ゆきのよる

神編 3

正直あまりいいセレクトではないことはわかっているが、もう引き返せなかった。

「ま、先輩と喧嘩したのが運の尽きだったよね。今ではそれでよかったって思えるけど、当時はもうほんとドン底で退学したいと思ってたもん。親も心配して転校してもいいって言ってくれたりさ。だからあの時神が声かけてくれてほんとによかった」

のバスケット部物語である。

は元々中学の時の先輩に誘われて女子バスケット部に入っていた。男バスと違って女バスは慎ましく穏やかな活動の部だが、そこでは先輩と大喧嘩をした。いわく、先輩が想いを寄せている人にちょっかいを出したとか何とか。事実無根の完全な誤解だった。

だが、その時点で先輩は女バスの次期部長であり、新入生のはあっという間にネガキャンの餌食になり、事実無根の誤解は一部で真実と見なされ、当然の結果としては女バスを追われた。

幸いはバスケットが好きで入部したわけではなかったので、そこは問題じゃなかった。ただ、ネガキャンを信じてしまった同学年にも白い目で見られ始めてしまったので、通い始めたばかりの学校は針の筵だった。そこに暇ならマネージャーやらない? と声をかけたのが神だった。

男バスは男バスでこの時例の男子マネージャーが怪我をする前で、完全なるマネージャー不在。神の代の学年は1年次の新入部員がとても多かったので、マネージャー希望が現れなかったと先輩たちが青い顔をしていた。なので神はどうやら揉めてるらしいというに声をかけた。

渡りに船……というよりは、が不当な濡れ衣を撤回させられないままこの海南に通うことを考えると、男子バスケット部以上に安全な場所はなかった。

そのが大喧嘩した先輩はあと2ヶ月もすれば卒業するし、ほとんどの人々はへの集中砲火を忘れてしまっている。そんな揉め事よりも、全国大会常連の校内イチ実績のある男子バスケット部でひとりマネージャーをこなす「すごい人」になりつつあった。手のひらは簡単にひっくり返る。

なので神はの恩人でもあるのだ。

……なんで声かけてくれたの?」

ファンヒーターから吹き出す温風につま先を遊ばせているの呟きに、神は静かに息を吐く。

「偶然通りかかって、女バス辞めて、部室から出ていくところ、見てた」
「あー、あんなの見られてたのか」
「これは結構マズいんじゃないのか……と思ってたら本当にその通りになるし」

部内でこれ以上なくこじれていても、退部する以上部室の荷物は引き上げなければならないし、は部員全員が白い目と舌打ちで睨んでくる中で荷物をまとめ、罵詈雑言を背に部室を出ていかなければならなかった。神はそれを見かけてしまった。

何しろへのネガキャンは先輩主導の上に数の暴力でもあった。入学直後で親しい友人が乏しいため、疑惑が事実無根だと一緒に証言してくれる人もおらず、先輩の剣幕に自分たちが次のターゲットになることを恐れた同学年の部員は率先して悪女説を拡散しまくった。

「可哀想ってのもあるんだけど、うちもマジでマネージャーほしかったし……その時は、今確実にを助けられる場所があるとしたら、それは男バスしかないって思ったんだよ」

神の判断は正しかった。それから2年、は悪女ではなく、紅一点なのに部員たちと良い関係を築けている上に、セクハラにも性差別にも見舞われていない「すごい人」になった。

「まあ、最初は『やっぱり男のいるところなのか』みたいに言われたけど」
「それはオレも聞いた。去年は女子ひとりはマズい、だし、なんかうるさいよな、みんな」
「極端な話、私たちは試合で勝つことしか考えてないっていうのに、暇だよねみんな」

外野が口を出したくなるのは世に先例があるからなのだが、それでも疑惑すらないのに起こってもいないことを口やかましく騒ぎ立てられたこの2年、バスケット部はバスケットと関係ないことでずいぶん神経をすり減らしてきた。

「でももう今年は余計なこと考えずに済むよね。ねっ、主将?」
「そうしたいもんだけど」
「チームのリーダーがそういう弱気なこと言わないの」
「いいじゃんマネージャーしかいないんだし、ちょっとくらい素に戻っても」
「そっちが素なのかやっぱり」
「オレがチームの先頭に立ってやるぜってメラメラ燃えてないことだけは確か」
「そりゃそうだ」

は毛布をかき合わせながら吹き出した。リーダーとしての素質とは関係なく、神は何が何でも人の上に前に立ちたいというタイプではない。その点では先代の牧も同じだが、彼の場合は自分が引っ張っていかなければならないという自覚が小学生の頃からあるような状態なので、努力ひとつで現在の地位にある神とは根本的に異なる。

だからのサポートが必要不可欠ということでもある。

「そうだよね、神て技術を磨き上げて高めてチームに貢献できる選手になろうってタイプだし……
「それしかなかったからね」
「確かに、プレイ以外のことで煩わしい思いはさせたくないなって思ってる」
「え、あ、ありがとう」

神がちらりと顔を巡らせると、は真剣な顔をして腕組みをしていた。

「チーム内のことはまた別だけど、この2年間私たちがあれこれ振り回されてきたようなことからは遠ざけてあげたいっていうのがマネージャーの本音で、ごめんね神、正直言って、牧さんの次の代でしょ、腹立つこと平気で言ってくるやつって、いるじゃん!」

真剣な顔が一転、急に怒り出した。神は思わず吹き出す。

期待の表れと言えば聞こえはいいが、何しろ先代は海南男子バスケット部の長い歴史の中でも突出して優れたプレイヤーだった。人は牧を欠いたチームで大丈夫だろうか、ということを平気で口にする。気にしていないと言えば嘘になるが、気にしてもどうにもならない。

……紅一点の件ではなんだか私がみんなに守ってもらっちゃったような形になっちゃって、私マネージャーなのに、なんでみんなに守ってもらってるんだろうってずっと居心地悪い感じもしてたんだよね。だから、煩わしいことからは私が守ってあげたいなあって」

それがの原動力であり、最後の年に成し遂げたい目標でもある。

……昔は、何人も女子マネがいたって、聞いたことがある」
「ああ、うん、そうらしいね」
「でもその頃は要は雑用係だったって」
「だろうねえ」
「そういうのは嫌だったけど、でもにやめてほしくなかった」

ぼそぼそと言う神の声に、は黙ってしまった。

「だから、女子がひとりなんて問題なんじゃないかって言われた時に、牧さん捕まえて何とかなりませんかって相談したんだ。最初はそれは選手の本分ではないのでは、って意見も出たんだけど、オレたちが2年生の間に、牧さんがいる間に何とかしておきたかったんだ」

一気に吐き出した神は息をつき、片膝を立てて肘をついた。

このままではがまた退部に追い込まれるのではと危機感を覚えて部員たちに相談を持ちかけたのは他ならぬ神だった。自分が3年生になってからでは遅い、それでは間に合わない、絶対的リーダーがいる間に刷り込んでおきたいと考えたからだ。

「まだオレが主将になるって決まってなかったし、代替わりしていきなりそれじゃ戸惑うだろうし」
……そんなこと、みんな、神のことだって」
「そこは別に疑ってないよ。でも牧さんの迫力ってちょっと別次元じゃん」
「ま、まあそうかもしれないけど」
「だから、がサポートしてくれるの、本当に心強いよ」

練習やプレイに関わることとは別だ。牧のいないチームの中心になって、部員全員の心を掴んでいかなければならない。そこはバスケットの技量とは関係ない。神は信頼の置ける主将には違いないが、それでも春になればまた新入生が大量に増えるし、その時に同学年や新2年生がきちんと神をリーダーとして扱ってくれなければ「その程度の主将でスタート」になってしまう。

その隣にがいるのといないのとでは雲泥の差である。は既に3年生中心の部の意思決定に1年間関わってきた。今年度は2年生だが立場は3年生と変わらなかった。神がつい優しくしてしまいがちな場面でもなら大きな声を上げられた。

その分だけ、神は練習に集中できる。実はもうの目標は達せられているも同然なのである。

「だからのこと守ろうって思ったんだよ」

はかき合わせた毛布をぎゅっと握り締めると身を縮めた。その言い方……

そうしてふたりの間に気まずい沈黙が流れていた時のことである。突然ファンヒーターが止まってしまった。

「えっ? なにこれ、どうしたのこれ」
「タイマーかなんかついてた?」
「ううん、ワット数を切り替えるスイッチしか……

仮眠室に置かれていたのは回すことで動作のオンオフを切り替えるセレクタスイッチがひとつしかついていないファンヒーターだった。停電はしていないし、ファンヒーターには触れてもいないし、ただ突然動作が止まってしまった。ふたりは気まずかったことも忘れてファンヒーターに近寄る。

「あれ、このランプなんだろう、点灯してるけど」
「えーと、ウォーター、エンプティ、サイン……ウォーター?」
……あ!!! このファンヒーター加湿機能があるんだ! ここに吹出口がある!」

そしてタンクに水が入っていない状態で長時間使用したので、安全装置が作動して勝手に運転が停止した。水を入れてみたけれどうんともすんとも言わない。吹き出し続ける温風のおかげですっかり忘れていた冷気がひたひたとふたりの背中に忍び寄る。

……やばいよね?」
……やばいよな?」

室内とは言え、こんな低気温の深夜に滞在することは想定されていない施設であり、なおかつ普段夜勤のスタッフであれば事務所に入って館内のエアコンを使うことも出来たが、今たちにはこの余計な機能が付いているファンヒーターだけが命綱だったのである。さあどうしよう。

慌てたふたりはまた部屋の中をあれこれと確かめて回ったが、もちろん暖房の類はなく、改めてファンヒーターを確認したところ、スイッチはワット数2種とスチームの有無で計4モードに分かれており、スチームなしで稼働させていれば停止することもなかった様子。

「スチームなしの方にスイッチ入れても動かないね」
「壊れたわけではなさそうだし、しばらく待つしかないか……

ため息とともにそう言いながら、ふたりはつい部屋の脇に置きっぱなしの布団を見た。

仮眠室に備え付けられていた寝具は敷布団に肌掛け、毛布、掛け布団に枕、という標準的な一式で、これがひとりだったらすぐに布団の中に潜り込めば何も問題はない。施設内を探せばペットボトルのゴミは必ずあるので、それらを使って湯たんぽを作ることも出来た。

だが、布団は一組、人間はふたり。しかも片方は布団からはみ出しそうな身長。

ふたりの脳裏に「雪山で遭難した男女が裸で抱き合って暖を取る」という鉄板ネタが駆け抜けていく。

ちょっとくらいの寒さならそれぞれくるまっている毛布やら肌がけやらで我慢するところだが、何しろ外は猛吹雪、暖房なし、その上服が完全に乾いていないので薄着。どんどんつま先が冷えていく。

例えば今年度のバスケット部内で言うと、二言目には「オレが!」と手を挙げ自分をアピールしてくるのは清田である。お前今関係ないだろという時でも顔を突っ込んできて、何でも自分がやりたい! と意欲を見せてくる。と神は、その対極にいる人物であった。

なので、止まってしまったファンヒーターを前に、ひたひたと忍び寄る冷気を背に、黙っていた。

しかし繰り返すが暖房ゼロの猛吹雪で夜である。

でも片手でひょいと持ち上げられるくらいコンパクトなファンヒーターだが、その1200ワットモードがいかに偉力があったかを示すには十分な冷気がどんどんふたりの体を冷やしていく。ファンヒーターが止まってまだ数分というところだ。これが朝までもつわけがない。

背に腹は代えられない。神はそう何度も自分に言い聞かせた。これは、緊急事態だ。

、まさか死ぬことはないと思うけど、風邪引いても困るし、他に手段もないみたいだし」

出来るだけ事務的に言おうと努めた結果、ずいぶん無愛想な言い方になってしまった。だが、神に言われるまでもなく充分緊急事態。は何度も頷いた。

もしかしたらあと数分後には雪が止むかもしれない、そうしたら牧たちが助けに来てくれるかもしれない。そんな時にひとつの布団に潜り込んでいたらまた問題にされて、今度こそは退部させられてしまうかもしれない。

けれど、ファンヒーターが止まったままだったら、ひどい風邪をひくなどする可能性の方が高い。

が頷いたのを確認すると、神はくるまっていた肌がけを床に落とし、部屋の片隅に折り畳まれている布団を引っ張り出してきた。冷気は部屋のドアからどんどん入ってくるので出来るだけ奥に敷き、テーブルを衝立のように立ててドア側に置いた。それだけでも冷気が遮られる。

そして肌がけを拾ってくるときっちり敷ふとんに重ね、無言での毛布も剥ぎ取って重ね、掛け布団で蓋をしてから改めてめくっておく。さらに食器棚から発掘したタオル類を集め、ペットボトルに巻きつけて輪ゴムで縛り、電気ケトルの電源を入れた。湯たんぽを作る。

そんな準備をしている間にふたりはすっかり冷え切ってしまい、は大きなくしゃみをし、神は鼻が赤くなってきた。なので急ごしらえの湯たんぽを足元に突っ込むと、躊躇うことなくふたりで布団の中に潜り込んだ。

だが、背中合わせである。

それでもずいぶんましなのと、ペットボトル湯たんぽが想像以上に温かいのでふたりはつい歓声を上げた。つま先の感覚がなくなり始めていたけれど一気に戻ってくる。そのせいでちょっと痒い。

しかし、お互い遠慮するあまり、背中合わせの同衾は布団類を引っ張り合う形になり、結果、5分もしないうちにふたりの背中と背中の間には大きく穴が開いて冷気が入り込んできた。今度はふたりの首や肩が冷たくなっていく。またのくしゃみが炸裂する。

それを背中で聞いていた神はいきなり起き上がった。

……!」
「ふぇっ!?」
「これじゃ意味ないよ! 結局風邪引く!」

くしゃみに鼻をこすっていたは、有無を言わさずに引っ張り起こされて目を白黒させている。

「雪が止んで、牧さんたちが来るまで、我慢して!」
「はい!?」

そう言うと神は向かい合ったを抱きかかえて倒れ、素早く布団を被った。神の体の大きさでは丸めていないとすぐにはみ出してしまうので、は彼の長い腕の中にすっぽりと包まれ、つま先もちょっとだけ絡まっていた。

そのため、急に密着した驚きよりも、くっついているとこんなに温かいのかという驚きで余計に目を白黒させていた。足元の湯たんぽが布団の中の空気をどんどん温め、緊張と興奮がそれを加速させて、の頬が少しずつピンク色に染まる。

……ごめん、でもこれなら寒くないだろ」

は額のあたりからぼそぼそと聞こえてくる声に身を捩った。普段聞き慣れている声のはずなのに、どうしてかそれは体の奥を震わせる。そして暖かい空気の中に慣れない香りが混じり、心臓が早鐘を打ち出す。それはちょっとだけ居心地が悪くて、ちょっとだけ気持ちよかった。

それを言葉にしたくなったのは、なぜだったんだろう。

……神、私、我慢、してないよ」

体を抱く神の腕が強ばる。そう、我慢なんかしてない。

「こうしてること、いいのかなって思うけど、でも温かいし、一緒に取り残されたのが神でよかった。他の人だったらやっぱり怖かったと思うし、遠慮したし、やだなって思ったと思うけど、神はそういうの、ないから」

先輩でもなくて、後輩でもなくて、これまでもこれからも肩を並べていかれる人だったから。だから怖くない。は本音と共に神の体に手を回してそっと抱きついた。

だが、次の瞬間、は力任せに引き剥がされた。

「え!?」
「ごめん、無理!!!」
「何が!?」

今度は何だよ!?