唇を重ねたまま清田はを廊下に押し倒した。昼間からじわじわと蓄積されたドキドキが一気に放出されてしまったような感じだ。の唇や顎や頬に優しくキスを繰り返して髪を撫で、そしてぎゅうっと抱き締める。急なんかじゃない、もう何時間もこうしたい気持ちを押し込めてきた。
は嫌だと言わなかった。急にどうしたんだと慌てていたけれど、バカなことを言うなと叩いてきたりもしなかった。身を引いて清田の腕から逃れようともしなかった。それは同意のしるしと考えて差し支えあるまい。
しかしやがて清田に抱きすくめられているはか細い声を漏らした。
「……だけど、私が好きとかいうわけじゃ、ないんでしょ」
「えっ」
「幼馴染だし、でも一応女だからまあいいかとか、そういうこと?」
清田が顔を上げると、は恥ずかしそうに顔を歪めて視線をそらす。何の話だ?
「他に誰もいなくて、ふたりでいるからそう思ってるだけじゃなくて?」
「」
「明日の朝になったら後悔するんじゃないの、夜中のテンションで何やってんだってヘコむんじゃないの」
腕の下で身を縮めて怯えているを引き起こすと、清田はゆっくりと頭を撫でる。まったくずいぶん信用がないもんだと情けなくなるけれど、昼間のことを思い返すと自業自得かもしれないと少しは反省しておく。
「そんなことしない」
「じゃあ私のこと好きなの? 付き合うの?」
「がそれでもいいなら」
「信長はそうしたいの?」
元からはっきりとした気持ちがあるわけじゃなかった。けれど、そう問われたらなら答えはひとつだ。
「そうしたい。のこと好きだから、一緒にいたい」
もきっと同じだったんだろう。清田がそう言うなり膝立ちになって飛びついてきた。
「は?」
「……好き」
「一緒にいたい?」
「うん」
今度こそシャンプーの甘い香りに鼻をくすぐられていた清田はまたぎゅっと抱き締めると、の手を引いて立ち上がり、和室に引っ張りこんだ。来客用の布団が一組敷いてあるだけ、あとは清田の私物、充電ケーブルが差さった携帯があるくらい。ふたりは布団の上に腰を下ろすと、揃ってぱたりと倒れこんだ。
「……くっつかないと布団からはみ出ちゃうよ」
「くっつけばいいじゃん」
「いいのかなあ……」
「嫌なのか?」
「そういうことじゃなくて、何ていうのかな、ものすごく悪いことしてる気がして」
火事の件もそうだが、にとっては親が不在の自宅である。罪悪感が出てきてしまうのは無理もないか。清田はを引き寄せてまた頭を撫でる。
「悪いこととは思えねえんだけどなあ」
「だって、親いない時にこんな……」
「別にどっちかが許可なく連れ込んだわけじゃないだろ。むしろ親がこの状況にしたんだから」
「だからそれは私たちを信頼して」
「そうか? 単にまだ子供だと思われてる気がするけど」
の両親にしても清田の両親にしても、見ず知らずの子ではなくて小さい頃からよく知っている「友人の子」だ。自分たちの子供を大人の世界に連れて行ってしまう他人という意識が少ないのだろう。
「てかどうせあいつら明日の夜にならないと帰ってこないじゃん。バレないよ」
「それはそうなんだけど」
「……やっぱり部屋帰りたいか?」
清田はの頬に指を滑らせて、唇に触れた。は小さく首を振る。
「じゃあいいだろ。やっと眠くなってきた」
「うん……何かホッとした……」
「今日は疲れたよな、色々ありすぎて」
「明日部活大丈夫?」
「平気。今からちゃんと寝るから平気」
時間的には推定3時過ぎだ。清田は眠気に負けた程よいドキドキを心地よく感じながらの額に唇を寄せる。甘いシャンプーの匂い、それに混ざるの匂い。眠気さえなかったらきっと頭に血が上ってしまう匂いに違いない。それは夜が明けてもきっと変わらないはずだ。
「でも、次にふたりで夜過ごす時はホッとするんじゃなくて、ドキドキしろよ」
「それもしてるってば。眠いからちょっとどこか行ってるだけだもん」
「まじかーオレもだー」
くすくす笑いつつ、ふたりは重く垂れ下がってくる瞼の向こうに相手を見ながら眠りに落ちていった。
清田の携帯のアラームにが目を覚ましたのは10時。雨戸がきっちり閉まっている和室は外の光が差さず、引き戸の細い隙間から薄っすらと明かりが差し込んでいるくらい。がもぞもぞと体を動かしたので、清田も目を覚ました。
「……びっくりした」
「覚えてなかったの」
「いやそうじゃなくて、まずここどこだよと思って」
鼻で笑ったがするりと抱きついてきたので、抱き返した清田はまたの髪の匂いに背筋を震わせた。静かな土曜の午前中、火事騒ぎもすっかり落ち着いたようで騒がしい音は聞こえてこない。
「、腹減った」
「嘘お」
「ほんと」
「しょーがないなもー、ご飯食べよっか。あ、私携帯も部屋に置きっぱ」
何しろ深夜にドタバタと騒いだし、夜食を食べてから10時間以上が経過している。普段なら朝食をしっかり食べて走り回っている清田は腹がキュルキュル鳴っていた。
一応ふたりの母親からは朝食と昼食の指示をもらっていただが、何しろ時間が中途半端だ。は朝食用のパンと昼食用の焼きカレーを両方用意し、午後から部活の清田は後先考えずに全て平らげた。
「あーくそ、部活行きたくねえ」
「そんなに食べるからでしょ。少しじっとしてた方がいいんじゃないの」
「あのなあ」
「何よ」
満腹で動きたくなくなっていると思っていたは、洗い桶に焼きカレーの皿を浸したところで清田に抱きすくめられた。そっちの意味じゃなかった。
「まだ親帰ってこねえんだし、まだここにいたいと思ったんだよ」
「……うん」
「部活行きたくないとか思ったの初めてだよ」
苦笑いの清田だが、彼女出来て幸せなので部活休みます、という気楽な部活動ではない。時間ギリギリまでにベタベタとくっついていたが、そのに追い立てられて渋々玄関で靴を履いた。の家から学校までは1時間もあれば着く。
「今日は部活終われば北海道のお土産が待ってるよ」
「そんなのよりのきのこカレーがいい」
「また作ってあげるってば」
靴紐をしっかり結んだ清田はサッと立ち上がると、段差で目線が近くなっているに向き合うとぎゅうっと抱きつき、すぐに身を引いた。
「、オレ朝になったけど何も後悔してない」
「……うん」
「今度は最初からふたりで寝たい。風呂も一緒に入りたい」
「ちょっ、何言ってんの!?」
「冗談じゃねーから」
そして慌てるを引き寄せてキスをすると、そのまま玄関を飛び出た。
そうは言っても清田は部活が忙しいし、はで普通の高校生なので、いくら幼馴染だからといってそう何度も何度も「ふたりでお留守番」せざるを得ないような状況は巡ってこないはずだ。ふたりきりで過ごし、そのまま夜を迎えることなど望んでも手に入らないに違いない。
そのはずだった。
午後からの練習を終え、清田が学校を出たのは19時を過ぎていた。練習時間は短かかったけれど、夜中に火事と地震で騒いだ疲れが何となく残っている。今日は北海道土産でもたらふく食べてさっさと寝よう。が恋しいけれど、少なくとも週明けまでは会えないのだし、あまり思い詰めない方がいい。
正門を出た清田が携帯を引っ張りだすと、大量の着信を示すアラートが出ていた。今度は何だよ、と確認すると全て母親。そろそろ帰宅する頃なのだから帰ってからでいいじゃねーかクソババア、と頭の中で毒づいた清田だったが、一応かけてみる。疲れたから外食だとかいうことなら話は別だ。
「やっと捕まったー!」
「部活なんだからしょうがないだろ。今から帰るけど何だよ」
「間に合ってよかった、あのさ、悪いんだけど帰れなくなっちゃったのよ」
「ハァ!?」
とぼとぼと学校の前の通りを歩いていた清田は立ち止まってよく響く甲高い声を上げた。
「帰れないってどういう……」
「それがさ、こっち昨日の夜中から天気が大荒れで、まだおさまらないの」
「飛行機飛ばないってこと?」
「そうなのよ。予約してた便が欠航になっちゃったから今明日の便を取り直してきたところ」
「もう一晩そっちに泊まるのか」
「そうなのよ〜」
悪天候のせいで予定が狂ってしまった割には母親の声は何だか明るい。
「宿とか大丈夫なのかよ」
「それもさっき押さえてきたから平気」
「で、今日も北海道の美味いもの食えるぜわーいってところかよ」
「あっはっは、悪いわね〜!」
大当たりだったらしい清田の母親は嬉しそうに笑っている。
「ふざけんな! どうすんだよ冷蔵庫からっぽじゃねえか!」
「だから早く捕まえたくて電話したんでしょうが。今日もんとこにいてよ」
「はい!?」
「火事とか地震とか大変だったんだって?」
「いやまあ、それはそうなんだけど」
「も怖かったろうし、あんたじゃ何の役にも立たないけどいないよりはマシだろうし」
「あのな」
しかし清田は胸がドキドキしてきて息苦しさを感じていた。
「またカレーじゃアレだろうから、今日はふたりで外食でもしておいてくれる?」
「オレそんな金は……」
「んなことはわかってるわよ。が立て替えるくらいはあるって言うから」
別にのきのこカレーでいいんだけど、と言いかけて清田はグッと口をつぐむ。
「しょうがねえなもう……明日は朝からあるし、結構気ィ使うんだぜ」
「もうこんなこと滅多にないって。には色々お土産買ったから」
「オレには?」
「まあそれなりに」
「どういうことだよ!!!」
それらしく喚いてみせた清田は逸る気持ちに足が早くなるのを抑えていた。早く帰りたい。
「まあでも今日は火事も地震もないわよ! に迷惑かけないようにいい子にしてなさいよ」
「してるっつーの!」
「そんなわけだから、私たちは明日の昼頃には帰ってると思うからよろしくね」
「へいへい、せいぜい美味いもん食って下さい」
楽しそうな母親の声を残して電話は切れた。それを確かめた清田は一呼吸置いて走り出す。今日はもうのことはあまり考えないようにしてさっさと寝てしまおうと思っていたのに。あんな風にぴったりくっついて眠れるチャンスなんて当分巡ってこないと思っていたのに。
学校から家までの道のり、徒歩の部分をダッシュで駆け抜けた清田は震える手でインターホンを押し、ガチャリと鍵が開いたのを確かめると玄関の中に飛び込んだ。そこにはゆったりとした私服のが恥ずかしそうな顔をして佇んでいた。
「お、おかえり……」
「ただいま」
「小母さんに聞いた?」
「学校出たとこで聞いた」
視線を逸らしているに一歩近付くと、清田は少し屈んで顔を近付ける。
「オレはのカレーでよかったんだけど、外で食べるんだろ。それから明日はオレ朝から練習」
「うん、聞いた」
「それであいつらは昼頃帰ってくるって話だ」
「そう」
まだがもじもじしているので、清田は両手で頬を包んで上を向かせる。頬が真っピンクだ。
「先に風呂入ってもいいか? それから飯食いに行こう」
「う、うん……」
「で、帰ってきたらまたゲームしようぜ」
「おお、そうだね」
「そのあと一緒に風呂」
「はい!?」
そっと額を寄せた清田は照れて慌てているににんまりと笑いかけて、囁いた。
「明日早いからそんなに夜更かしできないけど……今日はずっと一緒な」
はもう何も言わなかった。黙って目を閉じ、キスを受け入れる。
今再び、ふたりの夜が始まろうとしていた。
END