時織り

02

2年生 4月6日

2年生になったと木暮はまた同じクラスになった。

「もう少し均等に分配してくれてもいいのにね……
「絶対数から言えば均等なのかもしれないな……

クラス分けの貼り出しを並んで見上げていたと木暮は遠い目をしている。同じクラスからまた同じクラスに進級した6人のうち、と木暮を除く4人が全員ヤンキーだった。ヤンキーが何をきっちり進級してるんだというところだが、退学率を下げたい湘北はヤンキーをコントロールして進級させる方向に向かっているらしい。

「だけどもうクラス委員はやらなくていいんだし、部活に専念できるね」
「今年は予選突破して、決勝リーグに進みたいんだよな〜」
「なんかよくわかんないけど頑張れ」
「見においでよ」
「私バスケのルールなんかわかんないって」
「籠に多く入れた方が勝ちだよ」
「それはわかる」

ふたりは春の暖かい風に吹かれながらへらへらと笑った。

木暮と赤木が実情に見合わない高い目標を掲げ続けていることは1年生1年間で割と知られるようになった。夢に向かって努力するふたりを称賛する人、身の程知らずと小馬鹿にする人、それに振り回されつつある周囲を憐れむ人、様々である。

赤木はそれでも自分の信念を曲げないし、外野の騒音の方が間違っていると頑なになっている。対する木暮は同じ夢を抱きつつも、騒音をシャットアウトしきれずにいた。自分の夢とは全く別の場所で、現実を直視している。

「だいぶ部員減っちゃったからなあ。まずは今年の1年生をちゃんと捕まえないと」
「いいのがいるといいねえ。木暮と赤木より上手いのとか」
「それは困る」

ふたりとも同じクラスに親しい生徒がいないので、そのままへらへらと笑いながら一緒に教室に向かった。そして新たな教室のドアの手前でなんとなく立ち止まり、ぎこちなくはあったけれど微笑み合う。

「ま、今年も1年、よろしくな」
「こちらこそよろしくね」

2年生 6月30日

期末を控えた6月最終日、朝から梅雨の中休みで爽やかな晴天が続いていた。だが、昼ごろには雲が増え始め、どこかひやりとしていて、しかし生温かくて湿気た風が地を這うように吹き始めた。

梅雨で雨続きなのはわかっているが、雨で足元が濡れてしまうのに慣れることはない。は降り出す前にさっさと帰ってしまおうと急いで昇降口を出た。電車やバス通学と違っては自転車なので、雨のことを考えるとこの時期は徒歩しか手段がないことも多くて面倒くさい。

近いからという理由で選んだ進路だったが、悪天候のことは全く考えなかった。せめて一番近いバス停から通えるようなところにすればよかったと思うが、今更どうしようもない。親も「そしたら交通費ゼロだし、いいね!」としか言わなかった。今更どうしようもない。

そういうわけで自転車の時より時間がかかるのでは急いでいる。折り畳み傘は持ち歩いているけれど、とにかく靴が濡れるのが嫌だ。テストも控えていることだし、一刻も早く帰るに限る。そうしてスタスタと歩き出したその時だった。サッと冷たい風が吹いたかと思ったら、パラパラと雨が降ってきた。

降ってきてしまってはもうどうしようもない。盛大にため息をついたは折り畳み傘を出してノロノロと開き、まだそれほどひどい雨ではないからいいや、とノロノロと歩き出す。ノロノロ歩いているうちに、どんどん雨足が強くなってきた。濡らしたくない靴がどんどん濡れていく。

イライラしたは学校から一番近いコンビニに駆け込み、ホッと一息ついた。ちょっと恥ずかしいけどビニール袋で足元を覆って帰ろうかと思ってしまったからだ。すると、雑誌のコーナーによく知った顔があったので近付いて声をかけた。

「木暮ー何してんのーこんなとこでー」
「えっ? ああ、急に雨降ってきちゃったから。こそどうした」
「雨が多いから最近歩きなんだよね」

スポーツ雑誌を立ち読みしていた木暮はの声に気付くと眠そうな顔で振り返った。バスケット部の赤木木暮コンビが部活ばかりやっている割には成績を落としたことがないのは同学年の間では割と有名だ。普段から授業もちゃんと聞いているのだろうが、テスト前で部活が出来なくなるときっちり準備をしているに違いない。

「雨、止むまで待つの? 傘買っちゃえばいいのに」
「バイトできないから小遣い生活だし、実はビニ傘これ以上増やすなって言われてて……

毎日放課後を全て練習に費やしていれば、そりゃあバイトは無理だ。その上、手軽さが故にビニ傘が増える一方というのもよくわかる。はくすくすと笑いつつ、何も考えずに口を開いた。

「駅まででしょ、入れてってあげるよ」

はあ? は確かに自分の脳内で自分のツッコミの声を聞いた。何言ってんの私。バカじゃないの何それ入れてってあげるって何、意味分かんないし何でそんなこと言うの? どうしよう、とんでもないこと口走った。まだ2年生長いのにやってもうた。

だが、きょとんとした顔の木暮は「いいの?」と返してきた。何その真顔。

っていつも駅と反対方向じゃなかった?」
「チャリの時はそうなんだけど、雨だし、駅の方からバス使おうかと……

湘北の最寄り駅はそれほど大きい駅ではないけれど、少し離れた場所に広いバスの発着所があり、あっちこっちにバスが出ている。自転車の時よりはかなり時間がかかるが、雨の中を歩く時間が少ないのでこの時期はちょくちょくこのルートで帰っている。

木暮の表情があまり変わらないので、の緊張も飛んでしまい、ふたりは真顔で見つめ合っていた。

「えーと、それじゃお願いしてもいいかな、駅まで」
「うん、いいよ。テストだし、時間がもったいないよね」

駅まで入れて帰ってもらったところで、木暮はそこから電車に乗り最寄り駅で下車し、家に帰り着くまでにはまた雨空の下を歩かなければならない――ということはふたりとも考えないようにしていた。

そして木暮はお小遣い生活で苦しいのだと言いたげだったにも関わらず、お礼だと言ってにお菓子を買ってくれた。フルーツのグミだ。それが嬉しいのとなんだかこそばゆいのとで、はコンビニを出て傘を差すなりそれを木暮に預けてグミを開封した。

「一緒に食べよ」
「えー、に買ってあげたのに」
「いいじゃん、グミ苦手?」
「ううん、平気。じゃ頂きます」

イチゴ味のグミをもぐもぐやりながら、ふたりはひとつの傘に入って歩き出した。

しっかり降ってきてしまった雨だけれど、風はないし、傘で充分防げる程度の量だ。だが、の折りたたみ傘は女性用でコンパクト仕様で、とても小さい。ふたりとも体が触れ合わないようにしているせいで、はみ出た肩がどんどん濡れていく。いや、半身が順調に濡れていく。

……、肩びしょびしょじゃないか」
「しょうがないよ傘小さいんだもん。木暮もびっしょりじゃん」
「オレはまだ入れてもらってる身だからいいんだって」
「そんなん関係ないのにー」

付き合ってるわけでもないのだから、くっついたらイカンという遠慮と、小さい傘なので寄り添わなければ相手がずぶ濡れになる一方という状況の間でふたりは揺れた。どちらも同じ遠慮と気遣いで迷い、しかし何より期末前ということを重視したのも同じだったので、とりあえず「風邪を引いたらマズい」という結論に落ち着いた。

……期末前なんだし、風邪引いたら大変だよ」
……オレは気にしないから、、ちゃんと入りな」
「私も大丈夫。そーいうの、気にしないから。木暮もちゃんと頭入れなよ」

テスト大事、それに勝る理由などない。

「言ったなー。後でキモいとか臭いとか言うなよ〜」
「言わない言わない! って木暮メガネ曇ってんじゃん!」

小さな傘の中で寄り添うふたりの腕がくっつく。その瞬間木暮とはふざけたことを言い出し、殊更にへらへらと笑い、足元がどんどん濡れていくのにも構わずにスタスタと歩いて行く。

「てかまた今年も合宿と練習で夏休み潰れるの?」
「まあそうだな。今年はちょっと合宿怪しかったりもするんだけど」
「合宿怪しいってどういうことよ」
「タダじゃないからさ、そんな大金かけてまでっていう部員がちらほらとね」

合宿などやらずとも、別に毎日学校に来て練習すれば同じことではないのか――とはも思う。

……それじゃ、また夏祭り行かれないねえ」
……3年生が引退して、赤木が部長になってからは練習時間が増えたんだ」

ちょうど1年前のことを思い出したはわざと軽い口調で言ってみた。だが、木暮の声は少し重くて、ちらりと見上げると、にこやかな表情もしていなかった。はつい目をそらして俯いた。普通なら楽しくてわくわくするような高2の夏休みの話をしてるのにな……

「そういう練習漬けが合わないっていう部員も多くて、バスケが楽しくなくなるって言って辞めたやつもいて……3年生が引退した時に同時に辞めちゃったやつもいたんだ。先輩がいなくなったら赤木方式になる、それは無理だって。今はまだ1年生がいるからいいけど、2年生は減る一方で」

赤木は脇目もふらずに1点だけを目指して日々練習に励んでいる。その少し後ろをついていきながら、木暮は部員が減っていくことをいつも気にかけていた。自分は赤木と同じで構わない。だけど、部員たちはそうじゃないかもしれない。団体競技なのに、もしこのまま減り続けたら――

「そのせいなのか、赤木は練習時間増やして1年生をビシバシ鍛えてる。だから時間、なくてさ」
「木暮はもう少し休み欲しいとかって思うの?」
……いや、そうは思ってない」
「練習で夏休みが潰れちゃっても、後悔しない?」

詰問口調ではなかった。それでも平気? という声色だった。答えを知りたいというより、木暮のことを気遣って言っているのがわかる。なので木暮はスッと息を吸い込むと、はっきりした声できっぱりと言う。

「後悔はしないよ。自分で選んだことだからね。バスケが好きなんだ」

木暮の「宣言」の前にあっては、もう夏休みの話など出来る状態ではなかった。は潔く話題を切り替え、駅に到着するまではまたへらへら笑いながらやり過ごした。木暮も頑なな赤木の相棒を既に5年目である。フォローは得意だし、無難な会話を続けるのは難しくなかった。

まだ午後ナカだというのに、空を覆う分厚い雲は陽の光を遮って辺りを薄暗くさせている。湘北最寄り駅はまるで夕方の帰宅ラッシュで混雑し始める頃合いのようにどんよりとしていた。なのに時間が早いので人も少なくて、見慣れない光景にと木暮は少し現実感を失いかけていた。

「バスって何番?」
「32番。車庫行きだから本数少ないんだよね」
「一番近いのでどのくらい?」
「えーと、おっ、あと10分くらいかな。ラッキー」

バスの発着所は駅舎から少し離れたところにあって、16系統のバス乗り場が車道に沿って並んでいる。かつては屋根すらなかった乗り場は5つにまとめられてそれぞれ囲いと屋根がある。誰もいない32番系統の屋根の下に駆け込んだふたりは歓声を上げて傘から飛び出し、体についてしまった水滴をバタバタと払い落とした。

「けっこう濡れちゃったな。風邪引くなよ」
「木暮こそ。そっちの肩色変わっちゃってるじゃん」
「こりゃ帰ったら即風呂だな」
「だねー。やばい、温まったらそのまま寝ちゃいそう」

テスト前なのにそれは危険だ。またふたりはへらへら笑いながらバスを待つ。ただでさえ本数の少ない系統の路線、ふたりの他にはバスを待つ人はおらず、静かな雨の音と行き過ぎる車の跳ね上げる水の音だけが響いていた。雨は止みそうもない。

「テスト、どう? うまくいきそう?」
「なんとかしないと部活やめる羽目になるからな」
「木暮とか赤木くらいなもんだよね、テスト勉強ガッチリやってますってちゃんと言うの」
「あれ、何でやってないって言うんだろうな。謙遜する意味がわからない」

はくすくす笑いながら時刻表を覗きこむ。携帯でも調べたけれど、時間は間違いない。あと数分でバスが来る。サーッと音を立てて目の前をタクシーが行き過ぎる。細かい水の飛沫がやけに鮮明に見えて、冷えた体が震えた。今更のように木暮とふたりきりだということに緊張が出てきた。

今年もまた夏休みはないと彼は言う。今年はどうなんだろう、去年より暇になるなんてことはあるんだろうか、だけど、一緒に遊んだことすらないのに夏祭りに誘っても断られるに決まっている。もどうしても木暮と行きたいと思っていたわけではない。ただ夏を目の前にしてふたりきりになって、1年前の気持ちを思い出した。

もし木暮が「今年は少し休みがあって夏祭り行ってみたいけど、一緒に行く人がいない」と言ったのなら、その場で一緒に行こうと誘うのにな、とぼんやり考えていた。浴衣は持っていないけれど、もし夏祭り一緒に行けることになったら、テストで頑張るから浴衣を買って欲しいと親に頭下げるのに。

……は夏休み、どうするんだ」
「えっ、私? えーと、おばあちゃんちにはとりあえず行くけど、あとはまだ何も」
「そっか」

会話が続かない。木暮も少し顔を逸らしているし、なんとなく居心地が悪くなってきた。は何も一緒に待ってもらう必要はないのだということを思い出して、ひとりで待てるからもう帰っていいよということを出来るだけ感じ悪くなく伝えるには、と首を傾げた。その時である。

ひときわ大きな音を立てて大型のトラックが近付いてきた。かなりのスピードが出ていて、ほんの少しの段差に乗り上げるだけでドカンドカンと派手な音をたてる。そのトラックがバス停の前を通り過ぎざまに水たまりの水を高く跳ね上げていった。と木暮は思わず悲鳴を上げてその場を飛び退いた。

とはいえバス停は3面が背後の壁と時刻表で逃げ場はなく、ふたりは背後の壁にべたりと貼り付く。木暮がを壁に押し付けるような格好になってしまったのは、偶然だった。誰もいない、誰も通りかからない駅から外れたバス停、は壁と木暮の間に挟まれて息を呑んだ。

驚いたのと緊張とで心臓は早鐘を打ち、喉が張り付く。少し震える肩には木暮の手、がのろのろと顔を上げると、同じように驚いたまま固まっている木暮の顔があった。仄かにイチゴの香りがする。

声が出ない。

も木暮も、お互いの顔しか目に入っていなかった。そしてそれはやがて少しずつ少しずつ近付いていった。震えるの手が木暮のシャツを掴み、顔だけでなく、体もぺたりと寄り添う。は少し曇った木暮の眼鏡の向こうに彼の目を見て、それをきれいだなと思いながら少しずつ目を閉じていった。

だが、もう少しで鼻先がくっつきそうな距離になったところでバスが滑りこんできた。外へ向けて流される軽快なアナウンスにふたりは弾かれたように離れた。駅始発のバスには誰も乗っていない。乗務員も何やら計器類を操作している。は慌てて傘を掴み直すと、「またね」と言い捨ててバスに飛び乗った。

窓の外は見られなかった。木暮がどうしているのかは見られなかったし、自分の顔を見られてしまうのも嫌だった。きっと変な顔をしている。どうしたらいいかわからなくて自分史上最悪に変な顔をしているに決まってる。は後部の座席に滑りこんで体を丸めた。

やがてプシューと空気を吐き出しながらドアが閉まり、バスはゆっくりと走り出す。

そのバスの走り去る後ろ姿を、木暮は呆然と見送っていた。