いとしい日々の名残たちと

01

公延の通う湘北高校バスケットボール部は、今年になって飛躍的な成長を見せてインターハイにまで出場した。

昨年地区予選1回戦敗退のチームがインターハイにまで上り詰めたのだから、当然部員たちは練習に明け暮れていたし、それは3年生になって副主将に就いた公延も例外ではなく、朝から晩まで部活、帰宅すれば食事をして勉強の時間をなんとか作り、あとは寝るだけという生活がずっと続いていた。

そう、公延は目一杯青春を謳歌していた。良いことも悪いことも仲間と共に経験しながら日々を過ごしている。

一方で、は限界まで腐りきっていた。

なにしろ公延は帰って来ないし、帰って来ても食べてるか机に向かっているか寝ているかのどれか。公延の青春を邪魔すまいと思うのだが、寂しい。にだって友達がいないわけじゃないし、女の子だけできゃあきゃあ騒ぐのはもちろん楽しい。けれど、はもう5年も我慢し続けているのだ。

公延がとの間に1本線を引くまで、公延の存在はの生活の一部であり、欠くべからざるものだった。それが、突然すっぽりと抜け落ちてしまって、以来戻ってこないのだ。そのまま5年が経過し、だけが以前のまま公延に恋焦がれている。少なくとも、にはそう思える。

練習、練習、試合、練習。試合、練習、練習。公延の母親からだいたいのスケジュールらしき情報は仕入れるのだが、知ったところでどうなるものでもない。インターハイ出場が決まってからは応援したいと再度思うようになったが、実行に移そうかと考えるとそれもなんだか気乗りがしなかった。

どうかすると腐ることに飽きて、唐突に精神がクリーンになり、思考が澄み渡るときがある。そんなときは、ひとりそっと手を組んで、公延の活躍を祈った。公ちゃんの青春の日々が実を結んで、後悔のない結果を呼びますように――

公延は既に3年生。県予選、県決勝戦、そしてインターハイと繋がっていく道の途中がひとたび途切れてしまったなら、後がない試合で負けてしまったら、引退なのだということはもよくわかっていた。部活がなくれば、公延は自分の元に帰ってくる。それは5年間待ち望んだことであった筈なのに、なぜか嬉しいと思えなかった。

赤木と共に青春の全てを注ぎ込んだその道半ばで敗れ、また何も成し遂げられないまま夏を終わらせなければならない公延を見たくなかったのだ。公ちゃん、あんなに頑張ってたんだから、赤木くんと一緒に、頑張ってたんだから、行けるところまでどうか――

も5年という歳月をかけて成長したようである。公延を取り戻したいという欲求とは別に、公延の幸せを願えるようになっていた。もまた、公延がもういいと言うまで腐りながら待つと決めてしまっていたから。

夏休みの午後、庭先で入道雲を見上げながらはひとりで遠い空の公延を想っていた。

興奮で何を言ってるのかよく解らない電話が木暮宅にかかってきたのは、8月3日の夜のことだった。

電話の主は公延の父親。スタメンではないながらもインターハイに出場する息子をどうしても見たくて、仕事を休んで広島へ駆けつけていた。公延自身はもう高校生なのだし来なくていいと言っていたが、こんな大舞台はもうないかもしれないのだから、公延の父親はいわば木暮家家の代表のようなものだった。

その父親がなんだかとりとめのないことを早口でまくし立てるのを公延の母親は辛抱強く聞き取り、最終的には悲鳴を上げた。その声に窓を開けていた家の3人は飛び上がり、すわ緊急事態かと駆けつけてみると、公延の母親は受話器を握り締めたままくずおれて泣いていた。

「どうしたの小母さん、まさか向こうでなにかあったの」
、あのね、公延がね……!」

涙に顔をくしゃくしゃにした公延の母親の言葉を聞くなり、家の3人もまた悲鳴をあげることになった。

公延たちが常に日本一であった強豪校を破る快挙を成し遂げたのだという知らせだった。

の両親も涙ぐんで喜んでいたが、自身はそれほどの感動が生まれず、適当に調子を合わせてひとしきり騒ぐと自室に戻った。ぺたりと床に座り、ベッドに寄りかかる。手にした携帯に目を落とし、指を滑らせ、引っ込める。

おめでとうとメールを送るべきなのだろうが、どうにも気持ちが着いてこない。公延たちが栄光を勝ち取るのはいい。心からの祝福を送りたい。しかし、どうしても置き去りにされてしまったような寂寥感が重くのしかかる。

インターハイ、強豪撃破、かあ……それって、すごいことなんだよね?

いまいち事の重大さが解らない。そんな騒ぎの中に公延がいることが不思議でならない。公ちゃんてあの公ちゃんだよね? 自分の知っている公延はそんなところにいるような人間だったかどうか、自信がなくなってくる。何しろこの5年間、は公延の世界のごく隅っこの方にひとりぽつんと存在していたに過ぎないのだ。

公ちゃんの世界はどんどん広がっていって、私の知らないもので溢れるようになって、私はその中に埋もれちゃうのかな。公ちゃんにとって大事なものになりたいけど、きっと公ちゃんの大事なものはこの夏でたくさん増えたに決まってる。だけど、その中に私、入ってるのかな。

は結局メールを送らないまま床に就いた。公延からもメールは来なかった。

公延があまりに遠くへ行ってしまったような気がして、は翌日からも腐る気満々でいたのだが、快進撃を続けていた公延たち湘北高校は3回戦にて嘘のような大敗を喫し、広島の地に全国制覇の夢を置いてくることになってしまった。はずいぶんあっけなく感じて、何の感慨も沸かなかった。

公延が部活から離れる、それは嬉しいことのはずなのに。

「なんだか、変な景色だな」

地元の駅に降り立った赤木が、ぼそりと漏らした。

「ああ、そうだな。オレたちが何日か留守にしてる間に何年も経ったみたいだな」
「浦島太郎か」

毎日使っているはずの駅がまるで違って見える。駅舎が妙に小さく感じるし、空気が柔らかい気がするし、何より自分たちを取り巻く喧騒がフィルターを通したように遠く聞こえる。改札の外に広がる景色でさえ、タイムスリップして違う時代に迷い込んだような気がする。

「確かに、あまりに日常からかけ離れた世界だったからなあ」
「間違いなく現実だったんだがな……

トーナメント戦の途中で敗退して帰って来なければいけないことについては、第三試合が終了した瞬間からずっと整理をつけてきた。新幹線を降りた頃には、疲れも手伝って少し無気力になっているのを自覚出来たくらいだ。それでも学校の体育館や地元の駅などは、バスケットと共に過ごした毎日にセットされていたもので、いざその中に舞い戻ってみると感傷が湧き上がってくるのを抑えられなかった。

悲しいとか悔しいと言うよりも、ただひたすら頂点を目指した日々から急に引き離されてしまって寂しいと言った方が正しい。強く記憶に刻まれてはいても記憶は記憶でしかなく、もう取り戻せない愛しい日々。もう少しその中に浸かっていたかったが、勝負である以上はいたし方のないことだ。

「しかし、これでやっと向き合ってやれるんじゃないのか」
「えっ、何と?」

素っ頓狂な声を上げた公延に、赤木は小さくため息を1つ。

、待ってるんだろう」
「ああ、そのことか」

公延は事も無げに首をすくめ、困ったような笑顔で眼鏡を上げなおした。

「受験もあるけど、何も超難関校を目指すわけでもあるまい。少しくらい構ってやった方がいいんじゃないのか」
……悪いな、お前にまでそんなこと」

明確な返事をしない以上、公延はまた逃げるつもりなんだろうか。今となってはそれにやきもきする気もない赤木だったが、逃げ続けられているには同情を禁じえなかった。今のところはふたりの間に割って入ろうという人間はいないようだが、それもいつまでもつか。

「オレが口を出すようなことじゃないが、誰かに取られてからじゃ遅いんだぞ」
「それはわかってるんだけど……実は、約束があって」

次第に現実感を取り戻していく地元駅の片隅で、夏の太陽に熱された風を浴びながら公延は例の「男の約束」をかいつまんで説明した。そんなに根の深い話だと思っていなかった赤木は、にわかには信じられないようで、しきりに口元を手で覆っては首を傾げていた。

「それを守ってるのか、今でも」
「今でもというか、そうだな。決めたことだから」
もそうだが、お前、辛くなかったのか」
「うん、割と」

赤木は公延がとんでもないゲス野郎に見えてきて、目を擦った。

とのことをどうするかっていうのも年々考えが変わって、迷うこともあったさ。だけどそれは適当に学校生活を送りながらイチャイチャするような内容じゃなかった。少なくとも、きちんと向き合うためにはオレは中学高校とバスケットも勉強も一生懸命やりたかった」

の想いに応えてやることが即ち正面から向き合うということではない。公延の結論だった。にも同じように過ごして欲しかったというのが本音だったのだが、予想以上には一途で頑固で、やっぱり公ちゃん以外のことにあまり本気になれなかったようだ。

「自分の時間を精一杯生きておかないと、あとで綻びが出来るとも思ったし」

赤木はこのあたりで初めて納得が行ったように頷いた。

「真剣に考えてるんだな」
「そりゃそうだよ、どう転んだとしても、あいつは大事な幼馴染なんだから」

もし既に綻びが出来てしまっていたのだとしても、大事な幼馴染であることに変わりはないから――

「ははは、本当にお前らは……まったく」
「だって、なあ、思わずにいられるか? なんでオレなんだろうって。どうしてそこまでって」
「逃げもあったということだな」
「認めたくないけど、重くなかったといえば嘘になるよ」

約束に縛られていたのは事実だけれど、その重圧、まるで初めから決まっていたような未来、逃げたくなっても仕方あるまい。幸い、部活は楽しかった。バスケットが楽しくて、大好きで仕方なかった。その中で公延は公延なりに自分を取り巻く全てについて模索し続けていたのだ。

「でも、もう気持ちは落ち着いてきたんだよ、これでも」
「今は少し抜け殻のようなもんだしな」
「おいおい、殻の方じゃマズいだろ」

ぼんやりと話すふたりの間に、熱い風が吹き抜ける。抜け殻から這い出た成体はしばし、非常に柔らかいものだ。自身の変化によろめきながらも、次第にしっかりとした形を成してゆくのだ。

「まあそうは言っても、とは思うが、これ以上はオレの踏み込む世界じゃないな」

赤木は荷物を肩にかけなおすと、両腕を持ち上げてグッと体を伸ばした。

「せいぜい誰かに綻びを作られないように気をつけろよ」

公延にとっては、身近で当たり前過ぎる戦友であり親友である赤木の背中は、一種の憧れでもあった。大きく逞しく、何ものにも揺るがない防壁のようで、それは人間の大きさでもあるのじゃないかと。

去る2回戦が終わったあと、誰だかがしみじみと言っていた気がする。「赤木は湘北の魂だったんだよ」と。公延もずっとそう思っている。たかが部活されど部活、チームの魂だと評される友人の大きさ、それは自分にはないもので、少しなら羨望も感じている。

とちゃんと向き合いたい、しかしその資格があるかどうかについては、まだ不確かな感触しかなかった。

それでも、赤木の大きな背中を見ていると少し頑張れそうな気がする。オレはこの背中に着いてきたんじゃないか、共に支えあい、何もかもを乗り越えてきた。オレだけは逃げずにここまでやってきたじゃないか。それは自慢出来ることなんじゃないかと思うようになっていた。

少しだけ勇気をくれた親友の背中をバチンと叩いて、公延は歩き出した。

「人のことばっかり言って、お前はどうなんだよ!」

騒がしい駅前の雑踏の中、湘北の魂と心は他愛もないことで笑いながら現実の中へ戻っていった。