翌朝、は母親に促されて公延を起こしに行った。木暮家の合鍵を預かっていたらしい。朝食を用意するから連れて来いと言う。あまり気の進まないだったが、自分でも惨めなくらい、未だに公延のことは好きだった。昨夜の言葉に傷つきはしたが、年季の入った恋心はそう簡単に揺るがないらしい。
「公ちゃん、起きてる?」
玄関口でそう呼ばわったが、返事はなし。起きていないようだ。
公延の部屋の前まで行き一応ノックしてからドアを開けると、部屋の主はベッドの上で丸くなってぴくりとも動かない。はずかずかと部屋に入り込み、掛け布団の上からボスボスと叩いた。
「公ちゃん、朝! 朝ごはんうちで食べよう」
「え? ……?」
ぐっすり寝ていたところを急襲された公延は、うまく開かない目でを見上げるとやおら両腕を伸ばしてを捕らえた。一瞬のことで反応出来なかったは引き寄せられるままに倒れこみ、ベッドに横になったままの公延に抱きすくめられた。
「ちょ、ちょっと公ちゃん、なに寝ぼけてるの」
「平気、あと少しだから、、ここにいて」
公延はあまり力の入らない両腕でどぎまぎしているを抱き締め、ゆっくりと髪に頬擦りをしている。
「、いい匂いする」
朝からこれはキツい。は全身の血液が瞬間沸騰したような感覚に襲われて眩暈がした。それと同時に、蔑ろにされてなおこの公延の腕の中にいることがたまらなく心地よくて、そんな自分が情けなくもあり、また絆されてしまいそうな予感に不安が募る。
バッカじゃないの、私。そんな思いが胸を締め付ける。
完全に寝ぼけているらしい公延は目もろくに開けられないままの唇を探り当てて、吸い付いてくる。はそれすら拒めない。心の底ではそれを歓迎していることをよくわかっているからだ。
柔らかく甘い蕩けるようなキスを享受しながら、は体を蝕み始めている疑念に気付かない振りをした。
私、なんで公ちゃんが好きなんだろう。公ちゃんじゃないと、本当にだめなの?
無意識とはいえ寝ぼけて朝からに襲い掛かったのが恥ずかしかった上に、またぼんやりしていると「男の約束」を簡単に破りそうな自分が怖くなった公延は、雑念を振り払うようにキビキビと働いた。桜木と流川を捕まえ、三井も引きずるようにして下校してきた。
「おー、あんたたちちゃんと来たのね、感心感心」
自主的にやってきている彩子とリョータはを手伝って夕食の準備と夜食の仕込みをしていた。
「お腹空いたんならがおにぎり作っておいてくれたからそれ食べてて」
「悪いな、彩子もテストなのに」
「そういうことはに言って下さい」
彩子にぷいとそっぽを向かれてしまった公延は、なぜ彩子がそんな態度なのか解らなくて少しだけ胸が痛んだ。
「公ちゃんおかえり。私、アヤちゃんとご飯の準備先にしちゃうから、終わるまでひとりで頑張って」
「あ、うん……わかった」
問題児たちにお茶を配りながら、彩子はと公延の会話を聞いていた。なぜそこでありがとうと言わないんだ、少し台所に引っ込んでを手伝いながら話でもしてくればいいのに。を彼女だと言わないくせに。は長年連れ添った嫁か。彩子は公延の態度が気に入らなかった。
「さんおにぎりうめーっす! マジうまいっす!」
超問題児の桜木はこんな風に言えるのに、人望も厚く真面目で優しいあなたが、なんで。
「それ食べたら始めるぞー。範囲確認して初日のも始めよう」
「さーん! 夕飯楽しみにしてます!」
は笑顔で桜木に手を振っている。その隣を通り過ぎざまに、彩子は言わずにいられなかった。
「あの桜木花道ですら言えることなのに!」
「アヤちゃん」
「亭主関白みたいで面白くない」
大量の食材の山を見ながら彩子は腕組みをしてため息をついた。キッチンまで引っ込んでしまえば、リビングでわいわいと教科書を広げている連中にはそう簡単に会話の内容は聞こえない。は思い切って今朝の出来事を彩子に話した。
「え、ちょっと意外……先輩も普通の男の子なのねえ」
「まあこの夏インターハイが終わってやっとという感じなんだけど」
「それにしても、付き合ってるって言いたがらないのはなんでなのかしらね」
それはこっちが知りたい。そう思ったが、は笑ってごまかした。
「でも、今朝のことも、そういうの嫌じゃなくて、むしろ嬉しくて、ずっとそうしていたかった。昔は私の方が構ってほしくてちょっかいを出して我侭を言って困らせてたんだけど、やっと気持ちが釣り合うようになったんだなって思って。だけど、それもちょっと情けない気がしちゃって」
素直に好きでいられないむず痒さが抑えきれなくなってきていた。それを聞いていた彩子は、つい口に出てしまいそうな言葉がこぼれ出てしまわないように気をつけていた。先輩だけが男じゃないよ、そんなことは軽々に言っていいことではないから。
「さーて、さっさとご飯作っちゃいますかね」
「動物園の飼育係だわ」
「だからアヤちゃんと私は特別にパスタでーす!」
は先に用意しておいたパスタソースの入ったソースパンを掲げて見せた。余裕を持ってひとりあたり3個用意したおにぎりが既にない連中は腹が満たされればそれでいいだろうが、どうも不当な手間を強いられている感のあるレディふたりは特別だ。予算も公延の小遣いから徴収予定である。
彩子はからからと声を上げて笑い、に抱きついてくるくると回った。
「さんやばいっすうめーっす」
桜木が夢中になって唐揚げを口に詰め込んでいる。座って2時間ほど勉強しただけでそんなに腹が減るものかとは思うが、と彩子が用意した大量の料理はどんどん消えていく。
「先輩、いいっすねー、料理上手な女の子って」
「いやそれが実はオレも食べるの初めてで」
何か気の効いたことのひとつでも言わせようと話を振った宮城だったが、公延は今になって初めて気付いたようで、箸で掴んだ唐揚げを凝視している。そもそも、手料理以前にこの5年というもの、一緒に過ごした時間の方が少ないのだ。が料理が出来るということをなぜ知っていたのかもわからない。
「あんたたち、この後勉強するんだから食べ過ぎないようにしてよ」
「アヤちゃん、流川が既に寝そう」
「流川ァ! あんた寝たらボール触らせないからね!」
楽しい食事風景のようだが、公延と桜木を除いた全員が「容姿端麗頭脳明晰な上にお料理上手」なのハイスペックぶりに驚いてもいた。そして自然と公延の素っ気ない態度に疑問を持つに至る。共に全国を目指した信頼の置ける先輩なのだが、まるで知らない人のようにも見えてくる。
ともあれ、明日もこの食事にありつけると思った問題児4人は少しやる気が出てきた。
三井を公延が、宮城を彩子が、1年生ふたりをがつきっきりで面倒見ているだけのことはあって、4人はとりあえず試験に間に合うだけの準備は出来るようになっていた。基礎的なところが圧倒的に不足している桜木にはが簡易あんちょこを作成し、試験前の休み時間に必ず見直させるようにもした。
さらに翌日は初日にあたるので、ほぼ徹夜での詰め込みである。
満腹になると眠気が出てくるのは流川だけではないので、は食事量も制限し、とにかく全員を勉強し続けられる状況へコントロールしてやらなければならなかった。そもそもは公延に彩子もテストなのだから、自分の勉強もしなければならない。そんな状況のせいか、この頃になると妙な連帯感が生まれつつあった。
彩子も公延に対してカリカリしている時間がもったいないし、も三井に対して警戒心が解けてきていた。桜木と流川が突っかかり合うのは元々のことだが、少なくともか彩子に叱責されればふたりとも素直に黙るので、問題児たちはマジメにおベンキョーすることが出来ていた。
「じゃあ私は帰るけど、はどうするの?」
22時。終電まではまだ時間があるが、彩子はタイムリミットだ。宮城は送って行きたそうな顔をしているが、家族が迎えに来るそうなので出る幕がない。それに、明日から期間中になるため彩子は合宿には参加しない。
「私はまだ残るよ。あのふたりまだ心配だし、この隙にも流川寝てるしね」
「ほんとにもう、誰のために頑張ってると思ってんのよ」
彩子は丸めた教科書で流川の頭を一発はたくと、それはもう名残惜しそうな宮城には目もくれずにスタスタと玄関まで歩いていく。家族が迎えに来るというのに、ぞろぞろと男が送り出すのは話がややこしくなるので、だけが送りに出る。
「まあ、自宅隣だしね。木暮先輩もいるし」
「なんだか今ずいぶん頼りにならないけどねえ」
「……甘えてるのよ。嫌われたりしないって、そんなことありえないと思ってる」
そんなことありえないよ。夏祭り、花火の下で公延は確かにそう言っていた。はそのことを思い出し、間違いではないが何かが違うのではないかと、また頭の隅がむず痒い。
「ねえ、テスト終わったらお茶しよーね!」
「うん、私中間もう少し後だから終わったらメールする」
そのときはいっぱい愚痴って男たちの文句言って笑ってすっきりしようね! 言葉にしなくても彩子の気持ちは充分に伝わる。は彩子を乗せた車が見えなくなるまで見送っていた。
そして、とてもよい気分で戻ってみると、全員眠りこけていた。深夜、といってもまだ22時である。補習をかけたテストの前日としてはまだまだ宵の口、これからが本番でもいいくらいの時間帯だというのに。この2日間前向きに頑張ってきただったが、これには湧き上がる怒りを抑え切れなかった。
「何やってんのよあんたたち!!!」
マガジンラックに残っていた新聞紙を掴んだはそれをくるくると固く巻き、渾身の力を込めてまずは桜木に殴りかかった。だいぶ伸びてはいるが、ほぼ坊主頭に固い新聞紙はよい音を立てる。
「こんな、時間から、寝てんじゃないわよ! 普段から勉強しないあんたたちが悪いんでしょうがァ!」
ついで流川、宮城、三井と順に殴っていき、最後に公延までたどり着くと2往復ほど余計に殴った。だが、何をそんなに疲弊しているのか、公延は起きなかった。宮城も彩子がいなくなったので気が緩んだのか、1度目を開いただけでまたすぐに沈んだ。一応目を覚ましたのは三井と流川。
「か、仮眠くらいいいだろうが」
「仮眠というのは、明け方まで勉強したときに、取るものです!」
三井が目を擦りつつ宥めるが、は怒りで手にした新聞紙が震えている。
「少し寝たら頭もすっきりするかもしれないだろ」
「……腹減った」
「あっオレも小腹減った」
悪びれもせず手を挙げる三井と流川に、はもう1度新聞紙をお見舞いした。