ゆきのよる

花形編 3

先を行くベテランスタッフの影が小さくなり始めたのは、走り出してものの2分くらいの時だった。やけに距離が開いていくので違和感を感じた花形は速度を上げて距離を詰めようとした。だが、どうにもスピードが出ない。そして、これはおかしい……と不安を感じ始めた時、さらに異変が起こった。

ずいぶん小さくなってしまった影がフラフラと揺れ始め、一瞬消えてしまった。

そこからのことは花形も必死だったので記憶が定かではなかった。とにかく追いつこうと直進を心がけて進んだのだが、影が見えてこない。そしてやっと見えてきたと思って追いかけた影は、なんと低木だった。そこで花形はスノーモービルを停車、移動をやめた。

先導していたベテランスタッフの様子は明らかにおかしかったので、何か不測の事態が起こってしまった……ということは想像に難くない。しかし何しろ強い風の雪山である。にざっと事情を説明すると、彼女は黙って頷いてスノーモービルを降りた。新たな積雪はスノーブーツが半分埋まる程度。深くはない。傾斜も緩い。

だが、ふたりとも携帯が圏外だった。これには頭を抱えたが、が傍らの木を「ずいぶん等間隔に並んでる気がする。人が植えたんじゃないかな」と言い出したので、その並んでいる木を頼りに、傾斜を少しずつ下ってみることにした。ゲレンデの明かりが見えるところまでたどり着ければなんとかなるという思いでスノーモービルは押して、ふたりは少しずつ少しずつ移動を続けた。

そしてやっと花形のモバイルWi-fiが電波を拾う場所までたどり着いたのが、連絡を絶ってから実に50分後のことだったというわけだ。

花形はもちろんも取り乱したりしなかったので、レストハウスとの連携はスムーズに進み、また時間はかかったけれど山小屋にちゃんとたどり着けた。

こうした時、花形もも疲れや不安から不機嫌になるタイプではなかった。ひとまず安全な場所に辿り着けたのだし、ベテランスタッフの事情もわかった。強いて言えば雪山で痴話喧嘩の末に危険行動を取った2年生が原因だが、学年主任が自分たちの家族に頭を下げることはなさそうだ。それでいい。

薪ストーブが小屋を温め始めると、ふたりは疲れて壁際に作り付けられているベッドなのかソファなのかよくわからない場所に倒れ込んだ。しっかりした木組みのログハウスの中にいても外の風はうるさいほどだったが、もう喋る気力もなかった。

レストハウスに連絡がついて移動を開始してからは、花形はを抱きかかえるようにして進んできた。の正確なスマホ操作が命綱だったからだ。花形も機械類は得意な方だったのだが、何しろ手が大きくてスマホ操作はタップミスが多い。

あの時、が言った「私がいてよかったでしょ?」という言葉が頭にヒリヒリするほど沁みる。まだほんの18歳だというのにパニックにもならず、もう嫌だと喚きもせず、無事に生き残ることを諦めなかった。花形はベッドの上に並んだクッションに寄りかかって静かに呼吸を繰り返しながら、思った。

もしひとりだったら、諦めていたかもしれない――

そしてもし、が「きゃな」のような幼くわがままな子だったら、見捨ててしまったかもしれない。薄々気付いていたけれど、自分の中には「子供を良い方向へ教え導きたい」という熱意や理想がほとんど存在していない。

今こうして無事を得て目を閉じていられるのは、がいたからだ。

ベテランスタッフの「女性は我々男より大人になるのが早いですからね」という声が耳に蘇る。だとしてもはこの場においては最良のパートナーだった。それは今までの自分の態度をちょっと改めねばと思うには十分だった。それでもまだ高校生、怖かっただろう。大人の自分がしっかりせねば。

だが、目を開けて反対側のへりに寄りかかっているはずのの方を見ると、彼女は自分のバッグの中身を広げて改めていた。携帯は早速モバイルバッテリーに繋がれている。

……大丈夫か」
「全然平気。まだ気力の方が勝ってるから、今のうちに」
「荷物、そんなに入ってたのか」

は平べったいスポーツバッグを斜めがけにしていた。その中身がベッドの上にひとつずつ並べられているのだが、意外と使えそうなものが多い。

「バスん中で先生がいらないって言ってた飴がまさかの貴重な食料」
「絆創膏、傷薬、除菌ウェットティッシュ……怪我とかないか」
「うん、ウェアもどこも切れたりしてない。これは痛み止め。先生が生理になっても大丈夫」
「それは生理じゃなくて切れ痔なんじゃないか」
「先生、花も恥らう乙女に切れ痔で返すのはどうなの」
「花も恥らう乙女が生理とか言い出すからだ」
「生理についての意識改革に意欲的に取り組んでいるのです」

会話の内容はひどいが、花形は感情よりも理屈で物事に向かう性格なので、は遠慮なく万が一の生理用品も堂々と並べている。もし怪我をして出血があった場合、生理用ナプキンは止血と傷の保護に最適な衛生用品だからだ。

そうしての荷物を仕分けると、救急に使えそうなものが少々と、スティックタイプのキャンディーが3本、モバイルバッテリー、LEDのスリムなライトが残った。

「さっき救急箱もあったけど、なんか古そうな薬しか入ってなくて」
「置き薬のセットをそのまま置いてあるみたいな感じだったよな」
「よし、ひとまずこれは並べておこう。先生、カップ麺食べる?」
「いや……食べたかったら食べていいよ」
「ううん、限界まで待ちたい。でもお湯は沸かしておこうか。コーヒーはあったよ」

はベッドから降りると、ランタンを置いたテーブルに使えそうなものを並べ、水道脇の棚からやかんを持ってきて火にかけた。薪ストーブはどんどん火力が増していて、やっと暖かく感じられるようになってきた。だが、コーヒーはいかんのである。

「コーヒーもダメなんか」
「ダメっていうか、カフェインはトイレ近くなるんだよ。だから結局水分を失うことになる」
「そっか。お茶も全部ダメなの?」
「ほうじ茶や麦茶はほぼノンカフェインだから大丈夫。緑茶や烏龍茶、酒もダメ」
「先生ってお酒飲むの?」
……たまにな」

やかんをかけたは棚の中に置いてあったカップを引っ張り出し、コーヒーに入れるためのものか、グラニュー糖のスティックがあったのでそれを二袋サラサラと入れる。食料は限られているので、糖分を補給して誤魔化す作戦だ。

花形も砂糖湯をもらうことにして、ふたりはようやくスノーブーツとスキーウェアを脱ぎ、ベッドの上に積み上げられていた毛布を被ってあぐらをかいた。小屋の真ん中にあるストーブと、椅子の上に置いたランタンでけっこう明るい。

「ねえ先生、あの上にも毛布乗ってるね」
「オレが椅子の上に乗れば届くな。下ろしておくか」

木製のベッドに固いウレタンのマットレス、冷たい敷布団をゴワゴワ起毛のシーツで包んであるベッドに座り、丸太の壁に寄りかかっていたは天上を見上げるとスッと指を指した。中空に張り出したロフト状の収納の上には畳んだ毛布のようなものが見える。

はしごが見当たらないが、本人の言うように椅子にでも登れば花形の手が届く。非日常の中では197センチは役立つことが多い。

「毛布?」
「もしかしたら人間が使う用じゃないかもしれないけど、一応毛布かな」

花形はとりあえず全部引きずり下ろした。積んである毛布類を包んでいた毛布は確かに、どう見ても作業用だ。木屑のようなものと枯れ葉がくっついている。だが、その毛布を剥がすと中からは十分防寒に使えそうな毛布が何枚も出てきた。が歓声を上げる。

薪ストーブのおかげで小屋の中は温まってきているが、座っているだけのベッドが何しろ冷たかった。ふたりは毛布をたくさん使ってベッドを補強し、暖かく過ごせるように工夫した。

作業用だというこの小屋は、ほぼ正方形の造りになっている。ドアの上には採光窓があり、その両側には戸棚。ドアを背にして左側に小さなテーブルと椅子が2脚、反対の右側には水道とトイレがある。そしてドアの正面側の壁には無骨な形の、もはやベンチと言ったほうが近いようなベッドが壁にくっついている。それだけの小屋だった。

その小屋の周囲はぐるりに縁側がついていて、ちょうどベッドがある壁の位置に物置があり、そこには斧や発電機があるそうだが、今のところ必要がない。

やかんのお湯が沸き、暖かくて甘い液体が喉を通過していくと、ふたりは揃って「はあ〜」と嬉しげなため息をついた。やっとひと心地だ。ベッドも寒くない。

「やっとホッとした〜これでなんとか生きて帰れる気がする」
「あとは風が収まれば問題なさそうだな。薪をくべるまでは寝ててもいいみたいだし」
「でもまだちょっと緊張してるのかな、すっごい疲れてるけど眠くない」

それは無理もなかろう。花形も同じだった。やっと気が楽になって、ゆったりと壁に寄りかかって足を崩しているが、疲れているはずの体は眠気を催さない。まあ時間としては眠くなりようがない、まだ21時だ。朝までは長い。

「ていうか暇だね……起きてなきゃいけないし……
「寝ててもいいぞ。別に徹夜くらい珍しいことでもないし」
「うちらはテスト前とか当たり前だけど、先生もなんかあるの?」
「君らのテストの採点が間に合わないんでね……

実際のところ、花形の担当クラスは多い方ではない。しかしまだ彼も2年目なので、ベテランの先生たちに比べると時間がかかる。仕事は持ち帰りたくない主義だが、これだけはどうしても時間が足りないのである。君たちは先生楽でいいなあとか言うけど、まったく、なにひとつ、これっぽっちもそんなことないからな。こんなに大変だとは思ってなかったよオレも。

しかしの言うように暇だ。一応のモバイルバッテリーは4回分ほどフル充電出来る容量があったけれど、今ふたりの携帯を継ぎ足ししているところなので、無駄遣いは出来ない。場合によってはビデオ通話が必要になってくるだろうし、雑談や暇潰しのために割ける電力はない。

発電機を引っ張り出してきてもいいが、林間で様々な作業をするために用意されたものだろうし、はACアダプタは持っていなかった。USBソケットが付いていなければ使えない。携帯は自分たちの生存率を左右する命綱になってしまった。

だというのに、の携帯は鳴りっぱなしだ。

「いいのか、それ」
「先生とふたりで遭難ていう激アツな話題でみんなテンション爆上がりしてんだよね」
「まあ通知くらいじゃそんなに消費しないだろうけど」
「バッテリーもったいないから相手しないよとは言ってあるんだけどね」

は傍らの充電の終わった携帯にそっと手を乗せる。その手が白々と光っているように見えて、花形は目をこすった。薪ストーブもランタンも優しく穏やかな橙色をしている。採光窓からは雪の白に反射した青白い光がほんのり入ってくる。このライティング効果では少女の肌が美しく見えるのも仕方ない。だから気のせい気のせい。

「でも暇。先生、なんか話して」
「はあ? なんでオレが……よしいいだろう、バスケットのルール講座その1」
「うわ、いらない」
「いらないとか言うな。お前がリクエストしたんだろ」
「私が言ってるのは暇潰しになって楽しくなれるような話。先生、彼女いないでしょ?」

ほんの2秒後には「彼女ならそういう話をしてやるが、お前は生徒だ」と返せばよかったと気付くわけだが、しかし花形は図星を突かれたのでつい黙ってしまった。は楽しそうに鼻で笑っている。クソッ、やってもうた。まったくまだ18だっていうのに、大人の女みたいなことを。厄介だな。

「あのな、先生は女子高生じゃないから、女子高生が楽しい話なんか、知らん」
「大人って女子高生って生き物にこだわるよね。私のJK期間なんて、もう1ヶ月くらいで終わるのに」

そこで花形もはたと止まった。あと1ヶ月もすれば卒業していく教え子、少女、子供と思っていたけれど、その「卒業」を節目としては今度は「18歳の学生」になってしまうのだ。それはもう、未成年であっても「子供」ではない。

日付をまたぎ、式典を終えれば子供は大人に変わる。自分もそうだったはずだ。

でも……オレ、いつ大人になったんだろう?

剃らねばならないほど髭が生えるようになった頃、とうに身長を追い越していた父親に頭を撫でられ、「お前ももう大人だな」と言われたことがある。その時はちょっと嬉しかった。20歳になり、その父親と初めて古びた居酒屋のカウンターに並んで酒を飲んだ時も、無性に嬉しかった。

けれど、他のどんなことでも「おっ、オレもう大人だなあ」なんて感じることはなかった。花形の日々はずっと8割方バスケットで占められていて、バスケットという競技は年齢が上がってもバスケットだった。競技への向き合い方や考え方に変化はあっても、手の中のボールはいつでも同じボールだった。

ももう少しで「はーい、今日から大人ですよー」と言われて大人になる。その時、彼女は「いいですね、バスケットのルール講座、実に興味深いです」と言い出すだろうか。

いや、絶対言わねえだろうな……

彼女にはしてやるけど、という切り返しも、が「生徒」だから言えることだ。これが例えば同僚だったらどうだろう。もっともっと気を使って何とか無事に帰還しましょうと励まし合い、暇なら最近どうですか、と雑談にも神経を使っただろう。それが大人の女性相手であったなら。

つまりオレはが子供で生徒だから、何も気を使わないでいるわけだ。何か退屈しのぎになることはないかと考えもせず、さっきから持ち物の確認やら湯を沸かすやら、やってくれているのは全部だ。ちょっと待てなんかそれオレめっちゃに甘えてんじゃん……

途端にカッと頬が熱くなる。いくらが動じない性格だったのだとしても、なんかそれすげえかっこ悪い。そういえばゲレンデのスタッフの人も言ってたよな、先生の方が馬力あるんだから交代で、て。ペース配分大事。パワーバランスで物事考えないと。

……話って、どういうのがいいんだよ。すべらない話なんか持ってないよ、オレ」

しかし哀しいかなこれも本音だ。何しろバスケット8割人生、バスケットやってる人なら面白いかもしれない話はいくつかあるけれど、が面白いかどうかは正直疑問。

するとちょっと申し訳なさそうな苦笑いが返ってきた。

「ごめん、そういうの要求してたわけじゃないよ。ただ、時間、長いからさ」

今度は気を使われてしまった。さあどうしよう、大人の自覚がなくても26歳は社会的には大人なのではなかろうか。若者割引各種もほとんど終わってしまったし。それが一応子供の高校生に気を使われて苦笑いさせているのは……マズい。はいたずらを思いついたようにニヤッと頬を歪めている。

「山小屋でたったふたりきり、襲いかかろうかと思ったけど先生が逮捕されるだけだしね」

これは……いつものノリで話が出来るようにという気遣いなんだろうか、それとも本気でカマをかけているんだろうか。花形は一瞬大いに迷った。しかしのんびり迷っている暇はない。どうしようかと逡巡しているうちにまた気を使われてしまう。

「襲われて逮捕されるなんて理不尽」
「まあ先生が黙っていればバレようがないけどね」
「貞操の危機」

花形がふざけて両手を胸の前でクロスさせるとはケタケタと笑った。

「黙ってればバレないけど、私が妊娠したらアウト」
「ちょっと待てそれ本当に怖いからやめて。人生終わるから」

こんな非常事態の中で仮にも教師が教え子を妊娠させたなんてことになったら……考えただけで背筋が凍る。ただでさえちょっと予想と違う人生を歩き始めてしまっているのに、それすら追われる羽目になったら次はどうしていいかわからない。

そして思い知る。子供子供というけれど、こいつは、もう子供を産める「女」なんだ――

花形のマジビビりには笑っているが、花形はまた壁に頭を預けて静かに息を吐く。だからさ、人間ていう生物と、人間社会のリズムが全然合ってないんだって……

簡単に言うと花形とは遭難しているわけだが、花形にはそれ以上のストレスがのしかかって来ていて、どうにも苦しい。に気を使われるのも、無意識に神経を張り詰めているのも疲れる。なのに眠気は来ない。何もかも忘れて寝てしまいたいのに。

すると、がちょっと遠慮がちに声を潜めた。

……ねえ、先生って、なんで先生になろうと思ったの?」

話していいものだろうか。花形の脳裏にはその迷いがまず浮かんだ。それを話し出すととても個人的な話になってしまう。テレビの話や、スポーツの話なら「自分の話」ではない。本当はそういう話題の方がいいに決まっている。

ずっと競技生活だったので、それより時間を割くような趣味はない。合間を使って楽しむものばかりだ。それでも人並み程度には映画やら音楽も触れてきた。「自分の話」は上手く濁して、そういう無難な話をするべきなのだ。先生と生徒なのだから。

しかしもうずっとその曖昧な定義をグラグラと揺さぶられ続けていて、またどれだけ無愛想に不機嫌に装ったところでは全て笑顔で受け止めてくれるので、こんな年下の女の子に甘えるのはマズいだろうという感覚が鈍ってきた。

もう何年も迷ってばかり、今もまだ迷いの中だ。

そんな不安定な自分についてを、聞いてもらいたくなった。

隣で自分を見上げている女に。