いとしい日々の名残たちと

02

、公ちゃんもうすぐ帰ってくるみたいよ」

庭から顔を出した母親の声ではうたた寝から目を覚ました。3回戦で負けたから帰ってくるという話は聞いていたが、思っていたより早い。あまりしっかりと気持ちの整理がついていないは、帰ってきた公延になんと声をかければいいか決めかねていた。

2回戦は快挙で3回戦はボロ負けだなんて、なんなのこの天国と地獄。しかも引退。受験生になるということはさておいても、今日に限ってはなんと言ったものかさっぱり解らない。おめでとうは違う、でも残念でしたも違う気がする。引退待ってましたとは言えないし、受験が終わるまで待つとも言いたくはない。

だいたい、公延がどんなテンションで帰宅してくるのかも解らないのだから、考えるだけ無駄かもしれないが、単純に考えてもここでどう接せるかに今年の夏はかかっていると言っていい。

決定ではないが、予定している公延の志望校は彼の成績に照らし合わせて無理もなく且つ多少の挑戦を必要とするような、現時点では最適な選択だという話だ。だから受験勉強を焦る必要はないのだが、公延が専念したいと考えていればそれまでだ。もしくは激戦を共にした仲間と過ごすと言われてもアウト。

ふたりが高校生の内に、夏祭りに行きたかった。花火もあるから、並んで眺めたかった。いや、それでなくてもいい、手を繋いで歩くだけだっていい、公延が進学してしまって、さらに生活時間が合わなくなる前に少しでも一緒に過ごしたかったのだ。

それを現実のものに出来るかどうか、それは今日決まる。

公延が帰ってきたというので、は母親と一緒に木暮家に顔を出した。公延は荷物を抱えて階段に足をかけていたところで、の母親の歓声に普段通り明るく穏やかに応えた。もお帰りと声をかけはしたのだが、その先が続かない。しかも、土産を開こうと公延の母親に誘われてしまった。

公ちゃんとふたりで話がしたいのに、こういうときこの環境は面倒くさい! は内心歯噛みをした。だが、の頭上から公延の方が声をかけてきた。

「あ、頼まれてたやつ買って来たよ。あとさ、個人データの清書手伝ってくれない?」
「えっ、あ、いいよ」
「あっ! じゃあ悪いんだけど公延の洗濯物まとめるの手伝ってきて〜」
「わ、わかったあ」

状況が急に変わったので、はおろおろと双方に返事をしたが、焦るばかりでどうしたらいいかわからない。そんなにうろたえるのはなぜかと言えば、は土産など頼んだ覚えがない。しかも、個人データの清書などという作業はどう考えても嘘だ。バスケ部6年目、そんな作業をしているところなど見たことがない。

「母さん、清書の作業があるから先にお茶しててよ」
「もちろんそのつもりよ〜」

階段を上がっていく公延、早速土産を開いてお茶を入れているふたりの母親、双方の間で取り残されたは深呼吸をひとつ。深く吐いて一気に吸い込むと勝手知ったる木暮家の廊下を駆け出し、脱衣所から洗濯籠を掴んで公延の後を追った。

籠を掴んだまま、薄っすらと隙間の空いた公延の部屋のドアを勢いよく開く。そこで一呼吸置いて、一歩二歩と部屋へ踏み込む。ドアを静かに閉めると、ゆっくり顔を上げる。そこには、窓から差し込む夏の光を受けて輪郭がぼんやり光って見える公延の後姿があった。湘北高校バスケット部の赤と黒のジャージがゆるりと揺れた。

公ちゃん、背が高いなあ――

赤木が巨大なのはともかく、公延が決して高くない選手であったことなどは知る由もない。見上げるほどの高さに成長してしまった公延の後姿に、見蕩れた。はきっと生まれたときからずっと公延に恋をしている。それを改めて感じていた。

「公ちゃん……おかえりなさい」

口をついて出たのは、そんななんでもないような言葉だった。だが、それこそにとっての本音でもある。今まで広い世界で存分に輝いてきた公延が、帰ってきたのだから。

その言葉に振り返った公延はまだ光の輪郭を纏ったまま、柔らかく微笑むこともせず、真剣な眼差しでを見据えると静かに両腕を差し伸べ、ゆっくりと広げた。

「ただいま、

は籠を放り出して床を蹴り、広げられた公延の腕の中に飛び込んだ。が飛びついてもぐらつきもしない公延は、もう躊躇することもなくの体をギュッと抱き締めた。請われるままに誕生日のキスをしていたときとは、何もかもが違っていた。は知らずのうちに、涙を零していた。

「公ちゃん、すごかったんだってね、応援出来なくてごめんね」
「すごかったのはオレじゃなくて、赤木たちだよ」
「でも、公ちゃんはずっとすごかったんだよ、だからインターハイ行けたんだよ」
……ずっとほったらかしてて、ごめん」
「そんなこともういい、もういいよ」
「一緒にいられなくてごめん」
「ねえもういいよ、公ちゃん謝らないでよ」

涙声のの髪を何度も撫でながら、公延は低い声で何度も「ごめん」と言い続けた。

があの頃のままで変わらないの、知ってた。知ってたけど、オレは」
「私もわかってるよ、そんなこと。公ちゃんが悪いわけじゃないよ」

体を引き剥がし、見上げた公延の顔は真剣そのもので、はますます泣きたくなった。

「私だって、公ちゃんを縛りたくないのに、だけどどうしても好きで、隠せなくって……

後が続かなかった。言葉にならない。涙が一筋伝った頬が熱い。もう帰ってこないかもしれない、好きなのは自分だけかもしれない、他の女の子を好きになってしまうかもしれない。5年間そんな不安を抱えてきて、固く冷たく小さくなってしまったの心が緩む。そこから溢れ出るのは、尽きることのない公延への愛情だけ。

言葉が出て来ずに俯くの頬に伝う涙を公延は指先でなぞり、そして何の迷いもなく顔を寄せた。もそれを察して顔を上げる。けれどは、今日ばかりは待った。少し顔を上げただけで爪先立つこともせずに公延の結論を待ち、そしてゆっくりと落ちてきた唇を受け止めた。

からねだるのではない、公延の意思による初めてのキスだった。

まだまだ優しく柔らかく浅いキスではあったが、光の輪郭の中でふたりは何度もキスを繰り返した。

「公ちゃん、あのさ」
「夏祭りだろ」
「なんでわかるの」
「わかるよ」

ベッドに腰掛けた公延は膝にを抱いている。も親に抱かれた子供のように公延に体を預けている。ふたりとも5年ものブランクがあったというのに、ぴったりとくっついている方が自然なように感じていた。むしろ幼い頃に戻ったようで懐かしさすら覚えている。

だから、が何を言いたいのかくらい見当をつけるのは公延にはとても容易なことだ。

「3回戦、負けて……それから色んなことを、気持ちの整理をずっとつけて来たんだ。負けた時点で引退は決まってるんだし、そもそも冬の選抜まで残るつもりはなかったし、どっちみち部活は夏の間には終わるんだから、受験もあるけど、夏の間に心をリセットしたいと思ってたんだ」

仮に全国制覇を成し遂げていたのだとしても、どのみちお盆休みの頃には引退している。もっとも、全国制覇を成し遂げていたら、受験せずとも推薦がもらえたかもしれないのだが。

「帰りの新幹線の中でさ、、夏祭り行きたがってるだろうなって思って」
「花火も行きたいし海も行きたいしキャンプもバーベキューも川も行きたいよ?」
「だろうと思ったよ」

からからと笑って、公延は抱っこしたの体をあやすように揺らした。

「ほんとに夏祭り、行ってくれるの?」
「うん、ふたりで行こう。浴衣、持ってるんだろ」

の頬に赤みが差し、ぱあっと笑顔になった。公延と一緒に夏祭りに行ける。浴衣を着て、ふたりきりで。それは5年前から毎年毎年叶わないことを知っていながらも願い続けた夏の夜の夢だった。

しかし公延はそんな風に有頂天になっているの手を取り、しっかりと握り締めて少し俯く。

、だけどもう少し、後ほんの少し待ってもらえないか」

突然何の話をしているのか判らなくて、はかっくりと首を傾げた。待つって、何を?

「夏祭りは行くし、出来るだけ時間も作るようにするよ。だけどオレ、受験も頑張りたい」

公延自身、このタイミングで酷なことを言っているという自覚はある。だが、この時にあっては他のどんなことより優先されるべき受験勉強は仕方がない。部活が終わったからといって、全てのために時間を割いてしまったのでは勉強も部活も頑張ってきた意味がない。

それに、未だ公延の心の中にある「男の約束」についてをに打ち明けるのにも時間が欲しい。公延なりに時間をかけて様々に思いを巡らせてきたのだが、あと一息でまとまりきらない。

、やっぱりオレもが好きだよ」

息を呑むの手を強く握り締めながら、公延は静かに言った。やっぱりそれだけはどう考えても覆らない真実で、悩んでいる間にだんだんと気持ちが蓄積していって、気付いたときには好きだという形を象っていた。しかもそれは、ごくごく自然な成長であり、心が育っていくと同時に好きだと自覚するようになっていたとも思える。

「だから夏祭り、一緒に行きたい。だけど、その先それ以上のことは約束出来ない」

なんて身勝手なことを言ってるのだろうと思う。公延は自分のこうした言動がの想いの上に胡坐をかいている行為だと思っては恥じる気持ちもあるのだけれど、それでも他に方法がない。約束を守りたい、を守りたい、その先の未来も全て守りたい――その為には。

しかし、は笑顔で公延の頬を両手で包み、ふふん、と鼻を鳴らして笑った。

「公ちゃんがそういう人だって、よーく知ってるよ。生まれたときから一緒にいるんだから」

つられて公延も口元が緩む。

……そうだな。ずっと、一緒だったんだもんな。知ってるよな」
「公ちゃんが私のことわかってるように、私も公ちゃんのことわかってるんだからね」
「それはどうかなあ」

の笑顔に救われて少しだけ気が楽になった公延は、また首を伸ばしての唇を急襲した。いい加減部屋を出てリビングに行かないと、母親たちに怪しまれてしまうかもしれない。それでももう少しとこうして抱き合ってキスしていたかった。

子供の頃には不思議で仕方なかったけれど、今はにキスしたいと心から思う。

好きだから、大好きだから。