ゆきのよる

4

ほんの少し触れて、すぐに離れた唇だったが、閉じた瞼を開ききる前にもう一度重ね合わされて、今度はしばらくそのまま離れなかった。ふたりともぎこちなかったけれど、それでも微かに吸い上げては止まってを繰り返していた。

の膝のあたりで緩く繋がれていた手はいつしかお互いの体に絡みついて、遠慮がちに這い回っていた。やがてくるまっていた毛布が解けてしまっても、ふたりはキスを止めなかった。

だが、寒さを忘れていただけで、寒くなくなったわけじゃない。毛布が解けてしまったことで急に冷気に晒されたふたりは揃って竦み上がり、同時に身を引いた。愛おしそうに求めあっていた唇が音を立てて離れる。すっかり忘れていたけれど遭難中だった。

「も、毛布、取れちゃった」
……
「はい!?」

当然と言おうか、これまでふたりはお互いを名字でしか呼んだことはなかった。それをいきなり名前で呼ぶものだから、は軽く飛び上がった。すると三井は毛布を被り直す前にまた片腕でをぎゅっと抱き締め、それから改めて毛布を被り直した。

「きゅ、急に名前で呼ぶから、びっくりした」
「やめた方がいいか?」
……ううん」

調子が狂う、というのはこういうことを言うんだな、とは思いつつ、そんな風にゆったりと問いかけてくる三井の少し伏せた瞼には逆らえなかった。三井はその長い腕でを抱え込むと、頭を落としてまたこめかみのあたりに唇を寄せている。

……私、地元に残るんだよ」
……飛行機の距離じゃあるまいし」
「私は学校、けっこう郊外なんだよね。都会の誘惑に負けない?」
「たぶん」

そこは当たり前だろって言うところだろ! はちょうど手の届く場所にあった三井の二の腕をつねった。だが、掴めたのはほんの薄い皮膚だけで、柔らかな脂肪はほとんどなかった。これじゃ寒いわけだ。というか寄りかかっている胸も固い。

「負けない自信があるくらい、言いなよ」
「心が折れやすいから」
「私のこと言えたメンタルじゃないみたいね」
……メンタル弱いもん同士、うまくいくような気がするんだけど」
「そうなのかな。自滅コースなんじゃない?」

三井がやっと少し微笑むので、もついふにゃりと笑った。

……ほんとに手近なので済ませようとしてるんじゃないよね?」
「済ませようとは思ってないけど、手近なのってお前しかいないから」
「どういう意味よ」
「お前しかいないから……手放したくないって、意味だけど」

つい楽しげに突っ込んだは、ウッと息を呑んで喉を詰まらせた。しかも脇腹から背中にかけて、三井の指先がふらふらと這い回っている。それがくすぐったいのにどこか気持ちよくて、は背筋を震わせた。顔が熱い。

「別に一緒に遊んだりとかしたわけじゃねえし、そういう意味では何も思い出なんかないけど、このまま卒業して新しい環境に変わって、だからもう無関係ですさようなら、って、そういうの、なんか嫌だなと思ったし、こんな……近くにいるから」

三井の頬もじわりと熱を帯びていた。背中はやっぱり寒いのに、の体に触れている指先が熱い。耳にドクドクと血液の流れる音が響いている気がする。こんなのは喧嘩で頭突きを食らい、血まみれで意識を失う直前に感じて以来だ。

しなやかでゆるやかな曲線を描いているであろうの体の線、それをゆったりと指先でなぞっているだけで気持ちがいいような気がする。

何かと言うと怖がらずに声をかけてきてくれるがいかに貴重な存在だったか、それはこの夜にふたりきりになってストーブの炎を見つめながら語り合うまで気が付かなかった。

もしこれが以外の女子だったら、寝ると嘘をついて目を閉じるしかなかった。

高校生活に未練を残したままで進学なんて良くないと思っていた。全て過去に置き去りにして、体ひとつで新しい可能性に飛び込んでいかねばならないと思っていた。

けれど、膝とつま先が触れそうな距離で笑い合えるを、そんな風に過去のものにしてしまうのは嫌だった。そんな思いで抱き寄せてみたら、突き飛ばされることもなく、毛布にくるまったままぎゅっと抱きついてきた。もう、このまま手放したくないと強く思った。

――あるいは、もう二度と訪れない好機に芽生えた独占欲だったのかもしれない。

再度顔を寄せると、離れるとすぐに冷たくなってしまう唇が迎え入れてくれる。背中は寒いままなのに、体の奥底が熱くなってくる。抑えようとしても漏れ出る吐息も熱い。しかもそれは、どうやらの方も同じらしい。余計に頭がぼうっとしてくる。

……、もっとくっついて、いいか」
……もっと?」

既に隙間がないほど寄り添っているのに? とろんとした目のが首を傾げる。

けれど、その「もっと」を紳士的に誠実に余裕を持って伝えられる言葉に変換出来なかった。三井はその言葉の意味を正確に伝えることを放棄し、の機能性インナーの裾を少しずり上げ、手を差し入れてみた。ずっと毛布の中にあったので、指は冷たくないはずだ。

の体がビクンと跳ねる。柔らかい皮膚がぎゅっと縮む。だが、意味は伝わったに違いない。

……今より寒く、ならないかな」
「試して、みたいんだけど、だめか?」

そこに「手近な女で済ませる」なんていうつもりは微塵もなかった。三井はそれだけはなんとか伝わらないだろうかと、真剣な気持ちで言ってみた。ややあって、が微かに頷いたときは、全身の血が沸き立ったような気がした。とうとう背中の寒さも忘れた。

インナーの裾から両手を忍び込ませ、キスをしながら徐々に捲り上げていく。表面がひやりと冷たいの肌はしかし、ずっと手を当てているとじんわりと温もりが出てくる。

抱き合ったときにも充分暖かいと思ったけれど、直接肌に触れるのはもっと暖かい――

それをも察知したのか、同じように三井の重ねたインナーの裾から手を差し入れてきた。ちょっとだけ冷たく、柔らかい手のひらが脇腹に吸い付く。三井の体の中の熱はまた一気に上昇した。

「背中、冷たいね。体脂肪、全然ない」
……温めてくれるか」
……うん」

三井がのインナーを引き上げると、モコモコした素材の下着が出てきた。ついそれを凝視していると、今度は自分の重ねたインナーを剥ぎ取られた。もうずいぶん頭に血が上っているとは言え、一気に冷たい空気が襲いかかってくる。それに追い立てられるようにしてふたりはぎゅっと抱き合った。

……やっぱり、暖かいね」
……ああ」
「ちょっと、気持ちいい」
「ああ」

か細い声で囁くの声に耳が痺れる。三井は彼女の首筋に口元をうずめ、その柔らかい香りを目一杯吸い込む。そのまま、ちゅっと吸い付いてみる。ほんのり、甘い気がした。

……

たまらずにそう言うと、の首筋がかすかに震え、くぐもって鼻にかかった声が漏れ出る。

頭の片隅には依然「だけどこの気温の中で全裸は無理なのでは」と寒がる声が聞こえていたけれど、やがてそれも静かな夜の闇に溶けて消えた。ふたりの耳に聞こえるのはお互いの呼吸音、抑えようとしても溢れ出てくる鼻にかかった声、それから、お互いの名を呼ぶ声だけ――

そう、気付かないうちに、ふたりは静寂に包まれていたのである。

つまり、雪が止んだ。

の携帯がけたたましい音を立てて喚いたとき、ふたりは上半身裸の状態で絡み合っており、ソファの上にを押し倒した三井は夢中で彼女にキスをしながら乳房にやっと触れ始めていたところだった。が、その着信音では悲鳴を上げ、ふたりは飛び起きた。

一瞬で全身に襲いかかってくる冷気、焦り、本能と理性があっちに行ったりこっちに行ったりでパニックだ。しかし着信には応じなければ。は慌てた三井がまた毛布でくるみ込んでくれたので、急いで携帯を取り上げた。

「えっ、雪止んだんですか!? いつの間に……
「寝ちゃってたかい?」
「え、ええまあ、はい、そんなところです」

先程指示を出してくれたホテルのスタッフだった。完全に雪が止んだので、これからスタッフと先生たちで救助に向かうことになったと連絡してきた。まあその、寝ようとしていたことは確かです。

「何か必要なものはありますか?」
「あ、ええと、服が濡れてしまって、まだ全然乾いてないんです。ふたりとも裸足で」
「わかりました。戻るまでの防寒着を用意します」

正しい道筋を行けばホテルまではそれほど遠くないそうだし、スタッフの男性は食事と風呂を用意しておくと言っている。は途端に空腹を感じてきた。

「こちらからは下り道になるので、あと30分もすれば到着できるはずです。支度、しておいてください」

通話を切ったは、伝えられた内容を繰り返した。

……帰れるね」

三井はをぎゅっと抱き締めると、低い声で言った。

……帰りたくない」

は頷き、体に巻き付く三井の腕をするりと撫でた。

「もう少し、降っててくれたらよかったのにね」

名残惜しいのはも同じだった。しかし、モタモタしていたら救助隊が到着してしまう。担任やら学年主任がやってくるというのに、上裸でイチャついていた痕跡を残しておくわけにもいかない。渋る三井を宥めすかしながらは乾いている服を着込んでいく。

散らかしてしまったゴミなどを片付け、すぐに出発できるように準備をしていると、急に外が騒がしくなり、一気にホテルのスタッフが小屋の中になだれ込んできた。その後ろから涙目の担任も飛び込んでくる。ドアが開いたことで部屋中の暖気が全て逃げたけれど、ふたりはすぐに防寒着に包まれ、あれよあれよという間に連れ出された。そして、スノーモービルでホテルまで帰った。

ふたりを待っていたのは、堀田と、のケアのために名乗りを上げてくれた友人の女の子で、4人はホテルのスタッフに連れられて温泉施設にまた戻った。冷えきった体に部屋の風呂では間に合わないと考えて、ジェットバスを開けてくれたらしい。

男女に分かれて体を温め、温泉施設のロビーに用意してもらった食事にありつくと、と三井は強烈な眠気に襲われ始めた。やっとのことで体の芯から温まったので、緊張と興奮で疲労した体が音を上げたらしい。無理もない。時間は深夜2時を回っていた。

許可なく温泉施設に行ってしまった三井は涙目の担任に怒られたけれど、まさかとは思うが進学に響くとマズいと考えたが「道を間違えたのは自分で、後ろをついてきただけの三井は斜面を滑り落ちたところを助けようとして一緒に転がり落ちた」としつこく強訴したので厳重注意で済んだ。

そんな風に慌ただしい中を眠気と共にぼんやりしていたと三井は、途端にあの小屋での数時間が現実のものとは思えなくなってきた。ついうとうとしてしまって、その間に見ていた夢じゃないんだろうか。のんびりと語り合ったことも、素肌を重ねていたことも。

「三っちゃん、大丈夫か。ぼーっとして」
……眠くなってきた」
「小屋でうたた寝してたんじゃなかったのか」

ずっとホテルのスタッフや担任たちと一緒に待機していた堀田はひょいと首を傾げた。が咄嗟にしてしまった返事で、自分たちは毛布にくるまって居眠りをしていたことになっていたらしい。三井は重い瞼をこすりながら鼻で笑った。あれはうたた寝をしている間に見た夢だったんだろうか。

だが、まだ指先にはの体をなぞったときの、妙な快感の名残があった。

煌々と明るい照明、途切れることのない人々のざわめき、足音、喋り声、物音。そういう雑音にまみれて、小屋での数時間がどんどん薄っぺらくなっていく。いつしかこの指先の感覚もなくなってしまうに違いない。そう考えた三井はひょいと顔を上げて堀田を仰いだ。

「もう少し、だったんだよな」
「何が?」
「もう少しでと特別な関係になれるところだった」
「え、まじか」

突然そんな話が飛び出してきたので、堀田は目を真ん丸に見開いて肩をすくめた。だが昼間、ゲレンデでふたりを見て微笑ましく思っていた堀田である。小屋のものとは違って柔らかい毛布を肩にかけている三井の背中をポンと軽やかに叩いた。

「このまま終わっていいのか」
「よくない……よな?」
「朝になって気持ちがリセットされる前に、勝負つけといた方がいいんじゃないか」

そうだ。あの体中の血液まで凍ってしまいそうな寒さの中、頼りない毛布の中で抱き合い、キスをして、そして素肌を重ね合わせていたことを「深夜の勢い」で終わらせてはならない。それこその言う「手近な女で済ませる」になってしまうじゃないか。

雪の夜、ふたりきりで盛り上がってしまっただけの事故で済まされたくない。

三井は毛布を被り直すと、サッと立ち上がっての元へ急いだ。も眠気に目をこすっている。三井に気付いたの友人が席を外してくれたので、断りもなく隣に座る。

「体、温まったか」
「正直温泉浸かっただけじゃまだ寒かったんだけど、食べたら暖かくなった」
「オレも。食べたら眠くなってきた」
「私もー。ここにベッドがあったら今すぐ爆睡できそう」

も三井も瞼が重くて目が半開きだ。三井は半目のまま鼻で笑うの手を取り、テーブルの下でそっと繋いだ。緩く握り返してくれるの手はホカホカと暖かくて先ほどとは違う意味で気持ちいい。もっと眠たくなってくる。

……、オレ、まだ夢から覚めてない気がする」
「夢?」
「あの小屋であったこと、ただの勢いとか、その場のノリとかじゃ、ないって意味」

は何を思ったか周囲をキョロキョロと見回し、ちらりと三井の方を見てニヤリと目を細めた。

「じゃあ、どういう意味なの?」
「お前のこと好きだと思ってる」
「それも夜中の勘違いじゃないって、言える?」
「たぶん」

正直に言ってしまった三井に、はまた吹き出す。

「そこは潔く『言える』って言いなよ」
は?」
……私は自信持って言えるもん」

は三井の方へ向き直ると、繋いだ手に手を重ねる。

……さっき、胸にキスマーク、見つけた。もし三井があとで『そんなことしてない』って言い出しても、ここに証拠があるな、なんて思って、だけどちょっと、嬉しかった。これがある限り、あの小屋であったことは夢じゃないって、わかるから」

にキスしたくなってしまった三井だったが、まあそうもいかない。周囲はホテルのスタッフや先生たちで溢れかえっている。ついでに少し離れた場所からは堀田との友人の熱い視線が注がれている。ご期待通りの展開だと思うのでもうしばらくお待ち下さい。

「どう? 朝、目が覚めたときに後悔しそうなら、今のうちにやめておいた方が――
「後悔なんかしない」

このまま深夜の勢いで終わらせるつもりはなくても、どこか確信のなかった三井だったが、その「後悔」という言葉に目が覚めた。もう何度も後悔をしてきた。後悔によって苦しんできた。もう二度と後悔したくないと思えばこそ、全力で部活に打ち込んできた。

もそれと同じだ。今また逃げ出したら絶対に後悔する。

「もう回りくどいの、やめよっか。私も三井のこと好きだけど、どうする?」
……オレも好きだから、付き合ってほしい」
「今度は簡単に投げ出さないって、約束してくれる?」

眠そうな目のだったが、その目の奥にはほんの少し不安も見えるから。

「約束、する。後悔もしない」

この夜の雪が溶けて消える頃になっても、この手を繋いだままでいたいから。

にっこりと笑ったは少し顔を寄せて囁いた。

「さっきの続き、今度は暖かいところに、しようね」

END