ゆきのよる

牧編 3

ブルーシートに布団もいいが、全ての部屋を確認した時に、何の競技に使うのか分厚いウレタンのマットがあったことを思い出したふたりは、まずはそれを運び込んだ。

壁に立てかけて断熱材代りにし、床にも押し込んで敷き詰め、窓にも立てかける。それから改めて布団を何組も運び込んで重ねていくと、想像以上に居心地の良さそうなベッドが出来た。毛布を敷くとそれだけで温かそうに見える。

するとマットレスやら布団やらが部屋中に増えたことで、「なにもない空間」の割合がかなり減った。エアコンの温風が急に熱を帯びたように感じてくる。

「これは…デスクがちょうどテーブルくらいの高さで」
「うん、思ったよりいいな。マットレスが硬いから沈まないし」

すると牧の腹がキュルキュルと可愛らしい音を立てた。見ればもう20時を回っている。

「じゃ、テーブルでちょっと食べますか!」

牧の言うように、敷布団を重ねているにしては、真ん中だけ沈んでしまってまともに座れない……なんていうこともなく、ふたりして裸足で乗ってみたけれど、安定している。壁際には毛布を掛けたマットレスがあるので寄りかかっても冷たくない。

「ベッドみたいなもの」の上でとふたりきり、ということに怯んでいた牧だったが、思った以上に快適なので、束の間その不安を忘れてカップ麺やらお菓子を食べ、1号館とビデオ通話をして状況を報告しあった。

「いやー、大惨事ですわ」
「どうしたの、何があったの、大丈夫?」
「カレーがクソ不味いんですわ」

試合でも滅多にしないような真剣な眼差しの清田の言葉に、と牧は同時に吹き出した。

「おかしくないですか。カレーなんて誰がどう作ってもカレーじゃないですか」
「何やったのよ……
「オレは野菜切る担当だったんでその後何やったのかはわかんねえんすけど」
「誰が煮込み担当だったんだ」
「大きな声じゃ言えないですけど高砂さんっす」

清田の声に少しかぶせて高砂の「聞こえてるぞ!」という声がする。牧はまた盛大に吹き出した。

「すまん……言っときゃよかったな……あいつ何でもちょい足しする癖があるから」
「でも作り直す材料なんてないですから、食いましたよ」
「もう食べ終わったの?」
「はい。今は神さんが管理事務所に連絡入れてくれて、風呂入れてます」

合宿で利用の学生が大浴場の掃除をする、ということはたまにあるらしいが、湯張りだの継ぎ足しだのは基本的にスタッフの役割である。なので神は管理事務所に残っているスタッフに指示を仰ぎながら風呂の支度をしているとのことだ。

「いいなあお風呂……
「そっち大丈夫ですか? なんか寒そうな場所でしたよね倉庫」
「何かの競技に使うマットレスとか、布団とか使って暖を取ってる」
「風で見えにくいんですけど街路灯は生きてるっぽいんですよ。明かりが見える」

清田によれば、1号館1階のロビーからは依然ホワイトアウト状態の景色しか見えないそうだが、最上階の部屋から見ると、もちろん街路灯が埋もれるほどの積雪はなく、とにかく地吹雪が凄まじいので、風が止まり雪が止めば外に出られないわけではない様子だという。

……だけど、監督は風と雪が止んでも朝になるまではダメだと」
……自分が動けない以上、何かあってからじゃ遅いからな」
「すみません」
「いや、監督と神の指示に従ってくれ。こっちも大人しくしてるから」

清田と話しているのはの携帯。牧はそう言いながら、手元の自分の携帯で前日の日の出時刻を調べる。だいたい6時40分くらい、というところだ。それまではかなり時間がある。

さん、迎えに行く前に大浴場にお湯入れときますからね」
「うん、ありがとう」
「牧さんの言うことちゃんと聞くんですよ」
「うん、そう――はい?」
「トイレもひとりで行くんですよ」
「ちょ、それは無理! てかなんなのその子供扱いは!」

朝まで救援が来ないということが不安になってしまっては困るとでも思ったのだろうか、清田はそんな軽口を叩いてヘラヘラと笑い、通話を切った。

「雪と風がおさまって明かりもあるのに、そんなに危ないんでしょうか」
「まあ実際監督は怪我してるしな」
「監督が鈍ってるだけじゃないのかなあ……
「オレたちは雪に慣れてないし、モタモタ雪かきしながら歩いてる間に急変するかもしれない」

毛布にくるまって膝を立てているはしょんぼりと肩を落とした。それを横目に見ていた牧はまた心の中がざわついてきた。は早く1号館に帰りたいのだろうか。だとしたら、こんなベッドみたいな場所でふたり、何か進展させようというつもりは全くないのだろうか。

「そしたら朝まで待たないとならないですね」
……ああ、そうだな」
「牧さん、映画とか見ます?」
「へっ?」

また思考が悶々とし始めた牧だったが、その隣のはいつもの表情で首を傾げていた。映画?

「今、親に事情を話してデータ容量買い足してもらったんです。眠くなるまでどうですか?」

の携帯の画面には、動画配信サービスのアプリが表示されていた。

そういえば、遠征やら全国大会やらで宿泊の機会が多いは実用優先と割り切って格安のSIMフリー端末を使用しており、なおかつ小遣いを削ってでも大容量のデータ通信コースを契約して移動の間や宿泊先で動画や音楽をいつでも楽しめるようにしていた。

既に月末が近いので使用量残量が少なかったのだろう、それでなくとも緊急事態だし、追加チャージの許可が下りたようだ。なるほど、映画でもドラマでも、これなら話すことがなくても時間は潰れる。牧は少しホッとして気楽に頷いた。正直何でもいい。の見たいものでいい。

「えー、じゃあ……牧さんが眠くならないようにドラえもんにしてあげます」
「どういう意味だよ」
「牧さん、ドラえもん舐めてると痛い目に遭いますよ」
「残念だったな、オレはドラえもんにはちょっとうるさい」
「えっ、ちょ、まじすか」
「ミニバスの仲間で見に行くのが毎年恒例になってたからな」
「うそ、やばい、ガチな人だ」

はけたけた笑いながらアプリを操作し、しかしドラえもんではなくヒーローアクションものを選んだ。過度なラブシーンもなさそうな、無難なセレクトだ。

「この人、牧さんに似てません?」
「似て……ないだろ」
「そうかなあ。似てますよお」

登場人物を指してまたけたけた笑っているは楽しそうだ。スマホの画面なので小さいけれど、音声を日本語吹き替えにしておけば充分楽しめる。モバイルバッテリーがあるのでそっちの心配もないし、少し戸惑っていた牧も気付けば真剣に見入っていて、時間はあっという間に過ぎた。

だが、エンドロールに入ったところでは大あくび。途端にまた牧に緊張が戻る。

「もちょっとで23時ですね。牧さん眠くないですか」
……今のところ」

それは嘘ではない。初めて見る映画だったし、内容は面白かったし、むしろ少し目が覚めた。だが、の目はとろりとしている。眠そうだ。

午前中は体育館で動き回っていたし、午後はこの倉庫までやって来てちょこまかと動き回っていたし、その上こんな場所に閉じ込められて緊張続き。だが、つま先もすっかり温まって映画を見ながらのんびりしたことで気が緩んだのかもしれない。

食料はののど飴を残して全て食べてしまった。これ以上起きていて腹を減らすよりは眠ってしまってエネルギーを節約した方がいい。それは理屈としてはわかる。

しかし牧はこっそりため息をつく。寝るって、どうやって寝るんだよ。

急ごしらえの「ベッド」は実際敷布団ひとつ分の広さしかなく、マットレスに寄りかかり座っている分には問題ないが、ふたりが横たわって眠るには身を寄せ合って並ぶしかない。どちらかだけが横になって、どちらかは座っている、というのもきつい。縦に並ばないのであれば、横に並んで体を丸めるという手もあるけれど、何しろ牧の方は体が大きい。窮屈すぎる。それなら座っていた方がまだましだ。

「トイレ行くのはやだけど、紅茶飲んだら目が覚めないかな」
……カフェイン取ると余計に近くなるぞ」
……そう言われると行きたくなってきました」
「行っておいで」
「牧さん」
「行ってらっしゃい」
「牧さあああん」

暗い通路にぼんやり明かりが灯るトイレが凄まじくホラーなのは牧でもわかる。それをが怖がるのもわかる。しかしちょっとばかり追い詰められている牧はつい意地悪な言い方を繰り返してしまい、直後に自己嫌悪に陥った。ビビっているのは自分の方なのに、それをに八つ当たりするなんて。

エアコンで温めた部屋は出来ればドアの開閉をせずに、温かい室温を保ちたい。牧は自分も済ませておくのだと思えばいいか、とと一緒にトイレに行くことになった。例によってドアからは少し離れて待つ。通路はホラーで寒いが、そこは我慢。

また何度もどこへも行かないでくれと繰り返したはトイレを素早く済ませると、今度は早く出てきてくださいと繰り返して通路をウロウロしていた。そして、元より寒いのでのんびりするつもりのなかった牧がさっさと出てくると、またが突撃してきた。今度はさっとかわして歩き出す。

「なんで男子って怖くないんですか。怖いことに男も女も関係ないでしょう」
「なんでって言われてもなあ。殺人鬼もお化けもいるならとっくに出てきてるだろうし」
「だからそういうのが出てきたらどうしようとか思いませんか」
「出てきちゃったらもうどうしようもないだろ」

は首を傾げているが、起こってもいない想像上の不安でいちいち怖がってたら何も出来ないじゃないか――と考えた牧はまた直後に自己嫌悪に陥った。まさに今自分だってがどんな気持ちでいるかがわからなくて戸惑っているじゃないか。

出入りで都合2回もドアを開けてしまったので、管理室はまた少し冷えてしまった。心にもやもやしたものを抱えた牧はそれを慎重に隠しながら、即席ベッドの上で毛布にくるまり、壁に寄りかかってあぐらをかいた。もその隣で膝を立てている。

横になるにしても、もう少し部屋が温まってからでないと無理だ。その猶予ができた牧はいくぶんホッとしたけれど、いずれ避けられないことと思うと気が重い。

「牧さん暇だからって合宿なんか来なきゃよかったですねえ」
「まさかこんな雪が降るとは思わないからなあ」
「教習所はまだなんでしたっけ?」
「そう。2月の半ばから」

自由登校は1月からなのでもっと早く通いたかったのだが、実家に戻ってから通おうと思っていた教習所は昨年の秋の時点で既に目一杯になっており、そのことを高砂に相談したら、彼も色々調べて寮から自転車程度で行ける教習所に学生向けの短期集中コースがあるのを見つけてきた。

寮費を節約するため、自由登校に入る前――引退後の年末には退寮して実家に戻り、登校が必要な時は実家から通えばいいか……と思っていたのだが、教習所に通うことを考えると寮にいた方が都合がよかった。退寮期限は3月いっぱいだし、実家があまりにも遠方である生徒は寮から直接進学先の寮ないしはアパートなどに越すことも多い。なので寮に残るのは問題なかった。そして暇になってしまった。

だから合宿来ない? と誘われてホイホイやって来てしまったわけなのだが、とんだ災難である。

「春からも寮ですか?」
「いや、今度は賃貸。親のコネで割安に借りられる物件があったんだよな」
「いいなあひとり暮らし」
「でも掃除洗濯炊事全部自分でやるんだぞ」
「そっ、それはそうなんですけど!」
「部室のロッカーが雪崩起こしてるようじゃなあ……
「ちょ、乙女のロッカーは色々あるんですよ!」

というより、女子マネージャー用のロッカーは男子部員用とは離れたカーテン仕切りの場所に置かれているので、どれだけズボラに散らかしていてもバレないのである。しかも今女子マネージャーはひとり。脱ぎ散らかしておいても誰も見ない。普通にの根城になっている。

「3年になったらちゃんとやります」
……マネージャー希望者、いるといいな」
「しかも、ちゃんと3年間続けてくれる人がいればいいですよね」

昨今それが何より難しいので、ふたりは苦笑いだ。

……牧さんは、3年間どうでしたか?」
「えっ、どうって?」
「海南の、3年間」
「海南の……

このところ登校も気分次第でしたりしなかったり、小学生の頃に始まったバスケット人生、もう10年以上ずーっと走り続けてきた。こんな風にのんびりと無為な時間を過ごすことは稀で、そのせいで少しぼんやりしていたかもしれない。3月にはこの海南大附属での3年間は幕を閉じる。

卒業するのだ。

正直、普段の学校生活の記憶は薄い。友達がいないわけじゃないし、勉強の方も特に問題なくこなしてきたし、そういう意味では強烈な印象を残す思い出などないまま順調に過ぎ去ってしまった。だが、部活はその真逆だ。だから卒業といっても、気持ちの上ではバスケット部を卒業していくような状態。

「そうだなあ、日本一になりたかったよ、どうしても」
「そう、ですよね……
「海南に入ると決まったときからの目標だったからな」

神奈川ではもう十数年王者の座を譲り渡したことはなく、海南では、県の予選程度など全勝の1位通過できないようでは全国の猛者相手に戦えるわけがない、という認識だった。事実今年度はインターハイで準優勝、昨年度は3位、その前も3位だった。あと少しで頂点から滑り落ちてきた。

「最近は1位でなければ意味がないというような考え方は不健全だ、って言われたりもするだろ。第三者がそれを押し付けて日々の努力を否定するのは確かに違うと思うけど、やっぱりプレイヤーとしては、てっぺんが欲しいんだよな。下を見下ろしたいんじゃなくて、自分の挑戦に結果が欲しい」

インターハイで、先月の冬の選抜で、どちらも決勝で敗退した海南だったが、負けても泣き喚くようなことはなかった。ただ、海南の部員というのは、黙々と敗北を受け入れているように見えて、内心では自分たちの至らなさに激怒しているのである。そうして少しの休みを挟み、また異様な練習量をこなす生活に戻る。あんな思いをしたくない、勝ちたい。だから練習する。

「もし日本一取れてたらどうだったんでしょうね」
……案外、あっけなく感じたかもしれないな」
「目標が達成されてしまうと次に目指すものがなくなるからですか」
「たぶん。目指す壁を攻めてるのがつまり、やり甲斐なんだろうし」
「じゃあ負けてよかったという気持ちもあったりするんですか?」
「それはないよ。いつもそう思ってるけど、もう二度と負けたくない」

敗北が次に進むためのステップになることは承知の上で、あえて牧はそれを考えないようにしている。負けてもいいと思ってしまった瞬間、勝負に対する心の中の芯のようなものがぐにゃりと曲がる気がしたのだ。目標は勝つこと。それ以外は見ない。

「じゃあ次の目標は大学日本一ですか?」
「そりゃそうだ」
「いいなあ、試合観に行きたいなあ」
「そんな暇ないだろ。ちゃんと神を支えてやってくれよ」
「それはもちろんですよ。私の使命です。今度こそ海南を日本一にしなくちゃ」

真剣な表情で頷くだったが、牧はその固い決意にグサリと胸を刺されたような錯覚を覚えた。

の使命は神を支えて海南を日本一にすること――

日本一の将は、海南を日本一に導く4番は神ではなく、自分がよかった。今年度も1年間ずっとは自分を支えてくれていたけれど、日本一には届かなかった。1年間ぴったり牧に寄り添って支えてきてくれた、だけど彼女の本当の使命は3年生になった時、同学年の主将である神を支えること――

自分のいない海南大附属、主将は神、その傍らには、日本一に手をかけるチーム。

起こってもいない想像上の未来への不安で牧は気が遠くなった。

バカバカしい。情けない。この3年間のことなんか、早く忘れなきゃいけないのに。

「ふあ〜、眠いですねえ。日本一のためにも風邪なんかひけないし、私横になりますね」
「え、ああ……

は毛布だけでなく掛け布団を体に巻き付けると、壁際にへばりついて足を伸ばした。牧は足を伸ばせるよう場所を譲り、膝を立てて体を縮めた。は牧に背を向けて横になり、口元まで布団を引き上げている。

何か仕掛けてくるのではと身構えていたけれど、何もするつもりないのか……

牧がそんな風に気が抜けていたときだった。

は口元まで引き上げていた毛布を指先でずらすと、優しい口調で言った。

「牧さん、私何もしませんよ。襲いかかったりしませんから、牧さんもお休みくださいね」