ゆきのよる

牧編 4

エアコンの温風で温められたのか、それとも――牧は自分の頬がカッと熱くなったのを感じて身じろぎをした。今彼の脳内をぐるぐると駆け回るのは、なぜ身構えていたことがバレたんだという焦り、それにより後輩の女の子に自虐的なことを言わせてしまった後悔、そしてそれを否定する強い感情。

それらはぐるぐると駆け回っているうちに溶けたバターのようにひとつに混ざり合い、どろりとした鈍い思考になって牧の意識を覆い始めた。そうじゃない、そうじゃないんだ。

言いたくなかったのに、言うつもりなんかなかったのに、言わないままでいたかったのに。

「そんな、こと、思ってないよ」

だがは鼻でくすりと笑って、首をすくめた。

「お気遣いなく。私が1年も牧さん牧さん言いながら追いかけ回しちゃいましたからね〜」

それは追いかけ回す必要があったから、でもあるのだが、は確かに必要以上に私情を挟んで牧を追いかけ回してきた。マネージャーとは、1年間必要を理由に私情で牧を追い回せる都合のいいポジションだった。

「誰とは言いませんけど、それを控えなさいって言われたこともあるんです。でも牧さんは絶対私を無下にしたりしないし、私も用がないときには纏わりつかないようにしてたし、遠ざけられなかったですよね。そこは牧さんの気持ちも考えずに勝手なことをしました。すみません」

追いかけ回されていた1年、がいなかったらしんどいことだらけだった。

牧は主将、キャプテン、部長である前にひとりの優秀なプレイヤーだった。勝利することに貪欲で諦めもせず努力も怠らない。バスケットのために日々の生活の殆どを捧げてきた。それなのに、プレイヤー以外の点で牧の肩にはたくさんのものが伸し掛かってくるようになった。バスケットのことだけを考えていられない。煩わしいことは学年が上がる度に増えていった。

それを助けてくれたのはである。確かに慕っている先輩にマネージャーとして寄り添っていられるということは彼女にとって「役得」だったかもしれない。しかしマネージャーとしての役割をきちんとこなしている以上、それに何の問題もないし、ましてや「すみません」などと謝るようなことでは決してないはずだ。

むしろ言わなければならないのは――

「何、言ってるんだ。感謝してるよ」

だが、乾いた温風に張り付いた喉が吐き出したのは白々しい言葉でしかなかった。はまた鼻でふふっと笑い、ひしゃげた枕に顔を埋めてしまった。押し付けられた唇からくぐもった声が溢れる。

「無理しないでください。この合宿が終わったら、もう会うこともありません」

「牧さんの進学先まで追いかけていったりしませんからね」
、おい……
「今日、牧さんは災難だったけど、ずっと一緒にいられて私は楽しかったです」

はことさらギュッと身を縮めて布団の中に顔を隠す。その声が少し震えていた。

……2年間、ありがとうございました」
!」

ほとんど無意識だった。牧はの肩と思われるあたりに手をかけると、ごろりと転がして上を向かせた。驚いて丸くしているの目は、赤く滲んでいた。

、そうじゃない」
「そうじゃないって、何がですか」
「違うんだ」

牧はをくるんでいる布団を剥がし、両手を掴んで引き起こす。シングルベッド程度の広さしかない即席ベッド、ふたりは息遣いが聞こえる距離で向かい合う。

「感謝してるのは嘘じゃない。たくさん助けてもらってありがたかった」
……それがマネージャーですし」
「それでもだ。こんな……お礼しか言えないのがもどかしいけど」

するとはひょいと首を傾げた。

「他になにか出来ることがあれば、してくれるんですか?」
「えっ、ああ、そうだな。すまん、そういうのよくわからなくて」
――じゃあ、キスしてください」

言われてみれば世話になった礼に何かプレゼントでも……なんていう発想はなかったな、と考えていた牧の目の前で、はさらりとそう言って身を乗り出した。言葉の意味が伝わると、牧はそのまま固まってしまった。はい? 今キスって言った?

「バイトもしてない牧さんに何か買ってもらいたいとか、そういうのないですし、あとに残るものをもらっちゃうとつらいし、だけどくれるっていうんならそんなチャンス無駄にしたくないし、誰もいないし、だったら、私のファーストキス、牧さんがいいです。してください」

牧の乾いた喉が「えっ」とでも言いたいような掠れた空気を吐き出す。

「しょうがないじゃないですか。私中学の時は彼氏出来なかったし、高校入ってすぐにバスケ部ですよ。彼氏作ってのんびり遊んでる暇なんかなかったのは、牧さんもよく知ってるでしょう。てか外に彼氏作るより牧さん追いかけ回してる方が楽しいですしね」

牧はまだ固まったまま、の手首を掴んだままの手のひらがじわりと汗をかいたような気がした。どうしたらいいんだろう、どうすればいいんだろう。バスケットのことではこんなに迷うことはない。いつでも勝利という目標が傍らにあったから、何も迷うことはなかった。

すると、が今にも泣きそうな表情で掠れた声を上げた。

「先輩、牧さん――――紳一くん、キス、して、お願い」

先輩後輩と言っても、例え高校生の感覚でそれが大層な差だと感じても、1歳差である。誕生日如何によっては同学年より生まれが近いこともあり得る。そういう気持ちがの中にあったのだろう。彼女は万感の思いを込めて、「紳一くん」と呼んだ。

このキスが叶わなければ、もう二度と口にすることのない大切な人の名前。呼びたくても呼ぶことが出来なかった、呼ぶことは許されていなかった、何より声にしたかった人の名を。

「そうしたら、牧さんを好きだってこと、忘れるから――

の左目の目頭から、小さな小さな雫がポツリとこぼれる。

牧は勢いよくを引き寄せると、そのまま唇に食らいついた。

何かにくるまっていなければ少しずつ肌が冷えてくるような寒さの中、は牧の唇の温かさにまたひとしずく涙をこぼした。絶対に叶わぬと思えば夢想することもなかったキスが、まさかこんな最後の最後に現実となって現れるとは。

もうこれで思い残すことはない。牧のいない1年を無心で駆け抜けるだけだ。

唇が音もなく離れていき、は晴れ晴れとした笑顔で目を開けた。

「ありがとうございました。もう、忘れますか――

だが、直後にまた口を塞がれて思わず息を呑んだ。あれ!?

牧は意味がわからず目を白黒させているを押し倒し、そのまま覆い被さってキスを繰り返した。何度も何度も。やがて傍らに寄せてあった毛布と布団を掴むとふたりの上に引っ張り上げ、の体をくるみ込むようにして抱き締める。

は突然のキスの雨にポカンとした表情で呆然としており、牧はそんなを抱え込んで今度はこめかみやら頬に唇を寄せている。

「あ、の、牧さん……?」
……お前がしろって言ったんだろ」
「いえあのそれはそうなんですが、これではサービス過剰なのでは」

牧の唇がこそばゆいは身を捩りつつも、彼の肩に手を伸ばす。

「これじゃ、忘れられなくなっちゃいますよ」
「忘れなくていいだろ」
……遠くに行ってしまう人をひとりで想ってろと言うんですか」
「オレが何も言わないうちから勝手に決めるな」

それにしても寒い。牧は少し体を起こして毛布と布団をきっちり掛け直し、その上で改めてに寄り添う。素肌のつま先が絡み合うと、それだけで温かい。は夢見心地で牧の頬に触れた。

「牧さんでも、絆されることがあるんですね」
「だから想像でものを言うな。絆されてない。前からだ」
……はい?」
「卒業も近いんだから正直になれって、お前が言ったんだろうが」
……は?」

また目を真ん丸にしているにキスをした牧は、力が抜けてへなへなと脱力した。

……言うつもりなかったんだ。春から離ればなれになるんだし、お前は内部進学かもって話だったし、心機一転日本一を目指したいのに、オレのいない海南に残してきてると思うことは、無意味で自分を惑わせるだけの感傷だと思ったから」

しかもがその傍らで毎日支えていくのは自分ではなく、神。それに嫉妬めいた感情を抱いている自分を認めるのも嫌だった。そこは秘密。

「だから軽くあしらって相手にしないようにしてきたんですか」
「そう」
「でもほんとはわた、私のことす、好きだったんですか」
……そう」

限界を突破したは「ひゃあああ」と言いながら両手で顔を覆った。

……春に紅一点が問題だって騒がれた時も、なんとかして引き止めようとしたのは部にとって必要だったからじゃなくて、オレの隣からいなくなってほしくなかったからで」

ついでに問題視されていることと併せて女子だけど女子扱いせず女子として敬意を払う方向に持っていけば完璧である。全てはを自分の隣に置いておくためだった。

「なんでもっと早く言ってくれなかったんですか」
「公私混同したくなかったし、タガが外れたら集中が乱れると思って」
「牧さんが集中できないなんてそんなこと」
……お前のことだと自信なかったんだよ」

または両手で顔を覆い隠して足をバタバタさせている。

「はあ……言うつもりなかったのに……
「なんですかそのめっちゃ後悔してますみたいな顔」
「だから後悔してるんだって」
「なんでですか。す、好きならいいじゃないですか」
「春からのお互いの生活環境考えなさい」
「牧さん、試練に耐えてこそ愛です」
「口だけならなんとでも言えるだろうが」

ああ言えばこう言うの鼻をキュッとつまむと、牧はまたため息。

……だから、時間が出来たらすぐにオレのアパートに来なさい」
「行きます行きます」
「春からはオレはもういないんだから、自分の身は自分で守ること」
「もちろんですちゃんとやりま――っくしゅん!」

そもそも重ねている布団類はシングルサイズ相当、牧は身長184センチ筋骨隆々、多少折り重なっていてもはみ出す。牧はまた体を起こすとデスクの上に積み上げていた毛布や肌がけを使って隙間なくふたりをくるみ込めるように工夫し、ベッドの上から手を伸ばして管理室の明かりを落とすと、を抱き起こした。携帯のモニタのぼんやりした明かりの中にの白い肌がぼうっと浮かび上がる。

「寝るんじゃないんですか?」
……服、脱いで」
「ヘアッ!?」

驚くあまり素っ頓狂な声を上げたの目の前で牧は着込んでいたジャージやトップスを脱いでいき、半袖の機能性インナー一枚になった。そして今度はのジャージに手をかけると、何枚も重ね着しているニットやらスウェットやらを剥ぎ取っていき、こちらはキャミソールタイプの機能性インナー一枚まで剥いた。

「たぶん、この方が温かいと思う」
「そ、そうですね」
「大丈夫か」
……はい」

がしっかり頷いたのを確認すると、牧は両腕を広げて差し出す。

……おいで」

は迷うことなくその腕の中に飛び込み、そのまま倒れた。ふたりの体温を逃さないようしっかり布団にくるまり、吸い寄せられるように唇を重ねた。

……寒くないか?」
「大丈夫です。牧さんは?」
「牧さん?」
「ふぁ、ええとその、いいんですか、はい、し、紳一くん……

また照れて悶えるを抱きかかえた牧は鼻で笑いながら長く息を吐いた。まさかこんな吹雪で遭難なんていう事態が自分の身に降りかかるとは思っていなかったけれど、起こってもいない不安に戸惑っていた居心地の悪さはもう何も残っていない。

こんな凍えそうな夜もふたりで抱き合っていればやり過ごせる。そして日常の中に帰り、新たな道を歩き始めてもきっと上手くやっていかれるさ。

そして春には真新しいベッドの上で抱き合おう。今度こそ、素肌で。

翌朝、前日の猛吹雪が嘘のようにカラッと晴れ、強風に吹き飛ばされたか雲はひとつもなく、空は澄みきって真っ青。積雪が多いのでもちろん寒いけれど、太陽光線はなかなかに温かく、早くも雨樋の雪が溶けて流れ出していた。

昨夜の地吹雪で半分ほど埋もれてしまった本館を眺めながら、牧とは仲間たちの救援を待っていた。猛吹雪だったけれど雪はフカフカと軽く、全員で雪かきをしながら備蓄倉庫まで向かうと連絡があったのは充分に太陽が登った8時頃のことだった。

それに先駆けてふたりは管理室を片付けていた。くっついて眠った即席ベッドの痕跡は何も残っていない。マットレスも元の場所に戻し、管理室の記録にだけ非常事態のために使用した旨を書き記しておく。ふたりが一晩どんな風に過ごしたかは、ふたりだけの秘密だ。

「あっ、あれそうかな。ヒョコヒョコ黒いものが見える」
「どこ? ああ、そうだな。あれは高砂か?」
「やっとお風呂入れるー!」
「オレは腹減ったよ……
「高砂さんの激マズカレーが待ってますよ」
「そんなもの食いたくない……

すっかり乾いたとまではいかないけれど、ふたりの靴と靴下は冷たくない程度には復活、ふたりで足を温めたバケツで倉庫前を雪かきしたのでまた軽く汗をかいている。この調子では迎えのバスが今日中に到着するかどうかも怪しいが、仲間たちのところにさえ戻れればなんとかなる。

「牧さん牧さん、そういえば私ひとり部屋ですよ!!!」
「オレは高砂と同室だから無理」
「何とかして高砂さん買収して……

まだ遠くに仲間たちの頭のてっぺんが見える程度なので、調子に乗って抱きついてきたを牧は引き剥がす。公私混同はいけません。

「まだ大丈夫ですよお」
「ダメです。ていうかオレは暇だけどお前忙しいんだから、ちゃんと都合つけろよ」
「任せといてください。スケジュール組むの得意ですから!」

純白の雪に朝日が反射し、の赤らんだ頬を照らし、瞳を輝かせている。牧はその眩しい笑顔に疼く胸を隠すようにして腕を組むと、自分でも精一杯笑ってみせた。

「よろしく、マネージャー」

END