ゆきのよる

藤真編 2

嫁の顔を見た瞬間、この女と結婚するんだと思った。これは元々仲のいい叔父のエピソードであり、敬愛しているアスリートのエピソードであり、なので健司的には同じ感覚が訪れたことは「いいこと」であり、適当な女で済ませて何が悪いんだと思っていた自分を早速反省することになった。

かといって、本館の裏口でぶつかってしまった女の子に対して強烈な心のときめきや胸の高鳴りなどを感じているわけでもなく、ただ直感がそう告げたに過ぎなかった。

いや、直感は無視できないシックスセンスのはずだ。この1年、頭で考えすぎて失敗したことは何度もあった。直感に頼りすぎるのではなく、自分の直感を疑わないことは今後も必要になってくるはずだ。

そう考えながら、藤真はチェックインカウンターのある本館のロビーラウンジで今度はコーヒーを飲んでいた。裏口での衝突がきっかけとなり、オーナーに女の子を紹介されたからだ。

彼女はさん。なんと、同い年で神奈川の高校を卒業したばかり、という全く同じ境遇。

「翔陽って確か運動部強いですよね? うちは頑張ってるけど弱くて……

円形の暖炉の奥に談話スペースがあり、宿泊客にはティータイムにケーキのサービスがあるという。肩をすくめて恐縮している風なは両手でコーヒーカップを支えているが、口をつけない。熱いのだろう。かわいい。

「どこなんですか」
「音羽東です。どうも地味な学校で」
「進学校じゃないですか……

翔陽も進学率は高いが、音羽東は県内公立の中でも勉強熱心な生徒が通う学校という印象がある。健司も途端に恐縮して肩をすくめた。

の姪っ子さんにあたるのかな?」
「いえ、私の父がいとこになります。同い年で仲が良かったらしくて」

そのオーナーは席を外しているが、そういうわけでは子供の頃からまとまった休みになるとこのホテルへ来て過ごしていたそうだ。子供には退屈そうな場所かなと思ってしまいそうなところだが……

「それが母の狙いなんです。夏休みはずっと宿題をやってました」
「本当に真面目なんですね」
「いえ、そんなことは」

はまた手を振り振り恐縮するが、傍らには分厚い本が数冊積まれている。というか一番上に乗っている臙脂の革表紙などタイトルは英語だ。この子どえらい秀才なのでは、と健司はちょっと気後れしてきた。部活のために勉強は頑張ってきたけど、学ぶ意欲のほどは平均値程度だ。

「確かに遊んで面白い場所じゃないんですけど、このホテルに来るとファンタジーの世界に迷い込んだみたいな気分になれるので、また来たくなるんですよね。ハロウィンの季節もいいんですよ、まさにホーンテッドハウスって感じで」

近年のハロウィンの乱痴気騒ぎには興味が湧かなかった健司だが、このホテルで行われるイベントを想像しただけでちょっと気持ちが疼く。きっとクリスマスも素晴らしいに違いない。

「クリスマスの頃は雪に埋もれてることも多いですよ」
「静かに静養したい人にとっては最高だろうねえ」
「そう思います。父なんかずっと寝てますし」

やっとコーヒーに口をつけたは、ふふっと笑って目を細めた。

その様子に健司は肘掛けに置いていた腕がずるりと落ちた。あまりにも可愛かったからである。というかは一見して強烈な美形だとか、そういうわけでもない。全体的にはごく一般的な女の子に見える。だが、どうにも健司にはこの子が心に刺さるのである。妙に色っぽい。

するとその妙に色気のある目がちらりと健司を見上げた。

「健司くんは部活やってたんですか?」
「あ、バスケを……
「翔陽のバスケ部! すごい強いんですよね?」

途端には背筋を伸ばし、身を乗り出した。健司の隣の父親がニヤリと頬を歪めている。モテるあまり不遜な恋愛観を持っていた息子がまた面白い展開だぞ、と観察しているようでもある。どう答えたものかと一瞬出遅れた健司に代わり、父の方が口を出した。

「音羽東でもそんなに有名なの?」
「ごめんなさい、私は詳しくないんだけど、友達が大ファンで」
「翔陽はずいぶん昔からバスケット強いからねえ」
「いえ、そうじゃなくて、友達はバスケ部のキャプテンが好きなんだそうなんです」
「ほお!」
「芸能人か何かみたいに夢中になってて、よく試合も見に行ってたみたいです」
「それはすごい! なあ、キャプテン?」
……えっ?」

健司はむず痒い顔で無理矢理笑顔を作るしかない。応援していただいて有り難い限りですが、今ちょっとどんな顔をすればいいのかわからないです。だがは真実を知ると楽しそうに目を輝かせた。

「すごい、健司くんがそのキャプテンだったの? 友達が知ったら悔しがるだろうなあ」
「そんな、別にオレは、大したことは」
「やあ、すっかり仲良くなったみたいだね」

健司が大いに照れていると、オーナーが戻ってきた。手にはさきほど健司たちが躑躅館で食べたようなサンドウィッチの皿が乗っている。余ってしまったんだろうか。

「ところで、今日のディナーなんだけど、もしよかったらみんなで一緒にどうだろう。普段ならたちは厨房のダイニングで済ませるだろうけど、せっかく親しくなったんだし。健司くんのお母さんはピアノの名手なんだよ」

藤真父子はふたり揃って小声で「そんなことありません」を繰り返していたが、はまた感心して声を上げている。

「それはいいかもしれない。うちはお母さんが歌が趣味だから」
「趣味? 何言ってんだい、プロの合唱団にいたくせに」
「だって私が生まれる何年も前の話だもん。今は趣味みたいなものでしょ」

健司はとオーナーの話を聞きつつ、ちょっとだけ現実感を失い始めていた。なんだかハイソサエティな家に生まれたみたいだな。うちの母さん確かにピアノが趣味だけど普段の仕事は営業職で、お上品にオホホなんて言っていられない人なのに。

だが、たちと一緒にディナーというのは悪くない。というかとはもう少し話したいが、ふたりきりで話しませんか、なんてことをしゃあしゃあと言えるような性格でもないので、大人たちの都合で一緒にされるのはありがたい。

「それじゃあディナーは19時に。メインダイニングでね。、ドレス着ておいで」
「ドレスなんか持ってないから!」

この調子ではきっと大人たち……自分の父親やオーナーやの父親が酒を片手に喋っていて、うちの母さんのピアノにのお母さんが歌ってて、そしたらどう考えてもオレたちふたりになるよな。

浮かれてにやけてしまいそうな健司は、それを誤魔化すために視線を外した。古びた木枠のアーチ窓の向こうは相変わらずの曇天で、窓ガラスには少し水滴がついていた。

雨ならどこにも出かけないし、2泊3日、父親との話は早めに切り上げて、彼女と話したいな。

健司は久し振りにそわそわする胸にそっと手を当てた。

オーナーの計らいで引き合わせられた藤真家と家は初日のディナーですっかり意気投合してしまい、その日は夜遅くまでラウンジで会話を楽しんでいた。他に客もいないし、健司の母はロビーラウンジにあるアップライトピアノをずっと弾いていて、の母親と楽しそうに歌ったり話したりしていた。

そんな大人たちの席の片隅で健司とも喋っていたのだが、玄関脇にある大きなグランドファーザークロックが22時の鐘を鳴らすと、は父親に「部屋に戻りなさい」と言われてしまった。

もう18なのにそれはねえだろ……と思った健司だったが、はすぐに返事をして部屋に戻ってしまった。がいないと健司は面白くない。親たちの話に混ざりたいとも思わない。なので彼もの後を追うようにして部屋に戻ってしまった。

途端にやることがなくなって暇になってしまった健司だったが、ベッドに横になると本格的に降り出したらしい雨の音が子守唄代わりになってウトウトし始めた。遠くに母のピアノがかすかに響いていて、まどろみの瞼の裏にはのかわいらしい笑顔がちらつく。

ちゃん彼氏とかいるのかな、オレとかだめかな――

の面影に浸っていた健司が気付くと朝になっていて、部屋の中はどんよりとした灰色だった。寝ぼけた目でカーテンの隙間に顔を突っ込むと、まだ少し雨が降っていた。そして寒い。

昨夜オーナーが屋敷はセントラルヒーティングなのだと言っていて、そういう意味では確かに室内の空気はさほど冷えていない。けれど、カーテンの隙間からひたひたと這い出してくる冷気の冷たさと言ったら、まるで1月の朝練当番の部室のようだった。寒い通り越して痛い。

健司は念の為に持ってきた裏ボアの防風パンツを穿き、トップスもたくさん重ね着をした。室内でダウンを着ているわけにもいかないので結局ニットだが、その下には何枚もインナーが重なっている。ついでに念入りに髪を整え、お腹が減ったふりをしてロビーラウンジに行ってみた。

が、はいない。というか誰もいない。時間は朝6時。昨日早寝しすぎた。

その後ホテルのスタッフが健司に気付いてくれたのは7時頃のことで、慌ててコーヒーとビスケットを恵んでくれたが、結局は来なかった。というか昨夜ずいぶん遅くまで楽しんでいたらしい大人たちも朝食の8時になってようやく現れたが、全員ゾンビのような顔になっていた。

が、やっぱりはいない。の親に聞いてみようかと思ったけれど、昨夜は父親が一言声をかけただけでさっさと帰られてしまったし、何の用だと聞かれたら答えようがない。

結局は朝食には現れず、昼食にも現れず、父親は二日酔いだとか言って寝ているし、母親は愛しのスタインウェイとべったりだし、健司はまた暇になった。一家離散、もとい息子のひとり暮らしを目前に控えた思い出の家族旅行じゃなかったのかよ。

アーチ窓からは冷気が忍び寄ってくるし、誰もいないし、健司はちょっと泣きそうになってきた。ミニバスを始めて以来ひとりきりになることは滅多になかった。完全にひとりというと部屋で勉強しているか寝ているかというくらいで、特に高校の間はいつでもバスケット部の仲間たちと一緒だった。

卒業式では泣くような感慨もなかったというのに、今頃になって寂しくなってきてしまった。翔陽での3年間には後悔も多いし、たくさんの目標を成し遂げられないまま卒業しなければならない苛立ちはまだ鮮明で、卒業はただのセレモニーでしかなかった。それを過ぎて遠く古めかしいホテルでひとり、こんな寂しくなってどうすんだよ。大学でいい友達出来るかなあ。

と、そんな風に健司がちょっとプルプルしていると、暖炉の熱気の向こうから声がした。

「あ、健司くん、おはよう!」

だった。健司は首が取れるのではないかという勢いで振り返り、の姿を認めると、一瞬で寂しさを忘れた。なんだこれ、ちゃんマジ癒やされる。

「おはよう。もう昼過ぎだけど」
「えへへ、よく寝てた」
「昨日早く部屋に帰ったんじゃないの?」
「うん、部屋には帰ったけど、本読んでて遅くなっちゃって……

見ればはまた分厚い本を抱えている。よほど読書が好きなのだろうか。

「すごいね、英語の本、読めるの」
「えっ、ああこれ? まさか、これは挿絵が見たくて借りたやつ」

は健司の隣にストンと座ると、膝に置いた本を広げてくれた。モノクロ刷りの古びた本だが、丁寧に描かれたペン画が美しい。背の高い女性が水差しを抱えていて、その周りに子供がふたりいる絵だった。何かの物語だろうか。

「健司くん、指輪物語って知ってる?」
「えーと、なんか聞いたことある気がするけど」
「じゃあ、ロード・オブ・ザ・リング」
「ああ、それは知ってる。この本がそうなの?」

努めて凝視しないようにの顔をチラ見しつつ聞くと、彼女はにこにこしながら頷く。

「ここの最初のオーナー、私の曾お祖父ちゃんが指輪物語が大好きで、コレクターだったの」

この屋敷や躑躅館を作り続けた初代はファンタジー小説が好きだったのか、通りで。健司は納得して頷きつつ、の説明を聞いていた。曽祖父が指輪物語ファンだと知ったのは3年前のことなのだそうだが、それをきっかけに本を読んでみたら面白くてハマってしまったのだという。そしてこのホテルに来るたびに曽祖父のコレクションを読んだり眺めたりしているという。

「離れにはもう行った?」
「うん。昨日、躑躅館に」
「指輪物語関係の物が置いてあるのは薔薇館でね、それで昨日ぶつかっちゃったんだけど」

そういう理由では分厚い革表紙を抱えて日に何度も薔薇館に通っていたらしい。ということは、またこれを返しに行って新しく借りてくるつもりなんだろうか。

するとまた暖炉の向こうから声がして、顔を上げるとオーナーがティーセットの乗ったワゴンを押しつつ、鍵をチャラチャラと振っていた。

「おお、健司くんも一緒だったのか。健司くんも一緒に行ってくるかい?」
「予定がなかったらどう、薔薇館行ってみない? 温室があるんだよ」
「これ、のお昼なんだけど、ちょっと待ってくれたら健司くんのおやつも用意するよ」

つまり、とふたりで薔薇館へ行き、そこで昨日父親とやったようなアフタヌーンティーみたいな感じでお茶を飲みおやつを食べ、と語らうのはどうだ、ということらしい。

行くに決まってんじゃないですか!!!

健司は立ち上がって丁寧に「よろしくお願いします」と頭を下げた。オーナーありがとう!