こぼれおちて

01

公延の嫉妬に沸き立つ頭は、足を1歩踏み出したところで完全に冷えた。いつも無意識に顔に貼り付けている笑顔を装い、11月の風に頬を冷やし、まっすぐの元へ向かった。

「あれっ、三井じゃないか!」

自分でも滑稽に感じるほど、いつもの調子で声が出た。その声が届いた瞬間、と三井は互いの間の距離を広げて弾かれたように顔を上げた。も三井も、なんでもない顔を装っているつもりなのだろうが、「しまった、見られた」という顔をしている。

見られてマズいことでもあるのかよ。三井はともかく、公延はに対して少しだけ苛立ちを覚えた。が揺らいでいるのは公延のせいなのに、本人は驚くほど自覚がない。けれど、今のようにから目を離していると誰かに奪われてしまうかもしれないということには、やっと気付いた。

ふたりのすぐそばまで来た公延は、には目もくれずに三井に手を挙げて見せた。

「なんだ、買い物か? そういえばバッシュ新しくしたいとか言ってたよな」
「そのつもりだったんだけどな、気に入ったのがなくて余計なもの買っちまった」

伊達にグレてたわけじゃないんだなあ、と公延は三井の目を見ながら思う。言葉では偶然の遭遇に相応しいことを言いながら、体はの方へ向けたまま、顔も動かさずに目だけで公延を見ている。もう少し眉根を険しくしたら、睨んでいるのと変わらない。

お前、を残してどこ行ってやがったんだ。

三井がそう言いたいのを腹に収めてグッと我慢しているのがよくわかる。確かにそのことに関しては公延は例え殴られたとしても仕方ないことをしたのだが、三井に殴る権利があるわけでもない。

そんな三井の目を見た公延は、直感で彼の気持ちを見抜いた。そして、ナンパの件から中間合宿のときのことがカチリカチリと音を立てて組み上げられていき、全てがきれいに纏まってひとつの形になる。お前、ナンパじゃなくて本気で好きになってたにあのとき再会したのか。そうと知っていたら、オレは――

「ていうか木暮よ、昼間とはいえ女ひとり置いていったら危ねえだろよ」

ものすごく無理をして三井は苦々しい笑顔を作っている。言わずにいられなかったのだろう。

「ああ、そうだよな」

笑顔を作ってるつもりだけれど、きっと自分の目も笑っていないんだろう。それでも公延は努めて明るく言った。そして、三井の炎のような視線の中で公延はの手を取った。が驚いているような気がするが、公延は三井から目を逸らさない。

「もうこんなことしないよ、絶対に。悪かったな、三井、じゃあ、またな」
…………ああ、そうしろよ。またな」

公延に苛立ちを感じていただけの三井も、公延の初めて見るような冷たい目に気付いている。しかしこれはあまりに遅すぎる自覚だ。三井は間をたっぷり取って返すと、に向かって「またな」と言った。

それを黙って見ていた公延も、有無を言わさず繋いだの手を引いてその場を離れた。

予備校に行かなければならないので、どうしても途中で別れることになるのだが、公延はの手を離せなかった。の方も、三井に遭遇して談笑していたら変なのに絡まれて助けてもらったらそれを公延に見られて、と立て続けに色々なことが起こったせいで落ち込んでいる。

ふたりはバス停の近くで手を繋いだまま、喋りもせずに向かい合っていた。

日曜の午後、まだまだ繁華街のうちであるバス停は人通りも多くて、ただ立っているだけでも少し邪魔な公延と、誰もふたりの深刻な表情に目を止めることなく通り過ぎていく。

「公ちゃ……
「ひとりにしてごめん。、もう少しだから」
「え?」

何がもう少しなんだろうと思ったが、は公延の顔を見上げて口をつぐんだ。目の前にいるのは生まれてからずっと一緒にいる公延で間違いないはずなのだが、まるで別人のように厳しい顔をしていた。

「いや、ごめん、忘れて」

戸惑いを隠せないから視線を逸らした公延の視界に、自宅方面へ向かうバスが滑り込んできた。

バスへ乗り込む人々、それを避けていく人々、その影で公延は繋いだ手を引き上げての指にキスした。そして、突然のことに目を見開いて言葉を失うの背中を押してバスに押し込んでしまった。公延はただ黙って泣き出しそうな顔をしているを見つめている。

公延の頭の中でずっと鳴り響いているの父親の声。そしてあの日の約束、誕生日のファーストキス、の声、インターハイ、三井の目、夏祭りの花火、小さい小さいの声、「公ちゃん」と呼ぶ、その声が体中を駆け巡っている。

もう少しなんだ、そのためにオレは、君と君を取り巻く全てのために――

走り去っていくバスを見送りながら、公延は強く強く手を握り締めていた。

それ以来、公延とは目に見えてぎくしゃくし始めた。両の母親から「あんたたち喧嘩でもしたの?」と聞かれるくらいだから、ふたりの関係は過去最悪の状態にあったといっていい。

また、公延が部活に顔を出す回数が激減した。たまに顔を出しても、三井とは互いにほとんど口をきかない。それまでが親しい間柄だっただけに、言葉を交わさないくらいでは何も怪しまれないのだが、さすがに赤木と彩子には感づかれた。

わけても赤木に対してはかなり恥ずかしさもあったのだが、公延は正直に話した。

「オレは、気をつけろと、何度も言ったんじゃ、なかったかオイ」

予想通りのお冠である。赤木は口をへの字に曲げて腕を組み公延を睨んだ。

「それは本当にオレが悪かったんだよ、わかってる」
「中学の頃に既に予想出来たことだ。お前が変なところで頑固な上に要領が悪いからこんなことに」
「ごもっともです……

放課後の教室、受験シーズン突入で人のいない窓辺に公延は項垂れた。赤木も肩を落とす。

「どうするんだと言ってもお前たちの気持ちだからな、こればっかりは……
「いや、渡さないよ、絶対に」
「木暮……
「もう決めたんだ。今は少しどうしたらいいかわからなくなってるけど、それだけは絶対にだ」

空を見上げてぽつぽつと、けれどきっぱりと言う木暮の横顔に赤木は頬を緩めた。

「まったく、それに辿り付くまで何年かかったと思ってるんだ、馬鹿野郎」
「ははは、本当に。馬鹿野郎だなオレは」
「ああそうとも、馬鹿野郎で鈍感でどうしようもねえな。に報いるのは楽じゃないぞ」

赤木の言葉に、公延は大きく頷いた。

「ああ、そうなんだよ。だから、赤木、オレな――

受験生がますます頭を悩ませるようになる11月、湘北高校バスケット部は冬の選抜予選決勝へ向けて最終調整の真っ只中である。公延も赤木もすっかり足が遠のき、それを気にしていられない部員たちは冷たい11月の空気の中で汗だくになっている。

「どこも同じことなんだけど、今回は何しろ藤真さんが怖いですね」

ぽつりと漏らした晴子の横で、彩子はのことを思い出していた。中間テストが終わった後に、ふたりでお茶をしてたっぷりお喋りをした。その後もたまに会っている。翔陽が湘北にとって脅威であることは間違いないのだが、から聞いた話の中にいる藤真と混ぜ合わせてみると、余計に怖さが増す。

公延はもういないけれど、きっと湘北のメンバーの向こうに影がよぎるだろう。すっぱり忘れられているならいいが、なぜだか妙に人を惑わすのあの愛らしい笑顔がちらつくだろう。それで分別を失うような愚かな人物ではないはずだが、闘志の燃料には成り得るはずだ。

さらに言えば先月から急に公延と三井がよそよそしくなったことに彩子は気付いていた。つまり、三井は公延にへの思いを知られてしまったのだろうし、それだけ関係がこじれるからには何かしらのトラブルもあっただろうことは予想がつく。

それにしても、と彩子は思う。急に刺々しい関係になってからの公延と三井がいやに艶っぽい。を挟んで様々な思惑が絡まりあうからなのだろうが、しかしそんな生々しさが彩子には気持ち悪くも感じられる。一時流川もそんな風であったけれど、すぐに戻った。それくらいにしておいて欲しいと彩子は思う。

急に「男」になって、そんなのに挟まれてるもいい迷惑だわよ。

そんな思いが滲み出てしまっていたのか、帰り支度をしている三井は彩子にビブスを手渡すとき、片頬を吊り上げて自虐的に笑って見せた。彩子は少しだけ怖さを感じたが、負けるつもりはない。

「なんですか?」
「そういやお前ら、中間のときから仲がいいんだったな」
「なんの話ですか」
「どう転んでもオレが望むような結末になんてならねえよ」
「だから――
「ああそうか、お前も拒否する側の人間だったな」

三井の顔に横切った表情に彩子は肘が震えた。ブッ潰すとか言いながら土足で襲い掛かってきたときの顔だったからだ。憤り、持て余し、行き場のない感情が逆戻りして憎悪に変わるあの表情だ。

……つらいのは先輩だけじゃありませんよ」
「こんなときの常套句だな」

苦笑いの向こうに黒く渦巻く衝動が見え隠れしている。彩子は少しだけ哀れみを覚えた。だが、こればっかりは全方向が丸く収まるなどという結末はありえない。現に藤真は脱落しているのだし、おそらくは流川も同様だろう。顛末はどうであれ、しがみついているから三井はつらいのだ。

そのまま背を向けて部室を出て行く三井の足音が遠ざかる。

拒否されるのも、するのも、どっちもつらいのよ。

彩子は山と抱えたビブスの端をギュッと握り締めて俯いた。

その後、湘北は冬の選抜県代表戦決勝トーナメントにて緒戦を突破したものの、結果的には海南に敗れて本戦への道を断たれてしまった。今年の神奈川は3年生の残留組が多く、国体にも集められた4校のスタメン選手でいえば引退したのは赤木と魚住だけという、夏と殆ど変わらない状況であった。

冬の選抜に出られないということは、とうとう三井が引退である。受験は間に合わないし、推薦をもらおうと思っていた冬の選抜にも出られないしで、海南に負けた当日は「留年する」と言って暴れていた。彩子が親切に「留年したところで公式戦には出られない」と言っても、聞こえていないようだった。

しかし、自暴自棄寸前の三井の下に、なんと現在関東2部リーグである某大学からスカウトが来た。海南に負けた翌日のことである。なんという巡り合せか、現在の監督は安西監督の後輩に当たり、目を白黒させていた三井に「君の力で1部リーグに」と上手いことを言った。これで乗らないわけがない。

もしかしたら本当に留年してしまうのではないかと冷や冷やしていた宮城はじめ1、2年の部員たちは、翌日鼻高々で部室にやって来た三井を見て胸を撫で下ろした。

海南戦から数日後、改めて赤木と公延を呼び、三井を含めた3年生3人は晴れて引退することとなった。

「はっはっは、お前らはまだ決まらねえんだよな、まあせいぜい頑張れ」
「オレが受験するのは1部だがな」
「はっはっは、そんなもの来年の今頃には逆転してるさ」

三井は赤木の腕をボスボスと殴りながら高笑いである。晴子の用意した花束が3人に贈呈され、改めて3年生3人の引退式となった。とは言っても受験組ふたりは暇ではないので、部室でお菓子とジュースの祝宴である。

3年生がやっと全員引退したので晴れ晴れとした宮城や、そもそも大した感慨のない桜木流川などはともかく、良識ある部員たちは涙目である。特に今後、公延から確実に「湘北のアメ」を引き継ぐ安田は公延に言葉を掛けられると声を喉に詰まらせた。

和やかな雰囲気の中祝宴は進み、お菓子があらかたなくなり始める頃、ふざけて転げまわっている桜木を眺めながら、三井は窓の桟に寄りかかってジュースの入った紙コップを傾けていた。そこへ公延が近寄ってくる。その様子を目の端にとめた彩子だったが、見てみぬ振りをした。もう自分には関係ないことだ。

「よかったな、推薦」
「まあな。せいぜい1部で待ってろ、絶対に引き摺り下ろしてやるからな」
「グレなかったら夏にでも1部から呼ばれただろうに」
「いいんだよ、オレはどれだけ叩き落されても這い上がる男だからな」

普段と変わらない穏やかな表情で、なんでもないことを話しているようだが、三井の言葉に公延は苛立ちを感じる。三井の方も、話すことなどないのに寄ってきて、何をしたいのかわからない公延に少し苛立っている。

しかし三井は推薦が決まったことで新たな目標が出来た。赤木と公延がまた一緒に目指しているという大学のバスケット部は今のところ関東1部リーグ3年目である。対して三井の進学先である大学は2部リーグ昇格2年目、その前は3部1次ステージが長い。自分の力で赤木と公延を引き摺り下ろしたいという目標が出来た。

「お前なら出来るよ。オレと違って、たくさんのものを持ってる」

刺々しくなる心を何度も撫で付けながら、公延は呟いた。それは本心なのだ。ずっとそう思っていたのに、を間に挟んでしまったために、曇りのない心で三井を見ることが出来なくなってしまっていた。自分は持たざる者だがお前は違うだろう、自分をよく見てみろ。

「そりゃどうかな、オレにあるのはバスケと、あとはまあ、顔くらいか。ははは、そんなもんだ」
「それだけありゃ充分だろ」
「お前が言うか? お前にもバスケがあるし顔も別に悪くない、頭も友達も経歴も女も持ってるじゃねえか」

紙コップをくいと傾けた公延は小さくため息をつく。お互いないものねだりでしかないということか。

「でも、ま、もういいんだよ、そんなことはよ」
……何が?」

飲み干して空になった紙コップをクシャリと潰した三井は、例の険しい顔をしたまま笑うという不思議な笑顔で天井を仰いだ。それでいて、いつになく迷いのないクリアな表情である。

「どこにも行くところがない、誰にも必要とされない、体も思うよう動かない、そういうオレはもういないんだ」

そして公延の背中をバチンと叩いた。

「湘北の3年間もも全部お前のものでいいさ、オレはそういうもの全部置いていくから」

三井は全開の笑顔である。こんな顔を公延が見たのは、山王戦の直後くらいしか記憶にない。

……すごいやつだな、お前は本当に」
「今頃気付いたのかよ。見てろよ、卒業式なんかボタン全部なくなるからな」
「ああそうだろうな、うちのクラスにもいるよ、お前のファン」
「ふぁ!? いや冗談で言ったんだぞ! マジかよ誰だ!」
「楽しみに取っておけよ。それに、みんな引退を虎視眈々と待ってるんだからな」

ぶわっと三井の耳が赤く染まった。公延は我慢出来ずに吹き出し、ふたりはしばらく振りに腹を抱えて大声で笑い合った。そう、本人の言う通りバスケと顔は本当に良いものを持っている、それが三井だ。

「その代わり、あいつを泣かしたらマジで殴りに行くからな。肝に銘じとけよ」
「ああ、そんなときはお前だけじゃなくて赤木と桜木と宮城と彩子にも殴られるだろうからな」
「甘いな、たぶん流川も来るぞ」
「は!?」

完全に初耳の公延は目をまん丸にしてジュースを零した。そんな公延を見て三井はまた大笑い。

それを遠巻きに見ていた彩子は、肩でため息をついて、そしてふわりと笑った。