ゆきのよる

木暮編 3

雪で湿っていたはずの吊り橋は篝火の燃料と落雷により呆気なく炎上、落雷が激しくなってきたので皆避難をしていたし、元よりの雪と直接人命に関わる火災ではなかったために消火は遅れ、炎が全て消えた頃には渡れない状態になっていた。踏み板が殆ど残っていない。

しかもまだ落雷は続いていて、風も強く、慌てて露天風呂のラウンジまで避難したと木暮だったが、救助の目処が立たないと聞かされて肩を落としていた。

「陸の孤島で周囲全部が崖、なんてことはないのですが、それこそこの風と雪ですし、夜ですし、その場を動かない方が安全です。風がおさまって日が昇れば救助も出せると思います」

の携帯で連絡を取っているのは宿の女将さんである。彼女の話によれば、吊り橋の下は浅い川で流れも弱く、特に冬場は凍結して水量が少なく、渡れないことはないという。だが、その谷間に降りる道と登る道はしっかり雪が積もっており、明るくても普通の靴で歩くのは大変危険。

さらに、露天風呂の背後方面を行けばやがて川の下流に出て、そこはもうまばらではあるが人家が並ぶ地域になるというが、そこまでの道のりが普通に森林だそうで、深夜に徒歩で安全に移動できる状態ではないという。だから吊り橋が使われてきた。

がっくりと肩を落とすふたりだったが、女将さんの声は割と明るい。一晩くらい大丈夫だというのだ。

「露天風呂にある資料、ご覧になりましたか。うちは元々湯治宿なんです。しかもその露天風呂が1番効能があると人気で、今は使ってないんですが、隣に湯治客用の休憩室があるんです。そこに布団だの座布団だの、色々しまってありましてね。古いですけど、使えないことはないと思います」

今では観光宿だが、割と近年まで湯治宿としても営業していたそうで、露天風呂の管理に必要なものを置いていたり、あるいは休憩所として従業員が使用したりと、閉めっきりではなかった、という。

「ストーブがあるので、それを使って露天風呂の脱衣所、女風呂の方にいてください」

露天風呂は24時間入り放題の施設だが、毎週月曜の早朝から閉鎖して大掃除が入る。夏場はいいけれど、冬は寒くて大変なのだそうで、女風呂の脱衣所で休憩が出来るようになっているとのことだ。そこに使えそうなものを運び込んで、何なら寒ければ風呂を使って温まって凌いでくれという。

そういうわけで、それらを使うための鍵は、

「投げます」
「はい!?」

どうもこの女将さん豪快な性格のようで、ロープに袋をくくりつけて吊り橋の場所で投げて寄越すという。なんだか不安になるけれど、風と雪がなくても夜明けを待った方がいい状況なのでやむを得ない。

この状況にと木暮ががっくりと肩を落としているのは、ひとえに元恋人同士だからなのだが、電話の向こうの宿のスタッフの方々はふたりを心配しつつも「ひとりじゃなくてよかった」と安堵している様子。友人たちも動揺していたようだが、同じことで安心していた。

だとしても雷が落ち着くまでは何も出来ない。電話を切ったと木暮はとぼとぼと力なく歩いて女湯の脱衣所に入り、そのまま竹細工のベンチに腰を下ろした。ふたりとも背中が丸まっている。

「こんなとこで一晩」
「吊り橋の上にいる時に雷が落ちなくてよかったと思うべきなのかもしれないけど」

もう友人たちの目はないので、ふたりは思う存分不機嫌な表情をして勢いよくため息をつく。普段から友人たちの前で猫を被っているわけではないのだが、それよりも遥かに気を使わなくていい相手であり、遠慮もいらない。

それに、知り合ったのは中学2年生の春に同じクラスになった時なので、18歳で思い返すとずいぶん子供に感じる。は毎日スッピンだったし、ふたりともほとんど身長差がなかった。

……温泉の近くだから湯気で温かいと思ってたけど」
「うん……思ったより寒いね」

虫の居所は悪かったのだが、脱衣所は薄っすらと寒い。木暮がドアを開けてみたのだが、温泉の湯気による湿気は入ってくるが、それ以上に風が冷たいので、露天風呂の目の前ということは防寒に何の意味ない様子。慌ててガラス製の引き戸をぴったりと閉める。

それでも脱衣所の床が畳敷きであることと、ふたりが旅館の浴衣でなかったことは幸運だった。

「男湯、畳は半分しかなかったから」
「だから女湯にいてくれって言ってたわけね」

今にも凍えそうなほど冷えるわけじゃないが、ただ竹ベンチに座っていると体が冷たくなっていく気がする。ふたりは脱衣所のあちこちを探り、覗いてみた。しかし出てくるのは清掃用具だとか工具だとか、そんなものばかり。

「でもこの奥、狭いけど物置みたいになってそう。ストーブ、ここだね」
「風呂からだと向こうに屋根みたいなのが見えるから、それが休憩室かもしれない」
「まあ、死ぬことはないだろうけどさ」

持て余すとまた機嫌が悪くなってくる。すぐに探索が終わってしまったふたりはまたそっぽを向いて竹ベンチに座る。というか竹ベンチがもう冷たい。

「水は洗面台もあるし自販もあるし、ストーブ使えて布団でもあれば寒さも凌げるだろうけど」
「オレは腹減った……
「温泉飲んでいいよ」
「固形物が食べたい」

バーベキューでしっかり食事は取ったけれど、運動部歴6年の男の子である。露天風呂に入っただけでも木暮組は腹を空かせていた。しかしそればっかりはどうしようもないんじゃないの……と思っていたはひょいと顔を上げた。

「固形物、投げてもらえばいいじゃん」
「投げ……あ、そっか」

女将の言い分ではロープの先に必要なものを入れた袋を括り付けて投げ渡す、これなら失敗しても引き上げて投げ直せる……ということだった。それは別に1回しか投げられないわけではない。軽いもので壊れにくいもの、例えばパンのような食品だったら問題ないはずだ。

いい思いつきだった。は早速友人に電話をして女将に取り次いでもらい、食料を入れてもらうことは出来ないかと頼んでみた。

「それじゃ、美味しいものをこしらえましょうね。雷、だいぶ落ち着いてきたからもうすぐですよ」
「よろしくお願いします」
「それからね、お友達がいいこと考えてくれたので、必要なものは何でも用意しますよ」

ロープをぶん回して放り投げる気満々だった女将だが、組木暮組は慌てて「ロープが届けば荷物をぶら下げて運べる」と提案した。スタッフの人と確認したところ、谷を何往復も出来るくらいの長さがあり頑丈なロープがあった。そこに蓋ができる取っ手のついた容器をぶら下げられればいける。

木暮組はそれで救助が出来ないだろうかとしつこく考えていたそうだが、何ぶん吊り橋のかかっていた谷は底まで推定で8メートルはある。失敗しました〜では済まされない高さだ。

というわけで、まずはロープの先端に「おもり」だけをつけて飛ばす。木暮側でロープを吊り橋の残骸に括り付けて固定し、再度荷物を運ぶためのロープを投げてもらい待機、という流れだそうだ。滑車がないので双方ロープで引っ張るらしい。

「あんまり重いものはロープがたわむから、何度も行ったり来たりをしなきゃならないし、こっちと違ってそっちは人数が少ないけど、まあ若いからね! 大丈夫よね!」

女将さんの後ろでの友人たちは苦笑いだ。何でもかんでも若いで済ませられても困る。ただでさえ気まずい関係のふたりなのに、協力して一晩やり過ごさねばならないなんて。

しかし幸か不幸か雷は順調に遠ざかり、時折り強く吹き付ける風だけを残して稲光すらもほとんど届かなくなっていた。ふたりが無言で露天風呂を出て吊り橋まで向かうと、なんだか対岸がやけに明るい。見れば大量の篝火とずらり並べた車のヘッドライトがこちらを向いていた。

……なんか向こう盛り上がってんな」
「女将さん張り切ってたしねえ……

遠いので僅かな表情までは見えないだろうが、これだけハイビームで照らされてしまうと不機嫌な顔はすぐバレる。ふたりは笑顔を作り、嬉しげに飛び跳ねてみたりしながら手を大きく振った。すると、強烈な明かりの中に木暮組のふたりが厳かに登場した。は友人に電話をかける。君ら何をそんなにはしゃいでんのさ。

「それがね、さっきから何度も試したんだけど、投げるだけじゃロープが届かなくて」
「まあそうだよね、手すりもないから助走も怖いもんね」
「だから、矢で射ろうってことになって」
「どうしてそうなる」

の後ろで木暮がブハッと吹き出す。

「笑い事じゃないんだけど! 弓道部の元部長がいるんだからしょうがないじゃん!」

それが木暮組のうちのひとりである。しかもこの古い宿の先代のオーナーは古武術が趣味で、また古武術にまつわるコレクションにも熱心で、大弓があったことも不幸、いや幸いした。弓道の競技用とは勝手の違う弓でも、届けばいい。なので木暮組は神妙な顔をしているわけだ。

「だから、危ないから離れてて」
「わかった」
「さっき何回かテストしたんだけど、たぶん届くのがやっとだから、届いたらすぐ捕まえてね」

友人たちの声は明るいが、と木暮は嫌な予感しかしない。それって……

「やっぱり!!!」
「ビーチフラッグじゃんこんなの!!!」

案の定ふたりはやっとのことで橋の袂に引っかかる程度の矢を捕まえるために走り回った。どこに着地するか予測できない上に、万が一当たっては困るので離れていなければならないし、かといって手すりがない崖っぷちなのはふたりも同じなので、出せる速度には限界がある。雪だし。

そうしてダッシュを繰り返すこと18回目でようやく木暮が矢を捕まえた。対岸にずらり並んだ人々が一斉に歓声を上げる。だが本番はこれから。必要なものを手繰り寄せなければならない。ふたりはロープを吊り橋の残骸に固定し、合図を待つ。

「重いと危ないだろうから少しずつ送るね」
「何回くらいになりそう?」
「ええとね、ひとまず14回」
「うええええ」

しかしそれら全て食料やタオルなどのたちがどうしても欲しいものである。長い距離に差し渡したロープ頼りなので重量のあるものは無理があるし、少量ずつ運ぶしかあるまい。

すると、対岸から和太鼓の音が聞こえてきた。楽しそうだな対岸……

「わかってたけど腕がキツい!!!」
「あっちはいいよな、人数多いから早くて……

ロープに吊るした荷物をロープで引き寄せなければならないのだが、軽くても距離があるので何度も繰り返して手繰り寄せるのはなかなかに疲れる。というかふたりは弓キャッチで既に疲れて汗だくになっている。物資の回収が終わったら風呂に入らねば確実に風邪を引く。

「喉乾いた」
「腹減った」
「足冷たいけど暑い」
「腹減った」

もうかれこれ15分以上ロープを手繰り寄せるばかりのふたりは息が上がっていて、そんなどうしようもないことばかり口にしながら、それでもロープを引っ張っていた。物資運搬14回往復を我慢すれば食べられるし風呂にも入れる!

「じゃあ次はストーブ出しましょうね。最初の荷物の中に鍵が入ってるので」
「ああ……ストーブ、そうでしたね……

まだだった。猫車に物資を積み上げ、慣れない手押し車に四苦八苦しながら露天風呂まで戻ってきたら今度は休憩所を開けてストーブや毛布を出さねばならない。

確か木暮はバスケット部歴6年で、毎日毎日走りっぱなしの6年を送ってきたはずだった。しかし彼もずいぶん息が上がっていて、ということはなどもうヘトヘト、疲れもあるが、汗が冷えてきて唇が紫色になってきた。

だが女将の誘導で無事にファンヒーターや寝具を運び出し、一晩気密性の低い脱衣所でサバイバルする準備は整った。というか改めて考えるとここまでしなくても朝を待てるような気がしたが、ひとまず温かい状態で着替えや食料があるのはありがたい。

ふたりで孤立しているというだけで不安によるストレスもかかっていたはずだが、対岸の妙なお祭り騒ぎに振り回されているうちにそれも少し和らいだ。狙ってやっていたわけはなかろうが、怒る気にはならない。向こうにいたら後で笑い話になっただろうなとちょっと羨ましいだけ。

畳の上に寝具を敷き詰め、物資の中の新しいシーツを被せ、ドアの隙間などは座布団で塞ぎ、ファンヒーターを付けると意外と快適な状態になってきた。竹ベンチをテーブルにして食料などを並べると、ふたりはぺたりと座り込んだ。やっとひと息つける。

「はあ……やっと終わった」
「私風呂入ろう。汗で風邪ひきそう」

汗だけでなく、雪の中を転げ回って矢を追いかけたのでかなり濡れているし、そういう意味でもきちんと温まっておいた方が安全だ。は届けてもらった自分の私物の中から着替えを取り出す。脱衣所にはドライヤーがあるので、なんなら下着や靴下はそれで乾燥させてもいいかもしれない。が、

……なにぼーっとしてんの」
「え?」
「私、風呂入るって言ってんだけど」
「うん、行ってらっしゃい」
「ここ! 女湯の脱衣所!」

木暮がぼんやりしているのでは物資の中から取り出したタオルで殴った。この脱衣所の引戸を開ければそこは露天風呂、それに入ろうとしているのに何見てんだ!

「ちょ、別にオレそんなつもりじゃ、てかじゃあその間どこにいろって言うんだよ!」
「そっちも風呂入ってくればいいでしょ!」
「風呂は後でいいって! 飯の方が」
「風邪引くからちゃんと風呂入れって言われたじゃん!」

木暮としては、普段から風邪は引かない方だし、座ってじっとしていたら疲労感も落ち着いてきたし、何より空腹の方が強いような気がした。ので、風呂なんか後でいいから何か食おうかな、と考えていたわけだ。だが、の言うように必ず温めろ、は女将たちの指令であった。

「わかったよ……。てかオレが戻るまでに上がっててくれないと」
「上がったら連絡するから待ってて」
「だから向こうの脱衣所畳ですらないんだってば」
「風呂から上がらなきゃいいでしょ。私の支度が終わりそうになったら連絡する」
「そんなに風呂いらないって」
「露天風呂でよかったね! 冷ましてまた入れば?」

タオルや着替えを手にまとめていた木暮はそのままぐいぐいと背を押されて脱衣所を追い出された。しかし混浴というわけにもいかないので、これはしょうがない。男湯と女湯を隔てる仕切りにも一応扉があるのだが、その鍵は物資に入っていなかった。

一方のは木暮を追い出すと素早く服を脱いで急いで露天風呂に飛び込んだ。木暮には言わなかったけれど、もうずっと寒くて寒くて震えっぱなしだった。指先とつま先の感覚はとっくになくなっていて、物を掴むのも苦労していた。

暖かな湯に包まれながら、はべそをかいた。木暮は震えている自分に一度も気付かなかった。

昔付き合っていただけの、そういう人なのに、だから自分を気遣ってほしいなんて思うべきじゃないのに、大変なのは木暮も同じなのに、だけど、だけどどうしても、あの頃も今も、木暮は自分のことをまるで見ていないのだと思ったら、涙が止まらなくなってしまった。

にも後悔はある。もっとこうするべきだった、ああするべきだったという反省もある。けれど、それと同じだけ一生懸命に真っ直ぐに木暮のことが好きだった自分も思い出してしまう。付き合い始めてからというもの、はひたむきに思いを傾けていた。

険悪な状態で別れて、立ち直るのには時間がかかった。受験があるのだからそんなことで悩んでいる暇はなかったのに、夏休みの間中引きずって秋になってもまだつらくて、それでようやく乗り越えたと思っていたのに。木暮なんかもう「過去の人」になったと思っていたのに。

私が木暮の「過去の人」になってたことを、思い知らされただけじゃん。

あんなに険悪になってたのに「かわいいよ」とか言えるくらい、どうでもいい人間になってた。

会うつもりなかったのに、卒業旅行なんか来なきゃよかった。友達だってどうせ大学で知り合った人とばかり過ごすようになる。自分だってそうやって新しい環境で生きていければよかった。新しい友達、新しい彼氏。なのにいきなり過去に引き戻されて、一晩中それと向き合わなきゃならない。

夜気にもうもうと立つ湯気の中、ゆるりと流れるかけ流しの湯にの涙がぽちゃんと落ちる。水面がゆらめき、やけに白々とした乳房が歪む。中学2年のクリスマス、この胸に木暮の手のひらが触れたことまでもが鮮明な映像となって蘇ってくる。

あの時はお互いのことが大好きだったはずなのになあ。

は湯を両手で掬ってバシャバシャと顔にかけた。寒いし疲れたしお腹も減ってるし、お風呂入って温まってお腹もいっぱいになったら眠くなるよね。そしたら寝ちゃおう。眠っちゃえば公のことなんか見えない、昔のことなんか思い出さない。朝になれば救助も来てくれるはず。

そうしたら今度こそ本当に木暮は「過去の人」になるはずだ。