ゆきのよる

藤真編 3

屋敷の裏から出て石畳の道を行くのは躑躅館と同じだが、途中で道は二手に分かれ、それを山の方向に向かうと薔薇館があるらしい。健司はが抱えていた革表紙の本を持ってやりながら、彼女の後ろ姿を追っていた。

今日はもニット姿だ。神奈川の気温に慣れているとあまりに寒いので、もたくさん着込んでいる様子。大きめのバッグを斜めがけにし、ニット帽も被っていて、揺れるポンポンが何とも可愛らしい。ウサギを追いかけて不思議の国に迷い込むアリスの気分だ。

「健司くんは昨日躑躅館に行ったんだよね?」
「えっ、あ、うん、そう。オーナーさんが話すなら使ってくれって言ってくれて」
「そっかあ。私も躑躅館と薔薇館は行ったことあるんだけど、桜館は見たこともなくて」

によると、この屋敷を作る際に初代は広大な敷地を確保していたので、それぞれの花館も屋敷からはかなり距離があり、一番近いのが躑躅、次が薔薇で、桜は躑躅・薔薇とは反対方向のさらに離れた場所にあるので使いづらいのだそうな。

「だけど実は作りかけの桔梗館がどこかにあるって噂なんだよね」
「オーナーさんも知らないの?」
「だって曾お祖父ちゃんが死ぬまでここに来た人はほとんどいなかったから」

いよいよ殺人事件でも起こりそうなロケーションになってきたな……と藤真は内心少し笑った。作りかけの桔梗館には骨董価値の高い美術品があるらしいとか、初代が溜め込んでいたはずの財産が隠されているらしいとか、家の中でも胡散臭い噂が絶えないらしい。

距離的には躑躅館と変わらないか少し遠いくらいだろうか、薔薇館にはの言うように全面ガラス張りの温室がくっついていて、なおかつドアが全てくすんだ真鍮のような金属で出来た薔薇と蔓に縁取られていた。暗い色の石とレンガが半分ずつの外壁もファンタジックな演出をより際立たせている。

「躑躅館もかっこよかったけど……薔薇館もすごいな」
「日本じゃないみたいでしょ。躑躅館はリッチな書斎って感じだけど、こっちはまさにファンタジー」

が回す鍵にも薔薇のキーホルダーが付いている。ドアが開くと花の香りが漏れ出てくる。薔薇に匂いがあるのかどうか知らないけれど、うっとりするような匂いだなと健司は思った。それはと一緒だからなのか、そうでないのか……

薔薇館の中は躑躅館に比べると確かに質素に見える。広さも躑躅館より小さめ、温室がある分全体では薔薇館の方が大きいのかもしれないが、室内はこじんまりとしている。躑躅館同様内部は2部屋で構成されているが、薔薇館はリビングの壁が一面だけブチ抜かれて温室がくっついている。

そしてその温室には色の濃い赤いバラがずらりと並んでいた。ああもう今にも人が死にそう。

「曾お祖父ちゃんの遺言、この屋敷に関する条件の1番目が『現状維持、改装厳禁』で、その中でも一番大変だったのがこの薔薇だったみたい。相続の手続きが終わって見に来たら全部枯れてて、しかも室内で薔薇を咲かせ続けるのってすごく難しいんだって」

そこからこの屋敷の「維持」には薔薇館の温室の薔薇の手入れが欠かせないという。確かに全ての薔薇が鮮やかな赤の花びらを美しく広げている。

するとドアが開いてオーナーがワゴンを運び入れてきた。の昼食と健司のおやつだ。

「どうだい、ここもいいだろ」
「はい。躑躅館もよかったですけど、ここも居心地がいいです」
「そうなんだよな。薔薇のメンテナンスがなければ充分宿泊に使えるんだけど」

食事の用意をしてくれているオーナーの声を聞きながら、健司は隣の部屋を覗き込んだ。簡素ではあるが、ベッドとソファがあり、クローゼットも付いている。手を加えることが許されていたらすぐにでも泊まれる離れとして改装されていたはずだ。

の目当てである指輪物語のコレクションはリビングに集められていて、いくつもの本棚にびっしり並んでいる。初代はここで愛する書物を読み、時に夜ふかしをしてはそのままベッドで眠っていたのかもしれない。ああオトナの世界。

食事の準備を終えたオーナーは暖炉を付けると、本棚をひっくり返しているに聞こえないようスススと健司に近寄り、「、今彼氏いないって言ってたよ」と囁いた。健司はむせる。

「いえその僕は別に」
「お父さんから聞いてるかもしれないけど、ここでプロポーズして結婚したカップル、多くてね」
「そ、そういう宣伝をしてるとかじゃないんですか」
「それは否定しないけど、でも異様に成功率が高いんだ。頑張ってね」

ニヤニヤ顔のオーナーは「ディナーまでには帰っておいでよ。時間は昨日と同じ19時だからね」とに声をかけると、わざとらしい忍び足で出ていった。健司はいきなり居心地が悪くなって足を踏み変えた。オレ、顔に出てたのかなあ……

ちゃん、お茶、冷めるよ」
「あ、ごめんね、今行きます」

暖炉では火が上がっているが、まだ寒い。淹れたてのお茶の湯気は早くも薄くなり始めている。

そして健司は「ちゃん」と呼んでしまったことに大いに照れていた。が「健司くん」なのだから妥当な呼び名のはずだが、知り合って間もない女の子に恐る恐る「ちゃん付け」で呼びかけるということ自体が久しぶりすぎてこっ恥ずかしい。

「本棚、すごいね」
「3年くらいかけて見てるんだけど、まだ全部終わらない」

は昨日のように両手でカップを包んで苦笑いだ。テーブルの上は大量の食事やお菓子が置かれていて、は新たに引っ張り出してきた本を傍らの椅子に置いた。というかこんなに食ったらちゃんディナー食べられないんじゃないの。オレは入るけど。

しかしこうして向かい合わせに座ってしまうと、途端に話が続かない。元々共通点は神奈川在住で同い年というくらいしかないし、同性でもないので、どうしても手探りになってしまう。だが、それはも同じだったようだ。カップを置いたは人差し指でニット帽の額を掻いた。

「私が誘ったのにごめん、ちょっと緊張してて」
「え、いや、そんなの。オレもごめん、黙ってて」
「ううん、私、男の子とふたりきりになったことなくて」

はエヘヘと苦笑いをしているが、藤真はまた心の中で憤慨した。音羽東の男はボンクラが過ぎるだろ。いやそれでいいけど。ちゃんに彼氏がいなくて全然オッケーだけど!

「しかも健司くんみたいな人気のあるかっこいい子、近くで見たこともないし」
「な、別にオレは、そんな、ちゃんだって可愛いじゃん」
「えっ!?」
「え!?」

ふたりとも自爆。

余計に静まり返る薔薇館、外は相変わらずの曇天で、何の音もしない。しかしその静寂がつらい。ふたりがさて何と切り出したものか……ともじもじしていたその時である。不意に薔薇館がガタリと揺れた。温室のガラスとティーカップがカタカタと鳴る。地震だろうか。揺れは強くない。

「じ、地震、かな」
「そうみたいだな。震度2くらい? あんまり感じないね」

しかしおかげで気まずさは少し取れたな、と安堵していたふたりだったが、次の瞬間、外から聞こえてくる大きな音に飛び上がった。強い風のような音が響いてきたなと耳が認識した直後には、何かが押し潰されるような破裂音が聞こえてきた。

「な、なんだろう今の」
「外からだったな。見てみようか」

ひとまず薔薇館の中に異変はないので、健司はそのまま出入口のドアを開いた。の息を呑む悲鳴が冷たい空気に押し流されて消えていった。

薔薇館の目の前から屋敷へと続く石畳の道、それが土砂崩れによって完全に塞がれていた。

「雨が続いていたから、緩んでいたのかもしれない」

電話の向こうのオーナーの声は固い。そうは言うが、ここ数日の雨模様は記録的大雨というわけではなく、ただのしとしと雨だったのだ。地震も規模が小さく、こんな土砂崩れを誘発するほどの揺れだとは、素人には思えなかった。

幸いにも薔薇館の背後はしっかり補強されていたので、土砂どころか石ころひとつ転がり落ちていない。何も対策をしていなかった斜面の一部が剥がれ落ち、石畳の道が部分的に土砂と折れた木で埋まってしまった。水分を多く含んでいて、よじ登れそうにもない。

オーナーはすぐに救助要請をしたそうなのだが、時既に午後の半分を過ぎていて、曇天の空は早くも暮れ模様だ。現地に到着したところで、夜間の作業は二次災害の恐れがあるので、孤立したという少年少女の安全が確保できているなら、翌朝を待つことになるかもしれないと言われたらしい。

「今すぐ次の土砂崩れが襲ってきそうにはないですけど……
「それはそうなんだ。薔薇館の背後を補強し直したのはほんの3年前で、それは大丈夫だと思う」
「だとしたらやっぱり朝を待つことになりますか?」
「問題は、もしかしたら今夜から雪かもしれないんだ」
「積もるくらい、ですか?」
「それは、まだ何とも」

オーナーの声に健司はため息をつき、と繋いでいる手をギュッと握り締めた。

親たちのいる安全な場所へ続く一本道が大量の土砂と倒木で埋まっているのを目にしたは、ショックのあまり過呼吸を起こした。本人も初めてのことで余計にパニックを誘い、健司は慌てて親に電話をかけて指示を仰ぎ、しばらくはを抱き締めていた。

本人はそんな症状を出したことを恥じているようで涙目だったけれど、健司は手を繋いだまま椅子を並べて座り、屋敷と連絡を取っていた。

「そうなると問題は低体温なんだけど、薔薇館の中の状態を改めて確認させてもらえるかな。この際現状維持なんて言っていられないから、なんとかして君たちが一晩乗り切れるようにしないと」

健司はビデオ通話に切り替え、と手を繋いだまま立ち上がる。

「薔薇館は元々祖父が普通に寝泊まりしていたから、クローゼットの中に寝具は一揃いあるし、トイレも水道もある。薔薇のために温度調節も出来るようになっているけど、エアコンは残念ながら温室だけで、部屋の方全部を温めるほどのパワーはないと思うんだ」

かと言って温室は狭く、エアコンがあっても床はレンガ敷きで長時間過ごせるような場所ではない。

「でも、暖炉ありますよ」
「それを確認したい。その暖炉はバイオエタノール暖炉なんだよ」
「バイオ……なんですか?」
「液体燃料の暖炉。よく見てご覧、炎はあるけど、薪がないだろ。煙も出てない」
「ほ、ほんとだ……
「燃料、足りるはずなんだけど、一応確認したい」

健司もも、石で出来た枠組みの中に赤々と炎が燃えているので「暖炉」としか認識していなかった。が、オーナーの言うように薪も炭もなし、パチパチと爆ぜる音もなかった。

オーナーの指示で燃料を全て並べてみると、確かに丸48時間以上燃焼させ続けられる程度の残量があった。薪に比べると部屋を暖める能力は低いとのことだったが、今の所火にあたっていれば寒さは感じない。だが、オーナーは首を振る。

「バイオエタノール暖炉は二酸化炭素を出すから、換気が必須なんだ。出来れば1〜2時間に1回」
「そんなに頻繁にですか」
……バイオエタノール暖炉に変えたのは、祖父の死後なんだ」

オーナーの声が低くなり、つらそうに彼は眉をひそめている。現状維持が条件の相続だったけれど、薪の暖炉はメンテナンスや費用の問題から維持が厳しく、外観をそのままに、容易に燃料を使い回せて着火と消化が簡単なバイオエタノール暖炉に変えてしまったのだという。

なのでそもそも薔薇館自体に換気口はなく、薪の暖炉なら煙突に逃げる排気に引っ張られてドアの隙間などから継続的に酸素の供給があるけれど、バイオエタノール暖炉はその排気がないために二酸化炭素が溜まる一方になってしまうのだとか。

「普段どうしてるんですか、昨日オレたちが躑躅館で……
「躑躅館には換気口があるんだよ」
「そうですか……

運が悪かったとしか言いようがない。もしこれが躑躅館なら、そもそも土砂が届かなかったし、背後方面から土砂に襲われたのだとしても、他にも逃げ道があった。薔薇館は特に奥まった場所にあり、だからこそ初代は隠れ家の隠れ家的な使い方をしていた。

現時点で幸いだったことは、バイオエタノールでも暖炉があったこと、水道があること、一組だが寝具があること、限られた量だが食料があること、そしてのバッグの中にモバイルバッテリーが入っていたこと。健司は携帯だけしか持っておらず、早くもバッテリーは半分を切っている。

「実は、食べ物はほとんど手を付けていないんです。食べようとしたら土砂崩れしたので」
「多めに用意してよかったけど、それだけで何とか凌いでほしい」
「他に気を付けたほうがいいことって、ありますか?」

と離れられない事情もあって健司は遠回しな聞き方しか出来なかったが、当座のところはこの限られた状況で救助を待つしか方法がない。これから夜、そして雪になるかもしれないことを考えても、まずは低体温を防ぐことだ。

「けっこう着込んできてるので、今はそれほど寒くないんですが……
「雪になったらたぶん一気に冷えてくると思う。換気の時も出来るだけ暖かくしてほしい」
「あの、しょうがないですよね、緊急事態なので」
……ああ、もちろん。なんとか持ちこたえてくれ」

健司はまた言葉を濁したけれど、つまり緊急事態なので場合によっては例の「現状維持」を保てなくなるようなことをするが構わないか、と聞いた。諦めのため息をひとつ挟まねばならなかったけれど、オーナーも覚悟したようだ。通話を切った健司はに向き合う。

「どう、まだ苦しさとかある?」
「ううん、ない。本当にごめんね」
「そんなこと気にしなくていいよ。あれじゃびっくりして当然だし。オレも血の気引いたよ」

の過呼吸はとっくに落ち着いているが、健司しかいないこの状況でそんな症状が出たということ自体が恐怖のはずだ。瞬間的な衝撃を受けて考える間もなく脳が恐怖を感じることは、自分では制御できないものである。恐怖そのものよりも、「コントロール出来ない」ことが怖いのである。

遡ること2年前、健司は試合中に流血するほどの大怪我を負った。自分では怪我した瞬間の意識がほとんどなかったので、以後も強い恐怖やトラウマを感じることはなかった。だが、後輩がひとり、以来怖くてボールに触れなくなってしまい、泣く泣く退部していった。

彼を「根性なし」と罵る部員もいたが、あとで自分の怪我の診察の際に担当医にその話をしてみたら、「それは根性の問題ではないので、きっと本人が1番不本意だと思う」と言われた。気になって声をかけてみたら、自分ではバスケットをやりたくて仕方ないのに、ボールを持つと手が震えるほどの恐怖を感じてしまうのだと苦しんでいた。

健司は後輩に声をかけに行ってよかった、と思いながらの手を両手で包み込んだ。もしその経験がなかったら、苦しむに対してつらくあたってしまったかもしれない。

「こんな状況だけど、ひとりの時じゃなくてよかった。色々不安はあるけど、一緒にがんばろ」
「ごめん、私が誘わなければ、こんなことには」
「誘ってくれなかったらちゃんひとりだっただろ。それで良かったんだよ」
「こんな風にグズグズしたくないのに、もう泣きたくないのに」
「そういうのは理屈じゃないんだよ。てか泣いた方がストレス減るって言わないか?」

何を言っても健司がさらりと返してくれるので、は余計に目が赤くなる。それが健司の優しさであることへの感謝と同時に、有事に強くいられなかったことが情けなかったからだ。健司はそれも理解しているので、努めて明るく振る舞う。

「大丈夫、明日の朝には助けが来るよ。協力して乗り切ろう」
「ありがとう。健司くんが一緒にいてくれてよかった」

そんなことを言われてしまうと緊急事態なのにキュンキュン来てしまうが、それはまた後で。

「よし、じゃあ、ちょっと手を離すよ。寒くないように、準備しよう」

繋いだ手を離すと言った瞬間、の指が名残惜しそうに健司の指に絡んだ。

ですからそれは! あとで! 一晩サバイバルの準備できたらよろしくお願いします!