ゆきのよる

神編 4

「ちょ、あの、無理って……

を引き剥がした神はそのまま起き上がると慌てて後退していき、背後の壁にへばりつくと、うずくまってしまった。片手を上げてを牽制しつつ、片手で頭を抱えている。

「ねえ、どうしたの、私なんかした? くっついたのまずかった?」
「ち、違、そうじゃ、来ないで!」
「なんなの!?」

はひとまず体を起こして神との間に20センチほど距離を取ると、肩を落とした。

「我慢してるの、神の方だったんたじゃないの。そんなに拒否るくらいなら――
「違います!」
「じゃあ何が違うの! そんな風に拒絶されるのもつらいんだけど!」

は泣きたくなってきた。神はおそらくこの世で1番信頼している男子だと言っていいはずだ。先輩たちももちろん信頼しているけれど、それとは種類が違う。こんな風に非常事態でも協力しあって助け合っていかれる人だと思っていたのに……

ファンヒーターはうんともすんとも言わない。布団は一組しかない。濡れてしまった服はもちろん乾いていない。神の言うようにこの場で死ぬことはないかもしれないが、ドアの方から容赦なく入ってくる冷気の中で朝まで過ごしていたらとても無事では済みそうにない。

そんなやむを得ない状況だっていうのに、「無理」って何!

そんなの怒りと悲しみを感じ取ったか、神は両手を布団について少しだけ体を起こした。そしてがっくりと頭を落としたまま、片手で顔を覆ってしまった。

「新体制始まったばっかりだし、今年はと二人三脚で頑張っていきたいと思ってたけど、ていうかもうずっと3年の冬まで協力しあってゴールしたいって思ってたけど、もう、無理」

神の押し殺した声に、の目の奥がカッと熱くなる。悲しくて苦しい。

だが、神もなんだか泣きそうな声である。それが大声を出した。

「無理だよ、かわいいんだよ!」
………………は?」
「大事なマネージャーで仲間だけどその前に可愛くて優しい女子だよ! 意識しないなんて無理!」
「はあ!?」

布団をこぶしでドスドス殴りつけながら言う神には思わず突っ込む。どうした突然!?

「女子を女子扱いしながら女子扱いしないってどういうこと!? 女の子をリスペクトしながら女の子だと思っちゃいけませんて何言ってんの!? 身近な女の子のこと可愛いなあって思うのってセクハラなの!? どこからがだめでどこまでがセーフなの!? 可愛いなって思ってる女子と布団ん中で抱き合ってて冷静でいられるわけないだろ!」
「ちょちょちょ、神、落ち着いて、わかった、わかったから顔上げて!」

普段のおっとりした神からは想像もつかない剣幕には焦り、手で触れないようにしつつも彼を宥めて顔を上げさせた。慣れない興奮状態で神の頬もピンク色だ。しかし目はどんよりと死んでいる。言ってしまってから死ぬほど後悔しているらしい。

……ごめん。オレそのへんにいるからはここにいな」

そして四つん這いで布団を出ていこうとしている。は慌てて行く手を遮り、押し留めた。

「待った待った! それこそ無理だよ!」
「オレも無理、恥ずかしくて消えたい」
「大丈夫、こんなのいつもの神じゃないってわかってるから、だから待って」

はやはり手で触れないようにしつつ、退路を塞いでまた壁際に押し戻した。

……でも、本音?」
……ごめん」
「怒ってないから、ちゃんと本当のこと教えて。お茶、お茶飲もう、ね?」

素早く電気ケトルに手を伸ばしたは水を注ぎ、電源を入れる。そしてきっちり重なっていた布団を剥がすと神に掛け、自分でも毛布にくるまる。

……が部内で女子ひとりになって、辞めてほしくなかったから、周りから余計なこと言われないようにしようって、それでみんなで話し合いしたり、監督にも相談乗ってもらってたけど、相談すればするほど、どうしたらいいのかわからなくなって」

特に神自身にほんのりとへの好意があったものだから、余計に混乱してしまった。

「だけど、牧さんから主将を引き継いだ時に、絶対ににはそういう気持ちを抱いちゃいけないんだって、は大事な仲間だからそんなこと一切考えちゃだめだって、覚悟したはずだったんだ」

ぼそりぼそりと言う神の傍らで湯が沸いたので、はティーバッグのお茶を入れて差し出す。カップを受け取る神の手はかすかに震えているように見えた。こんなの本来の神じゃない。けれど、彼が1年間溜めに溜め続けた混乱の全てだったんだろう。

はお茶を一口含むと、カップを置いて背筋を伸ばした。

「神、あのね、私、そういう難しい問題を部員みんなに背負わせてる自覚、あるよ。申し訳ないし、でもちゃんと向き合ってくれて誇らしい。だから感謝してるけど、ちょっとそれは横に置いといて、今は私と神のふたりだけの問題だよね?」

また俯いてしまった神が頷くので、は咳払いを挟んで続ける。

「それでね、こんな例えしか思いつかなくてごめん、私ね、1年の時にひどい痴漢にあったことがあるの。でも初めてじゃなかったし、その日は予選の試合の日で、すごく腹が立っちゃって、やめてくださいって大きな声出したの。そしたらすぐに離れたんだけど、そいつ同じ駅で降りて、ホームで突き飛ばされて『ブスのくせにうるせえんだよ』って言われたの。神の言う『ダメなの』って、そういうことじゃないのかな!? だからええと、少なくとも神は悪いことしてるわけじゃ、ないと思う!」

も繊細で難解な問題に対して明確な「正解」を持っているわけじゃない。ただ駅のホームで呆然とグレーのスーツの後ろ姿を見ていたあの時のやるせない気持ちとは違うんだと、それを伝えなければならないと思った。

あの時自分は、全てにおいて最大級の侮辱を受けた。試合の日だというのに気分は落ち込み、ショックで食欲もなくし、そのせいでとても疲れて、眠ってしまいたいのに怒りや憤りで寝返りばかりを繰り返した。今でも脳裏に焼き付いているあのスーツの後ろ姿を許すことは出来ない。

でも、神はそれと同じではない。それはどうしても伝えたかった。

……私たちみたいなのって、距離感が難しいよね。友達より長い時間を一緒にいるし、でも私はマネージャーだから選手同士とはまた種類が違うし、部活を離れたらただの同級生なのかもしれないけど、それにしてはお互いのことをよく理解して協力しあっていかなきゃならない。喧嘩もできない」

特に現在マネージャーはひとりきりなので、管理の都合を考えても同学年の部員同士、無理矢理にでも穏便な関係を保っていなければならない。特別親しくなることも、または逆に険悪になることも、部のためを思えば避けるべきだと考えてしまう。

「でもこれって、部活関係ない私たちだけの問題だったよね? 順番、違うよね?」
「順番……?」
「え、ええとその、違ったら正直に言って! 神て私のこと好きなの!?」

今度はが一気に真っ赤だ。言ってからしおしおと項垂れた。恥ずかしい。

部活関係ない、ふたりだけの問題――の言葉に神はひょいと首を傾げた。

……正直に言うと、いいなと思ってはそれを考えないように、してきた」
「じゃ、じゃあ好きではないの? さっきの『無理』っていうのは――
「あんな風にくっついてたら、いいなと思うことを止められなくなるから」

それを我慢しようとすればするほど体も反応してしまう。神はそれを飲み込み、布団をかき合わせた。

……止めなければ、いいんじゃないかな」
「は?」
「さっきも言ったけど、これが他の人じゃ困ったけど、神なら、いいかなって、思うから」

は背筋を伸ばし、両手を神に向けて差し出す。

「神とは同じ方向を向いていたいの。気持ちを揃えて、何でも協力していきたい」
「でもオレの気持ちって、そういうことじゃ」
「そ、それもわかってる。そこは神もちょっとは努力して」
「努力?」
「だから! 寒いから布団ん中くっついて入ろうって言ってるの! 一晩くらい耐えて!!!」
「えええええ」

言ってしまったので腹が据わったのか、は膝立ちになると神の布団を引き剥がし、また元のようにきれいに重ねると、今度は神の腕を掴んで転がし、ぐいぐいと引っ張った。

「はいはい、くっついて! ぎゅーして!」
、そんな殺生な」
「大変だろうけど緊急事態だから頑張って! 無事に帰れたらその時は我慢しなくていいから!」
「え」

神の腕と腕の間に寝転がっているはピンク色の頬をして顔を背けている。

……、いいの?」
「何度も言わせないでよ」

神は何も言わずに頷くとを抱きかかえ、静かに布団の中に潜り込んだ。まだ足元にはペットボトル湯たんぽの温みが残っていて、やはり温かい。お互いのかすかな吐息がかかる場所が熱い。

目を伏せて身を縮めているの頬に指を滑らせると、ビクリと震えて、そしてゆっくりと神を見上げてくる。ピンク色に染まる頬、やけに潤んで見える瞳、緊張に固く引き結ばれている唇。

、我慢、するから」

そう言いながら顔を近付けると、は頷いてそっと目を閉じる。

それを確かめてから神はゆっくりと唇を重ねた。

を庇うように覆い被さる神の背中に、彼女の腕が伸びる。すっかり冷えてしまった腕は緊張している唇とは裏腹に迷いがなく、ぎゅっと締め上げてくる。そして神の耳元に、少し掠れた囁き声。

……神は私を救ってくれた人なんだよ。いいなって思っちゃいけないって、思ってたのは、私も同じだったんだよ。だけど、我慢、出来ないよ、こんなの」

神は返事もせずにまたキスして、そして長く息を吐いた。

……オレたちが色んなことを覚悟して試される合宿だったね」
「覚悟、出来た?」
「出来たと思うよ。のことも、バスケのことも」

こんな風にふたりきりで閉じ込められなかったら、きっと引退までずっと心の中にもやもやしたものを抱えたまま、そしてそれは晴れることもなく、お互いに伝え合うこともせずに終わっていたはずだ。自分たちは友達ではなく、主将とマネージャーだから。そんなことを言い訳にして。

目を閉じ、しっかりと抱き合うふたり。その横で、ファンヒーターが動き出した。安全装置によって自動で運転を停止、のちに貯水タンクの温度が低下したために安全装置が解除されたのだろう。

……ファンヒーター生き返ったけど、どうする?」

やっといつものいたずらっぽい笑顔に戻った神、もまたにやりと笑った。

「このままがいい」

なんとか一晩耐えきった神の腕の中ではぐっすりと眠った。雪は明け方に止み、たちが無事なので日が昇るのを待ってから牧たちが救助に駆けつけ、ふたりはようやく仮眠室から抜け出した。見れば正面入口は風向きと地形の影響でほぼ埋まっており、部員たちがいなかったら雪が止んでも脱出できなかったに違いない。

だが、問題はここからで、布団が一組しかない小部屋で一晩過ごした主将とマネージャーはすっかり「出来上がってしまった」……ということになっていた。

なんとなれば、本人も白状していたがを守りたい一心で外部から余計なことを言われないようにしようと言い出したのも神だし、現在主将としては駆け出しの状態の彼は部員たちの目から見ても「マネージャーとセット」であり、要するに、あれ主将もしかして……という認識が既にあったらしい。

「それはそれで不本意」
「まあそうだろうけど、部内だけの話なら問題ないよね」
「1年たちの黙っててあげますよみたいな顔がどうにも」
「だけどそのおかげで毎日こうして部室でふたりっきり」
「返す言葉もありません」

この件に関しては後輩たちがずいぶん乗り気で、個人練習に居残る主将とマネージャーを早くふたりきりにさせてあげよう、と前にもましてさっさと帰っていくようになった。そんな気の遣われ方は不本意だがとふたりきりは嬉しい主将は腕組みで唸る。

「ところで、オレいつまで我慢してればいいの」
「じ……宗一郎の家か私の家が無人になる時まで」
「そんな都合のいい時やってくるのかな……遠い……

ちょっとした非常事態ではあったけれど、「完全なふたりきり」という意味では千載一遇の好機だった。無事に帰ってこれたけれど神はお預けを食らったまま、個人練習のあとにほんの少しふたりきりになっては余計に我慢を強いられる日々だ。

「しかもオレたちあの時何もしてないっていうのに、してることになってる」
「なってますね……
「上から下からあんな非常時下で一晩ふたりっきりとかテンプレすぎるのどうなんだって」
「テンプレだけどそんな気楽な話じゃなかったのにね……
「オレすっかり非常時下でマネージャーに手出したキャプテンになってる」
「まあ、多少は出したことになるのでは……
「そんな理不尽な暴行みたいな認識やだよ……
「そうかなあ、なんかみんな楽しそうなんだけど……

そもそも紅一点マネージャーとの関わり方に関しては神が言い出しっぺで、そこから協議を重ねて共通認識を取り決めたに過ぎないのであって、その言い出しっぺがまんまと恋に落ちてしまったのでみんな面白がっている。

はくっついて離れない神の頭を撫でてやりつつ、ノートにちょこまかと記入していく。今後のためにが作成している「女子マネージャーマニュアル」の下書きである。

そもそもは紅一点問題が浮上してきたことから、今後また同じ状況になった時に後輩が慌てないように……という気遣いだったわけだが、主将と付き合うことになってしまったので軌道修正の必要が出てきた。合宿先での緊急事態に備える項目も追加せねばなるまい。

「マネージャーマニュアルまだ書いてたのか。何書いてるの」

の手元を覗き込む神に、はにんまりと笑った。

「雪山で遭難してふたりっきりになった時の心得」

END