こぼれおちて

04

今となっては、の父親と交わした約束にどんな意図があったかなどわからない。

あんな風にきつく釘を刺しておきながら、宣言通り彼は公延にもにも干渉らしい干渉をまったくしなかった。公延が約束など本気にせず部活にも夢中にならず、親の目をかいくぐってとイチャついていたとしてもばれようがなかったくらいに。

釘を刺せば公延が固く守るとわかっていた?
娘には何も言わなかったのに?

つまり、の父親が公延に与えたのは、言葉による呪縛だったのだ。

それをわかってやっていたかどうかはわからない。だが、公延はその約束に縛られ、を純粋に想うことにすら迷い、誰に遠慮することなく恋をすることが出来たのに、気持ちを押し込めを遠ざけ、そうして結果的にはふたりとも追い詰められた。

突然クリスマスに不在になったのは何故だ。両家とも親が不在になったら、と公延は一緒に過ごすに決まっている。それは留守番をさせても平気な年齢に達したならごく当然のことで、しかもだけは公延を好き好き言い続けているのだから、どんな事態になるかは容易に想像がつくはずだ。

だとしたら、何故日帰りではなくて一泊することにしたのだ。公延が絶対にに手を出さないと信じきっているのだろうか。それとも、迫る18歳を前においしい餌をぶら下げて約束を思い出させようとしているのか。

それとも、あの約束は守られたとして、解放するつもりになったのか。

例え公延がに手を出しても構わないと腹を括ったのか。

――いい加減、鎖のようにがんじがらめに自らを縛る呪いから解き放たれたかった。

カーテンを開け放つと、両家の庭を挟んだ向こうにの家が見える。灯りが全て落ちていて、誰もいない。雲が晴れて月の明かりが差し込んでくる。その弱々しい光の中で、公延はを後ろから抱きすくめながら、心に張り付いている殻を一枚一枚剥がしていた。

言葉も話せない、お尻にはおむつ、涎を垂らしていた姿さえ覚えているの体はしなやかで、公延の体にぴったりと沿う。どうしても外したくないというので、左手の薬指にはホワイトゴールドの指輪。

東京の大学を受験することは夏の終わりには決まっていた。そのためにプロポーズをしたいこと、公延はそれを赤木に話した。子供じみた発想だという気がして迷っていたからだ。しかし赤木は「そんなことを迷うな」と険しい顔をした。迷うくらいならの前から消えろ、一生をかけた約束をするのだから、覚悟を決めろと叱られた。

その数日後には勇気を振り絞って指輪を作りに行った。まさか制服というわけにはいかないと私服で出かけたが、もちろんジュエリーショップの店員は何も不審がらないし、贈り物ですか、ご予算は、リングの材質は、石は、サイズは、と畳み掛けた。何もイメージのなかった公延は泡を食った。

日ごろからが「公ちゃん私8号だからね」と左手を突き出していたおかげで、サイズがわからないという事態は免れたが、その先が決まらなかった。何をどう選べばいいのかまったくわからなかった。ただ、金色は大人っぽくていやだった。ダイヤも本物の結婚指輪みたいで、気恥ずかしかった。

ピンクやイエローやブルーの石もきれいだった。どれもに似合いそうだった。真珠も美しいし、くすんだ色の石も可愛らしかった。けれど、公延はチカチカする視界の中で目を引いた石を見つけた。小さいが鮮やかな赤のルビーだった。その赤が、強く惹きつけられる光がに見えた。

まだどこかで迷っていた公延は、その赤を目にした瞬間、覚悟を決めた。

この指輪を贈ろう、そして全て話そう。

少し離れたショウケースに桁が2つも3つも多い指輪が並んでいる。小さな赤い石でも充分に光って見えるのに、輝きがまるで違った。けれど、いつかそれも贈ろうと思った。そのために4年間を犠牲にする。には相談せずにひとりで決めてしまったが、ある意味ではを信じていた。

きっとわかってくれる。きっと受け取ってくれる。ふたりの未来はきっと同じ道の上にある。

、本当にいいの?」

世界には数え切れないほどの人間がいるのに、自分で本当にいいのか。自分しか知らないままでいいのか。

「チャンスはいくらでもあったんだよ。でも、そんなのいらなかったんだよ。欲しくなかった」

月明かりに照らされたの青白い顔が、音もなく近付いてくる。公延のよく知る者たちが、恐ろしいほど人を惹きつけるという光に吸い寄せられては深い闇に落ちていった。これからもそんな人間は現れるだろう。それでもは決して公延から目を逸らさないだろう。

「私、公ちゃんだけいればそれでいい」

公延は静かにをベッドの上に押し倒した。

枕に深く頭を沈めて眠るの隣で公延はぼんやりと天井を眺めていた。想像以上に罪悪感が強くて、初めての夜が自分の部屋になってしまったことを少し後悔した。何しろはもちろん、彼女の両親とも生まれたときからの付き合いだ。父親はともかく、の母親の優しい声が今になって耳に蘇り、胸が痛んだ。

予定では、両家の親は明日の夕方頃に帰宅するはずだ。それまでには普段通りに戻っていなければならないし、の指輪も出来れば隠していて欲しかった。恥ずかしいのもあるが、クリスマス・イヴの夜にふたりきりで過ごして指輪を贈ったなど、その後に何をしていたか白状しているようなものだ。

幼稚園の頃は確か一緒に風呂に入っていた気がするので、初めて見るということにはならないのかもしれないが、の裸体はあまりにも美しくて、公延はしばし見蕩れた。は恥ずかしがるが、青白い月明かりの中で浮かび上がる曲線は、まるで作り物のようだった。

触れれば温かいし、首から上は見慣れたなのだが、こんなにきれいな体に遠慮なく触れていいのかどうか、少しためらった。ましてや、痛い思いをさせてしまうだろうことは必至なのだし、静かに首をもたげてくる、乱暴に組み敷いてしまいたいという欲求に抗っていた。

だが、目に薄っすらと涙を浮かべて震えているの顔を見た途端、迷いは吹き飛んだ。はもっと怖いだろう、緊張しているだろう。自分がおろおろしていたら、それはもっとひどくなるだろう。

公延はの首筋に唇を寄せながら、余計なことを頭から締め出した。

考えるのはのことだけでいい。今だけは、本当に世界にふたりきりなのだから。

だけでなく、自分にも「本当にでいいのか」と自問していた公延だったが、と繋がった瞬間、と同じ言葉を思い、それを後悔などすまいと心の底から願った。そんなものはいらない、欲しくない。

だけいれば、それでいい。

やがて訪れる柔らかな眠気に公延は体を捻り、の髪に頬を寄せて目を閉じた。

翌朝、が寒がるので、公延は風呂を洗って湯を張った。が木暮家の風呂に入るのは久しぶりだ。あまりはっきりしないが、小学校低学年くらいのときにはまだどちらの家の風呂にも入っていた気がすると公延は回想している。その頃は寝に帰る家が自宅であって、その他のことはどちらの家でもよかったのだ。

「もうすぐ沸くから入れるよ。大丈夫か」
「平気。ごめんね、わざわざ」
「いいよ、体痛くない?」

こくりと頷いて、ベッドに腰掛けていたは公延にぺたりとくっつく。

「大丈夫。女は我慢出来るようになってるのです」

はにんまりと笑って立ち上がる。

「公ちゃん、一緒に入ろっか!」
「え!?」
「いいじゃないよ、今更。ていうか一緒にお風呂なんて初めてじゃないでしょ」
「一緒に入ってたのは幼稚園の頃だろ」

湘北ジャージを借りているは、ベッドに座る公延の前で腕組みをしてにやつく。しかしそういう問題ではない。は非常に軽い気持ちで言っているのだろうが、公延はそうもいかない。

「それにねさん、君はよくてもオレは風呂だけでは済まないんですけどね」
「え!?」
「どれだけ我慢してここまで漕ぎ着けたと思ってるんだよ」

一気に立場が逆転した。公延は、しまったという顔つきをしているの手を引いて部屋を出た。

が誘ったんだからな」
「いやいや、それはほら楽しくお風呂って程度のことで」
「そりゃはそうだろうけど」
「公ちゃんてそんなにアグレッシヴだったっけ!?」
「昨日から始めました」

脱衣所にを放り込み、後ろ手にドアを閉めると、公延はふわりと微笑んだ。

「4年間離れてつらいのはだけじゃないんだからな」
「受かったら、でしょ! 落ちろ! 海南かなんかに入ればいいのに!」
だって同じだろ。下手したらひとり暮らしじゃないのか」
「そんなのまだわかんないもん」

ぐずるの湘北ジャージに手をかけて、するりと剥ぎ取る。重ね着していたTシャツに体のラインが浮かぶ。

「あれ、ほんとに体冷たいな」
「温まるだけだからね」
「風呂の中ではね」
「うそお」

冷たいクリスマスの朝、公延はのぼせるほど体を温めたあと、をもう一度抱いた。さすがに怯むだったが、公延が愛情表現をむき出しにすることは殆どなかったせいで、次第に絆されていった。

それに、まだ遠い春の別れを思うと、拒む気にはなれなかった。

明けて春、の呪い空しく公延は東京の大学に合格、中学高校を共にした赤木と再度同じ道を歩むことになった。だけでなく、が知る公延周辺のバスケ選手たちの大方が東京に出て行くのだとか。

公延が部屋を借り、引っ越すその当日まではむくれていた。

「もう決まったことなんだから、そんなむくれてもどうにもならんだろう」
「赤木くんに何がわかるってのよ」
「中学生の頃に言ったことはまだ継続中だぞ」
「なにそれ」
「変な虫がつかないように見張っててやるって言ったろ」

手伝いに来ている赤木は赤木で晴子がむくれているそうだが、彼も既に引越しは終わっている。寮に入るつもりだった赤木だが、それでは気軽に遊びに行けないと晴子がごねて部屋を借りることになったらしい。きっとそんな話を聞いていたせいで公延は寮という選択肢を捨てたのだろうが、その辺りはには伝わっていない。

……赤木くんは少し虫がついた方がいいんじゃないの」
「お前な、人の厚意を無下にするとろくな人間にならないぞ」
「よく言われる」
「まあでも、後輩たちが世話になったな。問題児が多いから宮城や彩子は助かったろうよ」

が見上げると、赤木も晴れ晴れとした笑顔をしていた。公延が家を出るのは気に入らないが、赤木や三井や藤真たちが新たな世界へ羽ばたいて行くということは感慨深いし、応援したい。

「4年間と言っても、2時間くらいの距離だろう。遊びに来ればいいじゃないか」
「まーね。夏まではそうするよ。私も3年だからさ」
「どうせサボってても受かるだろお前の場合。あんまり思いつめるなよ」
「ああそうだ、今度県予選連れてってもらうんだよ。湘北、初めて見るよ」
「へえ、まあ賭けてもいいが、お前たぶん号泣するぞ」

公延にもそんなようなことを言われたはむっと眉をひそめた。

「公ちゃんが呼んでくれなかったからね、赤木くんのプレイも見られなかったよ」
「じゃあ今度こそ見にくればいいだろ」
「公ちゃん嫌がってるもん」
「お前らほんとにどうしようもねえな。だったらその指輪はなんなんだ」

は家族がいるところや学校では指から外して、ペンダントにしている。

「手錠をかけられちゃった、みたいな感じ」
「それでいいじゃないか。お前も木暮も自覚がないんだよ」
「自覚って何の話だよ」
「自分たちの置かれている状況を客観的に見られていないってことだ」

手伝ってくれた赤木とにコーヒーを持ってきた公延はきょとんとしている。

「ああ、それはよく言われる。けど、まあもうそういうもんかなと」
「赤木くん、これだもん」
「オレはもう知らん」

両家の家族が揃っている上に赤木までいるのでは、別れを惜しもうにもたかが知れている。結局最後までむくれていただったが、荷物を先に送り出した木暮一家が車で出発するというときになって、堪え切れずに泣き出した。の母親が「恥ずかしいからやめなさい」というほど、声を上げて泣いた。

思い返すと自分でも恥ずかしいほどであったが、生まれてから今の今まで離れ離れになったことは一度もなかったのだ。の中にいるありとあらゆる年齢のが公延を恋しがって泣いていた。

ちらりとの父親を見た公延に、彼はにっこりと笑って見せた。その笑顔に暗い影は見られなかった。心に刺さっていた棘がはらりと落ちた気がした公延は、泣きじゃくるの頭を撫で、抱き締めてやった。そして、親たちに聞こえないくらいの声で囁く。

、待ってる」

離れてしまうけれど、たかが神奈川と東京の距離だ。

「待ってるから」

は何度も頷いた。

END