風に騒ぐ、月に迷う

06

湘北の中間考査が終わると、アナソフィアの中間考査が始まる。はもうかれこれ1週間以上前から準備を進めていたのでそれほど心配はしていなかったが、自分のテストの結果よりも面倒を見た桜木と流川の結果の方が気になっていた。

さらに疲労はピークに達し、普段なら少なくとも3時くらいまでは勉強するところを、日付が変わる頃に寝てしまう有様だった。得意な教科に至っては、さっさと解き終えて眠ってしまうほど疲れていた。肉体的な疲労もあるが、何しろ心が疲れていた。

だが、そんなの努力は全て報われた。湘北バスケット部の主力選手4人は赤点を1つも出さないという奇跡のような結果を残し、なおかつ続くも1学期末より順位を上げた。

また一方ではに無理を強いた公延が順位を落とし、合宿中のあれやこれやも含めて親にガッチリ叱られるという、珍しい事態が発生した。は少しだけいい気味と思いつつも、しょげる公延にくっついていた。

「合計点は上がったんだけどね」
「みんなも受験生だからねえ」
「今度はオレがに教えてもらおうかな」
「さすがに3年生は無理なんじゃないの」

それは冗談としても、今更ながら受験生であることを痛感していた公延はたるんでいたなと反省した。がいつも近くにいるから、つい緩んでしまう。それではダメだ。の父との約束は未だ堅牢な壁となって公延を囲っているし、それを乗り越えたいと思っている。約束はほぼ果たされたようなものだが、まだ先は長い。

「公ちゃん今年も文化祭来られないの」

藤真が気になって仕方ないらしいは、不安な顔をして公延を見上げている。公延にしてみれば、あの藤真がアナソフィアでまでに迫ったりするわけがないと思うのだが、はまったく信用出来ないという。そんなものだろうかと思うが、公延も生憎と模試だ。

「オレ、ほど成績よくないんだよ」
「そういう問題かなあ」

は不満そうだが、そんなことにかまけて疎かに出来るほど受験というものは優しくないと公延は思っている。もちろんこれは公延が正しい。個人の問題としては正論だ。

中間での順位下落を受けて気持ちの引き締まった公延は、これ以降、以前にも増してとの時間を蔑ろにし始める。の言葉は、腕は、全て甘い誘惑だった。負けないように流されないように心を縛って、不満そうなの顔をまともに見ることもしないまま時間だけが過ぎていく。

そうやってとの関係を縛り付けているわりには、いやむしろだからこそ、学校では公延はのびのびと過ごしていた。放課後になるとたまに体育館に顔を出してみたり、昼休みの個人的な練習試合の審判をやってあげたり、楽しそうに過ごしていた。

それでも日曜に書店などに出かけることがあれば、出来るだけを誘った。書店に行き、お茶を飲んで帰る程度のことだったが、はさておき、公延にはそれだけでも楽しく幸せな時間だった。

当然、にとっては再び訪れた忍耐の時期であり、心を揺さぶられる時期でもあった。

また構ってくれなくなったことに不満を感じつつも、受験という大義名分に守られた公延には、と言えど手出しが出来なかった。公延の目の届かない所で色々と面倒な目に遭いながらも、は次第に公延にそれを伝えることをやめてしまった。言ってもどうせ、反応がないから。

しかし一応は受験が終わればこの状況も終わるのだと、は我慢し続けている。中間以降、公延がマジメに受験生をし始め、はひとり深まりゆく秋に身を晒していた。

そんな11月のある日、公延はを誘って街へと出かけていった。目的は書店、お昼かお茶はそのおまけ。決して長居はしない。そもそも公延は午後から予備校が待っているし、もそれはわかっていたことだ。

めっきり気温が下がったので、はクリーニングから返ってきたばかりのお気に入りのコートを着込み、いそいそと公延のポケットに手を突っ込んで繋いだ。公延の方も受験に備えて新調したコートを着ている。制服かジャージ一辺倒だったことを考えれば、ずいぶんとおしゃれになったと言えよう。

そんな公延と外出出来ることが嬉しくてたまらないは満面の笑みで、今にもスキップしてしまいそうなほど浮かれている。公延はそんなを見てはちくりと痛む胸に気付かないふりをし、ただ時折繋いだ手に力がこもってしまうのを悟られないように気をつけていたのだった。

「あっ、忘れた!」
「えっ、何を」
「一冊、買おうと思ってたのを忘れちゃったよ」

繋いでいた手を引き、戻ろうとしたの手を公延はパッと放り出した。

「すぐ買ってくるから、待っててよ」
「え、いいよ一緒に行くよ」
「店内が空気悪いって言ってただろ、すぐ戻るから」

の返事を待たずに公延は振り返って駆け出した。暖房が効きすぎていて、ただでさえ乾燥している書店内は肌がひび割れそうなほどに乾いていた。それを敏感に察知したは確かに「ここ空気悪いね」と入店するなり言った。

だからって、置いていくことはないのに。強い力で心を一突きされてしまい、その勢いで心がポンと飛び出てどこかへ言ってしまったような感覚を覚えたは、泣き出してしまわないように街灯に寄りかかって俯いた。携帯を取り出して、わざと安っぽいポータルサイトにアクセスし、下らないヘッドラインを目で追った。

まるで自分の生活に関係のない芸能情報やら、真偽のほどが定かでない噂話のようなニュースの文字を無理矢理読み、思考を無関係な言葉で満たしてゆく。脈絡のない言葉たちで埋まり、いつか麻痺してしまえばそれでいい。そうでもしなければ、泣き出してしまったら止まらなくなりそうだったから。

は冷たい風の吹く11月の空の下で、そうして公延を待った。

目当ての参考書を手に入れた公延は、足早にの元へと向かっていた。探すのに時間がかかってしまうかと思っていたが、幸いなことに平積みになっていたのですぐに買うことが出来た。さらにいつもなら最低でも5人ほどは待たねばならないレジもなぜか人がおらず、すぐに会計出来た。

これなら大した時間はかかっていないはず。待たせて悪いことをしたという自覚は一応あるものの、この位の時間なら問題ないだろう。それがこのときの公延の偽らざる正直な考えであった。

確か次の角を曲がってすぐ、花屋の前の街灯のあたりで別れた。そんな記憶を頼りに、ドラッグストアの角を折れた公延は音がしそうなほどの勢いで足を止めた。視界にはがいる。さっき別れた場所で、確かには待っている。だが、その隣には見慣れた顔があった。

「三井……?」

なぜ足を止めたのか、なぜ三井がの隣にいることに対して違和感を感じたのか、この時点では公延には自覚はない。なぜ普段どおりに歩いていってふたりに声をかけないのか、なぜここで足踏みしているのか、それを疑問に感じつつも足が動かない。

よく見れば三井はスポーツショップの大きなビニールバッグを肩にかけている。彼も何か買いに来ていてたまたまを見つけたから声をかけただけなんだろう。それだけに決まっている。それ以外に何があるというのだ。

なのになぜ、オレはここで固まったままふたりを見ているんだろう。

そして、公延は無意識に体を引き、今曲がったばかりの角を後退して身を隠した。ひび割れたアナウンスと金切り声の有線がBGMのドラッグストアの店先は山積み陳列で、一般的には長身である公延も隠れてしまう。今にも崩れ落ちそうな柔軟材の陰からの方を見る。

眉根を寄せつつもにっこりしているという三井独特の笑顔の前で、もまたきれいに整った、柔らかい光が差すような笑顔で笑っている。何か面白い話題でもあったのだろうか、ふたりとも身振り手振りを加えながら楽しそうに話している。

公延はそんなふたりの光景を見て、思わず見蕩れた。

過去に荒れていたせいで人相が若干悪いというのと、湘北には卒業するまでその立場が揺るぎそうにない流川というスターがいるせいで影が薄くなりがちだが、三井は元々顔の造作が整っていてスタイルもいい。ちょっと怖そうには見えても、要はかっこいいのだ。の方は言わずもがなである。

そのふたりがにこにこと談笑している様は実に絵になっていて、有体に言えばまさに「お似合い」だった。

しかも公延は今になってが普段互いの自宅で見ているような普段着ではなく、かわいらしくお洒落に装っていることに気付いた。もちろんそれは自分と外出するためのものだ。今笑いあっている三井のためではない。それに、今気付いただなんて。背中を殴られたような錯覚を覚える。

を直視出来なくて視線をずらせば、そこには少し首を傾げて微笑んでいる三井。肩にかかっているのはスポーツショップのビニールバッグだが、オリーブのモッズコートに黒のインナー、長い足によく似合うジーンズ、赤みの強い合皮のショートブーツ。何も凝ったことはしていないのに、素材のせいでお洒落に見える。

いつまで経っても足を踏み出せない公延の前で、このところ花の色香が放出過多になっているは三井をそばに置いているにも関わらず、何やら剣呑な風体の男に絡まれだした。即座に三井が間に割って入る。を背中にかばい、極力穏便に事を済ませようとしているのが解る。

あれだけ目一杯グレていたのに、それはも知っているけれど、そのを背中にしているからなのか、三井は有利な試合展開をしているときのように、余裕を感じさせつつも隙を見せない笑顔であしらっている。これがほんの数ヶ月前だったら、がいようがいまいが手が出ていただろう。

三井の背中でが俯いている。もしかしたら何か心ないことでも言われたのだろうか。ぎくりと胸が跳ねる公延の前で、三井はの方を見ずに素早く手を取った。公延の胸は先ほどとは比べ物にならないほどに痛んだ。動悸が早い。息苦しいような気がする。視野が狭くなっていくような気もする。

視線が集中した先は、と三井の繋がれた手だった。

怖い思いをしているのか、の顔が青ざめている。その怯えるの手に絡まる三井の長い指に公延は眩暈を覚えた。毎日すぐ隣にあって毎日触れているの手が、三井の手の中にある。

その手を離せよ、三井。

公延は自分でも違和感を感じるほどの激しい感情に満たされてゆく。怒りだと思った。何より信頼している仲間が何より大事にしている女の手を取っていることへの怒りだと思った。しかしそんな解りやすいものではないことに公延は気付く。

なんとか外敵を排除出来たらしい様子の三井は、すぐに手を放した。しかも片手で拝むようにして手を取ってしまったことを謝っているようでもある。それなのに、公延は未だ自らの内に燃え上がる黒い炎に焼かれている。めらめらと音を立てて燃えている、それは嫉妬だ。

のことが好きだ。と想い合っていることが嬉しい。それがふたりの世界だったのに。

自分なりにを愛してきた公延だったが、振り返ってみると、こととの関係においては世界にたったふたりきりで存在しているくらいに考えていたのかもしれないと気付いた。確かには人気があって、清田や藤真が執心していたとも聞いていたけれど、それでもの相手は自分しかいないのだから、と。

その慢心は一体どこから来た? の周囲を騒がせるのが清田や藤真という距離を感じさせる連中だったから? どんなに突き放しても覆ることのないの愛情があったから? どちらも正解だろう。だが、三井は自分にとってあまりにも身近な存在だし、はその三井に向かって楽しそうに笑っている。

生まれて初めて公延は心の底から思った。

を奪われたくない。は、オレのものだ。

11月のひんやりとした風が背中を突く。背中を押された公延はつま先がずるりと進むのを感じながら、頭がくらくらするほどの衝動に耐えていた。今すぐを三井から引き離して、手を繋いでキスをして抱き締めたかった。そして襲い掛かる熱のままに、「男の約束」を破ってしまいたい。

の父親など知ったことか。を自分のものしたい。は自分のものなのだから。

だから三井、にもうそれ以上近付くな!

END