ゆきのよる

藤真編 5

の横顔にある種の「迫力」のようなものを感じていた健司はしかし、繋いだ手をたよりに距離を縮め、寄り添って座っていた。ここに来て、に惹かれている理由が印象や容姿などではない気がしてきたからだ。

「でも、ターゲットにされてたんだろ」
「うん。私の前にもいじめられてる子がいて、それを糾弾したの」

中学1年生の時のことだったらしい。以前から正義感の強かったは、同じクラスの生徒がふざけ半分からかいのターゲットになっていることに我慢がならず、担任に訴えたり、本人たちにも直接意見したり、そういうことはやめるべきだと主張をしたそうな。

だが誰もそれを聞き入れることはなく、むしろを「妙な正義感を振りかざす痛い子」と認定した。気付いた時にはの周囲からは人が消え、振り返ると嫌がらせを繰り返す男子のグループに見下ろされていた。ターゲットが移動した瞬間だった。

「先生も助けてくれなかったのかよ……
「私が言いがかりをつけて悪者を作ったのが原因なんだから自分でなんとかしろって」
「最初のターゲットの子は?」
「何も」
「何も!?」

健司はつい大きな声を上げた。ほんの3ヶ月ほど前まで男子数十人を束ねていた「リーダー」であった身からすると、信じ難い話だ。でも、オレがそのクラスにいたら、を守っただろうか――

「まあそれで頭来て、学校行くの嫌になっちゃって」
「それはそうだよな……
「だから親はたぶん、私が健司くんに失礼なこと言うんじゃないかと心配して」
「えっ、そっち!?」

健司のひっくり返った声にはつい笑った。普通逆を考えるよねえ。

「あ、そうか、だから好かれるのが下手って思ってたのか」
「結局、高校3年間の間に、彼氏はもちろん、親友なんて人も出来なかった」

言葉が途切れると、無音の世界になる。静かに降り続く雪が少しずつ部屋の中を冷やし、最大出力で暖炉を燃やしているけれど、寒さを感じるようになってきた。

「普通に友達って言える人はいたし、たまに遊んだり学校では親しくしてたけど、お互いの家に泊まりあったり、心から本音を話し合えた人がいなかった。それは私がこういう性格だからなんだろうなって。でも自分を偽るのはもっと嫌。だけど、このままだったらそういう、気持ちの通じる友達とか、恋人とか、そういう人が出来ないんじゃないかって」

は淡々と話しているが、健司は彼女の言葉を反芻してみる。ひとりの女の子としてはその不安はもっともだと思えるが、健司は自分には響き方が違うという気がした。

普通はのことを何と言うのだろうか、生き方が下手? 面倒くさい女? 空気読めない人? 健司には違って見えた。は、とてつもなく強い人だ。

「あのさ、ちゃん」
「ん?」
「それ、ちゃんが悪いんじゃないよ」
「悪くはないかもしれないけど原因じゃん?」

健司はの手を両手でくるみ込み、首を振る。

「いや、それは無くすべきじゃないと思う。オレ実は、翔陽ではキャプテンだけじゃなくて、監督もやってたんだ。選手と監督をひとりでやるって、想像したよりずっとキツくて、ちゃんの言う『自分を偽らない』って、本当に保つのが難しかった。自分では強いつもりでいたけど、その強さを揺さぶられたことは何回もあって、しょっちゅう負けそうになってた」

一転、今度はが健司の手を両手でくるんで、何度も頷いた。

「てかその心からわかり合える人がひとりもいないんじゃないかっていうのも、わかる。さっきも言ってたけど、学校が変わるたびに敵と味方がシャッフルされて、仲間と友達と、どこでどう区別して付き合い分ければいいのかってことは、慣れてても気を遣う。それもすごく分かる」

この先にどんなバスケット人生が待っているのかは分からない。予測もつかない。けれど翔陽3年間だけ振り返ってみても、努力だけでは如何ともし難いことばかりで、いつもいつも目の前の現実と戦ってきた。その中で必要だったことは自分を信じる強さだったことも、知っている。だから――

「だから、ちゃんのその強さは――

大事な、本当に大事なものなんだと言おうとした健司だったが、その瞬間、またグラグラと揺れが襲いかかってきた。は細い悲鳴を上げ、ふたりは思わずしがみつき合ってベッドの上で体を丸めていた。揺れのほどは先程の地震と変わらない気がする。ということは、

「だ、大丈夫かな、崖」
「ここの周囲は補強してあっただろ」
「だけど、もっと上の方は、見えなかったよね?」

ふたりは思わず立ち上がり、手を繋いだまま外に出てみた。薔薇館から漏れ出る明かりの他には何も見えず、ただ薄っすらと積もった雪が白々と暗闇に浮かぶだけ。柔らかい光が零れる温室のガラスが鈍く輝き、まるで氷のように見える。

無の世界だった。風は凪ぎ、ただただ音もなく雪が舞い、あとには重苦しい闇がふたりを取り巻くだけ。ふたりをこの無の世界に閉じ込めた土砂崩れすら見えず、繋いだ手も闇に飲まれてよく見えない。

薔薇館の背後が同様に土砂崩れを起こすことはない様子だが、ふたりはこの無の世界に一切の希望を奪われてしまって言葉がなかった。開け放したドアの奥、ベッドの上ではの携帯が喚き立てている。親たちだろう。ふたりはのろのろと戻って着信に応じる。

だが、何もないものはないのだ。確かに地震はまた来たけれど、土砂崩れもないし、薔薇館の中も同じだし、健司もも異変はない。携帯の向こうで喚き立てる声に疲れたふたりは異常がないことを繰り返して着信を切ると、温室のガラスのドアの前で向かい合った。

防寒のために引っ掛けておいたタペストリーが落ちていて、地震で起こった変化などそのくらいのものだった。テーブルの上に健司が積み上げた角砂糖すら倒れていない。

薔薇館の背後は確かにしっかり補強工事されていたはずだ。だから道を塞いでしまった土砂が同じように薔薇館を襲う可能性は低いはずだ。しかし、ふたりは妙な諦観の中に落ち込んでいた。

……もっと大きな地震が来たら、わからないね」
「ひとりじゃなくて、よかった」

健司は言いながらに寄り掛かるようにして抱き締めた。震えが来るような恐怖はなかったけれど、もしかして自分たちはあの土砂に飲まれて死んでしまうのかもしれないという絶望感のようなものに襲われていた。けれど、がいる。と一緒にいられてよかった。

抱き返してくるの腕を感じながら、健司は息を吐く。

……ちゃん、ちゃんはすごい人だと思う」
「健司くん……?」
「未来は怖いかもしれない。でもそのためにちゃんの強さが失われるのは、絶対にダメだ」

健司は腕を緩めて微笑んでみる。頬が強張るけれど、笑いかけてみる。

「それは本当に大事な、望んでも手に入らない素晴らしいものだから、失くさないで」
「でも……
「土砂崩れに埋まったら終わりだから、言っておくよ。ちゃんは本当に素敵な人だと思う」
「け、健司くん……
「だから大丈夫。ちゃんは強くて可愛い、そういう女の子だから、大丈夫」

青白かったの頬が不自然に赤く染まる。それすら可愛かった。健司は背中をかがめて顔を寄せる。君は僕のヒーロー、それだけは伝えておきたい。外は雪、世界には君しかいないから。

……

驚いて顔を上げたの目の前に健司の顔があった。

暗闇に仄かに光る雪を映したガラスの温室はまるで真っ赤な薔薇を閉じ込めた氷の城、音もなく唇を重ねるふたりはその中に閉じ込められた人形のようだった。

気持ちが疲弊しきっていたふたりは、キスをすると残っていた食べ物を食べ、暖炉を止めて温室のエアコンを最大出力で稼働させ、少し薄着になると抱き合ってベッドに潜り込んだ。明かりを落とし、少しだけお喋りをして、そして眠りについた。

ぐっすり眠り込んでいたふたりの枕元でけたたましく携帯が喚いたのは翌朝の8時頃だっただろうか。眠くなってしまったから暖炉を落としてエアコンの力に賭けてみる、と伝えてあったので屋敷からの連絡は途絶えていたが、気付けば朝で、救助がもうすぐたどり着けるという連絡だった。

これで助かるという安堵と歓喜に声を上げたふたりだったが、何やら外から人の声がする。だが、よく考えたらふたりとも薄着で同じ布団にくるまっていた。やばい!

ふたりで一晩過ごした時間への余韻など全て吹き飛び、ふたりは慌てて服を着込み、ベッドの上の布団をふたつに分けてソファにぶん投げた。何もしてない、何もしてませんよ!

その瞬間ドアから大人がなだれ込んできて、ふたりはあれよあれよという間に外に連れ出された。辺りはすっかり明るくなっていて、雪は本当に薄っすらと積もっただけで止んでいた。土砂崩れもそのまま変化なく、早くも重機がスタンバイをしていた。

健司とはそのまま引き離され、言葉を交わすこともなく、その日の夕方には神奈川に帰ってきてしまった。雪の舞う無の世界の記憶は鮮明だったけれど、慣れた自宅のベッドに横になると途端にぼやけて霞んできた。そしてふたりは、連絡先を交換していなかった。

4月、春、東京。

健司は眠い目をこすりながら練習場所である体育館に向かって歩いていた。

練習だが早朝練習ではない。健司が眠いのは単に昨夜遅くまで……というか明け方近くまで起きていて睡眠不足だからだ。どうにもひとり暮らしになってからというもの、つい自堕落になってしまっては自己嫌悪に陥る日々である。お父さんとお母さんがいないとちゃんと出来ない、なんて自分で許せなかったけれど、あの雪の夜の記憶が蘇るとどうしても心が空っぽになってしまう。

土砂崩れは自然災害のはずだが、ゲストが通りかかる可能性のある場所を補強工事していなかったのはホテルに責任がある――とは健司の父親の言い分で、健司たちが救助された時には屋敷は大変険悪な状態になっていた。なので余計にには近寄れず、別れの挨拶もできないままだった。

その後、藤真家は一家離散――もとい、新たな門出で忙しく、やっと全てが片付くと始業式は目の前だった。今さら父親に「と連絡を取りたい」などと言い出せもせず、練習はとっくに始まっていて暇もなく、その合間にを思い出しては連絡先を交換していないことを後悔していた。

というか学生になってまだほんの2週間というところだが、そういう思考のポケットに落ち込む時間を持て余した健司は、倹約してやりくりしなければならない生活費を使って指輪物語の文庫本セットを買ってしまった。昨夜はそれがちょっと面白くなってきたのでつい夜更しをしてしまったのだった。

だが、物語の世界に踏み込むほど、あの薔薇館でのとの時間を思い出すし、への気持ちに浸ると言うよりは、自分で傷をこじ開けているような気がしてきた。友達もまだ出来ない。

というかって本当に実在したのか? 薔薇館も? 夢じゃなくて?

確かに記憶は鮮明なのだが、何しろ何もかもが非現実的なので、その実在については疑わしく感じてきた。2度目の地震の時はもうこれで死ぬのかもしれないという意識に囚われていて、だけど無音の世界でにしたキスは今でもその感触が蘇るほどだ。

しかし一応は、父の友人のいとこの娘、という繋がりがある。まだ父親は友人に対して憤っているかもしれないが、その頼りない細い糸のような繋がりが完全に消えてなくなる前に頼んでみようと思い始めていた。

別に今すぐ結婚するわけじゃなし、こうして日常生活の中で会ったら惹かれないのかもしれないし、それを確かめるためにももう一度会いたかった。は本当にオレのヒーローだったんだろうか。

もっと話したい。彼女の強さをもっと知りたい。高校生の間に出来なかったとが振り返っていたような、心からの本音を話し合いたい。あの時、とはそういう関係でいられると思った。直感は無視できない第六感、それを疑うことは自分を疑うことのはずだ。

春の暖かな風に背中を撫でられた健司は足を止め、肩の力を抜いて息を吐いた。

そうだ、父さんも言ってたじゃないか。人とは向き合わなきゃいけないって。よく考えたら、一応付き合ったはずの元カノふたりとはまるで向き合っていなかった気がする。向き合いもせずに彼女たちを理解したつもりになっていたし、されていると思い込んでいた。

とは、ちゃんと向き合いたい。今度こそ。

そしてもし気持ちすらも向き合って、心が繋がることがあるのなら。

そう思ったらちょっと元気が出てきた。健司は肩のバッグをかけなおし背筋を伸ばした。父親にはそのうち連絡をするとして、今はとにかく自分の日々を一生懸命生きなくては。のように、自分の強さを信じて。さあ、練習だ!

「健司くん!」
「は!?」

気持も新たに一歩踏み出した健司は甲高い悲鳴を上げて足を止め、信じられないものを見て目ほ真ん丸にした。目の前にが立っている。えっ、なに、幻?

「ど、どうしてここが……あ、もしかして、親父に聞いて」
「健司くん、落ち着いて」
「えっ、うん、落ち着いてるよ」
「大丈夫かな……。あのね、私もここの学生なの」
「えっ、いつから?」

混乱激しい健司は首を突き出し、は口元を覆ってブハッと吹き出した。同い年なんだからこの春から入学してきたに決まってるじゃないか。

「この間見かけて、まさかと思ってたんだけど、ほんとに健司くんだった。あの、あの時はお礼とか、そういうのも何も言えないまま引き離されちゃって、連絡先も知らなくて、なんか親たちみんな険悪だったし、なかなか言い出せなくて……

こちらも健司とまったく同じだったらしい。そしては赤らんだ顔を上げて、言った。

「健司くんに会いたかった。もっとたくさん、話したかった」

健司は踏み止まった足を一歩進めて、そのままを強く抱き締めた。オレも、オレもに会いたくてたまらなかった、もっと話したかった。そう思うけれど、言葉にならない。

驚いて狼狽えていただが、やがてそっと抱き返して囁いた。

「健司くん、一緒にいてくれて、ありがとう」

オレ、やっぱりこの子と結婚しよう。健司はそう思って目を閉じた。

END