ゆきのよる

花形編 5

おそらくは初めてだったのだろう、求めに応じる余裕もない様子だったが、花形はゆっくりとキスを繰り返した。砂糖水を飲んでいた唇が甘い。

まさかこのまま事に及ぼうとまでは思わなかったけれど、本気の気持ちを自分にもにも刻みつけたかった。花形が求めているのはの体ではなく、その心だったけれど、心にはキスが出来ないから。その代わりに。

「せ、せんせ……
……嫌か?」
「ううん、そうじゃ、ないけど、どうしよう、頭、真っ白」

それでいいんだよ。花形はまたの唇に食らいつき、優しく吸い上げる。もっともっと余計な考えを捨てて、忘れて、オレの唇だけ感じててくれればいい。他のことは後で考えればいい。オレも今はただ、お前の唇だけを感じていられればいいから――

にもそれが伝わったらしい。背中にしがみついていた手が離れ、両腕で花形の首にしがみついて求めに応じ始めた。少しずつ緩む唇が徐々に熱を帯びて――

そこにけたたましい着信音。

「うわ!?」
「び、びっくりした、えっと、あ、やばい! 先生、薪が!」

驚いて飛び起きたふたりだったが、着信を知らせるモニタを見て我に返った。管理事務所で一晩付き合うと言ってくれたスタッフではないか。というか薪のことをすっかり忘れていた。慌てて駆け寄ってみると、熾火が十分な熱を放っているものの、かなり薪が減ってしまっている。

バッテリーに余裕があるのでビデオ通話にしてもらい、ストーブの中を見てもらいながら指示を受けて薪を継ぎ足す。指示通りに調節を行うと、しばらくして再び炎が上がり始めた。スタッフによると、熾火の状態はむしろ燃え上がっているより高温なのだそうだが、ふたりとも薪ストーブに慣れていないので、熾火が元気なうちに足していく方が安全だという。

「他に不安なことはありませんか。体調などは」
「あ、いいえ、問題ありません。あの、積んであった毛布を勝手に」
「いいんですよ、何でも好きに使って下さい。長丁場になりそうだし、とにかく低体温に気をつけて」

ずっと天気予報とにらめっこだというスタッフは、風が止むのは明日の10時頃になるのでは……と少し声を潜めた。ある程度しっかり風が止まったことを確認してから準備をして山小屋に向かうことを考えると、ふたりが救助されるのはもっと時間がかかるに違いない。

「テレビでもありゃあ暇が潰せるんですけどねえ。さん、女性の話し相手が必要ですか?」
「大丈夫です。必要になった時はこちらから連絡します」
「こういう時は何でも頼ってくださいね。雑談のネタが尽きたらお声かけください」
「ありがとうございます。ネタが尽きそうなので、そろそろ数学の授業を始めます」
「えっ、ちょ、それはいらないから!」
「皆さんもいかがですか。脳が気持ちよくなりますよ」
「あっ、忙しいんで失礼します! さん頑張ってね!」
「朝まで付き合ってくれるって言ったのにー!」

まさかベッドの上で抱き合ってキスしまくってましたとは言えないし、しかしこうして勇気づけてくれるスタッフには感謝しかないし、花形は珍しく軽口を叩いた。翔陽で教壇に立ち始めてからの花形はこうしたユーモアも失っていた。自分が翔陽の生徒だった頃はたくさん持っていたのに。

の真顔のツッコミにスタッフの皆さんも大笑い、笑顔を残して通話は切れた。

「えっ、まさか本当に数学やるとか言わないよね?」
「やりたきゃやってもいいぞ」
「ごめん、私先生のことは大好きだけど数学はそこまで好きになれない」

薪の状態を観察している花形の後ろで、はついでに通知を確かめる。当然と言えば当然だが、親からのメッセージが大量に来ていた。いかん、無視してしまった。だが、確認してみると学年主任から連絡を受けたので天候を見ながら明日にも現地へ向かうとのこと。

「えっ、いらないのに」
「えっ、何が?」
「あ、ごめん、親来るっていうから」
「おっ、親、ごさん」

時間はまだ日付を超えないし、落ち着いたらまたベッドでイチャつこうと思っていた花形の背中に激しい緊張が走る。当座のところはの言う「黙ってればわからない」でいいのだが、それでもご両親にしてみれば高校卒業前の愛娘であろう。それが一晩独身の若い男と一緒だったと知ったら……

「それはもう連絡行ってるでしょ」
「吐きそう」
「先生、よくそんなメンタルでインターハイなんか行かれたね」
「バカ言え、インターハイは楽しい」

一応は親に向けて「友達のように親しい先生」と一緒だから安心してる、数学の先生だけど歴史が好きで、楽しい話をたくさん聞かせてくれるので退屈しない、としゃあしゃあと嘘を送った。

「そんな大嘘を……
「嘘も方便」
「どうして女子ってそう簡単に嘘つけるんだよ」
「先生、女子で括ると痛い目にあうよ」
「はあ……そうでした……

お互いへの愛情で目一杯になっていたというのに、水を差されたふたりはようやくカップ麺を食べ、改めてベッドはふたりで暖まれるように整えられた。幸い薪ストーブは順調で、外の強い風による寒さはほとんど感じずに済んでいる。強いて言えばトイレが寒すぎるくらいだが、それは花形の提案でドアを開けておくことになった。小窓は毛布とダンボールで目張り。

「眠いか?」
「ううん、まだ全然平気。でも今日は早かったし疲れてるから……3時までもつかなあ」
「定時連絡はくれるみたいだから、寝オチしても平気だけど」

再びベッドによじ登ると、花形は毛布を被り壁に寄りかかって両腕を広げた。

「まあ、眠くなったら寝ればいいよな。おいで」
……その『おいで』ってずるいと思う」
「ずるい? どういう意味だよ」

だがは素直に花形の腕の中に潜り込み、隙間なく寄り添うとぎゅっと抱きついた。花形はそんなを毛布で包み込む。ストーブもカップ麺も暖かいけれど、こうしてくっついているのが1番暖かい。心がゆったりと温もってくる。

怪我で積み上げてきたものが瓦解して以来、自分自身を生きている実感のなかった花形だったけれど、どうしてか今は「普通の自分」でいられる気がしていた。怪我と一緒に壊れて失くしてしまった何かは、が埋めてくれた。

そして花形は、この3年間で一度も感じたことのなかった欲求が戻っていることに気付いた。

未来への希望だ。希う望みを手に生きていきたいという、欲求だった。

長く失っていたものなだけに、その欲求への渇望は激しい。今すぐ自分の将来を再び切り拓いていくために何か行動を起こしたい。そんな衝動がふつふつと湧いてきた。

そのためにも、まずは無事に生還せねば。生還して、と一緒に毎日を楽しまねばならない。

花形はのバッグを引き寄せると、屈み込む。

、『Boulevard of Broken Dreams』聞きたい」
「えっ、バッテリー大丈夫かな」
「1回だけでいいよ。イヤホン、半分ずつにして、一緒に」

は返事もせずに体を起こすとイヤホンを取り出し、ひとつは自分の左耳に、もうひとつを花形の右耳に挿し込む。二股に別れたイヤホンは短いので、顔は近くにある。

「なんか、エモいね。雪の山小屋でふたりっきりでグリーン・デイなんて」

イヤホンから流れ出すゆったりとしたリズムに、またふたりは腕を絡めて抱き合う。

「高校生の頃、こういうこと、したことなかった。――
「うん、一緒にやろ。私ももうすぐ高校生終わっちゃうけど、黙ってればわかんないもん」

「Boulevard of Broken Dreams」をBGMに、ふたりはまたゆっくりと唇を重ねた。

明日からは孤独に心を凍えさせることもない。春は遠からずふたりを迎えてくれるだろう。

ふたりが山小屋で一夜を過ごしてから2ヶ月が過ぎた。

結局ふたりが救助されたのは翌日の昼過ぎのことで、ビデオ通話で小屋の周囲の状況を確認したところスノーモービルだけで何とかなりそうだ、とレスキューの出動はなく、ふたりはゲレンデの管理事務所で待機していてくれたスタッフにより、無事に助け出された。

もちろん翔陽の生徒たちは先生と生徒が山小屋での一夜というエキサイティングな話題に興味津々だったのだが、は両親が迎えに来ていたし、花形も一番近い場所に住む親戚が飛んできてくれて、地元の診療所で診察を受けたのち、そのまま神奈川に送り返されてしまった。

そのうちが花形と一緒に遭難したことは全生徒の知るところになったけれど、は多くを語らないまま卒業、3年間袖を通した翔陽の制服を脱いだ。

そして現在4月、は無事に大学生になった。

「やっぱスーツいいなあ〜。いつもスーツ着てればいいのに」
「簡単に言うな。ちょうどいいサイズがなかなかないんだぞ」

は花形のアパートで彼氏を眺めて悦に入っていた。花形は講師を辞めたのである。

そもそも花形に長く勤めたいという意志はなく、常勤にしろ非常勤にしろ講師は1年毎の契約だし、精神の安定をもたらしてくれる恋人との関係を取った。そういうわけで春から就活に勤しんでいた花形だったが、2週間ほど前に面接をした地元企業から、もう一度話をさせてもらえないかと連絡が来たので、急いでネクタイを締めている。

「ドアトゥドアでどのくらいのところにあるの?」
「バス電車だと40分くらいか……たぶんチャリの方が早い」
「車買いなよ」
「無職に向かってなんてこと言うんだ」
「てか家賃4万て、よく残ってたね、こんなボロいアパート……

元々帰国後からは実家で暮らしていた。実家暮らしの間は両親の助けもあって、花形は地道に貯蓄に励んでいたのだという。しかし日々の生活に息苦しさを感じるようになってきたので、1年ほど前にほぼ身ひとつで家を出た。なので、車は買えないが、3ヶ月くらいなら働かなくても最低限の生活が出来るくらいの蓄えはあるという。

とはいえ、家賃が安いのは築年数が古くて日当たりがあまりよろしくないからであり、体の大きな花形でもゆったり過ごせる程度の広さはあるし、駅は近くないが、スーパーなどは遠くないので、が文句を言うほどには悪い物件ではない。当のも入り浸っている。

今のところ、ふたりの関係を知る人はいない。間に卒業やら入学やら退職やらを挟んでいるので余計に親しい人への報告が遅れているというのもあるが、とにかく花形が翔陽で教壇に立っていたことを知る者には知られるわけにいかない。

唯一の例外があのスノーモービルで移動中に意識を失ってしまったゲレンデのスタッフだ。彼は救急搬送されたが無事に一命を取り留め、の卒業直前に神奈川までやって来てふたりに頭を下げに来た。不慮の事故なのでふたりはもちろん責める気もなく、楽しく食事をともにした。その席で「もしかしておふたり……」と勘付かれてしまった。さすがに彼も女子高生と付き合い始めてのちに結婚した御仁である。

突然の指摘だったので絶句してしまったふたりだったが、彼は「さんがしっかりしてるから大丈夫」と言ってニコニコしていた。

「でもいつまでもここにいる気はないぞ」
「そうなの? もっときれいなところに引っ越したいとか?」
「いや、今のところオレの最終目標は足を伸ばせる風呂のある家に住むことだから」
「そんな風呂あるの……特注とかめっちゃ高そうじゃん……

自分の気持ちに正直になってにキスして以来、花形には夢や願望が戻ってきていたが、それは学生の頃に思い描いていたような世界とは少し違っていて、以前より具体的で現実的で、そして日々の暮らしに寄り添ったものになっていた。体のサイズに合った風呂もそのひとつ。

ネクタイがなんとかきっちり締まった花形が時計を見ると、まだ出発には少し余裕がある。はアパートにやってくると基本ベッドの上で過ごしているので、その傍らに腰を下ろす。ベッドと言うか、マットレスを重ねた寝床だ。と一緒に寝るとはみ出す。

「でも仕事決まったらスーツ買い足さなきゃならないでしょ」
「今日面接行くところは基本トップスが作業着」
「ううう……先生は翔陽時代だってあのわざとらしい白シャツに黒いカーディガンばっかりで」
「それがよかったんだろ」
「そうだけど、スーツはそれ以上に好きなの!」
「ちょ、おいやめろ、シワになるからくっつくな」

現在ふたりは「先生と生徒」ではなく「休職中と学生」なのだが、2年も続いた関係性は簡単に変わらない。2着しかないスーツは大切に着ているので花形は抱きついてくるを押し返す。帰ってきたら好きなだけ抱き枕になってやるからシワは勘弁しろ!

「何やってる会社なの?」
「まあ、業種で言えば製造業だな。そこの営業所だけど」

には言っていないが、本社はなんと社会人バスケットボールチームを持っているのだ。怪我の影響もあるので競技中心の生活には戻れない可能性の方が高いが、近い距離にいることでいつかまた競技に関われるのではないかという期待もあった。

「いきなりそんなガチの就職で大丈夫?」
「それは別に。営業所だけど営業じゃないし」
「何やんの」
「SE」
……先生、プログラミングも出来るの」
「そりゃまあ、情報工学やってたから」
「先生が遠い……

は超がつくほどの文系、花形は超がつくほどの理系だ。

……でも無理しちゃダメだよ。また疲れちゃったら大変」

声を落としたはそう言って花形の手を取るが、就職を急ぐのは食い扶持を稼ぐだけが理由ではない。ちょっと無理をしてでも「社会人」にならねばならないのには理由がある。

「それは気を付けるけど、ちゃんとした社会人になっておかないとお前を嫁にもらえないだろ」
「ヘァッ!?」

壁の薄いボロアパート、は慌てて口元を覆い隠した。

「せっ、先生、ちょっ……
「ていうかお前いつまで『先生』って呼ぶつもりだよ。慣れてるからいいけど、そろそろ直せ」
「いやちょっと待て、そこじゃない、嫁」
「そばにいてくれるって言っただろ」
「言ったけど」
「たまに世の中についていけなくなる仲間じゃん」
「そっ、そうだけど!」
「大学入ってもうそろそろ1ヵ月、友達出来たのかよ。出来てないだろ」
「そうだけど!!!」

花形と手を取り合ったままは呻いて蹲った。ちょうど付き合いたての彼氏がいるせいもあるが、サークル活動もしていないし、親しい友達はまだ出来ないでいる。それを知る花形はニヤニヤしながら屈み込む。オレはバスケがあったからすぐに友達みたいなのは出来たけどな。

「ほら、オレしかいないじゃん」
「ちょっと意味合いが違う気もするけど……
「ていうか、親に話してないだろ、オレたちのこと」
……ごめん」
「だからだろ。話さなきゃいけない時に反対されるような人間でいるわけにいかないから」
……私の、ためなの」
「それが自分のためでもあるから」

抱きつくとシワになると怒られるので、は花形の大きな手を両手で包み込んで抱き締めた。

「私も、先生をくださいって、言えるような人間に、ならないとね」

それが自分のためでもあるから。

超文系と超理系のふたりだが、今のところ深刻なすれ違いもなく、雪の一夜のようにひっそりと寄り添いながら過ごしている。少なくとも花形にとってという存在は、ちょっと無理をしてでも失いたくない人になっていた。ということは、将来は嫁にもらうしかあるまい。

そしてあの夜、いつでも自分を受け止めると言ってくれたを支えていきたいから。

「じゃ行ってくる。そんなに遅くならないよ」
「いってらっしゃい。気を付けてね」
「もしうまくいったら、夜は外で食べようか」
「いいね! 待ってる」

なんだかもう結婚したみたいじゃん。そんな気持ちでにキスをした花形はピカピカに磨いておいた靴でアパートを出る。昨今の春は短く、4月の終わりを間近に空は薄曇り、エアコンが欲しいほどの気温になることも珍しくない。

強い風と一面の雪の中に取り残されたあの時、がいなければそのまま横たわって諦めていたかもしれない。あの時の体と心の冷たさや痛みはもう遠い記憶になりつつある。日々は暖かく、との時間はもっと暖かく、鬱屈した時間は日毎に短くなっていく。

そういうとの日々を、長く続けていきたいのだ。

「すみません、ちょっとお手洗いに」

去る3月、例のベテランスタッフとの食事を終えたところで、ふたりが先生と生徒の間に付き合い始めてしまったとバレてしまった。ベテランさんは自身も25歳の時に女子高生だった奥様と付き合い始めた人なので咎めもせず笑っていたが、冷や汗ダラダラのはそそくさと化粧室に立った。

するとベテランさんは急に真剣な真顔になって身を乗り出してきた。

「先生、真剣なお付き合いなんですよね?」
「えっ、ええまあ、はい、教職は辞めようと思ってます」
さんとの関係を続けるために、ですか?」
……はい、そっちの方が、大事なので」

ベテランさんは途端に日焼けした顔で頷き、目を細めてにっこりと微笑んだ。

「それなら心配ない。でも先生、気を付けなさいよ。ちょっと油断するとすぐ子供出来ますからね」

突然そんなことを言われた花形は食後のコーヒーを吹き出しかけ、咳き込んだ。

「先生、笑いごっちゃないんですよ、私それで結婚したんですから。家内はその時20歳になる直前、結婚するつもりなんかなかったから貯金もゼロ、家内のお父さんに死ぬほど説教されましてねえ。おかげさまで今でも家内と家内の実家には頭が上がらない」

そう、高校生だ子供だと思い込んでいるが、彼女たちは身体的には既に大人でもある。花形は眉を下げているベテランさんの困った顔に笑いつつ、何度も頷いた。肝に銘じておきます。

「あら、先生、それもいいなとか思いました?」
「えっ、なっ、なんでわかったんですか」
「ま、さんがしっかりしてるから大丈夫か。先生、自分の子供はかわいいですよ」

またコーヒーをこぼした花形だったが、しかしこの時から新たな夢が始まったのである。

遠い未来にでも、そんな日々があるなら、努力にはその価値がある気がして。

END