風に騒ぐ、月に迷う

05

無事に仮眠から起き出したたちはあまり元気がなかった。常に元気いっぱいの桜木でさえだるそうに大あくびをしている。初日の達成感と重ねてきた疲労がほどよく作用し、あまり気合が入らない。

しかしだらだらしていても時間の無駄。もう山を越えてしまったという三井はともかく、宮城と桜木流川はまだ気を抜けない。公延に彩子だって本来なら自分のことだけで精一杯なはずだが、ともかくやるしかない。

「かわいそうだけど今日はご飯少し遅くするからね」

すっかりに懐いた桜木がシュンと顔を曇らせる。もまた弟のように桜木を可愛く思っているので、ひもじい思いをさせるのは忍びないが、みんな限界に近い中でやっと起きている状態。食事などしようものなら睡魔に勝てないだろう。特に流川は再起不能になる。

「その代わりもう少ししたらおいしいの作るからね」

こんなとき桜木は本当に正直だ。が言うなり、まるで花が咲いたような笑顔を見せる。がこの中間対策合宿を投げ出さずに完遂出来そうなのは、桜木が素直で可愛かったせいもある。このまま何事もなく合宿が終われば、には桜木が可愛かったという記憶が1番鮮明に残ったことだろう。

だが合宿はまだ何時間も残っているし、の周りから公延の世界の住人たちは消えては行かなかった。

20時。キッチンで遅い食事の支度をしていたは突然「あー!」と大きな声を出した。

「どした、大丈夫か」
「あっ、公ちゃんごめんね大きな声出して。それが……

みんなで食材を持ち寄ったはいいが、さてそれで調理をしようかというときになって調味料が底をつきかけていることに気付いた。このままでは全て塩茹で塩炒め塩和えになってしまうくらいに残量がない。

「買ってこないと……1年ふたりどう、公ちゃん見られる?」
「ああ、それは大丈夫だけど、ひとりで行くわけにもいかないだろ」
「大丈夫だよ、まだ20時だもん」
「バカ言うな、ダメだ」

とは言ったものの、以外が買出しに出たところで何を買えばいいのかもわからない。普段からもっと遅い時間に帰宅していても、公延してみればひとり歩きをさせたくない程度に外は暗くなっていた。

「木暮、オレ行こうか」
「おお三井起きたのか、そうだな、頼めるか」
「いやのお供でだぞ。オレは調味料なんてわからねえからな。どうする」

その「どうする」にはとてもたくさんの意味が含まれていた。ある意味では公延の隣にいるにも問うた「どうする」であり、公延の返答如何によっては赤木の危惧した隙が出来てしまうかどうかの瀬戸際だったといっていい。それをわかっていたのは、三井だけだった。

さすがに一瞬躊躇した公延だったが、彼はを信頼していたし、三井はもっと信頼していた。それは彼にとって揺るぎのないもので、ふたりとも天地がひっくり返っても疑うことなど考えられない人物であった。それ自体は責められるようなことでは決してないはずだが、いつか風向きは変わるのだ。

「三井、頼む」

公延は自身の言葉での心に胸騒ぎという生ぬるい風を送り込んだ。

彩子の渋面を背に木暮家を出たと三井は夜道を並んで歩き出した。

「スーパーって近いのか」
「歩くとちょっと遠いんだよね。15分くらいかかるかな」
「チャリでくりゃよかったか」
「残念、公ちゃんのチャリは先月盗まれました」

静かな住宅街で三井は盛大に吹き出した。によれば両家の親も自転車に乗らないので、どちらにせよ1台しかないのだという。この際ふたり乗りでもとは思うが、と三井の距離感ではあまりいい考えとはいえない。警邏に捕まっても面倒だ。

しかし会話が続かない。

「そういえば、なんで更生したの」
「直球だな」
「だって共通の話題なんて他には公ちゃんくらいしかないじゃん」
……話すと長いからやめとく」
「往復30分かかっても終わらないくらい長いの?」

というほどでもない。ただでさえ頭脳に差がある女の子をうまく丸め込むのは相当な技術を要するものだ。

「オレの話なんて、聞きたいのか」
「っていうより、店に入り浸ってた頃との落差が激しいから、野次馬的な好奇心」
「正直すぎんだろ。少しはおだてろよ」

だが、変に色を出して催促されるよりは話してやろうかという気になる。無駄な時間無駄な焦燥、そして溢れ出した気持ちの全てが出来ることならなくしてしまいたい過去だ。だが、激動の夏を経て今は少しそんな自分の回り道を受け入れられるようにもなっていた。

今でも後悔は尽きないし、特に赤木に深体大の推薦の話があったと聞いたときはずきりと胸が痛んだ。それでも回り道がなかったら、自分は今のようなプレイヤーだったろうか。今のような関係を仲間たちと築けていたろうか。そう考えると頭から否定出来なかった。

……つまらねえぞ」
「知ってる」

ニタリと笑うを肘で小突いた三井だったが、それで気が楽になった。

「へえ、けっこう普通に可哀想だったんだね」
「そうでもねえよ。ヘタレだっただけだ」

自称スーパースター三井寿がグレるまでを語り終えたあたりでスーパーについた。必要なものをメモしておいたはさっさと買い物を済ませ、重いものは全て三井が請け負った。そのためのお供でもある。

「ていうか喧嘩で入院て」
「喧嘩で入院してた人間が半年も経たずにインターハイだからな、おかしな話だ」

そして話はバスケット部襲撃事件へと進む。1番話したくない内容だが、これで終われるとは思っていない。

「しゅ、襲撃?」

荒れた世界とは縁遠いは声がひっくり返った。グレていた頃の三井は確かに喧嘩など日常茶飯事だったかもしれない。バイト先で目撃してもいる。しかし今隣でそんな話をしている本人の話とは思えなかった。

「ずいぶんひどいことをやったんだが、結局全員桜木軍団に負けてな」
「え、そうなの。いい子たちに見えたけど、ヤンキーってそういうもんなのかな」
「まあ特に桜木と水戸がバケモノだったもんで」
「ヨーヘイくんなんて人格者に見えたくらいだったんだけど」
……実際そうだったんだよ」

彼がいなければ、どれだけ強いチームでもインターハイなどには指もかからなかった。

「そういやオレら、礼も言ってねえんだわ」
「嫌がるんじゃないの」
「だろうな。あいつらはあくまでも桜木を助けたかっただけだからな」
「いやーなんなの、いい話すぎる」

三井の情けない過去より、桜木たちの友情譚にはいたく感心している。そこから自身が何もかも投げ打って復帰したことについては、簡単に済ませた。それこそは桜木軍団の友情に感心しきりだし、飾って話したいような内容でもない。

「そうかあ、なるほどね。店に来なくなったのは入院した時期で、その後はもう更生してたんだ」
「オレはそこまでだけど、まだ誰か来てたりするのか」
「私も最近そんなにシフト入れてないんだけど、たぶん誰も」
「そうか、それならいい」

まさかと思った三井だったが、今のところのアルバイト先であるアイスクリームショップは毎日女の子や子供連れで溢れかえっている。一時は怖がってシフトを入れたがらなかったバイト仲間たちも戻ってきているし、管理責任を問われるのではないかと怯えていた店長もすっかり明るさを取り戻していた。

にしても三井にしても、こうして振り返ってみるとアイスクリームショップでちょっかいを出していた出されていたなど、夢でも見ていたのではないかという気さえしてくる。

「本当に本気になりたいバスケが出来ないもんだから、トチ狂ってたんだね」

は口元に手を当ててイヒヒ、と笑った。

だが、その言葉に三井は少し足を止め、またすぐ歩き出してに並んだ。トチ狂ってた? 確かにそうかもしれない。2年間も無駄な時間を過ごしたのだから。しかし、どうもトチ狂ってただけではないような気がする。隣を歩くを見下ろしていると、それはやがて確信に変わる。

「オレ、あれが冗談だったなんて言ってないぞ」
「えっ、何が?」

ニヤニヤしていたはひょいと顔を上げた。見上げた三井は真剣な目で見返している。

「他の奴らは知らねえけど、オレは本当にお前に会いたくて通ってた」

突然のことには硬直している。そのの髪を吹き抜ける風がさらってゆく。ゴウという音と共に吹く風に雲が流され、ふたりの頭上で月が姿を現す。突き刺すように落ちてくる月灯りの下で、三井は息を呑んだ。

「冗談やトチ狂ってたわけじゃない、あの頃からオレはお前が好きだったんだよ。……今でもな」

風に身を煽られながら、はガクガクと震える足でくしゃりと潰れてしまいそうな心を必死で支えていた。迷惑極まりないヤンキーがすっかり更生して現れ、ずっと好きだったなどと言う。公延が大切に思っているチームメイトは、のことが好きだと言う。誰もいない夜道でふたりきり、月明かりの下でそんなことを言う。

「お前が木暮の幼馴染だなんて、知らなかったからな。悪いとは思わないぜ」

喜怒哀楽の感情が何も湧いて来ないの手を、三井はそっと取った。

「ただいまー」
「あっ、大丈夫だった?」
「おい彩子お前それはどういう意味だ」

元々そつなく振舞うのは得意なである。三井のことは木暮家の門を通り過ぎた時点で心の奥深くにしまいこんだ。取られた手を反射的に振り払うことが出来なくて、そんな自分に深く傷ついたはわけがわからなくなって、三井の手を力の限りに締め上げた。しかし三井は黙ってそれを受け入れていた。

さらに三井は言った。木暮の幼馴染とわかったからといってすぐに無関心にもなれない、と。

前夜、が流川に諭したこととまったく同じ理屈だ。

だから聞いた。「どうする」と。公延は「頼む」と言ってしまった。それで心が決まったという。公延の手の中から零れ落ちてくるかもしれないを諦めたくない。の心が自分などにないのは百も承知。だが、だからどうしたというのだ。想うことを止められない、それはも身をもって知っている。

自分も身に覚えがあるだけに、なんと反論したらいいかわからない。

「いやーもうこんな時間、早く食べてさっさと続きやらないとねー」
「おいこれここ置いておくけどいいのか」
「あっ、いいよありがとー。ごめんアヤちゃん手伝ってー」

外でのやり取りを感づかれる要素は微塵もなかった。だいたい、動揺しているのはだけで、三井は告白したところでどうということもないのだから、変わらないのは当たり前である。は公延が好きなのだし、公延もあやふやながらもが好きなのだし、そこに三井の割り込む隙間はない。

しかし、何にも揺るがぬ関係であったはずのと公延の間に風が吹いてしまった。公延がひょいを身を避けてしまったので、その風はへ向かって一直線に吹き付けた。強い風だと感じることが出来たなら、公延は身を挺してを守るべきだった。

強い風に吹かれては揺れた。渦巻く風に飛ばされて高く舞い上がる。高く高く上昇して、月に手が届きそうだ。遠くで見ている分には美しい月も、間近に迫ると飲み込まれそうな恐怖しか感じなかった。風に攫われて恐怖に戦くを、公延は遥か遠い地上からぼんやりと見上げていた。

公延がそれがいかに重大な失敗であるかに気付くのには、もう少し時間がかかる。