ふたりのよる

3

「ここん家っていつもきのこ入れんの?」
「うん。お母さんが好きだから」
「きのこカレー美味いな! 今度ウチでもやってもらおう」

険悪だったりドギマギしたりを繰り返したが、それからはしばし我慢をして波風を立てないように気を付けていた。なので19時、ふたりは以前と変わらない様子でカレーを食べていた。きのこカレーが気に入ったらしい清田の皿は既に残り少なくなっている。

「てかこれで明日焼きカレーか、いいねそれ」
「何時頃ここ出るの」
「11時かな」

清田母が言っていた通り、部活が午後からなので少し早い昼食を取ってから出かけるという。の役目もそこまでだ。あとは親たちが帰るのを待てばいい。

「小母さん、朝が早いって言ってたけどいつも何時に起きてんの」
「部活がある時は5時」
「早! まさか明日も……
「いや、明日はいいよ。午後からなんだし、たまには寝坊する」

がホッと胸を撫で下ろしている目の前で、清田はカレーを平らげた。の皿はまだ半分以上残っている。清田が本人の宣言通りおかわりに立つので、は明日の分を残しておいてよ、と釘を刺す。

「てかさ、オレってどこで寝んの」
「和室があるから、そこで」
「そんな部屋あったっけ?」
「上にあるよ。おじいちゃんたちが来た時に使ったりする」

夕食を済ませてしまえば、残っているイベントは施錠や雨戸を閉めるなどの支度、風呂、そして清田の夜食くらいだ。まさかの部屋じゃねーよなと思った清田もまたホッと胸を撫で下ろした。何とか時間をやり過ごしてそれぞれの部屋に入ってしまえば、もう喧嘩をすることも気まずくなることもない。

結局清田は2度おかわりをし、明日の昼の焼きカレー用にはひとり分ギリギリという量しか残らなかった。

「だって美味かったんだもん」
……まあいいけど。材料がないわけじゃないし、私は買いに行ってもいいし」
「てかお前カレー作るの上手いな! また作ってよ!」
「はい?」

生焦げカレーになるんじゃないかとビビっていた気持ちはもう遥か彼方に飛んでいってしまった。清田は上機嫌だ。清田家のカレーは現在スパイスの効いたインドカレー風なものが主流で、いわゆる日本風のカレーは久し振りだったのもあって余計に美味しかったらしい。

食器をキッチンまで下げながら、満腹になった清田はぴょんぴょん飛び跳ねている。

「作るって、いつ」
「いつでもいいけど……そっか、じゃあん家がカレーの時教えて」
「食べに来るの」
「そう。ダメ?」
「そんなの親に聞いてよ……
「おお、今度言っとくわ」

清田があんまり上機嫌なので、はなんとなく居心地が悪い。今日はずっとぶつかってばかりだったから余計に変な感じがする。約束通りパンケーキの準備をしているはホイップクリームをハート型に絞り出そうとして慌てて軌道修正をする。何やってんの、バレンタインのことなんか早く忘れなよ……

「何、パンケーキってバターとシロップじゃないの!?」
「それもあるけど、クリームとフルーツいらない?」
「いや、いるいるいるいる。いっぱい乗っけて下さい」

元から家の冷蔵庫にあったものだが、パンケーキのデコレーションはホイップクリームと冷凍のブルーベリーである。ハートになりかけて修正されたクリームにブルーベリーを散らし、皿を清田に手渡すと子供のようにパッと顔色が変わった。

「カレーあれだけ食べてるから、入らなかったら残しても――
「後でまた夜食食べようと思ってんのに入らないわけないだろが」
「そうでした」

ホイップクリームにメイプルシロップにバターも乗せてブルーベリーを散らした薄焼きパンケーキ、清田は5枚重ね、は3枚重ね。ちょっと食べ過ぎかな、とヒヤヒヤしているだったが、清田はまったく気にしていないらしい。

「てかこれ食べてまた夜食入るの?」
「どう考えても入るな」
「何で太らないの」
……あのな、オレ毎日人よりかなり多めに走り回ってんだろよ」
「だからって……
「オレなんかまだ体小さいから部内じゃ食べない方なんだけど」
「嘘!?」

体が小さいのも食べないというのも信じられない。パクパクとパンケーキを口に運ぶ清田を改めて見てみただったが、「体が小さい」というのはどう考えても表現としておかしい気がした。同じフォークを使って食べているはずなのに、清田の方が小さく見える。

「どしたよ。手、どうかしたのか」
「いや……あんたの手大きいなと思ってさ。フォーク超ちっちゃく見える」
「うーん、手も小さい方なんだけどな、実は」
「どんだけ大きいのよ」
「ウチの部じゃないけど、2メートル超えてる人もいるからなあ」
「にめっ……それはちょっと言いすぎじゃ」
「いやほんとに。えーと確か2メートル2センチ。だからオレより24センチもでかい」
「なにそれこわい」

清田はケタケタ笑いながらぐいっと手を突き出す。

「言われると確かにお前手ェちっちゃいな! 比べてみるか!?」
「あんたと比べたら小さいに決まってんでしょ! ほら!」

ノリと勢いというものは恐ろしい。すっかり和やかになっていたので、は清田のいたずらっぽい声に言い返しながら突き出された手に自分の手のひらをぺたっとくっつけた。掌底を合わせてくっつけた手は指先だけでも数センチは開きがある。だが問題はそこじゃない。

ふたりともまたしまった、という顔をして固まった。しかも手のひらの大きさの差が余計に動揺を生む。こんなに大きかったっけ? こんなに小さかったっけ? やばい手汗出てきたらどうしよう、てかさっさと引っ込めろよ、なんでくっつけたまま動けないんだ、てかこれ、このまま、繋いじゃったりする……

無言で手のひらを合わせたまま固まっていたふたりが同じようなことを考えつつどこで手を引っ込めたらいいかわからなくなっていると、突然助けが入った。の携帯に着信である。

「あ、お母さん。うん、大丈夫、ご飯食べ終わったとこ。そっちは大丈夫?」

お焼香が終わったというの母は家が気になって一旦外に出たようだ。はこれ幸いと立ち上がってパンケーキの皿をキッチンに下げる。

その背後では清田が頭を抱えてテーブルに突っ伏していた。喧嘩はもちろん、もう余計なことはしたくなかったのに、また自分から手を出してしまった。部内では小柄な方、というのは事実だし、けれどそりゃあの方がちっちゃいに決まっているので、お前よりは大きいぞ! と示してみたかっただけだった。

の手、小さくて、なんか弱そうだった。

そんな感想しか出てこない清田だったが、後もう少し沈黙が続いたらそのまま指を折っての手をくるみ込んでしまうところだった。というか、指を絡めて繋いでみたくなってしまった。しかしその衝動と、相手がだということは話が別だ! 清田は深呼吸をして立ち上がり、皿を下げるとスタスタとリビングに戻る。

ちらりと時計を見上げると20時を過ぎていた。

電話が終わったらにちゃんと聞いて、戸締まり、食器洗い、風呂の掃除、それらを分担してさっさと片付けよう。そしてまたに聞いて、さっさと風呂に入って布団を敷いて寝るしかない。寝られないかもしれないけど別に同じ部屋にがいるわけじゃないのだし、携帯でゲームでもしていればその内寝てしまうだろう。

そうしないと、何をしでかすかわからない気がして、少し怖かった。

の手を握りたいと思ってしまった、それは「してはいけないこと」のような気がして。

とはいえ何もかもが他人の家の生活に関わる部分なので、清田ひとりにポーンと任せておけることは何ひとつなくて、結局戸締まりだの食器洗いだののあれやこれやはふたりで片付けることになってしまった。

しかし母親と電話で話したはいくぶん冷静さを取り戻していたので、清田もそれに便乗して何事もなかったかのように振舞っていた。意識をして、喧嘩腰にならないように不用意に触れたりしないように、細心の注意を払いつつ、けれどそんなことは絶対に態度に出さないように。

お互いがそうやって気を張り巡らせていることもわかっていたけれど、そんなことより今夜一晩を無事に乗り切る方が大事だ。慣れないので支度に手間取り、片付けと準備が全部終わると21時近くになっていた。

「お風呂、いつでもいいけど」
「オレも別に決まった時間があるわけじゃねーし、いいよいつでも」
「んじゃ先入ってもらおうかな。私長いから」
「おう、じゃあお先に」

清田は持参していたラフな服と借りたタオルを肩に引っ掛けてバスルームに入った。教えてもらった通りの場所に服やタオルを置き、着ていた服を脱ぎ、洗ったばかりの風呂に入る。バルブをひねり、勢いよくお湯を出し、そのまま頭を突っ込む。

というところで限界が来て清田は髪をめちゃくちゃにかき回した。

別に! 風呂入ってるだけだろうが! 一日の汚れを落としてリラックスしておやすみなさいするためにシャワー入ってるだけだろうが! それが何でこんなにドキドキしなきゃならねーんだよ! てかこのドキドキは一体何に対してのドキドキなんだよ! いい加減収まれよ!

何に対してのドキドキと言ったって、そんなの「普段が使っている風呂」に対してのドキドキ以外に何があるというのだろう。それを認めたくない清田だったが、それ以外にないことは自分が一番良くわかっている。

ちらりと棚を見てみれば、女の子が使うようなシャンプーやコンディショナー、洗顔フォーム、ボディスポンジ、その他細々としたバスグッズが置いてある。これのか、と思うと余計にドキドキする。シャンプーは一応父のものを借りることになっているけれど、のを使ってみたい。どんな匂いがするんだろう……

ついふらふらとそのシャンプーに向かって顔を近付けた清田はやがて我に返り、今度は犬のように頭を振り乱して暴れた。何やってんだよほんとに!!! ド変態かオレは!!!

邪念を振り払うかのように力任せに髪を洗い体を洗い、その勢いで風呂中が泡だらけになってしまったのでシャワーで隅々まで流し、それでもまだドキドキが収まらないので最終的には合宿の時の男だらけの大浴場を思い出して気持ちを鎮めた。監督まで入ってきてむさ苦しいことこの上なかった。

「あがったぜー」
「おー、おかえりー」

平静を装ってリビングに戻ると、は真剣な顔をしてテレビを見ていた。どうやら犯罪捜査のドラマ仕立てのドキュメンタリーのようだ。外国人を吹き替えたスタイルなので海外の事件か。ちょうど行方不明になっていた女性が遺体で発見されたところで、老齢の捜査官が悔しそうな顔で回想インタビューに応じている。

「鍵、ちゃんと閉めたよね?」
「雨戸閉めた時は確認したけど……玄関はどうだっただろ」
「裏口開けてないけど大丈夫かな」
……一応確認しとくか」

ドキュメンタリーにビビったわけではないのだが、ふたりはリビングを出て窓やドアの施錠を全て確認した。最後に玄関に来たは鍵がきちんとかかっていることを確認したあと、チェーンもかけた。何となく怖い。

「ねーねー、もし誰か入ってきたら戦ってよ」
「ここまでしてて入ってこられたらもう無理だろ」
「えー」
「えーじゃねーよ」

またリビングに戻ると、また新たに女性の遺体が出てきたところだった。清田が使い終わったので次はが入浴の番だが、犯人が気になって入れない。ふたりはリビングのソファで真剣な顔をしてテレビを見入っていた。

「明日私が遺体で発見されたらあんたが真っ先に疑われるね」
「お前が遺体で発見されるならたぶんオレも殺されてるから大丈夫」
「何が大丈夫なんだ」

それから20分ほどしてようやく犯人が判明、逮捕となったところでは風呂に消えた。本人の言う「風呂が長い」ということを清田は15分くらいと見積もっていたのだが、さて、30分経ってもまだ出てこない。結局は40分ほどで出てきたが、それまでに3度も清田はシャワーの音を確認しに行ってしまった。

「40分も風呂で何やってんだ」
「何って、髪洗ったり顔マッサージしたり爪のケアしたり、上がってからクリーム塗ったり」
「女って面倒くせえなほんとに〜!」

言わないだけで他のケアも色々やっているが、まあ面倒くさいことには変わりない。もへらへら笑いながら冷蔵庫から水を出して一気に飲み干す。時計を見ると、もう22時をとっくに過ぎていた。髪をまだ乾かしていないので首にタオルを引っ掛けたは振り返って声をかける。

「夜食っていつも何時頃食べんの〜?」
「いや、決まってないけど……食べる」
「マジか。よく入るな〜」

母親の指示では夜食はおにぎりなので、髪を乾かすのはそれからでいいか、とはキッチンの明かりをつける。おにぎりの中身は何だと弾んだ声を上げて清田がやって来るが、は答えない。食べるまで内緒だ。

「えー、オレ梅とか昆布とかあんまり好きじゃねえんだけど……
「そーいうのは小母さんに聞いてるから大丈夫。2個でいい?」
「大丈夫大丈夫!」

中身は食べてのお楽しみと来て、また楽しくなってきた清田は上機嫌での後ろ姿を眺めていた。梅や昆布が面白くないだけで好き嫌いは基本的にない清田だったが、さておにぎりの具となると選択肢が多すぎて予想もつかない。何だろう何だろう。は何を作ってくれるのだろう。

薄手のパーカーにタオルを引っ掛けたは髪がしっとりと濡れていて、そのせいかいつもより小さく見える。薄手のパーカーはの体に沿うように、しかしストンと垂れ下がっていて、余計にほっそりとして見える。それを「着痩せ」というのだろうということはわかっているのだが、清田はまたドキドキしてきた。

あのシャンプー使ったのか。ボトルにちょっと顔を近付けただけでも花みたいな柔らかい匂いがしたけど、の髪は今あの匂いがするんだろうか。の背中ってあんなに小さかったか? 制服とか私服じゃわかりづらいけど、後ろ姿、可愛いな……ぎゅってしたら、どんな感じなんだろう……

夜が更けるに連れて、そしてシャワーで緩んだ体にじんわりとときめきが広がる。それは想像以上に気持ちのよいものだった。余計なことは絶対すまいと固く誓った清田だったが、考えるだけなら元々放置と決めていた。の後ろ姿にホンワカして抱き締めてみたいと思ったことも、悪いこととは感じられなくなっていた。

「はい、おまたせー」
「うおお、なんかすごいな。おにぎりだけかと思ってたのに」

これはの母親の指示なわけだが、清田の夜食はおにぎりの他に味噌汁と厚焼き玉子と漬物が付いていた。清田はさっそくおにぎりを掴んでかじりつく。

…………ツナマヨ! あっ、違った、エビマヨだ!」
「あったり〜」
「こっちは!? …………嘘、マジか、味玉!?」

おにぎりの中身は清田母の情報を参考に母が指定したものだが、さすがに子供の頃からよく知るだけのことはある。清田はおにぎりふたつに大喜び、味噌汁も卵も漬物も全てきれいに平らげた。

「はー、美味かった! ごちそうさま」
「お腹いっぱいになった?」
「なったなった。超なった。てか今すぐ横になったら出てきそう」
「それ食べ過ぎじゃないの」

おいしい夜食にまた上機嫌の清田は自ら皿洗いを買って出て、きちんと片付けた。ということはあとはそれぞれ部屋に引っ込んで寝ればいいだけなのだが、夜食でテンションが上ってしまった清田は落ち着かない。は可愛いし夜食は美味しいし、寝てしまうのがもったいない。

、眠いか?」
「いや別に」
「っし、じゃあゲームしようぜ!!!」
「お、おお、マジか……

にんまり笑顔の清田に、はしょうがないなあというため息をついた。時間は23時になろうとしている。

「明日部活なんでしょ、いいの夜更かしして」
「だから明日朝練ねーから。一勝負しようぜ!」
「しょーがないなもー。髪乾かして来たら受けて立とうじゃないか小僧」
「あとで吠え面かくなよ、夜はまだまだ長いんだからな!」

あとは寝るだけのはずの、ふたりの長い夜が始まろうとしていた。