こぼれおちて

03

予定より1時間ほど遅れて公延は自宅に帰りついた。首を伸ばして隣家を見てみると、真っ暗。対して、自宅のリビングには灯りがともっている。は木暮家にいるようだ。鍵を開けて、玄関のドアを開く。ドアを閉め、振り返るとが腰に手を当てて仁王立ちになっていた。

「わっ、びっくりした、ただいま。遅くなってごめん」
「ほんとに遅かったね」

の様子がおかしいことに気付いた公延は、脱ぎかけた靴をそのままにして止まった。

「でも1時間くらいだろ、そんなに怒ることないじゃないか」
「公ちゃんは、私が絶対公ちゃんのことを本気で怒ったり嫌ったりしないって思ってる」
「どうしたんだ、なんで今そんなこと――

もまた、クリスマス用に着飾っている。だが、その可愛らしい姿で仁王立ち、公延を睨んでいる。

「私、今日例のパティスリーでケーキ引き取ってきたの。だけどちょっとトラブルがあって、かなり待って、私も少し遅く帰ってきたの。だから、16時頃にパティスリーの近くの駅にいたの」

公延の瞼がピクリと動いた。

「公ちゃんは、またバスケ部」
――
「私、1回でいいから、公ちゃんの一番に、なってみたいんだよ」

言いながらはくしゃりと顔を歪めて泣き出した。

「朝からご飯の支度して、おしゃれして、ケーキ取りに行って、そしたら公ちゃんはバスケ部」

視線を逸らしたは真っ赤な目と鼻で、ボタボタと涙を零している。

「私、生まれたときから公ちゃんのこと大好きでさ、世界で一番愛してるのね。他の誰に好きだって言われても、やっぱり公ちゃんが好きなのね。でもさ、それでもさ、こういうの、やっぱりつらいよ。1時間くらいって、私も思うよ。そんなことでって思うよね普通。だけどさ、今日は初めてのふたりのクリスマスなんだよ」

公延は真顔での悲痛な声を聞いている。

「17年一緒にいてさ、たった1日くらい、公ちゃんの一番になることって、出来ないのかな!?」

の足元に落ちた涙が灯りを反射してきらりと光る。公延はそれをちらりと見ると、肩にかけていたバッグを下ろし、一歩足を進めた。にはあともう一歩という距離である。

、少し聞いてくれるか」

平坦な、あまり抑揚もなければ、感情が見えない淡々とした声だった。は少し俯いたまま黙っている。

「中学に入る前の6年生の冬、オレ、の親父さんに突然呼び出されたんだ」

あの「約束」の話である。急に無関係なことを話し始めたと思ったは、重そうに顔を上げた。

「ふたりきりで話をしたいっていうんだ。そこで小父さんは、をすごく大事に思ってるって、オレのことも本当の息子みたいに思ってるって話をしてくれたんだ。だけど、父親としてがあまりにも特別で、父親って言うのはそういうものなんだと言って、オレに釘を刺したんだ」

の瞳がちらちらと素早く動いて、暗い瞳の奥に少しだけ恐怖を覗かせている。公延が何か言い訳めいたことを言い出すのかと思っていたは、全く話が見えなくて、一体何を聞かされるのかと怯えている。

「小父さんは、オレとのことを心配するあまり、思いつめてたんだ。距離が近いし仲もいいから、間違いがあってはならないと思ってたみたいで。オレがを好きだなと思ったのだとしても、せめて18になるまで手を出さないでくれって言われたんだ」

まだ公延の表情は変わらない。

はその頃から付き合うだの彼氏彼女だのって話をよくしてたけど、オレはまだそんな風に考えるには至らなかったから、だからの猛攻に負けないでくれって。大人になって、オレが心からのことを好きだと思うまで、負けないでくれと言われたんだ」

そこで初めて公延はゆるりと笑った。

「小父さん、オレのこと『自慢の息子』って言ってくれたんだ。自分の父親にも言われたことないその言葉がなんだか無性に嬉しくて、これは『男の約束』なんだって思って、誇らしかったのを覚えてる。それに、自分より遥かに大人の小父さんの言うことだから、それを守ることはイコールを守ることなんだと思ってた」

の顔色が蒼白になっていく。が公延に拒絶されて甘い試練に突入する、さらに前の話だ。

「もちろんそれだけのせいじゃない、オレも自覚がないのに無理に恋愛なんてしたくなかったから、都合が良かったのもある。の言うような彼氏彼女っていうのは、よくわからなくて、言い訳にもした。けど、夏にも言ったけど、やっぱりオレもが好きだったんだよ。高2の頃かな、そう自覚してからはちょっとつらかった」
「公ちゃん……

震えながら伸ばしたの手を公延は優しく押しとどめて続ける。

「そんなことがあったもんだから、オレはあまりにもこのことに対して自分本位になっていて、まるでこの世界は自分とだけしかいないような気がしていたんだ。そのことをよく赤木に怒られたんだけど、それもよくわからなくて。とオレだけの問題なんだから、そんなにカリカリすることないのにって思ってた。
だからいくらが藤真がどうのとか言っても、そんなことより自分の気持ちを整える方が大事で、まるで気にしてなかった。そのせいで、怖い思いをさせたんだよな。本当にごめん。
でも……この間、オレが本屋にひとりで戻ったとき、三井がいたろ」

が小刻みに顔を振る。三井のことには触れて欲しくないのだ。

「みっともない話だけど、あいつと喋ってるを見て、眩暈がするほど嫉妬したんだ」
「公ちゃん、ねえもう……
は可愛いし、三井はあの通りかっこいいだろ。盗られるんじゃないかって思った」

が言葉を挟むが、公延は意に介さない。

……心から思ったよ、はオレのものだ、触るな、お前なんかに渡したくないって」
「公ちゃんもうやめて」
、もう少しだから聞いて。それから自分なりに考えたんだ、色々」

公延の腕に手をかけて揺するの手を、押し戻す。

「口止めしてたから、初めて聞くと思うんだけど、オレ、東京の大学受けるんだ。受かればだけど、ここからは通えない距離だから、ひとり暮らしするんだ。家を出る」
「そんな……
「それは少し前から決めてたことで、その頃からこれを渡そうと思ってて」

蒼白な上に愕然としたの前で、公延はポケットから何かを取り出して差し出した。

「オレも世界で一番を愛してる」

公延の手のひらには、小さな小さな指輪が乗っていた。はがくがくと震えている。

「高校とか大学とかそんな近い話じゃなくて、その先もずっとずっと一緒にいたいんだ。そのために、ちゃんと大学行って、小父さんを失望させない男になりたい。誰にも文句言われない人間になってを下さいって言いたくて、だけど4年間なんて、オレだって怖い。だから、これを受け取って欲しくて」

公延が手のひらから取り上げた小さな指輪は、玄関の灯りを受けてキラキラと煌いている。

「今日渡そうと思って用意してたのに行き違いがあって、違うサイズが届いたんだけど、なんとか間に合って取りに行ったんだ。バスケ部の連中にはその帰りに捕まったんだよ。どうも指輪のサイズで揉めてたところを彩子と晴子ちゃんに見られてたらしくて、指輪を見せろってせがまれてさ」

ホワイトゴールドのリングに、小さいが赤い石が嵌っている。堅苦しくなく、しかしエレガントなデザインだった。

公延は玄関に膝を着いて指輪を差し出す。はまだ震えている。

「4年間、待っててくれないか。もうこれっきりだから。その先はずっと一緒だから――

言葉に詰まってしまった公延に、は両手を伸ばした。公延は迷うことなく左手を掴み、がくがくと震える薬指に指輪を嵌めた。指輪はの指にぴったりと嵌り、きらきらと輝いている。は、ゆっくりと立ち上がった公延に飛びついた。

よろけた公延は玄関のドアに背をついて、を強く抱き締める。

そして震えながら首にかじりつくを引き剥がし、公延は荒々しく唇を押し付けた。も爪先立ってキスを受け入れる。公延は舌をねじ込み、身を捩るの体を締め上げながら、口中をかき回した。が苦しそうな吐息を漏らしても、何度も、何度も。

しばらくすると、許容量を超えてしまったらしいは膝から崩れ、公延はその体を抱きとめた。

、少し遅くなっちゃったけど、今日はずっと一緒にいような」
……朝まで?」
「うん、朝まで。もう……約束は果たされたと思うから」

そう言って公延は少し恥ずかしそうに微笑んだ。

「ねえでも公ちゃんこれって本物じゃないの」
「え、本物はマズかった?」
「そんなわけないでしょ、高かったんじゃないのと思って」

は左手で輝いている指輪をしげしげと眺めている。

「うーん、言うほどでもないんだけど」
「だって公ちゃんバイトなんてしてないじゃない」
「それはほら、小遣いとかお年玉とか取っておいたのがあるから」

公延はの用意したチキンをもぐもぐやりながらそう言った。からのプレゼントであるマフラーと手袋が膝に乗ったままである。

「ていうか本当に高くないんだよ。そんなに気にするなよ」
「だって……これルビーじゃないの」
「そうだけど、って女の子ってすごいな、みんな石見ただけでわかるんだもんな」

少し呆れている。だが赤い宝石といえばルビーかガーネットくらいがごく一般的である。

「彩子と晴子ちゃんがなんかもう、ちょっと怖いくらい強引に見せろって言うもんだから」
「ねえその揉めてるところを見られたのって……

ピンと来たが問うと、案の定も彩子たちと出かけていた日だ。

「え、危なかったな。下手したらに見られてたのか」
「それでアヤちゃんたちテンション上がっちゃったんだね」
「強奪されるのかと思ったよ」

その様子は想像に難くない。

「おかげさまで、これのことをほぼ全員に知られる羽目に……
「あー、うん、それは運が悪かったね」

その場に三井も流川もいたのだとしたら、余計に気まずい。

にはほんとに悪いと思ってるんだけど、どうにも離れきれないというか」
「さっきのは私も言い過ぎた。私だって花道と流川の期末見てるんだし」
「あいつらは可愛いんだろ。弟みたいで」
「そうなのよ……

桜木と流川がわざわざ個人的にに頼りに来るわけがないので、これはほぼが自主的に買って出た個人教授である。しかし桜木と流川が二人揃って仲良く教わるわけもないので、宮城と彩子が同席してファミレスでの勉強だった。

「授業なんて聞いてないはずの桜木が赤点取らないから、カンニングを疑われたらしいよ」
「バカみたい、教え方が悪いのに! ちゃんと教えてないくせに疑うなんて」
「なあ、来年の県予選、一緒に見に行こうか」
「県予選? インターハイに行くための、ってやつ?」

ワインではなくブドウジュースを飲みながら、公延は大きく頷いた。

「宮城がキャプテン、桜木と流川はたぶんスターだよ」
「そんなに?」

自分が引退してしまったら気楽になったのだろう。その上活躍が期待される後輩を可愛がっているに、その勇姿を見せてやりたいと思った。それには練習試合なんかより、予選とはいえ公式試合の方がいい。

「もっと早く誘ってくれたらよかったのに」
「オレ、今年もほぼスタメンじゃないからさ」
「えっ、そんな理由?」
「そりゃそうだろ。不動のスタメンならもっとさっさと呼んでたよ」

「男の約束」も話してしまったし、ほぼプロポーズもしてしまったしで、公延はいつもより口が軽い。

「あいつらの試合なんか見たら、腰抜かして目がハートになるよ」
「公ちゃん、そういうことはもっと早く言ってよ」
「ほらみろー」
「いやそうじゃなくて……公ちゃんてほんとにもう」

公延はきょとんとしているが、が誰か他の男を好きになってしまったらと不安に思うことがある、そんな風に思ってくれていたことを知っていたら――と。だがもういいのだ。は少しだけ重い左手がときめくのを感じて、頬を緩めた。

「公ちゃん、ケーキ食べよ!」
「なんか腹一杯になってきた」
「ちょっとくらい付き合ってよもう!」

まるで子供の頃に戻ったような気さえしていた。6年越しの告白があってもプロポーズがあっても、言葉も話せない頃から共に生きてきたふたりにはこんな時間の方が自然だった。ただそれでも、回りまわってようやく満ちた心からは、ほんの少しだけ気持ちが零れ落ちる。

ぽつりぽつりと夜が深まるごとに、零れ落ちてゆく。