エヴォリューション

01

公延が家を出てから約1ヶ月、はかつてないほど苛々して過ごした。苛々しすぎて髪でも抜けるのではないかと思うほどであったが、向こうも慣れない環境で新生活を送っているかと思うと、メールや電話も遠慮がちになり、苛々が加速する。

彩子の計らいで、公延が家を出るまでに何度か泊まり合いをしてあるので、都合さえつけばすぐにでも彩子の家に泊まりに行くという建前で東京に行きたい。しかしそう簡単に都合がつけばこんな風に苛々しない。

結局、はゴールデンウィークあたりに親公認で公延の所へ行くことになった。彩子に協力してもらったのに、とりあえず役に立たなかった。今回は晴子と一緒に赤木込みで訪ね、晴子とは公延の、公延は赤木の部屋に泊まるという文句のつけようがない段取りになっている。親が絡んでいると面倒くさい。

そのゴールデンウィークが過ぎれば、5月半ばには県予選が始まる。新生活で慌しいと言っている公延だが、トーナメント戦のどれかには必ず都合をつけたいと考えているらしい。よもや緒戦で敗北ということにはならないだろうが、はその話が出る度に少しドキドキしてしまう。

そのドキドキも手伝って、苛々が少し落ち着いてきた。彩子とよく会う湘北に近いカフェである。

ちゃんが緊張してどうするの〜」
「大丈夫ですって。この桜木がいる限り湘北は負けませんから」

ぼんやりした晴子と自信満々の桜木を目の前に置いて、は余計緊張してきた。

「でも嬉しいな、木暮さんも来てくれるんだって、桜木くん」
「はい晴子さん!」
「公ちゃんはOBだけどさ、私、場違いじゃないかな。湘北の人いっぱいいるんじゃないの」
「確かに去年の夏以来ギャラリーは増えたけど〜ちゃんはスーパーバイザーなんだし」
……花道、中間大丈夫?」

は妙な緊張にはそのせいもあったのだと気付いた。県予選の直前に中間考査である。

「大丈夫よね桜木くん、もうずっと赤点出してないんだもんね」
「はいはい、それはもう、学校のテストごときこの桜木にかかれば――あだっ」

晴子の隣で桜木はデレデレである。は桜木の脛を思い切り蹴った。赤点がないのはのおかげだ。

さん、痛いっすよ」
「晴子ちゃん早めに見ておいた方がいいよ。私今年は受験だし、どこまで手伝えるかわからないから」
「え〜そうかなあ」

やはり晴子はあまり状況をよくわかっていない様子だ。とりあえずのところ、湘北は校則によるインターハイ出場の条件が1学期末の赤点の数だというので、中間は多少大目に見てもいいのかもしれないが、2学期からは見てやれるとは思えない。来年ならなおさらという気がする。

晴子の方にあまり自覚がないようだが、兄が東京に出て行ってしまったせいか、このところ晴子と桜木はとても仲がいいように見える。今日も晴子とゴールデンウィークの件を打ち合わせるために会っているのだが、さも当たり前のように桜木が着いてきた。

「ああだめ、やっぱり緊張する。花道もそうだけどリョータくんも流川もいるんだもん」
ちゃん、どの試合を見に来るの」
「それがまだはっきりしなくて。私は都合つけやすいから公ちゃん次第で」
「トーナメントは基本平日だから……決勝リーグの方がいいような気もするなあ」

公延の都合ありきなので、いつになるかわからないのが余計緊張を呼んでいるのかもしれない。

「海南と陵南は絶対に当たると思うんだけど」
「海南……ああ、清田くんね」
「あとは翔陽とか〜」
……OBってよく見に来るものなの?」

せっかく忘れていた面影がちらりと頭を過ぎる。どちらにせよ今回は公延と一緒なのだが、それでもあまり顔は合わせたくない。出来れば誰も知っている人がいない対戦相手のときに見たいと思いつつ、楽しそうに喋っている晴子と桜木の向かいではコーヒーを啜った。

……お兄ちゃんはなんか変わり映えしないけど、木暮さん変わったあ」
「メガネのせいじゃなくて?」
「うーん、それもあるんだけど……

待ち合わせた駅で昼食を取った後、4人は公延の部屋に向かっていた。ゴールデンウィークと言っても、直前の週末である。ゴールデンウィークに入ると、大学バスケットはトーナメント戦が始まってしまう。さらに5月末からは新人戦も控えている。

そんなわけであまりいい時期ではないのだが、幸いにもこの土曜の午後から日曜の午前中までを休めることになった。時間は短いが、むくれていたも晴子もとりあえずは満足である。

先を行く公延と赤木の後ろを歩きながら首を傾げている晴子は、眉間に皺が寄っている。公延は大学に入るのを機にメガネを作り直した。もうの妨害がないので、ラウンドではなく細いフレームのオーバルに変わった。それだけでも随分印象が違う。

「あ、髪型? ちょっと伸びたのかな。うーんでもなんだろう違うなあ」
「まあ、晴子ちゃんが知ってる公ちゃんは制服か変なTシャツだもんねえ」

環境が人を変えるのだろうとは思うが、努めてはそう考えないようにしている。4月に家を出て、それから1ヶ月も経たないうちに晴子に変わったと言われてしまっては、この先4年間でどんな変化が公延に襲い掛かるか気が気でない。

公延のアパートに到着した4人は狭い部屋の中で膝をつき合わせながら喋っていた。話題は主に湘北の新人の話である。昨年の活躍により、県外からも大量に入学希望者が現れたという。脱落者も出るだろうが、大増員だという話だ。目をきらきらと輝かせながら話す晴子の話に公延も赤木も目を細めている。

「ふうん、じゃあその子たちも今度見られるんだね」
「あ、いやまだそれは……
「なんだ、スタメン決まってないのか」
「もちろん3人は確定だけど、監督、今のところ何も言わないのよね」

途端に公延と赤木は難しい顔になる。いくら卒業してしまったとはいえ、気になるのだろう。にはよくわからない話だが、そんな新人くんたちを宮城がキャプテンとして率いているかと思うとまた緊張してくる。

「さて、じゃあそろそろ行くか」
「えっ、行くってどこに?」

時計を見上げた赤木が膝を立てると、と晴子はきょとんとして身を乗り出した。そんな予定はなかったのだが、どこかへ連れて行ってくれるとでもいうのか。元々晴子は公延たちの大学のバスケット部を見学したいと漏らしていたが――

「どこって、帰るんだよ」
「早くない? まだそんな時間じゃ――

きょろきょろしたに、赤木は盛大にため息をつく。

「お前な、まさか今日の段取り、本気で信じてたわけじゃないよな」
「はあ?」
「この様子じゃ信じてたみたいだな」

苦笑いの公延の肩を叩き、赤木は立ち上がると晴子の荷物を掴んで玄関に向かった。

「え、お兄ちゃん?」
「晴子お前も真に受けてたのか、あんなの。お前はオレの部屋、はここに決まってんだろうが」
「ええ!?」

声を上げたのはだ。晴子と赤木が絡んでいてはどうしようもないと思っていたのに、思わぬ展開に心臓が跳ね上がる。色恋に関しては常に自分の方が真剣だと思っていたのだが、さすがに公延も気が回るようになってきたということか。赤木も粋なことをする。

「あわわ、ちゃん、じゃあ、明日、またね」
「うん、なんかごめん、明日ね」

何を想像したのか、晴子は真っ赤である。おそらく想像は間違っていないだろうが、も照れる。

役目は果たしたとばかりにスタスタと出て行く赤木の後ろを晴子がちょこまかと走っていく。その後姿を見送っていたと公延は、温かくなってきた風を背にしてちらりと目を見交わす。

「最初っからそのつもりだったの?」
「まあ割と。赤木が言い出したことなんだけどね」
「もう、公ちゃんが思いついてよ」
「県予選のときに帰るからいいかなとか思ってました。あとはまあ、新人戦の後かなと」
「それっていつよ」
「6月すぎ」

はかくりと頭を落とす。やはり人はそう簡単に変わらない。

さわやかな風に吹かれながらふたりはアパートに戻る。引っ越したばかりということもあって、公延の部屋はあまり物がない。それでも殺風景にならないほどこじんまりとした部屋だ。築年数もなかなか、ワンルームといってもそれはあくまでも表現の上で、新築のワンルームとはなんだか様子の違う部屋だ。

「でも、いつも考えてるんだけどな」
「私のこと?」
「そう」

はペンダントを外して指輪を嵌める。その薬指を公延の指がなぞる。

「朝、目が覚めてすぐ。夜、寝るまでずっと。いつも考えてはいるんだよ」

ベッドに腰掛けているの肩を押して倒れこむ。真新しくまだ馴染んでいないシーツがゴワついた衣擦れの音を立てる。ふわりと立ち上る乾いた繊維の香り、固いスプリングが跳ね返す感触、は徐々に現実感を失っていく。目の前の公延も晴子の言うように少しだけ違って見える。

「公ちゃん、かっこよくなったね」
「はあ?」
「公ちゃんが中学に入ったときのこと、思い出すなあ。北村中に可愛い女の子いたらどうしようって思ってた」

少し伸び気味の公延の前髪に指を差し入れて、かき上げる。

と違ってオレは言い寄られたことなんかないんだけど、信用ないんだな」
「そりゃあ、私の公ちゃんはかっこいいからね。心配なの」
「部活も忙しいし、女の子物色する暇なんかないぞ」
「わかってるよ。心配だしやきもちも焼いちゃうけど、私にはこれがあるもん」

左手を掲げる。午後の透き通った光にかざせば、ルビーがきらりと光る。

「アヤちゃんがね、2月とか3月頃に何度か泊まりに来てくれて、私も泊まりに行ったの」
「へえ、仲良くなったもんだな」
「リョータくんとも仲いいよ。じゃなくて、だからね、いつでも私アヤちゃんちに泊まりに行けるの」
「ふうん」
「ふうんじゃなくて! アヤちゃんちに泊まるって言っても、お母さんたち何も疑わないの!」

は公延の鼻をキュッと摘んだ。

……ああ! そういうことか」
「私も受験あるし、夏までとは思うけどさ」
「そっか、そしたら今度は赤木たちに世話にならずに済むな」

ふにゃりと微笑むの唇に公延の指が触れる。

「たかが1ヶ月だけど、が近くにいないのは辛かったよ」
「公ちゃん」

両腕をゆったりと広げたに公延は覆い被さる。公延にしてもにしても、久々に鼻をくすぐる香りが肌をくまなく通って痺れに変わる。唇が重なり、静かな部屋の中に粘着質な音だけが響いている。

、ごめん、ちょっともう我慢出来そうにない」

は黙って頷き、伸し掛かってくる公延の体重を全身で感じていた。

一晩かけてたっぷり愛し合ったのだが、帰宅後ものの数日でまたは寂しくなり始めた。その点については公延も同じだったようで、電話やメールの回数が増えた。もう2週間もすれば県予選が始まるので、また会えるのはわかっているのだが、会ってしまうと里心がつくのだろう。

そうこうしている間に県予選の日程の連絡が晴子から届き、公延はなんとか都合をつけようとしたのだが、どうしても新人戦の期間と被る。寂しいものの、も話がわからないわけではない。協議の結果、公延とは已む無く予選を諦め、決勝リーグを見に行くことにした。

湘北が予選負けをするわけはないと思いつつ、今年はBブロックのシードである湘北が昨年の翔陽の轍を踏まないとは言い切れない。は彩子伝手に宮城にプレッシャーをかけておくことにした。決勝リーグしか都合がつかないから、絶対に決勝まで進むこと、それまで負けるなと言伝た。

その代わり、はまた桜木と流川の中間の面倒を見ると請け負った。

公延の家が使えないので、は仕方なく長時間粘れそうなファストフード店を探してきて桜木たちを呼び出した。桜木は晴子に着いてきたが、素直に来たがらない流川を引っ張って彩子と宮城も来た。

「またあんたかよ」
「また私です。そういう台詞は自力で赤点回避出来るようになってから言え」

流川は相変わらずだ。彩子にどつかれつつ、席に着く。この状況では仕方ないので、桜木を晴子が、流川をが、宮城を彩子が見る。桜木が手に余る場合はが兼任すればなんとかなりそうだ。桜木と接触させると騒ぐので、間に彩子を挟んで流川が座っている。

「私も一応3年で受験だし、1学期の期末までしか助けてやれないからね」
「別に助けてくれなくていいけど」

本当にそれで大丈夫なのだろうかとは不安になるが、インターハイに行くのにクリアする必要があるのは1学期末だけ。2学期は晴子が頑張るしかないが、それを上手く乗り越えて3年に入ればまたなんとかなるかという気がしてきた。そこまで甘やかす意味があるのかどうかは、考えないことにしている。

晴子に教えてもらってデレデレの桜木、範囲の確認をしている宮城と彩子、その向こうでは流川の教科書をめくっている。学校の外であり、一緒にいるのが事情をよく知った連中であるので、は指輪をしている。流川が目の前にいるが、彼に対しては気を遣う方が失礼だと思っている。

何しろ目の前なので、さすがの流川も指輪に気付いた。それでなくとも湘北バスケット部2、3年生は昨年のクリスマスから指輪の存在を知っている。ああ、あれか、と流川が気付いたくらいだから、当日公延は相当いじられたはずだ。難しい顔をしつつ教科書をぱらぱらとめくっていたを、流川は頬杖で眺めていた。

……ん? なに?」
「いや、幸せそうだなと」
「そうでもないけど、そう見えるの?」
「それ」

流川はの左手を指差した。はちらりと視線を落とし、また流川に戻す。

「そんな単純な話でもないんだけどね」
「そうやってグダグダ言うのも幸せのうちだろ」
……なるほど、真理だね」

は改めてこの生意気な後輩を好ましく思った。不愉快で無神経な態度も多いが、腹を割って話せる気がしていた。はいい友達になれると思っているが、流川は決してそれを良しとしないだろう。残念には思うが仕方あるまい。きっとそれも幸せのうちだ。