ゆきのよる

花形編 4

「別にオレ、先生はなりたくてなったわけじゃないからなあ」
「えっ、そうなの? でも、ええと、教員免許は持ってるわけでしょ」
「そう。その時はバスケットの指導者っていう選択肢を持っておきたかったから」
「ああ、そっか、なるほどね」

はどうやら「先生という職業」についての興味で聞いてきたらしかった。花形個人への興味や気遣いではなかったけれど、しかしもう花形は話したくなってしまっている。聞きたくなくても聞けい。

「じゃなんで翔陽に来たの?」
……大学出た後、プロのバスケ選手だったんだけど」
「え!? プロ!?」

吹雪の夜に薪ストーブを見つめながらしっとりと昔話……という空気を切り裂くの甲高い声。花形は思わず鼻で笑った。今の翔陽の生徒の中でそれを知る者はいない。話したのはお前だけだ。

「プロって、NBAとかそういう……
「まさか。日本のチームもちょっとうまくいかなくて、東南アジアのリーグにいたんだ」
「でも海外じゃん! すごくない……?」

花形が所属していたのはASEANバスケットボールリーグ加盟国のチームだった。スカウトを受けたのはたまたまだったけれど、日本ではプロになれそうになかった花形はその話に飛びついた。学生4年間でとうとう自分の競技生活が終わってしまうのではという焦りから、珍しく何も考えずに決断した。

それが間違っていたとは思わない。その時は自分を必要としてくれるチームに貢献できる選手になろうと心に固く決めていた。選手として必要とされる間はその国に早く馴染んで、現地の人々と仲良くなりたいとさえ思っていた。だが、9ヶ月目で深刻な怪我をしてしまった。

今思うと、自己管理をする上で不慣れな異国にいるということがだいぶ障害となっていた気がする。不調を感じて早めに対処したくても、言葉は通じないし生活習慣は異なるし、チームの外に助けてくれる人もおらず、そうした「ひずみ」が積み重なっての怪我だったのではと思える。

現地では花形の希望する治療が受けられなかったこともあり、契約期間を満了することなく帰国し、所属していたチームがシーズン終盤をどう戦っているのかすら知らぬまま治療を受け、気付いたときにはただの無職になっていた。

しかしリハビリはしなければならないし、幸い実家はそんな息子を何も言わずに迎え入れてくれたけれど、そのままニートになってしまうのも嫌だった。というかリハビリの間に働かない日常を作ってしまったら、今度こそ二度とバスケットに関わる人生に戻れないと思った。

なのでリハビリを続けながら、花形は人生で初めてのアルバイトを始めた。痛む体を誤魔化しながら、スマホのモニターの中に踊る同期たちの活躍から目をそらし、飲みに行こうとか遊びに行こうという誘いはほとんど断っていた。

「今何してんの?」と聞かれた時に、「バイト」と答えたくなかったからだ。

しかし不本意な職場であったはずのアルバイト先は花形の事情に理解を示してくれて、リハビリと並走できるようずいぶんと助けてくれた。翔陽の職員となった現在もその1年間だけ働いていた職場の人々とは交流がある。

その頃に翔陽時代の担任と再会したのは、不幸があったからだった。かつての監督が亡くなったのである。花形が2年生の時に病に倒れ、ずっと闘病していたらしいのだが、とうとう旅立ってしまったという。それでも昔のチームメイトに会いたくなかった花形は早い時間に急いで通夜に向かったのだが、そこで元担任にばったり出くわした。

今どうしてるんだと明るい声の元担任にざっと境遇を話すと、彼はそのまま通夜を離れて駅前の寿司屋に花形を押し込み、色々話を聞いた上で「常勤講師で戻ってこないか」と言ってくれた。元担任はそれでもし先生という職が合うようなら、教員採用試験に挑戦して正規の職員となり、バスケット部の監督になってくれたら、と考えたようだった。

その時の花形の正直な気持ちは「バスケットは自分がプレイしたいだけ、高校生を優勝させてやりたいとは思わない」だった。プレイヤーとしてのバスケットに未練がある状態で教壇に立ち、子供を教え導くということに熱意を持てるとは思えなかった。

だが、何しろアルバイト生活である。講師の給与は決して高くないし、1年ごとに更新という不安定さはあるけれど、時給のアルバイトよりはまだ安定しているし、その話をすると両親が大賛成、通い慣れた学び舎なら体が本調子でなくても心配がないと喜んだ。

「どこを怪我したの?」
「左腕と、左腰と、左足」
「倒れたの?」
「吹っ飛んで落ちた、って感じかな」
「今は大丈夫なの?」
「低気圧が近づくと痛むけど、まあ日常生活を送るのは問題なし」

というわけで実は今この吹雪で左半身が少々軋むが、が淡々と話を聞いてくれるので、花形はもやもやしたストレスを忘れて話し続けた。甘い砂糖湯がゆったりと体も緩めてくれる気がする。

「その元担任て、今日一緒に来てる主任の先生? さっき泣いてたけど」
「いや、あれは1年の時の副担任」
「なんか異様に先生に好かれてない?」
「昔は文武両道だったしな。身長もこんなだからオレがやめろと言えば大抵のことは止まったし」

クラス委員タイプというわけではなかったのだが、当時の翔陽バスケット部は今よりもさらに「威厳」のようなものがあって、花形はずっとそのナンバー2だった。やがてそれはコート上での責任者のような立場に変わり、のみならず定期考査でトップを取るなど、当時の花形は隙がなかった。

それをよく知る元担任たちにとって花形は今でも文武両道で優秀な生徒だったに違いない。またそれはまんざら間違いでもなく、実際花形は2年も勉学から離れていたというのに難なく数学を指導出来ている。というか教師という職には疑問を抱えたままだが、やはり理系の学問は面白い。脳が気持ちいい。

「脳が気持ちいい……先生は何気にド変態」
「それは自分でも自覚あるからなんとでも」
「でも、そんな文武両道、普通の人には羨ましくても、先生にとっては邪魔だったかもしれないね」

うーんと腕組みでがそんなことを言うものだから、花形は体を起こして目を丸くした。

「どういう……
「先生がもっとバカだったらこんなに苦しくなかったんじゃないかな」

バカにも色々あると思うが、なるほど自分がもっと行き当りばったりで生きていたら苦痛はもっと少なかったかもしれない。花形はちょっと感心しての横顔を見つめた。

「バスケも勉強もめっちゃ出来ちゃうから、バイトも講師もなんか違うって思うんじゃない?」
……まあな」
「ていうか友達いないとか彼女いないとか言ってごめん、それどころじゃなかったよね」

それどころじゃなかった。実を言えば学生の頃には何人か彼女がいたけれど、最後に付き合っていた子は花形が東南アジアに行くと聞くや「夢って言葉の呪縛は恐ろしいね」と言って離れていった。彼女は厳しい就活の末に誰でも知ってる企業の本社勤務を勝ち取った猛者だった。

海外にいる間はもちろん友達も彼女もなし。何しろ言葉がわからない。帰国後は男しかいないバイト先とリハビリと自宅の三点をぐるぐる移動しているだけの生活だった。

その頃になると「大卒で就職して結婚」という日本人に課せられている「乗って然るべき社会人コース」にはもう乗れないのだと思い始めた。高校時代は何より重要な要素だった勉強と運動が人より得意だった。しかし20代も半ばになると、そんなものより「ちょっと高めの平均値」を維持できる能力の方が必要だったのだと思い知るようになった。

大卒だとしても、怪我を抱えたアルバイトである自分に、元カノのような企業勤めの女性が興味を持つとは思えなかった。花形が夢を捨てきれずにいる間に、同世代はすっかり大人になっていて、マトモな社会人になっていた。半身が砕けて望まぬ職につくしかなかった花形はいつしか取り残されていた。

吹雪の中にひとり放り出されて取り残されていたら、諦めていたかもしれなかった。取り残され続けて自分の進む道が見えない日々にもう倦み疲れていたから。

でも、ひとりじゃなかったから。

花形の抱える事情に理解と同情を寄せてくれる人は少なくなかった。だからこうして翔陽で講師をしていられるのだし、それはもちろん感謝している。だが、花形が大学を出て以来ずっと抱え続けてきた孤独に触れて寄り添ってくれたのはが初めてだった。

「大人は弱音吐けないって、言うもんねえ」
「たぶん、想像以上にそんなこと吐けなくなるぞ」

リハビリがあるうちはまだよかった。リハビリをしている間は「怪我人」だったから。しかし特にこの翔陽に戻ってからの2年間は降りかかるストレスを宥める手段にも困る有様で、かといって誰に会っても話しても講師として拾ってもらえたことは「感謝しろよ」と言われてしまう。

それが吐きそうなほどしんどいことは、きっとこの「女子高生」にはまだ理解し難いに違いない。出来ればそんな苦しさは知らないままでいてほしいと思うが、学び舎を巣立っていく「子供たち」を飲み込まんとする社会は蠱毒が如く闇を深めるばかりだ。

と、そんな風に花形が心を痛めていると、いつの間にか右腕にの手がかかっていた。

「えっ……
「先生、私、先生が死にたいって泣きわめいても全然平気だから!」

一瞬何を言われているのかわからなかった花形だったが、自信に満ち溢れたの目に、組んでいた腕がだらりと解けた。この子は一体……

「先生がしんどいって泣きたくなったら、私がいるから、それ、覚えておいてね。大人は弱音吐けないのかもしれないけど、黙ってればわかんないから。もうダメってなったら、私のとこに来てね」

花形は力強いの手をそっと外すと、背中を丸めた胡座のまま座り直して向き合った。

……お前さ、なんでそんなにオレのこと、好きなんだよ」

そりゃ、何度も授業外で教えたりとかしたけど、それだけじゃん。自己愛から贔屓目に見ても17歳や18歳の女の子にそこまで想いを寄せられる要素はないと花形は感じていた。この世代の女の子の心を動かすのは容姿や財力以前に、持って生まれた親しみやすさや清潔感が必要になってくるものだ。

だがはこともなげに人差し指を立て、頷いた。

「そう、それね。正直、先生の見た目も好きなんだけど、今話しててちょっとわかったことがあるの」

確か女子高生の恋について話しているはずだが、ふたりは胡座で向かい合ったまま腕組みだ。

「先生さ、今の話だと、同世代の中でちょっと浮いちゃって、それで後ろ向きになっちゃったみたいに言ってたよね? その時ってさ、まるで仲間の輪の中から放り出されちゃって、ひとりぼっちみたいに感じなかった? 私、それちょっとわかるんだよね」

花形は腕組みのまま首を突き出して傾けた。お前が? 孤独感? そんな風には……

「子供の頃からよくあるんだけど、えーと例えば、前にMeToo運動ってあったじゃん。海外セレブとかの。あの時に同じクラスの子がすっごいテンション上がっちゃって、急に男女差別とか騒ぐようになって、そのうち日本でもKuTooとか言い出したけど、私、どうしてもアレに乗れなくて」

その「急にテンション上がってしまった子」は知っている。というか以来差別問題などに過敏な子なので言動には気を付けて下さいと事前に説明を受けている。彼女はちょっと過激なタイプなので、が乗れなかったのは無理もないと花形は思ったのだが……

「MeTooもKuTooも大事な問題だと思うよ。ちゃんと話し合って解決していかなきゃって思うんだけど、昨日までそういうことに全く興味なかった子が急に顔真っ赤にして怒り出して、何もしてない男子に怒り出して、だけど今、みんなそんな問題のことなんか忘れてる」

もちろんそれは受験の真っ最中だから当然なわけだが、が彼女たちの勢いに乗れなくて一歩引いてしまった気持ちは花形もよくわかる。

「そういう時、みんなで輪になってる中から弾き出される感じがするのね。あ、私、この子たちにはついていけないって。仲間に入っても苦しい思いするだけだって思っちゃったら、同じ教室の中にいてもずっとひとりぼっちみたいに感じてた。そういうの、先生と同じだったと思うんだよね」

本当にたったひとりきりで生活しているわけではないのに、毎日誰かしらと顔を合わせ言葉を交わしながら生きているというのに、なぜだが「自分はひとりぼっち」なのだと感じてしまう。

「だから、先生のこと仲間だと思ってたんだよ、たぶん。見た目も好きだし、しつこく纏わりついてもちゃんと数学教えてくれるし、優しいなって。で、今話聞いたらすっごい共感できるんだもん。わかるわかる、でも助けてくれる人いないよねって。だから先生の助けになりたいと思った、それだけ」

は言いたいことを全て言ったので、ハーッと大きく息を吐くと、ベッドに寄せた椅子の上に置いてあった砂糖湯……もう冷めてしまった砂糖水を一気に飲み干した。

「まあ、普通に考えて先生が生徒に告られていいよーって言うわけないし、もし即答だったらその方がやばいし、どうせもうすぐ卒業なんだし、おかげさまで受験ないし、だから最近は私もちょっとやりすぎてたかな〜って自覚はある。ごめんね」

本当に、女の子は大人になるのが早い、本当に。花形はまた背を伸ばして息を吸い込んだ。

「変な話になっちゃったね。あ、カップ麺食べる? お湯――
「本当に、助けてくれるのか」
「えっ? うん、そう思ってるけど」
「後悔しないか。こんな、大人が、まだ高校生のお前に」
「だから言ってるんだけど。てかいいよ、何でも言ってよ、吐き出しちゃいなよ」

やかんに水を継ぎ足そうかと立ち上がりかけていたはまた花形に向き合うと、笑顔で両腕を広げた。花形は頷くと、何も言わずにに抱きついて、そのままベッドに倒れ込んだ。

がヒュッと息を呑む音が耳に響く。

「何も、聞いてくれなくていいから、そばに、いてほしい」

同じ孤独感を抱えて日々を生きる者同士、きっと埋め合わせられるものがあるはずだ。でも、泣きわめいたり暴れたりするのではなくて、こうして静かに寄り添っていたい。手を伸ばせば届くところにいつも、そういう関係でいられたら。

初夏の放課後、爽やかな風の吹き込む教室でノートと教科書を挟んで同じ数字を追っていた。はやけに楽しそうで、けれどたまにペンを持つ手が震えていて、集中が足りなくて簡単な計算ミスを繰り返しては笑うを、可愛いと思ったことは1度や2度ではなかった。

の好意に気付いてからは、余計にそう思うようになった。気付いたら同世代の社会からポツンと外れていた自分をまっすぐ見つめ返してくる瞳に張り詰めていた気持ちが和らいだことも、何度もある。まだ自分を見つめてくれる人がいるということは、余計なことを考えなければ嬉しかった。

むしろそんな花形を追い詰めて苦しめていたのは、その気持ちに正直になることは禁忌だという、この教師と生徒という関係だった。自分を案じてくれる人々の善意で手に入れた立場だというのに、それは毎日少しずつ花形を圧迫して息苦しさを加速させていた。

は、そんな袋小路に追い詰められていた自分を救い出してくれた。

まさかこんな子供に……という気持ちはもう残っていなかった。両腕に抱き締めた体は大人と何が違うのかわからなかったし、少なくともは少女の体の中に大人の女性の片鱗を隠し持っていた。人が決めた節目などお構いなしに、は大人になり始めているのだ。

やがて花形の背中にもの手が伸びてきて、ぎゅっとしがみついた。

「先生、私、本気で、好きなんだけど、わかってる?」
「わかってるよ。2年前から、知ってる」
「憧れの先生とか、そんなレベルじゃ、ないよ?」

花形は顔を上げると、薪ストーブの炎の明かりに照らされたの頬に触れた。冷たい。

「オレも、教え子にちょっと手を出しちゃおうかなとかいう、レベルじゃ、ないぞ」

思い描いていた未来と違う日々を生きながら、それでもどこかで未だに夢を追い求める自分もいて、自分は一体今どこにいるんだろうと足元が不安定な遊離感とともにから逃げ回っていた。

に向き合ってしまったら、また多くを失う。それが怖くての目を見つめ返せなかった。

けれど、それよりも、を失う方が、困る。

……、お前のこと、好きなんだ、オレも、本気で」

の目に涙が溢れる。

静かに重なる唇、薪ストーブの中で熾火がひび割れ、そっと崩れた。