ふたりのよる

1

「面倒くせえなもう。小学生じゃねーんだから」

この日、清田はの家のソファでひっくり返って携帯をいじりつつ、何度も同じ言葉を繰り返していた。

「だからでしょ。あんたなんか放置してたら何しでかすかわからないからウチで預かることになったんでしょうが」
「預かるとか人聞きの悪いこと言うんじゃない。お前だってひとりで置いていかれないって判断されたんだろ」
「私は前にもひとりで置いていかれたことあるもん」
「嘘つけ。泊まりじゃないだろ」

ブチブチ文句を言い合っているふたりだが、つまりどちらも両親が今晩留守をするのでひとりでは心配だから一緒にいなさいと申し付けられたというわけだ。ふたりは父親同士が学生時代の同期で自宅も近く、家族ぐるみで親しくしている上に同い年で、学校も同じ。幼馴染というやつだ。

といっても、小さい頃からずっと一緒、というほどでもなく、家は近いけれど市が違うので中学までは親の都合でたまに会うくらいの仲だった。最近では清田の方が部活で忙しく、一緒に遊ぶ暇もほとんどなかった。

それでもふたりは社交的なタイプだし、親同士が気安い関係だし、思春期に差し掛かっても気まずくなるようなことはなく、親戚付き合いのような関係を続けてきた。それをよく知る親2組は学生時代の恩師が急逝したとかで、慌てて神奈川から遠く離れた北海道まで飛んでいった。

「親父達だけで行けばいいじゃん。なんでババアどもまで着いて行くんだよ」
「人の親ババアとか言うな野猿のくせに。うちの母親も同じ大学だからね」
「なんで野猿とかお前が知ってんだよ。てかだったらウチのババアは関係ねえだろ」
「来いって言うから予選見に行ったんじゃんもう忘れたのか。ひとりであんたの面倒見るの嫌だったんじゃない」
「オレも北海道行きてえー!!! カニ! イクラ! 味噌ラーメン! あと何だっけ」
「食べ物ばっかりじゃん」

恩師急逝の報せが入ったのは火曜の朝のことだった。聞けばご遺族は内々だけで済まそうと思っていたところ、教え子ネットワークに火がついて電話が鳴り止まず、小さいけれど葬式を執り行うことにしたとのこと。準備の時間も欲しいし教え子の殆どは関東にいるしで、通夜が金曜の夜、土曜が告別式という日程になった。

「だーかーらー。告別式だけ行きゃいいじゃん。そしたら帰ってこれるだろ」
「あんたそんなに親いないと寂しいの」
「そんなわけねーだろ。なんで関係ない母親が着いて行ってオレは留守番なんだよ〜!」
「そりゃあ部活があるからでしょ、さっきからほんとに何言ってんの?」
「カニー!!!」
「しつこい!!! お前は今日私のカレー食べるの!!!」
「そんなの嫌だー!!!」
「殴るよ!!!」

恐らくご遺族は通夜を金曜日にすることで、清田の言うように土曜に日帰りが出来るようにと考えたんだろう。突然のことだし、土日にして通夜も告別式もフル出席できる状態にしてしまっては負担が大きいだろうから……と。しかし教え子たちの恩師愛の前にはまるで意味を成さず、半休を取った親父ふたりは機上の人である。

ちなみに飛行機とホテルの手配を一手に引き受けて準備を整えたのは清田の方の母親である。やっぱりひとりだけ置いて行かれて子供ふたりのお守りをするのが嫌だったのかもしれない。カニを食べるかどうかは定かではないが、出発前に「通夜振る舞いはお寿司が出るわよね……」と呟いていた。

そして息子の清田がカニカニと騒ぐように、清田家は割と食道楽の家である。それが突然のカレーと聞かされた清田はソファの上でジタバタと暴れた。

「別に作らなくたっていいのに。大変だろ」
「お前それものすごい失礼なこと言ってるってわかってるか?」
「しょうがないだろ、お前の料理なんか食ったことないんだから」
「不味くなるって決まったわけじゃないじゃん!」
「美味くなるとも決まってねえだろうが!」

で、食べる前から「お前の不味い料理なんか食いたくねえ」と言われているも同然なので、足をバタバタさせて憤慨している。カレーなんか誰が作っても同じ味だよ!

「てかひとりで留守番させられない、ってウチに置いていかれた意味をよーく考えてみなよ。今日の晩御飯、どうせ食べる夜食、明日の朝、しかも明日は練習午後からで昼もいるんでしょ! ひとりで4食用意できないと思ったからここにいるんじゃん!」

料理はもちろんしない。4食連続インスタントは仮にも運動部の高校生がそれでは体に差し障る。金を置いて行ったら4食きちんと揃える前に何に使われるかわかったものじゃない。そうして食事にありつけなくなれば、どのみちに泣きつくことになる。それならいっそ預けていけばいいか、というわけだ。

ただし、の方も母親から就寝前のチェック項目を記したメモを渡されており、施錠やガスの電源を切るなど普段やらないことをきちんと確認してから寝ること、ときつく言い渡されている。どちらにしてもひとりでは不安が残るが、ふたりで置いておけば何とかなるだろうという母親たちの魂胆が見えるようだ。

「だったらお前に金預けていけばいい話だろ。わざわざ料理しなくても」
「そんなに食べたくないわけ!?」
「だから、お前普段から料理するか? しないだろ? 出来が不安なのはしょうがないだろ」
「しないけどカレーくらい私だって作れるよ!」
「カレーくらい、ってお前な。料理できない女ってすぐそう言うんだよな。中3ん時の合宿なんか――っておい」

首を捻っての方を見た清田は慌てて体を起こした。が目を擦っていたからだ。

中学3年生の時のバスケット部の合宿が、男女合同というか練習だけ別の同じ施設という状況だった清田は、最終日に班を組まされた女子数名が作ったカレーが奇跡の激マズだったトラウマがあり、どうしても同い年のが作る料理というものに不信感が拭えなかった。

だが、そんなことは知る由もないわけで、確かにこれは清田が悪い。

「お、おい、そんなことで泣くなよ……
「食べたくないなら食べなくていい。明日の夜まで絶食でもしてれば」
「そ、それは無理。わー、さんごめんてー、もー泣くなよー!」

焦っての隣に座った清田はなんとか泣き止んでもらおうとワサワサ動いていたが、手足を動かしたところでそれは謝罪ではないし、が泣き止む理由にもならない。はぷいとそっぽを向いてまだ目を擦っている。頬には涙のしずくが伝い、鼻を鳴らしている。

清田はどうしたものかと髪をかき混ぜている。何しろと全く同じことを言った中3の時の女バスの子たちは水の中にすべての材料を投げ込み、携帯で調べたという「カレーが美味しくなるちょい足し食材」だというチョコレートと缶コーヒーとヨーグルトドリンクをドバドバとブチ込み、挙句に焦がし、具は生煮えだった。

を傷付けるつもりはなかった。とは何でも言い合える気楽な仲だし、何を言ってもいいような気がしていたのは事実だ。ただどうしても普段料理をし慣れない人の作ったものを食べるのが怖かったから、畳み掛けてしまっただけだった。

クッソ、火曜の時点でわかってたことだったんだから、カレーくらい用意していけよクソババア!

心の中で母親に八つ当たりをしてみたけれど、それも今を泣かせてしまったこととは関係がない。そっぽを向いたの後ろ姿を見ていると後悔がグリグリと胸を抉る。小さな肩が少し震えているような気がする。

、その、ごめん、オレちょっとトラウマがあってさ、だからその」

また少しワサワサしながら清田は中3の時の合宿の話をまくし立てた。だが、話し終わってもはまだそっぽを向いているし、ワサワサを持て余した清田は意を決して手を伸ばしての頭を撫でた。

……何で私がその子たちと同じカレーを作ることになってんの」
「いやそうじゃなくて、そういうことがあったからなんとなく……
「そりゃ、普段からしょっちゅうひとりで料理作ってなんかいないけど、お手伝いはしてるもん」
「おお、そうか、そうだよな、お前部活やってないし、小母さんの飯美味いもんな」

清田は必死だ。の手作りカレーに対する不安は正直これっぽっちも解消されていないけれど、泣きやんで欲しいし、何とかこの場を収めた上で安全な4食を確保しなきゃならない。しかし、そんな清田の健闘空しく、はくるりと振り返ると真っ赤な目と鼻で睨み上げてきた。

「ふうん、お母さんのご飯は食べられても私のは食べられないわけね」
「え!? そんなこと言ってないだろ!」
「食べてみてもいないくせに、自分でもやらないくせに、どうしてそういうことが言えるわけ?」

は今度は両手で顔を覆って泣き出した。清田も片手で顔を覆って仰け反った。悪化してんじゃねーか!

頼むからそんなに泣くなって」
「もう帰ってよ! ……バカみたい、信長お腹減らしてるだろうし、ご飯作ってあげようとか思った私がバカだった」
「いやちょ、ごめん、ほんとごめん、気持ちはほんとに嬉しいんだって!」
「だけど私の作るご飯なんか怖くて食べられないんでしょ」
「そういう意味じゃなくて、あーもう!!」

「女子の作るカレーが不安」の方が心に重く伸し掛かっていた清田だったが、ここにきて「自分のためにご飯つくろうとしてくれた女の子をいじめて泣かせた」という罪悪感の方が重量を増してきて、不安が吹き飛んだ。というよりは、上から押し潰されて粉々に砕け散った。清田はにがばりと抱きついてぎゅっと締め上げた。

驚いてピタリと止まっただったが、すぐに居心地悪そうに身を捩る。

「ほんとごめん、お前のこと悪く言うつもりなかったんだよ、ちゃんと食べるから」
「べ、別に無理しなくていいって……
「無理はしてねーよ。オレも一緒に作る」
「は?」

まだまだ涙声だけど、しっかりしたの声音に清田は腕を緩める。

「てか夕飯カレーなのはいいとしても、夜食と明日の朝昼はどうするつもりだったん」
「夜食はおにぎり、朝はパン、昼はカレーの残りで焼きカレー」

状況がよくわからなくなったはぼそぼそと言い、しかし無意識に清田の着ているパーカーの裾をギュッと掴んだ。清田はうんうんと頷きつつ、この危険の少なそうなラインナップにはどちらかの母親が指示を出していると信じて腹を括る。

「それも全部一緒に作るよ。オレも別に料理上手なわけじゃないけど、手伝うくらいなら出来ると思う」
「な、何よ突然、さっきまでそんなこと――
「だからそれを反省したから言ってんだろ。今日はふたりっきりなんだし、喧嘩したくない」

そう言った清田はしかし、の表情を見て我に返った。なんだかずいぶん距離が近いし、ふたりっきりって何だよ、何でそんな言い方したよオレ……

だが、後悔先に立たずである。はちょっと困ったような照れているようなむず痒そうな顔をしているし、たぶん自分でもそんな顔をしている気がした清田は居た堪れなくなってそっぽを向いた。別に付き合ってるわけでもないのにこの距離はマズいだろ……離れないと……

清田が引っ込みがつかなくなっているところに、天の助けが舞い降りた。静かなリビングにギュルルルルルと清田の腹の音が鳴り響く。はブハッと吹き出し、清田も後ろに倒れて腹を抱えた。色々問題は残っているような気がするけれど、妙な密着状態からはなんとか脱することが出来た。ふたりともホッとする。

「てかご飯だけじゃなくてお風呂も洗わなきゃいけないし、暗くなったら雨戸も閉めなきゃいけないし」
「それも手伝うよ。あっ、そうだ、オレひとっ走りコンビニ行ってくるよ!」
「コンビニ?」
「アイス奢ってやるよ、何がいい?」

あまり意識はしたくないし勢いで間違いも起こしたくないけれど、の赤い目を見ているとまだ少し胸の痛んだ清田はそう言いながらの頬の雫を指で払った。想像以上にの頬が柔らかいのでギクリとしたけれど、ポケットの財布を確かめることで紛らわせる。

「いいよそんなの……いっつもお小遣いギリギリじゃん」
「ま、ギリギリでもゼロじゃないし。オレが悪かったって言ってんだろ。遠慮すんな」

清田の手のひら返しに戸惑っていただったが、彼の言うように明日の昼まではふたりっきりだ。拗れたくないのはも同じ。それには清田の提案を素直に受け取っておいた方がいい気がした。アイスを理由にこの件をひとまず収めてしまえば今晩一晩くらいは乗り切れるはずだ。

「じゃあ、クリスピーサンドのキャラメル」
「うおおい、ダッツかよ」
「じゃあ雪見だいふく」
「それでお願いします」

がふにゃっと笑い、それを見た清田はやっと胸の痛みが全て消えたので、ぴょんとソファから立ち上がる。コンビニならここから歩いて5分もかからない。ひとっ走り行ってこよう。ついでに頭を冷やしてこよう。

「じゃあ私カレーの準備とかしてるから」
「おう、頼む。すぐ戻ってくるからな、いい子にしてろよ〜」

安心したせいで気が緩んだ清田はそんなことをポロリと言い、またの頭を撫でた。自爆行為である。

「い、いい子って何」
「いや、その、別に意味はねーよ。誰か変な人が来てもドアを開けたらだめだぞ!」
「開けないって……いくつだと思ってんの」
「そ、そうだよな、ははは、てか鍵貸してくれ。ちょっと行ってくる」

無意味にドキマギしたふたりはのろのろと離れ、から鍵を借りた清田はリビングを飛び出した。玄関を出るとしっかり施錠をし、外の空気を目一杯吸い込むと一気に現実に戻れた気がした。家の玄関から見た住宅街の眺めがあまりにありふれた景色で、至近距離で見たの目のことなど、夢だったような気がしてくる。

確か母親から事の次第を聞かされた時は「あっそう」くらいにしか思わなかったし、の家に泊まるのは初めてじゃないし、親だけ北海道のおいしいものを食べてくるかもしれないということに腹が立つこと以外は何も気にしていなかった。けれどどうだろう。つまり今夜はとふたりきり。ふたりで夜を過ごす。

まだまだ大人ではないかもしれないが、どう考えても子供ではない。少なくとも本人たちはそう思っている。

いやいや、何もないって。あるわけないだろ。この後飯食ってテレビ見て風呂入って寝て、起きてまた飯食ったら部活だ。何も起こりようがない。起こさなきゃいけないわけじゃない。起こって欲しいわけでもない。だからこんな風にドキドキする必要なんかないんだ。意識しすぎだろ。

濁った色合いの住宅街は曇り空の下ではあまりに静かで、清田はため息をつく。

のことなんか何とも思ってないから。ただの幼馴染だから。

そんな自分の心の声にどうにも自信が持てないまま、清田は走り出した。