址公園はずいぶん小さく、主家の記録も曖昧。その家臣筋の誰がどうなったかなど、知りようもない。

それでももしあの豊臣の小田原征伐を生き延びた家人がいて、姫が戻らなかったことを知れば、自分が守りきれなかったのだと思われるに決まっている。何しろ、もう城が持ちそうにないから姫を逃がせと命令されたからふたりでいたのだ。

家の者が全員死んでいればいいけれど、もしの父親である殿が生き残っていたら、さぞ期待はずれと思われたに違いない。姫とともに育った家臣としての信頼には応えられなかった。

それはけっこう悔しい。

いやいや、それでも姫を守るためにオレは戦ったんだ。城に火が放たれて退路を塞がれたのはどうしようもなかったじゃないか。しかも元服したての小僧だったんだから。現代で言うところの15か16くらいだぞ。中学生じゃないか。

そういう記憶と現実に現れたとの間で牧は疲れている。

姫がどんな人だったかを思い出すたびに諦めるけれど、が殴りかかってきたりせず、ただまっすぐに腕の中に飛び込んできてくれていたら。そうしたら自分だって。きっともっと正直にを好きだと思えるに違いない。姫ではなく、を。

「そういや最近あの幼馴染の子としょっちゅう一緒にいるよな」
「あの子けっこうかわいいじゃん。付き合っちゃえばいいのに」
「確かに昔、いつか結婚しようね的なことは言ってたけど」
「ベタだな〜」

土日の練習ならに翻弄されなくて済むので、牧はのんびりと昼食を取っている。同学年の部員と部室の片隅で喋りながら昼休憩。仲間たちは仲良し小好しのお友達ではないけれど、この2年間、ずっと一緒だ。とても気楽。昔って400年前だけどな!

「近所に住んでたのか?」
「ああまあ、家も近かったけど、えーと、要するにあの子の父親がオレの親父の上司、というか」
「なんかそーいうのって気ィ使いそうだな」
「まあ、子供同士だからな。当時は泥だらけになって遊んでたくらいで」
「ここに入学してきたのって偶然だったのか」
「そう。なんか見たことあるのがいるなと思ったら」
「運命的じゃん」

まったくだ。牧は乾いた笑い声を返しつつ、心の中でため息をつく。仲間たちは実に遠回しな言葉で話してくれているけれど、つまりそれだけ牧とがふたりで過ごしていることは多くの生徒に目撃されているということだ。

2年生と3年生ならともかく、3年生と1年生というのは学校の外で以前から面識がない以上、どう頑張っても知り合ってほんの数日の関係。幼馴染だということを知らなければ、気の早いカップルだと思われてしまうのは無理もない。なので牧は手間を厭わず、淡々と説明していく。

「最後に会ってからかなり時間経ってたからな〜。懐かしい話が多くて」
「まあそうだろうけど……いいじゃん、今彼女いないんだろ」
「あの女バドの子どうしたよ」
「いや何も。てか別にどっちもそういうつもりじゃないけど」
「お前な、名前が紳一だからって紳士キャラにならなくたっていいんだぞ」
「そんなこと考えてねえよ」

忙しいことが全ての原因と言えるが、現状彼女持ちがゼロの3年生は突然主将に女の影が見えたので面白がっている。しかも初々しい1年生。牧本人は成人に間違われることが多い……というかむしろ未成年と言っても信じてもらえないこともあるくらいなので、余計に面白い。

「てか何か部活やるつもりもなければ、ぼけーっと毎日過ごしてる1年生と付き合う暇はないだろ」
「だからだろ。幼馴染で学校の外でも接点がある分、揉めにくいんじゃないの」
「進学しても切れにくそうだよな。親もよく知ってるから安心だろうし」

親同士が主従の関係にあったのも400年前の話なので、現在の親同士はまったくの無関係。牧は返事に詰まる。というか400年前の関係で言っても、娘を守りきれずに瓦礫の下敷きにした男で殿が安心するとは考えにくい。

「逆じゃないか。そういう接点がある方が気を使うことが多いだろ」
「そうかあ?」
「てか何なんだよさっきから。無理にくっつける必要もないだろ」
「我らが主将が恋愛を要不用で捉えるような堅物だからだよ」

さらっと言い返された牧は仰け反って呻いた。悪かったな堅物で。

「堅物っていうか、牧の場合若々しさがないんだよ。まだ17歳なのに」
「内面は顔に出るって本当なんだなあ」
「お前牧のこと言えた顔かよ」
「そっちこそ」
「何の話だよ」
「365日しかない17歳なのに、手が届く場所にいる女の子放置とかもったいねえって話」

365日しかない17歳。その言葉に牧はまた燃え盛る城の一室に心が戻っていく。15か16くらいだった。365日しかない17歳にも届いていなかった。もしあの戦火を生き延びていたなら、とふたり、どんな風に過ごしていただろう。

姫はお方様、つまりの父親である殿の正室、一番格上の妻の実家へ逃がすよう指示されていた。実際にを生んだ母親の実家ではなく、お方様の生家へ逃げ延び、手はずは整えてあるそうだから、すぐに出家をして身分を偽れと言われていた。

は嫌がったに違いない。もしそのまま何年も隠れ忍んで過ごさなければならないとしたら、夫婦のふりをして村にでも置いてもらえないかとか言い出したんじゃなかろうか。それはちょうど、17の頃だったはずだ。それを思うと少し胸が痛む。

時代が違うのだから仕方ないこととは言え、ほんの中学生くらいで死ななければならなかった彼らのことを思うと、いたたまれない気持ちになる。身分を偽り、掘っ立て小屋のような家で農民のふりをしているだけでも姫は幸せだったかもしれない。本当の夫婦に、なれたかもしれない。

それを思えば、仲間の言葉にも頷けないわけじゃない。

「まあ、そうなんだけど」

だけど、もったいないとか、前世が可哀想だったからとか、人を好きになるって、そういうことか?

ある意味では、400年前には15か16で夭折してしまったを幸せにしてやりたいという気持ちだと言えなくもない。姫の世界は狭かった。城と、城下と、周囲の里山くらい。そこで幼馴染に恋心を抱き、適齢期に突入しちゃったけどどうしようかなと悩んでるうちに死んでしまった。

そんな姫にもっと生を謳歌してほしいという気持ち、それが結局自分と結ばれるということならそれを叶えてやりたいという忠義の心。それは事実なのだが、悲しいかな彼は今武士ではなく牧紳一である。高校3年生、17歳、バスケット部主将。

前世は前世、今は今、だろ! 忠誠心と恋愛感情は必ずしもイコールではないはずだ!

なので、生を謳歌してほしいと思っているのに、牧はしかめっ面だ。

「もー、そんな怖い顔しないでよー」
「顔くらい好きにさせろ」
「でもその怖い顔、なんか懐かしい」
「あの頃も今もお前のせいでげんなりすることが多いからな」

しかめっ面の上にげんなりしている牧は、とどめにハーッとため息を付いた。がアルバイトを始めたのである。手始めに週2回、勤務先はアイスクリームやクレープやスムージーを扱う大変可愛らしいお店。店内余すところなくパステルカラーとビビッドカラーで、客は基本的に全員女性。

そこに引っ張り込まれた牧は身長184センチ、分厚い胸板、黒々と日焼けした肌、そして2年ほど前から未成年だと言っても9割方信じてもらえない顔。ため息も出よう。甘いものもそれほど興味はない。

「別にわざわざ報告しなくても」
「私が何してるか、把握しておきたくない?」
「プライベートに干渉するつもりはないよ」
「干渉とかそういうことじゃなくて、今どこで何してるかなって、思ったりしない?」

しない、と即答してはいけないんだうな。牧はそう考えて首を傾げるだけにしておいた。だが、つまりそんなことを聞いてくるということは、は牧が今どこで何してるのか気になるのだろう。遠征でもない限り、基本オレは家か学校にしかいないんだけどな。

……安全なところにいさえすれば、どこにいても」
「だからどう? ここなら安全でしょ?」

は店内のテーブルに肘をついて身を乗り出し、ちょっと上目遣いで目を細めた。

自分の役目はを守ること。その意識は前世の記憶が蘇って以来、常に牧と共にあった。それ自体がまるで過去の自分そのものという気がした。だが、この現代の世界で何からを守るというんだろう。を守るとはどういうことなんだろう。

だってそうだろ、いつ襲ってくるかもわからない災害だの、不慮の事故、そういう不可抗力なものから守るとしたら24時間ベッタリ張り付いてるしかないし、そんなことは現実的に不可能じゃないか。

それに、実際に彼女を防護する機会など訪れるわけもない。

だから「安全でしょ?」なんて言われたところで、心底ホッとすることもない。まあそりゃそうだろうな、ここでアルバイトしててどんな危険があるっていうんだ、と内心思うくらい。

「それよりもバイトが終わってから家に戻るまでの方が危険は大きいだろ」
「そうかな、チャリだよ」
「制服のスカートはためかせてパンツ丸出しで乗るなよ。前にそれで襲われたやつ、いたから」
「えー理不尽ー」
「それは正しいけど襲われてからじゃ遅い。時間は巻き戻らない」

スカートの下にジャージでも穿けば済む話だし、それを案じて毎日迎えに行きたいとまでは思わなかった。それに、がバイトを終える時間というと、牧はちょうど家に帰り着いて食事や入浴を終え、やっと部屋で人心地ついている頃合いだ。この店までは自転車なら1時間くらいはかかるし、の家はさらに遠い。

だが、これがまた心底げんなりすることに、を危険に晒したくないという気持ちは、400年前の記憶が蘇って以来、強まるばかり。もしに危険が及ぶことがあるとしたら、今度こそ守ってやりたいという願望にどうしても抗えない。

牧はそういう自分の気持ちに肩を落としながら、ぼそぼそと呟いた。

……どうしても危なそうだなと思ったら連絡しろ」
「えっ、いいの?」
「どうしてもの時だけだからな。何もないのに呼んだら二度と来ないからな」

400年前の武士としての守りたいという気持ち、そこに現代の牧紳一としての照れが覆いかぶさって、頬杖をついた牧はプイとそっぽを向いた。ちらりと目だけでの方を見ると、薄っすらピンク色に染まった頬で、緩んでしまいそうな唇を固く引き結ぼうとしていて、出来ていない。

「それから、テスト前なんだからちゃんと勉強しろ」
「紳一と一緒にやっちゃ、だめ?」

というかそもそもテスト前でなければ放課後に一緒にスイーツカフェなんて来られなかったわけなのだが、は肩をすくめ、恐る恐る上目遣いで見上げてくる。牧はまたため息。

……今日だけだぞ」

牧は照れ隠しにテーブルの下ののつま先を蹴った。はまたニヤついてしまいそうな唇をキュッと引き結び、嬉しそうに目を細めてうんうんと頷いた。牧はまた、ため息。

腹立つ。ムカつく。鬱陶しい。

なんでこいつ、こんなに可愛いんだよ。