1号館に最後に戻ってきたのは、牧率いる本館班だったそうだ。その時も風は吹いていたが、前が見えないような吹雪ではなく、ただ雪の粒がずいぶん大きくなっているな、としか感じなかったらしい。なのでコンテナなどの搬入はスムーズに終わったし、監督救出チームもすぐに戻ってきた。
「そこから監督の手当したり、談話室で食事と調理が出来るようにしてたから、外なんか見てなくて」
「オレたちもそうなんです。事務所の方と話してたり、マニュアルを確かめてたらいつの間にか」
「特にこの地域に強風注意報とか警報とか、出てないんだよな」
「山の天気、ということなんでしょうか」
ひとまずフロントまで戻ってきたところで、神はすぐに牧へ電話をかけた。とふたり、本館に閉じ込められてしまった。外はすっかり吹雪になってしまい、しかも完全に暗くなっていて、ただでさえ雪慣れしていない者がその中を歩くなど危険極まりない。
「それに……ここって宿泊出来るように作られてないじゃないですか」
「そうだな。全部だだっ広く作られてるし、厨房があるだけで施設の受付、って感じだ」
「だからものすごく寒いんです」
「館内の空調は?」
「今と探してるんですが、スイッチパネルらしきものがどこにもなくて」
夏を前提とした施設と言っても、だからこそエアコンはあるはずだし、今日び冷やすしか機能がない「クーラー」ということはありえないのでは。そう考えたと神は二手に分かれてロビーやフロントの空調を制御するためのスイッチパネルを探しているのだが、見つからない。
「落ち着け、神。さっき管理事務所に電話したんだろ? もう1回そこにかけてみろ」
「あっ」
「大丈夫だから、落ち着いて。は動揺してないか?」
「たぶん……。それより寒がってます」
「あいつのことだから喚いたりはしないと思うけど、そっちも頼むぞ」
牧との通話を終えた神は急いでフロントに戻ると、カウンターの裏に貼り付けてある番号に電話をかけた。この山の上だけでなく下界も大雪で大混乱だろうけど、ちょっと緊急事態なのでお願いします!
「何、使えない!?」
「それが、あのフロントってのはあくまでも牧さんの言う『受付』で……」
置いてあるパソコンも利用状況の確認程度にしか使われていないらしく、あくまでも「事務所」はフロントよりも奥にあり、そこはスタッフが帰った時に施錠してしまった。
「で、その事務所の中にスイッチパネルがあるそうです……」
「マジか……」
「1階ロビーだけじゃなくて、厨房もダイニングも全部です……」
「嘘だろ……」
つまり、神とふたりは暖房が一切ない場所に閉じ込められた。牧の愕然とした声が虚しく消えていく。そこに肩をすくめて白い息を吐きながらがやって来た。
「神、ちょっと来て!」
「どうした。今、牧さんと……」
「あっごめん、仮眠室見つけた!」
「仮眠室?」
牧と通話したまま、神はに引っ張られてフロントのカウンターを出た。はフロントのすぐ脇にある柱と思しき壁の出っ張りの影に神を引き込む。そこには壁とまったく同じ色のドアがあり、小さな銀色のプレートに「STAFF ONLY」と書かれていた。
「これが仮眠室?」
「さっき鍵を確認した時に、なんの鍵か書いてないのがあって、試しに挿してみたらビンゴ!」
ドアを開くと少し埃っぽい匂いが漂ってくる。が点けたのだろうか、弱めの白色蛍光灯がチラチラと揺れている。中はコンクリート敷きの土間めいた沓脱ぎを挟んで50センチほどの高さに畳敷きの4.5畳ほどのスペースがあった。
その上に折り畳んだ寝具が一揃いと、木製の食器棚と、こじんまりとしたテーブルに小さなテレビ、そしてコンパクトなファンヒーターがあった。神はつい歓声を上げた。
「どうした、エアコン付いてたのか?」
「助かりました……小型ですけどファンヒーターがありました」
「牧さん、ここなら何とかなります! 電源もあるし!」
さっさと冷たい靴を脱いで上がり込んでいるは神の携帯に顔を寄せると明るい声を出した。そしてくるりと踵を返すと棚を改め始め、すぐにきゃーっと歓声を上げた。
「食べ物がある! 電気ケトルもあるー!」
「牧さん、どうやら夜勤のスタッフが休む部屋みたいです」
「ここで待って、風が止んだら帰りますね!」
安全に過ごせる場所が見つかったのでははしゃいだ。だが、神の耳元で牧は低い声を出した。
「いや、風が止んだと勝手に判断してふたりだけで戻るのは危ない。こっちから迎えに行くから、お前たちはそこを動くな。神、にちゃんと言い聞かせておけよ。こっちが気になって早く戻りたいと言い出すだろうから、大人しく待つように言ってくれ」
わかりました、と返事をして電話を切ると、神も冷たい靴を脱いで上がり込む。
「ファンヒーターありがたい〜早く風が止めばいいのにね」
「……牧さんが迎えに行くまでここにいてくれって」
「え? 迎えって……」
ひとまずふたりはファンヒーターの前に並んで温風につま先を温めていた。神はの方を見ずに言い、に鸚鵡返しされても返事をしなかった。
「別に……わざわざ迎えに来てもらわなくても、風が止めば帰れるんじゃない?」
「だけどもう外は暗いし、オレたち雪に慣れてないし、ふたりしかいないから危ないだろ」
「危ないって……何も登山道の山小屋にいるわけじゃないんだし」
は牧の予想通り、早く1号館に戻りたいようだ。
「昨日もそうだったけど、1号館まではライトがたくさんあるし、雪が沢山積もってるから歩きにくいとは思うけど、わざわざみんなに迎えに来てもらわなくたって……私たちだって子供じゃないんだし」
の感覚では、風さえ止まってしまえば歩きにくいだけの積もりすぎた雪道、といったところだ。確かにこの本館に来るまでの間は神に手を繋いでもらったけれど、何も牧を先頭に救助隊を出してもらうようなことではないのでは。
そもそもこれは4月からの新3年生と新2年生がチームとしての結束を強めるための強化合宿である。
その中には、1年生から「2年生は後輩同士」という意識を抜き取る意味もある。これまでは2年生も1年生も、3年生に先陣を切ってもらう立場にあったわけだが、4月からは違う。1年生はそのまま「後輩」の立場を続行させるが、2年生は「先輩」のみの立場になる。
神はもちろん、もマネージャーながら3年生としてしっかり認識してもらう必要がある。
だというのに、もうすぐ卒業してしまう牧の指示でお迎えを待たねばならないとは。それでは結局牧がリーダーとしてのチームから脱却できないじゃないか。部員はこれから何をおいても神をリーダーとしてまとまっていかなければならないのに。
「……そのくらいみんなわかるよ。安全のためだってことくらい」
「……神、そんな風に牧さんに頼っていられる時間はもうないんだよ」
「頼ってなんかいないよ。今こんなことになってるのはたまたまだろ」
「だけど牧さんの言うことには絶対服従じゃない」
「、普段の部のことと混同するなよ。今は非常事態なんだから」
「いくら雪が積もってるって言ったって、きちんと整備された合宿所だよ?」
まさかこの整備された施設の敷地内を遭難し、そのまま森へと突っ込むわけがないじゃないかとは言いたいようだ。だが、牧の言いつけかどうかはともかく、万全を期すべき状態だということは神も同意なので、取り合わない。
すると、そこにまた牧から通話がかかってきた。しかもビデオ通話。
「大丈夫か?」
「牧さん、風が止んだら私たちだけで帰れますから、大丈夫ですよ〜!」
「……、外、確認したか?」
「いえ、見てないですけど。ここファンヒーターあるから暖かいし」
「じゃあ今から見ておいで。それからまた話そう」
一方的に切れた携帯を見下ろしていたは怪訝そうな顔をしながらも、大袈裟だなあと言って立ち上がった。神も着いていく。まだ濡れて冷たいままの靴をつっかけ、ドアを開ける。薄暗い照明の下を正面入口まで急いだは、言葉を失ってその場に立ち尽くした。
「、あの部屋で大人しく待とう。これは、無理だよ」
神の重苦しい声がロビーに響く。
正面玄関のドアはガラスで、そこに吹き付ける雪が積もっての身長に届きそうなほどの高さになっていた。1号館から本館に向かっていた時はほんの20センチ程度だったというのに。
「どうしよう……」
「、寒いから帰ろう。予報では今日中に止むって言ってたし、大丈夫だよ」
「ここ、潰れないよね?」
「ははは、さすがにそれはないよ」
まさかこんなに積もっているとは思いもしなかったは真っ青になっていて、神は彼女の袖を引いてその場を離れ、足早に仮眠室へ戻った。コンパクトなファンヒーターながら、部屋はだいぶ温まっており、ふたりはまた並んで座って手足を温め始めた。
神は携帯を取り出して牧に電話をかける。
「、見てきたか」
「はい、確認もせずにすみませんでした」
「本館は低い場所にあるから余計に吹き溜まりになってるんだろうけど、念の為動かないでほしい」
「はい。仮眠室で待機しています」
「風が止んで雲が取れたらそっちに向かうから」
風が止み雲が晴れるのがいつになるか、わからないけれど。それぞれそう言いたいのを飲み込んで、通話を切った。予報ではこんな猛吹雪になる予定ではなかった。整備されているので分かりづらいが、これでも一応山間部なので下界とは事情が違うのかもしれない。
「ファンヒーター暖かいけど、冷たいね、服」
「このまま着てると風邪ひきそうだよな」
「乾かさないとだけど……」
ふたりはジャージに重ね着をしてきたのだが、もちろんそんなものは雪で湿ってしまっていて、部屋は着実に温かくなっていくけれど、服は簡単には乾かない。今もそれとなく体を冷やし続けている。しかし仮にも男女である。ポイポイ脱いでファンヒーターで乾燥! とはいくまい。
ちょっと気まずくなりながらふたりは部屋を漁り始め、物入れになっているらしい食器棚からバスタオルとフェイスタオル、そしてクリーニング店のビニール袋に入った男性用のパジャマを見つけた。さらに神が部屋の隅に畳んで置かれている寝具を開いてみると、柔らかい肌掛けと二枚重ねの毛布、そして綿布団が出てきた。
「なんとか……なりそうじゃない?」
「そうだな。いつここを出られるかわからないんだし、冷えたままでいるよりは」
ベロリと広げられた布団を直視出来ないふたりはまたあれこれと部屋を漁りながら、しきりと頷いていた。こんな非常事態なのだからしょうがない。雪で閉じ込められたと言っても、幸いファンヒーターはあるし、食料はあるし、電源もある。それこそ子供ではないのだから、例え一晩中ここにいなければならなくても耐えられるはずだ。
「よし、じゃあ濡れてる服はファンヒーターの前で乾かす」
「その間は毛布とか肌掛けにくるまってる」
「食料は少しずつ補給していく」
「充電は私のモバイルバッテリーから取って、そっちをあとで補充する、と」
「いいね」
急にふたりきりになってしまい、しかも衣服を脱ぐ必要が出てきてしまったので、途端にドギマギしてきたけれど、そんなこと言ってる場合じゃない。やはりお互いの顔が直視出来なかったけれど、ふたりはそう取り決めると、背を向けてそれぞれジャージを脱いだ。
は発熱インナーに長袖のTシャツ、インナーダウン、パーカー……とかなり重ね着をしていたのだが、ボトムが全てやられてしまった。なのですべて脱いでバスタオルを巻き、毛布にすっぽりとくるまった。重ねばきしていたレギンスはすぐ乾く予定。
神の方もボトムが全滅なので発掘したパジャマを借り、やはり肌掛けにすっぽりとくるまった。そしてふたりとも素足なので、ファンヒーターに向けて加熱しておく。間に服をかけたテーブルを置いて布団を引っ掛ければ、なんとなくこたつに見えてくる。
そしてひとまず電気ケトルで湯を沸かし、お茶とお菓子で補給しておく。
「なんか思ったよりいい感じかもしれないね」
「ファンヒーターって意外と温かいんだな」
「いや〜ほうじ茶がしみるね〜」
濡れて冷えた服から解放されたので、ふたりは一気に緩んだ。服を脱いでいる間は気まずいことこの上なくて、チームの結束強化のための合宿だったはずだが、部長とマネージャーがその基礎となれるかどうかを試される合宿になってしまったな、とげんなりしたのが一転、ちょっと楽しくなってきた。
「むしろ部長とマネージャーがいない時でもきちんと行動できるか、っていうね」
「そうそう、ありえない話じゃないんだよな。副部長がいるならそれに従う」
「それもいなければ3年生に従う」
「それもなければ次は……えっ、清田になるの?」
「……そうなるね」
「大丈夫かな……」
約1年間お目付け役をやってきた神だが、未だにダンスィが抜けきらない後輩が年末には主将になるのかと考えたら余計に寒くなってきた。代替わりするということはもいなくなる。大丈夫か海南。
「そっか、私たちも最後の年になるんだね」
「……うん」
「うわ、どうしよう泣きたくなってきた」
「今からそんなんでどうするの」
「そりゃ神はもう推薦決まってるんだし、海南終わったらハイ次、って感じかもしれないけど」
現時点では内部進学の予定であるはつい寂寥感に襲われて肩を落としてしまったのだが、神がドライな返しをしてきたので、ちょっとむくれた。神は昨年のインターハイ予選でベスト5に選ばれた時点で監督に問い合わせがあり、冬の選抜を経て冬休みの間に推薦入学がほぼ確定した。
とはいえ海南の主将であればこれは珍しくもない話で、先代の牧に至っては高校入学直後からいくつもスカウトが来ていた。なので神は神でむくれた。そんな風に思ってないのに。
「オレは引退するときのことより、インターハイのこと考えてるだけだよ」
「でもそれも最後だと思ったらちょっと寂しくならない?」
「寂しくなっても何も変わらないじゃん」
「それは冷たすぎない?」
ファンヒーターの前に突き出されている神の裸足のつま先を、のつま先が突っつく。
「冷たいかもしれないけど、主将のオレが率先してウジウジしてるよりはいいだろ」
「ウジウジ……」
「そこ拾うの」
「別に今は練習中じゃないんだし、ちょっと感傷的になるくらいいいじゃん」
は立てた膝に腕を組んで顔を埋めた。突然の猛吹雪で仲間たちと引き離され、こんな窓もない仮眠室に閉じ込められてしまったストレスが気持ちをささくれ立てさせる。
神も少し俯いていたが、意を決したように体を起こすと、腕を伸ばしての手を取った。
「、喧嘩すんのやめよ。引退するまで協力しあっていきたいんだ。正直オレじゃ牧さんみたいに出来る気がしないし、部員たちがちゃんとオレに着いてきてくれるのか、そこも自信ないし、だからどうしてもに助けてほしいんだよ」
それは「自信」の問題というよりは、牧のような高校生にあるまじき「お父さん感」のなさ、その落差で後輩たちが自分を頼りなく思うのでは……という疑心暗鬼だったのだが、そこまで説明する必要もあるまい。はきょとんとした顔をしていたが、やがて手を握り返した。
「ごめん。私もそれが自分の役目だと思ってる。突っかかってごめん。ちょっと、怖かったから」
湿った服を脱いで毛布や肌掛けにくるまり、お茶とお菓子で少し温まった手は温かかった。経験したことのないような雪の量に恐怖を感じて余計にグズってしまっただけのは神の手をキュッと握り返すと、スン、と鼻を鳴らした。
「神と一緒なら大丈夫なはずなのにね。私が1番神のこと信頼しなきゃいけないのに。ごめん」
そんなこと、と言いつつ首を振った神だったが、そんなの言葉と照れくさそうな表情にギュッと胸を締め付けられていた。主将とマネージャー、何より固い信頼関係で結ばれていなければならない、いわば「公的なパートナー」なのだ。
だから、胸の奥がギュッと軋むような気持ちを抱いては、ならない。
怖いと言うの、この繋いだ手を引いて抱き締めたいなんて、思ってはいけないのだ。
神はするりと離れる手をそのまま肌掛けの中に隠すようにしまい込んだ。
「吹雪、早くおさまるといいね……」
そっと頷く。今夜一晩吹雪いたままでいいのに、そんな気持ちも隠して。