時織り

05

3年生 8月12日

そもそもや木暮、赤木は大学進学志望である。そのため、高校3年生次は当たり前のように同じクラスになった。これでと木暮は3年間同じクラスだ。

だが、木暮が言っていたように、周辺地域では割と知られたプレイヤーであるらしい1年生の入部が決まったバスケット部はにわかに色めき立ち、また今年は妙な新人が入ったり、休部していた部員が復帰したりと、とにかく新学期からずっと慌ただしかった。

途中トラブルなんかも起こしつつ、それでもバスケット部は新たな戦力を得て急に強くなった。去年まで――インターハイ県予選に参加をするようになって以来毎年一回戦負けだった湘北のバスケット部は連勝を重ね、校内外で急に注目を浴びる存在になってしまった。

副部長、副主将としてその渦中にいる木暮をは遠巻きに見ていた。

クラスの中ではもちろん普通に接していたけれど、とにかくバスケット部は忙しく、試合となれば公欠で出かけて行ってしまうし、朝昼晩、時間さえあれば延々練習をしていた。

いくらヤンキーだらけの湘北といえど、一応たちのクラスは進学クラスである。受験志望自体がとても少ないので文系も理系もひとまとめにされているが、だからこそ3年生になっても部活に熱中している木暮と赤木は少々異質な存在だった。しかも定期考査では成績を落としたりしないのでまた目立つ。

1年生の時も2年生の時も、ふたりは「分不相応な夢を本気で追いかけている」と思われていた。何しろ「全国制覇」、続々と部員が減っていく部でそんなことを言い続けていたのだから、一部ではバカにされていたし、もちろん不可能なこととほとんどの生徒がそう思っていた。

だがどうだろう、今年の予選ではずっと負け続けていた1回戦を快勝、次も勝ち、その次も勝ち、身の程知らずな弱小だったはずのバスケット部はどんどん勝ち進む。そして神奈川県予選で2位につけ、インターハイにも行き、そこで前年の優勝校を下して帰ってきた。

優勝は出来なかった。それでも優勝して当然なチームを破って帰ってきたので、夏休み中にも関わらず、ウチのバスケ部とんでもないことになってるらしい、と噂が飛び交っていた。

そんな騒ぎになっているとは知らずに、激戦から突然放り出されて気が抜けてしまったのは木暮だ。インターハイは終わった。つまり引退。冬にも大会があるというが、それでは受験に間に合わない。主将副主将は夏休みの間に揃って引退、受験に備えることになった。が、どうにもスイッチが入らない。

高く入道雲が膨れては蠢く真っ青な空の下、木暮は予備校のパンフレットを貰いに街へ出て、その帰り道をぼんやり歩いていた。通いやすくて安い所がいい。そう思って何ヶ所か回り、パンフレットをもらってきたところだが、自分が受験生だという実感なんかこれっぽっちも湧かない。

朝目が覚めればつい部活に行く支度をしてしまいそうになるし、1日中じっとしていると余計に疲れるような気がする。引退ということで部活に行かなくなって数日は夜になると走りに出かけていた。そうでもしないと眠気すら来なかったし、頭もぼんやりして勉強などとても出来そうになかった。

しかしそうやって無為に過ごしていてもスイッチなど入りそうにない。どうしたら切り替えられるだろうかと、またぼんやりしつつ歩いていた。その時、後ろから背中をポンと叩かれて木暮は足を止めた。振り返ると、が立っていた。真夏の日差しが強いので、白っぽいが眩しくて木暮は目を細める。

「あれ、?」
「やっぱり木暮だ。えーと、インターハイ、お疲れさま」
「あ……うん、負けちゃったけど」
「でも去年優勝した高校に勝ったんでしょ? 私8月入ってすぐ田舎行ってたんだけど、携帯鳴りっぱなしだった」

結局は木暮たちの試合を一度も見ることなく終わってしまった。土日などに試合をやっているという話はなんとなく聞いたことがあっても、時間も場所もわからない、見に行きたいんだと言い出すことも出来なかった。

「まあそうなんだけど」
「珍しいね、木暮がそんなにぼんやりしてるの」
「突然引退したからどうにも気が抜けちゃって」
……でも予備校のパンフ。真面目だな〜!」

はけたけたと笑って、ちょこんと首を傾げている。

「少し遊んだらいいのに。わーっと騒いだらぼんやりも抜けるかもよ」
「あ、そういやそうだったな……
「赤木とかと遊ばないの? 確か三井もバスケ部戻ったんでしょ」
「赤木は引退したけど三井はまだ残ってるし、あいつらと遊びに行ってもなあ」

あからさまに楽しくなそうな顔をしたので、はまた笑った。仲間は戦友でも部活を離れてまで楽しく遊べる相手ではないのか。というか確かに赤木が羽目を外して遊ぶというイメージはない。

遊びか――だけどなにをどう遊べばこのぼんやりが抜けると言うんだろう。もはやそれを考える気力すらなかった木暮も首を傾げていると、はつと目をそらして声を落とした。

「じゃ、じゃあさ、こ、今度の夏祭り、い、行かない?」

の声が少し震えていた。その一瞬だけ、木暮は暑さを忘れ、街の喧騒も耳から遠ざかり、首筋に少しだけ風を感じた。夏祭り、と夏祭り、いつか「誘ってくれないかな」と思ったことが脳裏にありありと蘇る。あれはいつのことだったろう。遠い昔のような気もするし、つい先週のことくらいにも感じる。

やっぱり頭はぼんやりしていた。けれど、木暮はすぐに頷いた。行きたい。と夏祭りに行きたい。

……うん、行く」
「あ、そうだよね……え!?」
「いつだっけ。もうすぐだったよな」
「今度の土曜だけど……いいの?」
……遊び方、教えてくれる?」

は見る間に真っ赤な顔になり、小さく頷いた。

「祭って何時頃から始まるんだ?」
「ええと、去年は私暗くなってから行ったんだけど、遅くまでやってるから」
「じゃあ19時頃?」
「そ、そうだね、たぶん20時半頃に花火があるから」
……じゃ、19時に迎えに行くよ」
「えっ!? そ、そんな、大丈夫、駅でいいよ、ホームで19時にしよ」
「わかった。じゃあ、土曜日、19時、ホームでね」

は頑張って笑顔を保ちながらうんうんと頷く。それを木暮はまだぼんやりとした頭で見ていた。これからまだ用があるというと別れ、電車に乗り自転車に乗り自宅へ帰ってもまだぼんやりしていた。机の上にパンフレットを投げ出し、部屋を冷やしてベッドに倒れ込み、メガネを外して大きく息を吐く。

そうか、オレはずっと、と一緒に夏祭りに行きたかったんだ。

今まで押し込めていた気持ちが細いため息とともに鮮明に浮かび上がる。バスケットへの情熱とは全く別の場所にひっそりと置かれたままだった感情が、やっと居場所を見つけて顔を出した。それは少し照れくさかったけれど、同時に気持ちよくもあって胸を疼かせる。

緩む体とは裏腹に、木暮のぼんやりは波が引くように消え去っていった。

3年生 8月14日

真夏の日は長くて、とっくに夏至が過ぎていて日没が早まっているなどとても信じられなかった。待ち合わせの19時はまだぼんやりと空が明るくて、けれど西の空は藍に染まりつつある。進行方向の都合で、と木暮はの最寄り駅のホームで待ち合わせた。

ふたりとも真面目なたちなので、18時50分にはきちんと待ち合わせ場所に揃った。だが、その場に現れたを見た木暮はせっかく消えたぼんやりにまた襲われて束の間呼吸すら忘れた。は可愛らしい柄の浴衣で少し恥ずかしそうにはにかんでいた。

「せっかく夏祭りだから……浴衣にしちゃった」
……びっくりした。えーと、その、似合うね」
「えへへ、ありがとう」

ふたりとも照れくさくて顔を見られない。何を言えばいいのかもよくわからない。その上今日はまた木暮の左手首に叶う輪、も帯飾りに媛守を引っ掛けていて、それに気付いたふたりは余計に照れる。

そこへちょうど電車が滑りこんできたので、そそくさと乗り込む。それほど混雑していないので、ふたりは距離を保ったまま吊革に掴まり、一番無難な話題なのでインターハイのことをずっと話していた。

電車を降り駅を出て、夏祭りの会場へ向かう間もそのままインターハイの話をしていた。会場に到着するまでの間がもてばよかったはずだが、何しろインターハイ、話のネタが多すぎて終わらない。というかはだんだん話に夢中になり、ドラマティックな試合を思い描いて途中何度か涙目になる始末。

……あれ? でもその山王高校は去年優勝したんでしょ」
「そう。その前もずーっとだけど」
……じゃ何で愛和高校? に負けたの?」
「う、そ、そこは突っ込まないで下さい……

前年1位のチームに勝って前年4位のチームに負けてきたわけだ。ド素人であるにはよくわからない。木暮も苦笑いだ。ともあれ、そんな話でだいぶ緊張は取れた。木暮もの浴衣姿に慣れてきて、何を食べようかだの、花火は何時頃にどの辺で見ようかだの、わいわいとはしゃぎだした。

「確か中学の時も来なかったんでしょ。じゃあ5年振り!?」
「そうなるな。そう思うと何を食べればいいか決められない……
「あはは、お祭グルメって迷うよね〜!」

しかもこの夏祭り、長々と続く屋台が名物。例えば同じお好み焼きでもどこがいいのか迷って結局食べられない、ということもよくある。木暮は真剣に迷っていて、その横顔を見上げているはつい頬が緩んだ。2日前街でばったり遭遇した時は、生気の抜けた抜け殻のような顔をしていた。元気が出たならそれでいい。

は? 何も食べないの?」
「それが……昼間客が来ててお昼を辞退できなくて。お祭だからやだって言ったのにさ」
「あー、夏休みってあるよな〜」
「その代わり遅くなってもいいよって言ってもらったけどさ、あんまりお腹減ってないんだよね〜」

はガッカリ、という顔をしているが、木暮は一瞬背中にぞくりと震えが走る。遅くなってもいい、って今日は別に集団で夏祭りじゃないだろ、オレとふたりじゃん、遅くなってもいいって、どういうことだよ。

だが、それはあくまでも彼女の親がそう言ったのであって、本人にはそのつもりはないかもしれない。20時半頃から花火を見て、21時頃に終わって、送って帰って終わり。それまでこうやって他愛もないことを喋りながら屋台でもひやかしてればそれでいいじゃないか。木暮は左手の叶う輪を撫でて心を鎮める。

その時だった。正面の方から聞き覚えのある声を耳にして木暮は足を止めた。

「あれっ、ねえねえ、あれってその桜木くんじゃないの。あの赤いの」
「しまった……!」
「え?」

木暮は首筋を伝う汗がひんやりと冷たく感じた。桜木だけじゃない、彼の仲間たちも全員一緒、これはマズい!

なんとかして逃げなければと焦った木暮は、きょとんとしているの手を掴むと、屋台を楽しむ人の波の中から横に逸れて、走り出した。祭り囃子を背に木暮は走る。浴衣ということは下駄履きのをちらちらと振り返って気遣いつつも、止まらずに走った。

暮れゆく8月の空の下、木暮はの手を引いて走り続け、そして祭の明かりも届かない場所まで来てようやく足を止めた。祭会場である河川敷からだいぶ離れた住宅街の外れ、空き地や畑がちらほらあって、ひと気もない。は肩で息をしている。

「ごめん、急に」
「い、いいけど、どうしたの」
「ほんとにごめん、たぶん見つかったらすごくからかわれると思って、それで……

やっと落ち着いてきたは小刻みに頷いている。咄嗟に焦ってしまったことを咎めないので、木暮は途端に申し訳なくなって俯き、そのせいでしっかりと繋がれた手が目に入った。叶う輪の嵌る木暮の左手はの右手をぎゅっと握りしめていて、もちゃんと握り返している。

それを反射的にマズいと思ってしまった木暮は、慌てて手を離した。

「あっ、ごめん、つい!」

木暮は笑って誤魔化そうとした。逃げた。だが、その手をが取り返す。

「待って、もう離さないで!」

夜の闇が色濃く降りてくる道端にの細い声が吸い込まれていく。もう何度も離してしまった、何度も何度もきっかけはあったのに、この手は繋がれたままになることはなく、いつも一瞬で離れていってしまった。

が、の方も咄嗟に言ってしまった言葉だった。何も考えてなかった。

「あ、いやその、ここどこだかわかんないし、暗いし、迷子になったら困るか――

慌てて言い訳をしたは、勢いよく引き寄せられて強く抱き締められた。数秒の間、ふたりは身じろぎもしなかった。けれど、やがての腕が木暮の背中に伸びて、彼のTシャツをぎゅっと掴んだ。ふたりの間にはもう隙間もなくて、ぴったりと貼り付いてしまったかのようだ。

そして改めて思う。ずっと、こうしたかったんだ、と。

半ば無理矢理クラス委員にされてしまって以来、付かず離れず微妙な距離感のままだった。偶然のいたずらでその距離がぐっと近くなったこともあったのに、何度もふいにしてきた。邪魔が入ってもそれに抗ってまで手を取り合おうとはしなかった。けれどは「もう離さないで」と言った。それが全てだった。

「もう何度も放り出してきたから、オレも離したくない」

言いながら身を引いた木暮は、叶う輪の嵌る左手での帯に下がる媛守にそっと触れた。ふたつの印だけがふたりを繋ぐ唯一の絆で、頼りなくか細い糸だったけれど、木暮には劇的な勝利を、には浴衣で夏祭りをもたらしてくれた。木暮の右手はの左手を取り、左手はゆっくりと頬へと伸びていく。

、す、好きです」
「わ、私も、好き、です」

どうしてこれだけのことを伝えるのにこんな時間がかかってしまったんだろう。言葉にしてみたら簡単なことだったのに。それはもうずっと前から心の中にあったものだと、わかっていたはずなのに。

帰り道で、ゲレンデで、雨のバス停で、白峯神社で、下鴨神社で、学校で、二年参りからの帰り道で。

だけどそれは後悔ではなかった。ただもうそんな風に手を離してしまうのは嫌だったから、もう邪魔をするものは何もなかったから。高校生初めての夏を前に「一緒に夏祭りに行きたい」と思ったあの時の気持ちは今でも共にあったから。

ふたりとも狼狽えていたし、照れていたし、真っ赤になっていたけれど、そんなものは暗くて見えない。繋がれた手が熱い。木暮の左手がの頬に届いてそっと包み込み、そして静かに唇が重ね合わされた。何度もその機会がありながら重なることのなかった唇が2度3度と吸い寄せられては離れていく。

ぎこちなく積み重ねられてきた時を確かめるように、ふたりはまた強く抱き合った。

手はしっかりと繋いで、今度こそ離さないように、離れないように。

END