ゆきのよる

木暮編 4

は少しのぼせを感じたところで風呂を出て、しっかりと水気を拭き取ってから乾いた服を着込んだ。元々浴衣で寝る気はなかったので、パジャマ代わりの服を用意していた。それを友人たちに持ってきてもらった。そして寒くないように重ね着をする。

というところで木暮に連絡を入れて、はドライヤーで髪を乾かし始めた。これもしっかり乾かさないとまた体を冷やすばかりだ。だが何も湯に潜っていたわけではないので、木暮が戻ってくるのと同時くらいに乾いた。木暮の方もちゃんと着込んでいて、髪も乾いているようだ。

しっかり温まったので、次は食事だ。実はも空腹で腹が鳴っていた。

「はー、やっと食べられる」
「てか中身確認してないんだけど、何があるんだろう」
「これは……えっ、なにこれ、マジか」
「何よ……うっそ女将何考えてんの」

14回の物資運搬のうち、食料だという便は4回ほどあった。受け取った後は猫車に乗せて運んだだけで確認していたなかったのだが、1つ目の包みを開いてみたら春の行楽弁当とおせちを足して2で割ったような和の惣菜が出てきた。18歳にはちょっと渋いが、ネタとしては面白すぎる。

さらに2つ目には唐揚げやハンバーグなど、その18歳に気を使ったと思われる料理が入っていた。3つ目にはカップ麺とお菓子、4つ目にパンとおにぎりという、全部広げると明日の昼までカバーできそうなくらいの量になった。竹ベンチの上はさながら北風のくれたテーブルかけ状態だ。

「カップスープありがたいけど、お湯。まさか温泉じゃないよね」
「えーと……あった、ほら、湯沸かしポット」

というか女将は一体何をどうしたかったのか、湯沸かしポットと一緒に卓上のガスコンロまで寄越した。調理はしないのだし、湯沸かしポットだけでよかったのではないのか。本館の皆さんの狼狽えっぷりがわかるミステイクではある。

木暮は水を汲んでくると、ポットのスイッチを入れ、そしてまた腰を下ろす。

「スープだけじゃなくて、お茶もあるぞ。まだ唇の色が悪いから、中から温めた方がいい」
「えっ、色?」
「さっきはピンク色になってたけど、風呂に浸かっただけじゃ体温上がりきらないよな」

木暮は腕組みで「胃の中に温かいものを入れると胃の周辺の血液が温まって、それが循環することで全身が温まるって言うだろ」などと言っては豪華な夜食を物色している。だがふと顔を上げると、乾いているバスタオルに手を伸ばし、膝立ちになってそっとの肩にかけた。

「毛布ちょっと臭うし、タオルだけでも少しは違うだろ」

そう言ってまた木暮が腰を下ろした瞬間、はまたはらはらと泣き出した。

「えっ、何!? ど、どうした、どこか痛いとか、なんかあるのか」

気付いてなかったわけじゃなかった。はさんざん湯の中で流した涙をまた零しながら、ふるふると首を振った。嬉しいのとも辛いのとも違う感情の波が押し寄せてきて制御できなくなってしまった。何か心に重く沈んでいたものがふわっと軽くなった気がして、涙腺も緩んだ。

すると今度は木暮の手が伸びてきて、の俯いた頭を撫で始めた。

……怖かったよな。オレもちょっといっぱいいっぱいで」
「私が、寒いの、いつから」
「えっ、いつからって、そりゃここで待機してる時から顔色悪かったし」
「なんで、言わなかったの」
「だってほら、さっき怒られたから、言わない方がいいのかと思って……

湯上がりスッピンのを「かわいい」と言って怒られた木暮は確か、それを「褒めた」と思っていた。褒めて怒られるんなら気を遣っても怒られるかもしれないと考えたらしい。は内心「バカじゃないの」と思いながらまた涙を流した。

「だ、大丈夫だって。風呂もあるし、飯もこんなにあるし、ちゃんと救助来るから」

そして今度はが不安のあまり泣いていると思ったらしい。だがもうは突っ込む気力がなかった。もういいや、それで。は何度も頷いて、肩にかけてもらったバスタオルで涙を拭った。一緒に取り残されたのが木暮でよかった、そう思った。

と、気が緩んでいたら、頭を撫でていた手が離れ、遠慮がちに頬に触れた。

「えっ?」
「うわ、いや、違、えっと、そろそろ食べようぜ、お湯、沸いたし」

が顔を上げた瞬間に木暮は手を引っ込め、シュンシュンと湯気を出していた湯沸かしポットを持ってきた。が選んだカップスープに熱湯が注がれる。

「もし飲めたら白湯飲んでおきなよ。泣くと喉乾くだろ」

ちょっと焦っている木暮はてきぱきと食事の準備をする。女将便の中から取り出した湯呑にお湯を注ぎ、割り箸を取り出し、紙皿を並べる。

「食べ……られるか?」

遠慮がちに割り箸を差し出してくる木暮には頷き、もう一度タオルで顔を拭うと、手を合わせていただきますと言った。木暮もそれに倣う。

はカップスープを、木暮は白湯を飲み、それからふたり揃っておかずに箸をつけた。

「うっま!」
「なにこれ美味すぎない!?」

女将のテンションはちょっとアレだったけれど、仮にも歴史の長い宿である。極度の空腹も手伝ってか、異様に美味い。ちょっとドギマギしていたふたりだったが、そんなことも忘れてガツガツ食べ始めた。グランピングスタイルのスノーバーベキューが何日も前のように感じる。

途中、様子を伺いに友人たちから電話がかかってきたが、今食べてるからあとでね! とすぐに切った。それだけ空腹だったし、料理は全て美味しかった。

結局、ふたりは届けられた料理をほとんど平らげてしまい、カップ麺やお菓子、パンなどを残すだけになった。おかげでの顔色は戻り、唇の紫も取れた。というか若干ピンク色に染まっている。空腹が満たされると気持ちも和らいで上向きになってくる。

「な? 食べると温かくなるだろ」
「うん、なった。ていうかやっと緊張が緩んだ気がする」
「眠くなるかと思ったけどそんなでもないな」
「ていうかまだ日付変わってなかったんだね」
「えっ、嘘」

ギリギリではあるが、まだ当日のうちだった。この時期日の出は6時前後、野外での活動に支障がない明るさになるにはもう少しかかるだろうか。救助がどういう形で行われるかわからないが、少なくともあと6時間ほどはふたりきりということになる。

布団があるなら寝てしまえばいいと思っていたけれど、眠くない。とりあえず宿に連絡を入れてみる。さっきはガチャ切りしてしまったし。女将にも礼を言わねば。

「あ、ご飯ありがとうございました、すごくおいしかっ――
「そうでしょう!? あれはね、ほとんど地元の新鮮な野菜を使ったお料理でね」

また始まってしまった。木暮が吹き出す。辛抱強く女将の話に付き合うと、途中で別の女性に代わり、明日の救助についての段取りを説明してもらえた。背後から森林を抜けるのは危険が大きいし、ヘリも考えたそうだが、それよりは谷に降りられる道を除雪する方が早くて安全という結論に至ったらしい。

なので日の出後1時間で到着、とはいかないと申し訳なさそうな顔をしていたけれど、今のところこの脱衣所での待機は問題がない。座布団で隙間を塞いでファンヒーターを付けていると結構温かい。脱衣所が狭いことが幸いしたし、すぐそばで温泉が湯気を上げているので乾燥もしない。

食べるものも水もあるし、怖いのは低体温くらいなので、橋が落ちて取り残されたにしてはとても安全な状態である。余計なことをせずに大人しく待っていれば必ず救いの手はやってくる。

だが、それとは別の心配もある。の友人に携帯が戻ると、彼女は少し眉をひそめて「大丈夫?」と聞いてきた。は木暮に断りもしないで露天風呂に出て、湯の出てくる岩組みの傍らに腰を掛けた。立ち上る湯気が温かい。

「ほら、と木暮くんずっと、機嫌悪そうだったから」

そんなふたりを常に放置ではしゃいでいたのは悪かった、まさかこんなことになると思ってなかったし、と彼女は弁解をした。それはも責めるつもりはない。みんな当然楽しい思い出の卒業旅行のつもりでしかなかったのだ。

「脱衣所って狭かったじゃん。私の部屋より狭いよ。そんなとこで大丈夫?」
「てか中学の時に何かあったの? もしそれで困るならみんなにも話して」

携帯の向こうにひとかたまりになっている友人たちの3つの顔にはゆるりと微笑んだ。困ることもあるけれど、こうやって親身になってくれるところはやっぱり好きだ。そうやって高校3年間を一緒に歩んできた、共に過ごした時間を噛み締める。

……あのね、木暮、例の元カレなの」

一瞬固まっていた友人たちだが、すぐにあたりをキョロキョロし始め、モニタの画面がガタガタと揺れ始めた。人の耳、特に木暮組に聞こえないところに移動しているのだろう。

「そっか、それで気まずかったんだね」
「黙っててごめん」
「いいよ、言いたくないよねそんなの。今は平気? 怖いこととかない?」
「それは平気。お腹すいてたからイライラしちゃったけど、もう平気」

今度は木暮組に回すというのでは脱衣所に戻り、木暮の隣に並んで携帯を湯呑に立て掛けた。だが、木暮組は現れず、の友人3人の顔で埋まったまま。

「もういいよ、木暮いるよ」
「あのさ木暮くん」
「えっ?」

面食らった木暮とはつい背筋を伸ばす。木暮組は?

って、怖かったり不安でも、そういうのあんまり表に出さない子だから、木暮くんが余裕ある時はフォローしてあげて。中学の時どんな子だったかうちらは知らないけど、木暮くんが知ってるも今のも、たぶんずっとそういう女の子だから」

途中遮ろうとしたを木暮は手を上げて止め、彼女たちの話を黙って聞いていた。

「うちら3年間グループ状態でずっとつるんできたけど、昔ののことはほとんど聞いたことない。だからふたりにどういう過去があるのか知らないけど、明日の朝、迎えに行くまでをよろしくね。木暮くんのこと信じてるから」

それは真摯なお願いにも、優しい牽制にも聞こえた。木暮は頷き、

「わかった。ありがとう。そっちもあいつらが迷惑かけたらごめん」
「平気平気。今那須与一は先代のオーナーに捕まってるし、あとは救助隊に連行されたから」

真面目に返事をしたのに木暮はまた勢いよく吹き出した。弓でロープを放った彼は那須与一にされてしまったらしい。きっと女将が言い出したんだろう。救助隊に連行されたのも女将の差し金かもしれない。もつい笑った。

だが、にこやかなまま通話を切るなり、ふたりは沈黙に包まれた。居たたまれない。

……ごめん、あの子たちが勝手に」
……いいよ、のこと心配してるんだよ」

は隣に並んだまま座り直すと、息を吸い込む。

「さっき、中学の時に付き合ってたってこと、話した」
「だからあんなこと言ってきたんだな」
「詳しくは話してない。ずっと、誰にも話したことなかったから」

今にして思うと、どうしてだったんだろう。木暮と過ごした時間にはたくさんの思い出があった。いいことも、悪いことも。そのうちひとつだって誰かに話したことはなかった。思い出したくなかった半分、そしてもう半分は自分でもその思い出の扱いを決めかねていたような気がした。

「でもまあ、気にしないでいいよ。無事に戻れたらそれでいいんだし」
……それは出来ない」
「はっ?」

ちょっと狼狽えちゃったけど、これでもう話は済んだし、毛布はちょっと臭うけど寝ちゃえばいいよね…と思っていただったが、木暮がぼそりとそんなことを言うので、また背筋をシャキンと伸ばした。出来ないって、何が?

「オレもずっと余裕なくて、だから怖いだろうなと思ってもフォローまで気が回らなかったし」
「だからそんなのはあの子たちが――
「でも今は余裕あるし、オレなりに、後悔してることも、あるから」

は黙ってしまった。

自分がそうであるように、木暮には湘北での3年間があり、それはの知らない3年間で、が知っている15歳の木暮と18歳の木暮は「成長」という言葉で別物に切り分けられてしまいがちだ。だが、の友人はのことを「たぶんずっと」同じだったと言った。

それなら木暮も「たぶんずっと」同じなんだろうか。そこに後悔がある……というのはにわかには信じられない気持ちもあった。だって、もう何もかも嫌になって別れたじゃん、私たち。

「大人から見たら18も15も大して変わらないと思うけど、今思い返してみると、もう少しうまくやれたんじゃないかって、思って。駅でうちの中学の制服の女の子なんか見かけると幼くて、子供っぽくて、あんな女の子だったに、オレは優しくなかったって、思って」

どうしてか背中が重くて、は肩にかけたタオルをかき合わせて俯いた。

「だから、そういう後悔があるし、今こんな非常事態だから、出来るだけのことがしたいんだよ」

あと6時間くらいしか、眠ってしまえばそれすら残っていないけれど、このふたりきりの時間が終わるまでは。かつて誰よりも親しかった相手だからこそ、は木暮が本音で言っているのだと分かった。簡単に言葉に表せない感情を抱えたまま、ただ心に残る後悔を少しでも取り戻せたら。

「まあでもそれ、さっき風呂ん中で考えたことなんだけどね」

木暮はちょっと恥ずかしそうに頬を人差し指で掻いた。その仕草は中学生の時のままで――

……私も、同じ」
「え?」
「私も、思うことある。14歳、15歳だったのに、子供だったのにって」

もひとり風呂で泣きながら過去を思い出していた。悔やむことは少なくない。木暮の言うように、今にして思えばまだほんの中学生、もう少し冷静に考えられたなら違う道もあったのではと思わずにいられなかった。

そして何より、相手を傷付けなくて済んだかもしれなかった。

「ほんとに、別に私たち今でも大人っていうほどじゃないけど、あの頃は自分のこと子供じゃないって思ってたけど、今見ると全然子供で、なのに求めることだけは大人みたいに欲をかいて、それがどうにもならないって駄々をこねてた」

よくある話だ。木暮は部活バカだった。は一緒にいたかった。

木暮は基本、学校と部活で毎日を使い切っていた。その中からに切り分けられる時間は少なく限られていて、恋人であるよりも仲間である赤木と一緒の時間の方が長かった。

は嫉妬した。そして彼女を第一に考えない木暮に憤り、徐々に束縛するようになっていった。木暮はそんなに疲れ始め、やがてそれが原因ですぐに諍いを起こすようになった。

3年生の初夏、それはもう修復できない傷になっていた。

中学生最後の大会に向けて猛練習中だった木暮とは、体育館の脇で別れた。

なんかもう付き合ってる意味なくない? じゃ別れればいいだろ。そうするわ。

そんなやり取りだけで別れた。お互いすぐに連絡先を消し、ブロックし、上手くいっていないことを知る友人には「やっと終わった」などと晴れ晴れとした顔をして見せていた。けれど、ふたりとも腹の中は怒りや憤りでいっぱいになっていた。

どうして話が通じないんだろう、なんで分かってくれないんだろう。同じ不満を抱えて疲弊しきってしまったふたりはどちらも不完全燃焼で燻る記憶で思い出に蓋をして、3年間思い出さないようにしてきた。何もかも納得いかないまま終わった恋だったけれど、もう取り返しはつかないから、と。

そうして3度巡ってきた春に、ふたりの後悔は精算のチャンスを得た。

「ごめんね、公のこと、公の立場になって考えてあげられなくて」

の声は少し震えていた。

「ごめん、が寂しがってるの知ってたのに、見ないふりしてた」

木暮の声も揺らいでいた。

ふたりは静かに息を吸い込み、顔を上げると、両手を伸ばしてきつく抱き合った。

、ごめん」
「ごめんね、公」

3年前3年間、どうしても言えなかった言葉だった。