ゆきのよる

清田編 1

のんびり一晩雪をやり過ごせばいい、その間は安全のために行動を慎み、楽しく遊んでいれば大丈夫!

……そう考えていたたちだったが、甘かった。昼頃にはすでにこんもりと積もっていた雪は勢いを増し、スタッフ全員が合宿所を出て1時間もしないうちに、どこが駐車場か通り道かわからなくってしまった。一番近い地点の予報では6時間後には止むというが、降雪量は増えるばかり。

それを見ていたが「1号館と本館の行き来が大変なのではないか」と言い出したのは、15時くらいだっただろうか。厨房は本館にしかないので、もし1号館に閉じ込められてしまったら食事ができない。1号館と本館は傾斜の急な階段を含む100メートルほどの距離があり、既に通路と植え込みの境がわからなくなってきている。

なので、慌てて全員で本館へ行き、厨房で本日予定されていた夕食の献立をなんとか用意し、それら全てを配膳用のコンテナに詰め込んで本館を出た。その時点で16時半を回っており、既に辺りは薄暗くなり始め、街路灯の明かりも雪で閉ざされ始めた。

そんな中を重いコンテナを抱えて移動していたのだが、そもそも雪が降るとは思っていなかったせいで全員スニーカーにジャージ、ジャンパーという軽装。すぐに雪が染み込んで冷えたつま先の感覚が鈍り、階段を登っている途中で監督が足を滑らせてしまった。

全員コンテナを抱えていたので手を伸ばすこともできず、監督は一番下まで滑り落ちて止まった。

「これは……ひどく捻挫してますね」
「骨は折れてないみたいだけど、痛みがひどい」
「痛み止め持ってますか?」

コンテナと一緒に監督も搬送し、1号館のロビーで怪我を確かめたところ、左足の足首が真っ赤に腫れ上がっていた。ひとまずドアを開ければ雪だらけ、大浴場から桶を持ってきて雪を詰め込み、それで患部を冷やしているが、監督は痛みで額に脂汗を浮かべている。

「オレは常備してないんだ。持ってないのか」
「すみません、私も持ってないんです」
「救護室があるから救急ボックスも置いてきちゃったんですよね」

運動部の合宿という用途がほぼ100パーセントの施設である。施設内には学校の保健室程度の備えがあり、応急処置に対応できるようになっている。なのでは練習試合などで必ず携行する、いわゆる「救急箱」を部室に置いてきてしまった。が一抱えするくらいの大きさがあるので、正直余計な荷物だからだ。救護室があるなら不要。

そういうわけでも痛み止めはおろか絆創膏すら手持ちがなく、他の部員も誰一人として湿布や痛み止めの持ち合わせがなかった。新主将の神とは揃って腕を組んで唸った。

「救護室ってどこだったっけ」
「施設内の地図ってあったっけ」
「これすか」

眉間にシワを寄せていた先輩に地図を差し出した清田も一緒に覗き込む。ひとつひとつの建物自体はそれほど巨大ではないけれど、敷地だけは広大。この1号館に一番近いのは本館で、それでも怪我人が出た。いよいよ1号館に缶詰になっていないと危険が伴うレベルの積雪になってきてしまった。

地図によると、救護室は今朝まで使用していた体育館の裏手にあるらしい。体育館はランニングコースに取り囲まれた場所にポツンと建っていて、グラウンドや各競技のコートとも近く、通常であれば怪我などの際に使いやすい場所にあると言えるだろう。

だが、今となってはそれが仇になっている。

……でも、何の備えもないから、見に行きたいな」
……えっ? 今からすか?」
「行くならすぐに行かないと、もっと行きにくくなるでしょ」

は言いながらロビーの片隅にあるロッカーを開いた。

「あったあった。去年来た時に見た気がしたんだよね」

中には清掃用の長靴が入っていた。だが、どう見ても女性用サイズ。

「だから私が行ってくる。まだ真っ暗と言うほどじゃないし、痛み止めと湿布と、その他万が一に備えて必要そうなものを持ってくるよ。距離はあるけど階段はないみたいだし、ランニングコースの看板は背が高いから雪に埋もれないし、だから迷子にもならないよ」

そう言うと、はスタスタとロビーを出て2階にある自分の部屋に向かった。神と清田が慌てて追いかける。

「無理だよ、万が一の備え以前にが危ないって」
「そうですよ先輩、迷子にならなくても監督みたいに滑って転んだらどうするんですか」
「まだフカフカの雪だから大丈夫だと思うよ。さっきも寒いだけで雪は重くなかった」
「それはそうですけど!」

神と清田はやめた方がいいと繰り返したが、は靴下を何枚も重ねて履き、手持ちの衣服もほとんど全て着込み、ジャンパーにフィールドコートにレインポンチョまで被せると、例の長靴を履いた。

「今のうちに行って帰ってくれば、明日1日閉じ込められても安心だから」
「それはそうだけど……

参ったな、という顔で肩を落とす神だったが、その隣で清田がひょいと手を挙げた。

「わかりましたよ、もう。オレが一緒に行きます」
「えっ、ほんと? 助かる、ありがとう」
「いいですか、神さん」
……お前が一緒ならいいか」

また腕組みで考えていた神だったが、ため息とともに頷いた。

「でも、もし信長が危険だと判断したらそれに従ってくれ」
「はい」
「信長、お前はに何かあれば無理矢理にでも担いで帰ってこい」
「了解っす」

清田が同様限界まで重ね着をしたところで、ふたりは1号館を出た。監督も窓の外を見ながら渋っていたけれど、自分のことはいいから外に出るなと言えないほどに足が痛んでいた。足首はふくらはぎに迫るほどに腫れ上がり、雪で冷やし続けているが赤みがまったく引いていかない。

は神や牧に運んできた夕食のコンテナを任せ、1号館の掃除用具入れに入っていたポリカーボネイトの雪かきシャベルを担いだ清田と共に体育館を目指した。

「これ本当に止むんすか?」
「一応予報ではそうなってる」
「はぁ……先輩の予報、あてになんないからなあ……
「私が予報ハズしてるわけじゃないでしょ!」
「しかもこんな雪の中外に出たいとか言い出すし」
「私が困ったちゃんみたいな言い方しないでくれるかな」

ニヤニヤ笑いながら言う清田に、は裏拳でツッコミを入れる。1年生とも良好な関係を築いているだが、この清田は特に人懐っこいので、こうしたじゃれ合いなどは日常茶飯事。

それに、平均サイズの範囲を出ないに対し、清田の方は秋頃には身長が180センチを突破。後輩とは言うけれど、既に清田の方が大人サイズ。神の言うように、にもし万が一のことがあれば担いで帰る要員として申し分ない。その割にすばしこいので、雪道を歩くのも早い。

「そんなヨロヨロ歩きで何を言ってもね」
「海育ちのくせにそんなサクサク歩けるあんたの方がおかしいと思う」
「そりゃ元々持ってる身体能力が違いますからね」

言いながら清田はシャベルを担ぎ直すと、の手を掴んでぐいっと引き寄せた。

「えっ、ちょ……
「ほら、しっかり掴まっててくださいよ。帰りも同じだけ歩くんですからね」
「ご、ごめん……

突然手を繋がれてしまったは狼狽えてしまったけれど、歩きにくい雪道ではのんびり照れてる場合ではなさそうだった。年下の男の子だと思っていた清田の手は力強く、はそれに縋りながらまたヨロヨロと歩いていった。

「ほんとだ。ここ救護室だったんですね」
「体育館の鍵開けっ放しにしちゃってたけど、逆に助かったね」

附属高校にあるものより大きな体育館だが、ステージはなく、正面入口の反対側の側面に小部屋がくっついている。それが救護室で、構造としては外からも入れるようになっているが、鍵は本館のフロントの鍵のかかったケースの中だ。だが、体育館の中からなら鍵なしで入れる。

雪を払い落としたふたりは急いで体育館に駆け込むが、中は既に暗くなっていて救護室のドアまでたどり着くのに壁伝いに歩かねばならなかった。こんな暗くては体育館の照明の場所もわからない。携帯の明かりをつけたいところだが、手はびしょ濡れだし、ひどくかじかんでいた。

「先輩、ほら、手ェ貸して」
「だ、大丈夫だよ」
「コケたらその場で強制送還ですよ」

また狼狽えたの手のあたりに清田の手がふらふらと近付いてきた。暗いと言っても完全な暗闇ではないし、もう雪道ではないのだから、手を繋ぐ必要はなかった。しかし清田は問答無用での手を取り、ぎゅっと握り締めた。

雪が降るほど寒いというのに清田の手は温かくて、はつい気が緩んだ。雪がこれ以上ひどくならないうちに救護室に物資を取りに行きたいと意気揚々1号館を出たはいいが、あまりに雪の勢いが強いので実はちょっと怖くなっていた。でも、清田の温かい手はそれを忘れさせてくれる気がした。

救護室にたどり着くと、今度は簡単に明かりがついた。救護室は二部屋に分かれていて、入ってすぐはデスクや棚やベンチのある部屋、そして仕切りの奥はベッドが4つ並ぶ部屋になっていた。それぞれ隙間も殆どなく、小さな作りだ。

「あ、エアコンある!」
「夏は大学の方の合宿で目一杯らしいね」
「そっか、だから2台もついてるのか」

救護室内はすっかり片付いていて、引き上げられてしまったものも多そうだ。エアコンはしばし無音のままだったが、やがて唸り声と共に埃っぽい温風を吐き出し始めた。はデスクの上に置いてあった箱入りのマスクを掛けると棚を漁る。

「信長、そっちの棚見てくれる?」
「りょーかい……って何探すんだっけ?」
「まずは痛み止めと湿布かな」
「もー、監督あんな靴で来るから」

清田は革靴と室内用のスニーカーしか持ってきていなかった監督に文句を言いつつ、の隣で棚を漁り始めた。救護室には4つ棚があり、特に何が入っているのかとかいうラベルは付いていない。

「包帯とか要るかな」
「包帯はいらないんじゃない? サポーターなら使えるかもしれないけど、あんな腫れてるから」
……オレが高いところ見た方がいいみたいすね」
……そのようだね」

二手に分かれてひとつずつ棚を見ていたふたりだったが、は棚の最上段には手が届かなかった。苦笑いを残してはしゃがみ、清田が棚の上の方を見ることになった。

「あ! これサポーターかな」
「使えそうなのあった? 見せて」

棚の下の方は経口補水液や氷枕など熱中症対策に必要なものがまとめてあったので、はひょいと立ち上がって振り返った。だが、その瞬間ピタッと止まって固まった。ちょうど棚と清田の隙間に挟まっているような状態だったからだ。しかも隙間は狭い。清田との距離は近い。

「これ、足首用って書いてあるけど、かなり細いすね」
「そ、そそそそうだね、これじゃ使えないよね」
「やっぱり足首を固定するなら包帯の方がいいんじゃないかなあ」
「そ、そっか、そうだよね、あんなに腫れてたら、包帯だね」
「あ、でもこっちはマジックテープで止めるタイプだ。これなら腫れてても使える」
「そそ、そっか、そうだね、じゃあこっちでいいか」

清田は身を引いてくれない。なのでは背後の棚にへばりついてしどろもどろだ。

……大丈夫ですか? 寒い?」
「えっ!? だ、大丈夫、エアコン付いてるし、これだけ着てるし」
「うーん、でも手が真っ白」
「ちょ、何して……!」

顔をそらしていたはまた手を取られて驚き、つい正面を向いた。清田の顔が目の前にあった。

……信長、大丈夫、だから」
「でも手すっげえ冷たい」
「そりゃ、しょうがないよ、雪、降ってるんだもん」
「なんかこれ壁ドンみたいだね。はこーいうの憧れたりするの?」

気付けば清田は敬語も使っておらず、と呼び始めた。の体がぎゅっと縮こまる。

「名前で呼ぶのやめて。先輩、でしょ。あとタメ口もダメだよ。そこはちゃんとしなきゃ」
「誰もいないのに?」
「誰がいてもいなくても関係ないと思うよ」
「そうかなあ」

言いながら清田は距離を縮め、壁ドンと言うにはずいぶん密着した状態になってしまった。

……ねえ、やっぱりもう1回、考え直してよ。オレやっぱりのこと好きなんだけど」

額に唇が触れそうになりながら清田がそう言うと、は彼を突き飛ばして隙間から抜け出した。

――あれは、2学期の中間テストの頃だっただろうか。成績が振るわない部員が集められて、推薦で進学が決定している先輩によるお勉強会が開かれていた。はまだ2年生だが、成績は悪くないのでそれを手伝っていた。その中でも清田は一番やる気がなく、進みも遅かった。

そのせいでテスト初日の前日、最後まで残ってふたりで勉強していた。すると、清田は突然に「好きだから付き合ってほしい」と言い出してきた。いつまでもやる気を出さずにいたのはとふたりきりになるための演技だった。

面食らったはたっぷり30秒は固まっていて、しかしその場はひとまず「今そんなこと言ってる場合じゃない、テスト優先」と一蹴、取り合わなかった。だが、勉強したくないのはとふたりきりになるための方便だったに過ぎない清田はさっさと帰ってしまい、中間テストは学年で90位になった。

勉強が出来ないふりをしていれば、いずれが個人的に教えてくれるに違いないと考えていたらしい。勉強は得意な方ではないとしながらも、得意教科で点数を落とさない戦法でしっかり平均点はキープ。苦手教科でも赤点を数点上回ればいいという絶妙なコントロールで逃げ切った。

というわけでテストが明けた頃に清田は再度告白してきた。だが、この時もは断った。

部内で付き合うとか、みんなに気まずい思いさせると思う。監督もよく思わないかもしれない。私マネージャーは真面目にやってるつもりだけど、彼氏欲しくてやってたのかって思われるかもしれない。もうすぐ冬の予選なのにそんなことしてる余裕ないと思う。

それを聞いた清田はニヤリと口元を歪めながら言った。

「オレが嫌なわけじゃないんですね?」

その時はちゃんと答えずについ逃げてしまった。そのまま有耶無耶にしてきた。

なので今は焦って棚を漁り、痛み止めや傷薬をビニールバッグの中に詰め込んでいる。背中を向けているけれど、清田が棚に寄りかかってニヤニヤしているのがわかる。自分の頬や耳が熱い。きっと赤くなっている。だからニヤニヤしてるに決まってる。

湿布も見つかった。はそれをビニールバッグの中に突っ込むと立ち上がる。こんなところで狼狽えてる余裕はないのだ。雪がひどくならないうちに1号館に帰らなければならない。1号館に帰れば清田も黙るに違いない。先輩と呼び、敬語を使うだろう。

だが、そんなの体を清田は後ろからぎゅっと抱き締めた。

「オレが好きになれないからダメって、言わなかったじゃん。全部人の目を気にしてただけ」
「ちょ、バカ、放してよ、さっさと帰らないと雪が――

清田の腕の中でもがいたがそう言いかけた時、救護室の窓がバン! と大きな音を立てた。思わずふたりは飛び上がり、キョロキョロとあたりを見回した。

「何今の……
「今のって……まさか」

を解放した清田はそのまま救護室を飛び出すと、体育館の入り口へと走った。

「嘘だろ……
「な、なにこれ……

正面入口のドアを開け放ったふたりの目に飛び込んできたのは、数メートル先も見えないほどの吹雪、そして今にも体育館の中に雪崩込んできそうなほどの雪だった。街路灯も見えず、気付けば空は真っ暗、体育館はすっかり夜の闇に飲まれていた。

1号館まで、無事に帰れそうになかった。