ふたりのよる

2

ギリギリでもゼロではない清田の小遣いは毎月月初に渡されて、だいたい20日前後で力尽きる。しかしそれでも以前に比べたら長持ちするようになった。中学生の頃は一週間しか持たないことも珍しくなかった。用途は基本的に買い食い。

コンビニに到着した清田は入店する前に財布の中身を確かめ、また今月の残り日数も確認し、自分だけ置いて北海道へ旅立ってしまった両親をちょっと恨んだところで、いい手を思いついた。

のやつ、すごい頑張ってメシとか作ってくれてさ、何か悪りーなと思ったからコンビニでアイスとかお菓子とか買ってプレゼントしたんだよな。だから小遣いなくなっちゃってさ。ちょっと追加してくんない?

これだ。これでいこう。これなら額をちょっと多めに申告しても反撃されることはないだろう。何せオレのために買ったものじゃなくてのために買ったものだし、が留守を預かってくれたことには変わりないんだし、ちゃんにお土産買ってくるからあんたは気を使わなくていいからね、なんて言われてないからな!

狡っからい思いつきにしめしめとニヤつきながらコンビニに入った清田はのリクエストである雪見だいふくと、自分も一緒に食べられるものという基準で選んだお菓子をいくつか掴んで会計をし、店を出るとまた走りだした。アイスがあるので溶けない内に帰りたい。

清田の頭の中は、600円程度の買い物なので1000円と申告して差額を儲ける、ということでいっぱいになっており、これで今月は少し余裕だな、とうきうきして帰ってきた。が、家を目の前にすると、出かける前の妙なドギマギが蘇ってきて清田は狼狽えた。今夜はここでとふたりきり……

清田はブルブルと頭を振ってその考えを振り払う。しょうがねーだろ、健康な男子なんだから! いくら幼馴染ったって女の子と一晩ふたりっきりってことになってドキドキして何が悪いんだよ! 何も感じません、ドキドキしません、て方が失礼じゃないか? 何かしたいって思ってるわけじゃない、ドキドキしてるだけなんだからいいだろよ!

開き直りと言われればそれまでだが、とにかく清田は無駄に高鳴る胸に関しては好き勝手にさせておくことに決めた。ドキドキしているイコール、と何かするということではない。ドキドキしていてもそれが表に出て動揺しなければいいだけの話だ。

「ただいまー。あれっ、もう支度してんの」
「ご飯炊いてるだけだよ。時間かかるから先にやろうと思って」
「これ何の匂い?」

玄関から廊下を通り、キッチンに顔を突っ込んだ清田は鼻をくんくんさせながらアイスクリームを冷凍庫に入れる。はご飯を炊いているというが、ご飯ではない匂いがキッチンに漂っている。甘くて香ばしい匂いだ。

「パンケーキ」
「マジか!!!」

冷凍庫のドアを閉めた清田はぴょんと飛び上がった。パンケーキ、大好物です。

「ミックスがあったからさ。信長好きだったよな〜と思って」
「好き好き食べる食べるどこどこ」

壊れた機械のように何度も頷きながら清田ははしゃいでいるが、は呆れ顔だ。

「今はダメ! ご飯のあとにしなよ」
「いや別にオレ今パンケーキ食べたってカレーおかわりできるから大丈夫だって」
「そういう問題じゃないの。後で後で」
「うわ、ちょ、さんお願いします今食べたいです下さい」

冷ましておいたらしいパンケーキを遠ざけようとするに追いすがる清田は、焼きたての甘い香りに少々理性を欠いていたらしく、パンケーキの乗った皿を清田から遠ざけようとするの後ろから腕を伸ばして皿を掴もうとした。要するに後ろからべったりくっついてしまったわけだ。

「ちょ、何やってんの! やめ、触るな!」
「うわ、いやオレ別に」

慌てて飛び退く清田、さっさとパンケーキを移動させるは後ろを向いているので、清田にはその表情が見えない。そして清田はまたドキドキが激しくなってきて焦る。ドキドキは放置の方向だけどそれを自分から誘発させるようなことしてんじゃねえ……

またやってしまった、という後悔とともに清田は肩を落とし、今すぐパンケーキを食べることを諦めた。こいつほんとバカかよパンケーキは焼きたてが一番美味いのに……

「あとでちゃんとあげるから」
「へいへい。てかカレーも準備始めた方がよくね? もう夕方だけど」
「うーん、そんなに時間かかるかなあ」
「かかったら困るから早めに作っとけばいいじゃん。カレーは寝かせた方が美味いんだろ」

腰に手を当ててエッヘンとふんぞり返る清田に軽くため息をつきつつ、は頷いて冷蔵庫を開けた。野菜と肉を取り出したが、肉の方はピンク色の付箋が付いていて、どうやら母はちゃんと指示を残していってくれたようだ。それをちらりと見た清田はやっと安心した。生焦げカレーはひとまず回避の模様。

「ていうかさ、あんだけ偉そうに言ったからには料理、出来るんだよね?」

はにっこり笑ってじゃがいもを差し出してくる。

「え。出来るっていうほどでも――
「手伝うって言ったもんね! はい、これもよろしく!」

はじゃがいもとにんじんを清田に持たせると、引き出しの中からピーラーを取り出してそれも手渡す。まあ、手伝うと言ったのは自分だ。清田はおとなしくシンクの前に立ってじゃがいもを洗い始めた。

……普段からこーいうのやるのか」
「そりゃまあ、家にいる時はね。お菓子も作るよ」
「えっ、マジか。お前ね、何でそういうこともっと早く言わないの」
……何でわざわざあんたに言うの」
「オレ甘いものも好きだもん」
「理由になってないから」

料理はともかく、お菓子と来ては聞き捨てならない清田はシンクの前に立ったまま、肉と玉葱ときのこの準備をしているの方へ一歩近付いて距離を縮める。ようし、今日は何が何でも喧嘩しないぞ。そんで何とかしてお菓子を作ってもらわないと。ついでに次のバレンタインも作ってもらわないと!

「お菓子って何作んの」
「そんな難しいものは作らないって。ゼリーとか混ぜて焼くだけのケーキとか、ナッツチョコとか……

チョコキター! 清田は顔に出ないように頬を引き締めつつ、へえ、と感心した声を上げる。

「チョコなんて作れんの、すげーな」
「板チョコ溶かして混ぜて固めただけだって。誰でも出来るよ」
「そんなことないだろー」
「いやほんとだけど」
「いいなー、ナッツいっぱいのチョコ食いてー!」

一応それは本心だ。ただし、それは2月14日に可愛らしいラッピングを施した上で頂きたい。

「そんなに食べたいならチョコとナッツ買っておいでよ」
「え」
「好きな板チョコ2枚、おつまみのところにあるミックスナッツ1袋あれば出来るから」

真顔でそんなことを言い出すに清田はあやうくじゃがいもを取り落としそうになる。察しの悪い女だなほんとにお前は……! 男がチョコ食いてえっつってんだからバレンタインかな、とか考えろよ! てかチョコならさっき普通に麦チョコ買ってきちゃったから遅せーよ!

しかしこれを逃すと、この察しの悪いはバレンタインなど忘れてしまうかもしれない。

「い、いや、催促したわけじゃねーよ。悪かったな。バレンタインにでもくれよ」

努めてさらりと言った清田だったが、の返事がない。今度はなんだよ……

「何だよ」
「いや、何で私からもらえると思ってるんだろうと、思って」
「えっ、くれないの!? 今年くれなかったっけ?」
「あれお母さんからだよ」
「嘘!? からだって聞いたのに」
……じゃあ何でホワイトデー用意してなかったんだよ」

清田の血の気が引く。バレンタインは確かに母親から「ちゃんから」と言ってロイズの限定品をもらった。だがホワイトデーは母親に丸投げしたのもまた事実だ。俯いて玉葱の皮を剥いているの表情が見えなくて怖い。いえその決して自分が貰えれば後はどうでもいいとかそんなことは……

「本当に私が信長のためにチョコ選んでプレゼントしたって、食べたら忘れるくせに」
「そ、そんな言い方……
「てかさ、別に付き合ってるわけじゃないんだし、催促する相手間違えてない?」
「だって……オレ彼女いねーし……
……バレンタインまでに作れば」

何が地雷だったんだろう。清田はじゃがいもの皮を削りながら静かに混乱した。今日は喧嘩しないようにしようって、思ってたのに。からチョコ貰いたいなーと思うのって、そんなにダメだったのか。てかたぶん子供の頃からずーっと貰ってたチョコって、あれ、からじゃなかったのか。小母さんからだったのか。

しかしそこで子供の頃からずーっとホワイトデーのお返しを母親に任せていたことも思い出して、清田は凹んだ。

から貰ったチョコって、どんなんだっけ? 今年はロイズだったのは覚えてる。だけど去年て? なんか昔、ハートとクマちゃんが交互に入ったの貰った記憶があるけど、あれっていつのことだ? てかいつからバレンタインチョコ貰ってた? 手作りはもらったことないはずだけど、毎年貰ってた?

何でオレこんなに覚えてないんだよ……

一方は黙々とカレーの準備をしつつ、泣き出しそうになるのを必死で堪えていた。

何で今日はこんな風にばっかりなるわけ? 小母さんからも、信長頼むね、1食欠けただけでもヘバるから、他のことはともかくご飯だけお願い! お土産にシレトコドーナツ買ってくるからね! って言われたから頑張ろうと思ったけど、さっきからこいつ失礼なことばっかり言いやがって……

誰から貰ったってどうせ同じじゃん。チョコくれるなら誰だっていいんでしょ。てかチョコ食べたいだけじゃん!

鍋に水を張り、肉ときのこを入れて火にかける。家はカレーの具材を炒めない習慣なので、水から煮ていく。灰汁が出たら取り出して弱火でコトコトと煮ていき、残りの具材を順次追加しては煮込んでいく。小学校中学校の調理実習で教わった時とは作り方が全然違った。けれど、これが一応家スタイルということだ。

全ての具材が入ってひと煮立ちしたら火を止めて蓋をする。後はしばらく放置。これが一番じっくり火が通るのよ、との母はよく言っている。

……ウチのやり方だから、美味しくないかもしれないけど」
……そんなことないだろ」
「チョコとかコーヒーとかは入れないから……
「わ、わかってるって」

ご飯も炊いているし、カレーは食べる10分ほど前にルーを溶いて少し加熱すればよし、あとは作ってもサラダくらいなのでもうやることがない。キッチンを片付けたは紅茶を淹れてリビングに戻る。清田も黙ってついてくる。テーブルの上には清田が先ほど買ってきたお菓子が散らばっている。

、これ一緒に食べようかと思って買ってきたんだけど」
「え。あ、ありがと……
……今度はちゃんとするから」
「えっ、何が?」

麦チョコとスナック菓子のパッケージを指先で突っついていた清田がぼそぼそ言うと、は紅茶の入ったマグを宙に浮かせたまま高い声を出した。急に何の話?

「何って、ホワイトデーの話」
「そ、そんなのもう別に――
「親に丸投げしてたのはその、何をどうしたらいいかもわかんなくて」

部活は忙しいし、自分でお返しを選びに行くのも恥ずかしいし、母親は相手がなのだから変なものは選ぶんじゃないと釘を刺してくるし、だったら選んでくれよと逆ギレしたことは認める。だけどそれは、へのお返しが億劫だったからではない。

「それはいいってもう……今年のはどうせお母さんが――
「去年は?」

腹は立つがいつまでも引きずりたくないだったが、清田は視線を外したままたたみ掛ける。

「その前は? てかもうずっと毎年もらうのが当たり前みたいになってて、いつもからって言われてもらってたけど、それもずーっと小母さんが買ってきてくれたものだったのか? 」

いつの間にかリビングは薄暗くなり始めていて、ふたりの顔色も沈んだ色になっていく。は少し間を置いてから、膝に置いた手を組んでゆっくりと息を吐く。

……去年から、お母さん」
「そ、そっか……
「それまでは、私が選んでた。可愛いハートのとか、クマとか、そういうの」

毎年のことだったし、嫌いな相手ではないし、清田の父にもあげたかった。

「だけど中1の時、バレンタインの日たまたまウチに来てて、そしたら、こんなにもらったんだって自慢し始めて、それで、お前はくんねーの、って。それでチョコあげたら、その場で開けてバクバク食べ始めて、他のも開けて食べてて、あれ、これ別に私からあげなくたっていいじゃん、と思って……

クラスメイトや女バスの仲のいい子からもらったというチョコをおいしそうに食べている清田を見ていたら、無性に腹が立った。しかも、今まで気付かなかったけれど、お返しのセレクトが的確過ぎる気がしてきた。なので、次の年は母親に頼んで選んでもらった。

やっぱり特に清田からはアクションはなし、お返しは前年同様が、女の子がもらって嬉しいものだった。そんなもの、清田が選べるはずがない。これ、小母さんが選んでる。そう確信したは更に翌年も母親に投げた。清田も投げた。母親同士のやりとりになってしまった。

「もういいじゃん、またいっぱいもらえるって。私のがなくても――
「ちょ、それはやだ!」
「はあ?」

海南の男子バスケット部と言えば県内最強、国内でもトップクラスの強豪校である。そこで1年生からスタメンやっててチョコゼロなんてありえない。心配するだけ無駄だ。はそう考えていたのだが、清田は真顔でぶんぶんと首を振っている。いやってあんた……

「やだって何――
のチョコが欲しい」

清田の顔は真剣だった。が、言った直後にしまったという顔をして固まった。

……じゃあ今度は、ちゃんとホワイトデー、自分で選んでよ」

その意味を追求したくなかった。はっきりと言葉になってしまうのは怖かった。すっかり暗くなり始めてしまったけれど明日の昼まではまだまだ時間がかかるし、このあたりで有耶無耶にしておきたい。それは清田も同じだったろう。の言葉に頷いて、リビングの灯りを付けに行った。

こうしてとうとう、ふたりの夜がやって来た。