ゆきのよる

1

「そりゃまあ、受験組に比べたら暇かもしれないけど」
「その受験組が圧倒的に少ないからな、湘北の場合」
「でも色々あるだろうが。免許とか、引っ越しの準備とか」
「引っ越しは受験組よりさらに少ないんじゃねえの?」

1月、3月に卒業を控えるだけになった湘北高校の3年生、その一部を欠いた生徒たちはなぜか雪山に来ていた。レクリエーション目的のスキー旅行、一泊二日。一応受験シーズンなので、参加は自由。参加するためには11月の締切までに申し込みをすること――なのだが、参加申請した覚えのない三井は防寒具にぐるぐる巻きになって鼻を鳴らしていた。

彼は去る10月に出場した国体で棚ボタ的に推薦を手に入れ、受験の必要はない。12月の最後の大会まで思う存分部活に精を出し、後輩に追い出されるようにして引退したばかりだったのだが、終業式にスキー旅行の案内を手渡されて目を丸くした。参加申請なんかしてねえけど。

彼の分の申請を勝手にやったのは友人である堀田。いわく、どうせ卒業旅行なんかしてる暇ないだろうし、遊ぶ計画を立てているうちに卒業になってしまうだろうからちょうどいいと思った、とのこと。いやなんで野郎だけで卒業旅行とか鬱陶しいこと考えてたんだよ……

そもそも三井は寒いのが苦手だ。子供の頃から一貫して室内競技だし、体脂肪は少ないし、ついでに血圧も低いし体温も低くなりがち。なのでスキー旅行なんて頼まれても行くつもりはなかったのだが、なんと参加費用を堀田が自分のアルバイト代で支払ってしまったので、それを行かねーよとは言えなくなってしまった。

そして同学年の生徒たちの「すっかり更生した感じだけど春までヤンキーやってた人でもスキー旅行来るんだ……」という視線が地味につらい。そんな視線に耐えていた三井の背中をボフボフと叩く音がする。ぎこちなく振り返ると、同じクラスのが立っていた。

「やっと見つけたー。はいこれ、レンタルの引換券」
「何だそれ」
「何だそれって、ウェアとか借りなきゃスキー出来ないでしょ」
「いや、オレやらねーからいいよ」
「じゃあ何しに来たの」
「それはこいつが無理矢理」

ウェアや板のレンタル引換券を配って回っているらしいも防寒具でぐるぐる巻き。ズビッと鼻が鳴る。慣れない雪山でヨタヨタ歩いて引換券届けに来たのにどーすのんこれ、という顔をしているが、三井は受け取ってくれない。

「てかホテルって帰っててもいいんだよな?」
「ほんとに何もしないの? ソリもあるよ」
……あれをオレにやれと」
「堀田とやればいいじゃん。写真撮ったげるよ」
「ふざけんな」

昨年の春まで死ぬほどヤンキーだった三井と堀田だったが、このは当時から物怖じしない性格でクラスの連絡事項などをよく伝えてきてくれていた。なのでふたりも馴染みがあるわけだが、子供がパパやママと一緒にはしゃいでいるあのソリは死んでも無理だ。しかもこのふたりで。

「えー、ソリ楽しいと思うけど。けっこうスピード出てるよ」
「あのな、オレと、こいつが、ふたりでソリやってたら」
「いやあ、実に微笑ましくて腹筋壊れるよね。それを写真撮って――
「赤木と木暮に見せるって言うんだろうが!」

赤い鼻と頬でニヤニヤし始めたを先回りして遮り、三井はその鼻をガッとつまんだ。途端に「フガッ」とはむせた。そのつもりでした。そんな微笑ましいやり取りを見ていた堀田はつい可笑しくなってしまい、口を挟んだ。

「そりゃオレとふたりじゃむさ苦しすぎるよ。ふたりで滑ってくれば?」
「はあ?」
「その様子じゃもスキーやったことなくて持て余してるんだろ?」
「うっそ、堀田エスパー?」
「お前こそ何しに来たんだ」
「温泉と卒業旅行代わりに。今日は仲のいい子と同室オッケーだからさ〜」

照れ笑いのにまた三井がチョップなど振り下ろしている様など、実に微笑ましい。堀田の方がニヤニヤしてきた。スキーしない者同士、ソリで滑ってくればいいのに。

「それだけ着込んでたら三っちゃんとだなんてわかんないぞ」
「なんでソリ行くことになってんだ。やらん」
「だから三っちゃんは顔がいい割に女子人気が今ひとつなんだよ」
「関係ねえだろ!!!」
「あっはっは、堀田容赦ない!」
「お前も笑ってんな!!!」

女子人気が今ひとつなのは春まで喧嘩の常習犯で怖かったからだが、それがコロッと更生したからといって手のひらを返してキャーキャーいうほど高校3年生は子供ではなかった。なので距離感が変わらないのはこのくらいで、なので三井や堀田は安心してバカ話をしていられるというわけだ。

「しょうがないなあ、じゃあこれは先生に返しとくわ」
「ホテル帰っていいんだよな?」
「それはどうだろう……先生に聞いてみないことには。でもゲレンデは16時までだよ」
「まだ6時間もあんのかよ……

げんなりと肩を落とすふたりに「じゃあねー」と言っては去っていった。そもそもが自由参加なのでみんなスキーやスノボを楽しんでいる。三井がここまで寒がりだったというのは堀田も知らなかったらしく、ゲレンデをかっ飛ばすつもりでいたところ、一応付き合っている。

「てか先生ってどこだ。腹痛えから帰るって言えばダメとは言わねえだろ」
「まあそうだよな。じゃ行くか」
「いや、お前は滑ってこいよ。オレは部屋でゴロゴロしてっから」
「それじゃ退屈だろ」
「確か今日のホテルって別棟に温泉施設あったろ。こっそり行ってくるわ」
「バレたらドヤされるんじゃないか」
「いいよ、そんときゃそん時。別に悪さしてるわけじゃねえんだし。風呂入ってるだけだ」

ひとりで行かせていいものかと迷っていた様子の堀田だったが、三井はさっさとその場を立ち去った。そうでもしないと堀田はいつまで立っても滑りに行かないだろうし、自分も長居はしたくない。

というかほんの思いつきだったのだが、温泉施設はいいアイデアだった。ちらりと館内の案内を見ただけだが、ただ大浴場があるだけではなくて、変わり風呂がたくさんあるらしい。

三井が寒がりなのにはまだ理由があって、15歳の時に怪我をした膝はすっかり完治しているというのに、寒かったり低気圧が近付いてくると軋むようになってしまった。痛みが出る時もある。古い映画やドラマに出てくる「古傷が痛む」というやつだ。

案の定ゲレンデの裾で立ち尽くしていたら膝が固くなって動かしづらくなってきてしまった。春からまたバスケット漬けの生活が始まるのだし、一度は手術するほどの怪我をしているので、大事にしておきたい。温泉で温めてマッサージをすれば緩和しそうだ。

そんなことを考えながら担任にホテルに帰る旨を伝え、着ぶくれで歩きにくい雪道をヨタヨタとホテルに帰る。部屋に戻って装備を軽くし、携帯と財布だけポケットに突っ込んで部屋を出た。温泉棟まで行くには一旦外に出なければならないが、それだけは仕方ない。ダッシュで駆け抜ける。

温泉棟はさながらアミューズメント施設のようになっていて、宿泊客と施設利用のみで料金が分かれている。三井は素知らぬ顔で料金を払い、中に入る。すると男女で分かれる以前に土産物店やら飲食店が並び、入浴に必要なグッズの自販があったりで、日中スキーを楽しんだ客が日没後にさらに遊べる施設になっているらしい。これなら心配ない。

しかし昼にはまだ早いので、三井は早速男湯の暖簾をくぐり、大浴場へ向かった。とにかく寒い。膝もギシギシ言っている。早く温まりたい。寒いのなんかまっぴらだ。

三井は空いた温泉の湯に両手両足を伸ばしながら、ゆったりとため息をつく。

春までにやっておかなきゃならないことは、たくさんある。それをひとつひとつ思い返して、頭の中に段取りを叩き込んでおかねば。堀田ととバカ話をしているのも少し楽しかったけれど、そういうものは全部置いて出ていかなければならないのだ。気持ちは残さない方がいい。

この雪が溶けて消える頃、自分はもう神奈川にはいないのだから。

ゲレンデで滑っていていいのは、実際のところ15時半くらいだろうか。ウェアや板などレンタルしたものを返却し、16時に集合となっている。点呼ののち、全員でゾロゾロとホテルへ帰り、18時に食事。今回のスキー旅行は旧館を貸し切りにしているので、大浴場は全て開放、22時までなら何度入ってもOKとのこと。

しかし夕食の18時以降は旧館から外出禁止、ホテルの敷地内でも厳禁。

この巨大なホテルは総合すると旧館の3倍近くの収容人数を誇り、その上入浴だけの温泉施設も構えており、しかもスキーシーズン中なので一般客でも目一杯になっている。ただでさえお行儀のよろしくない生徒を抱える湘北、18時以降生徒を旧館に閉じ込めることを選んだのは妥当と言える。

そんなスケジュールだったが、当然ウェアや板の返却は大渋滞を起こし、16時集合に全員揃うはずもなく、というか引率の先生のウェアも返却できない大混雑を経て、たちは17時頃になってやっとホテルに帰ってきた。

だが、みんな楽しく遊んできてしまったので疲れていて、18時から食事だとわかっているのに殆どの生徒が部屋で爆睡してしまった。そんなわけで今度は18時になっても生徒たちが部屋から出てこない! と大騒ぎ。一般客もおらず、正面玄関も締め切ってしまった旧館に先生たちの怒声が響き渡る。

なので夕食も押しに押して、それぞれのクラスが点呼を取れるようになったのはもう19時も目前のことだった。そんな中、のクラス3年3組の担任は真っ青な顔でオロオロしていた。腹が痛いから部屋に帰ると言っていたはずの三井がいない。誰も彼の姿を見ていないという。

唯一ホテルに帰る前の三井と話したというは、今にも泣き出しそうな担任とディナーブッフェの準備が進むホールの片隅でコソコソ話していた。三井は高校生活の殆どをグレて過ごした人物だし、そのせいでまさかとは思うがという不安が取れないし、それにしては国体で大学への推薦入学のきっかけを作るなど当座の将来は華々しいので、騒ぎにしたくなかった。

「堀田ってえーと、確か三井の仲間だった」
「仲間っていうか普通に友達みたいだよ。堀田が勝手に申し込んじゃったんだって」
「ああ、それでスキーやりたくなかったのか」
「ていうか、寒いのダメなんだって。だからホテル帰りたいって言ってて」
「ゲレンデを出るのを見たわけじゃないんだよね?」
「うん、それは見てない」
「あー、どうしよう、勝手にどこかウロついてないよね……

今年の担任はとてもフレンドリーなので、は彼女のオロオロに付き合っていた。が、オロオロしていても三井が現れるわけでなし、は自分が立ち去ろうとした時にもまだ堀田がいたので、彼に話を聞いてくると言ってその場を離れた。

「えっ、いないの?」
「えっ、あれから会ってないの?」
「だって部屋にいなかったから。食事はクラスごとだって言ってたから、てっきり……

堀田も見ていないというので、もちょっと背中が冷たくなってきた。だが、堀田はあたりを確認すると、少し屈んで声を潜めた。実は――

「えっ!? それはマズくない……?」
「三っちゃんの荷物は全部残ってたし、たぶん貴重品だけ持って行ったんじゃないかと」
「ええと温泉施設って確か……

は斜めがけにしていたポーチの中からホテルのパンフレットを取り出して開いた。広大な敷地内には本館、新館、旧館、コテージ、温泉施設、夏季営業用の屋外運動施設、それにドッグランやパターゴルフコースなんかもあったりで、とにかくひとつひとつの間が遠い。特に旧館は正門近くにあるため、敷地の中央付近にまとまっている本館や温泉施設からは余計に距離がある。だからこそこうした騒がしい団体客も貸し切りができたわけだが――

「新館にたどり着ければ、渡り廊下で本館に抜けて、そしたら温泉まではそんなに距離ないね」
「えっ、行くのか。だったらオレが――
「ううん、入れ替わりになると困るから、堀田はここで待ってて」

もし入れ替わりで三井が戻ってきたら、担任のところへ行くように伝え、ついでに自分にも連絡欲しい、とは堀田と連絡先を交換し、そのまま旧館の大ホールを飛び出した。

旧館の正面玄関は閉じられているが、すぐ脇の通用口は普通に開いている。大ホールを出たは一旦自分の部屋に帰り、ありったけの服を重ね着して、そしてまた飛び出していく。旧館を出ると、一番近い新館までは走って3分くらいだろうか。けれどそれは、雪が積もっていなければ、の話である。

片手に携帯を持ったまま、はヨタヨタと駆け抜け、素知らぬ顔をして新館に飛び込む。新館も一気に駆け抜け、渡り廊下を行けば本館である。ただこの新館が巨大で本館も細長い造りなので、はゼィゼィ言いながら走る。着ぶくれしているので汗もかいてきて余計に体が冷える。

そうしては旧館を飛び出してから15分ほどで温泉施設にたどり着いた。が、エントランスロビーに三井の姿はない。焦ったはチケットカウンターに駆け寄り、男湯の方に三井という人がいないか、呼び出してもらえないかと尋ねた。スタッフは快く応じてくれて、すぐに男湯の方に入っていった。そこから5分。

「えっ、お前何やってんの!?」
「そりゃ私のせりふだ! 何してたのこんな時間まで!」
「休憩所で寝てた……

は呆れたのと安心したのとでガックリと肩を落とした。

「とりあえず堀田に連絡して、担任に見つかったから戻るからって伝えてもらおう」
「そんな騒ぎになってたのか」
「将来有望なバスケ選手だから騒ぎにしたくなくて慌ててたの」
「す、すまん……

ひとまずが堀田に連絡を入れて担任に伝えてもらうことが出来た。ふたりの食事は特別に避けてもらっておくそうで、戻ってきたらさっさと食べて部屋に帰れば「ここだけの話」に出来る。

「てかお前汗だくじゃないか」
「外を通らなきゃいけなかったし、建物の中は暖かいし、ダッシュしたから」
……ごめん」
「いいよ。てかそっちはずいぶん薄着」
「昼飯食ったら帰ると思ってたから」

三井は三井でガラス越しの外の景色に身震いをした。真っ暗な闇の中に、細かい雪が舞っている。

「いつの間に降り出したんだ」
「えっ? 私が旧館出た時は降ってなかったよ」
「しかもなんか風強そうだな」
「じゃあ早く戻ろ。はいこれ、貸したげる」

着ぶくれダッシュで汗だくのはゲレンデよりは軽装になっている三井にマフラーとストールを差し出した。三井はそれでもダウンコートにナイロンの防寒ボトムだが、ゲレンデではもっと着込んでいた。さっきまで寝ていたと言うし、温泉で温まった体はもう冷えているかもしれない。

「えっ、いやお前寒いだろ」
「ちょっと汗がですね……。あっ、でもこのふたつは汗ついてないと思うよ」
「いやそういうことじゃ……じゃ、借りるわ」

三井はダウンの中にストールを巻き付け、首から顔を隠すようにしてマフラーも巻いて、ファスナーをきっちり閉めた。これで旧館までは頑張れるはずだ。

「よし、じゃあ行こう!」

の号令で外に飛び出したふたりはしかし、出るなり「寒い!!!」と悲鳴を上げて竦み上がり、慌てて本館に向かって走り出した。日中は確かに穏やかな晴天だったはずなのだが、いつの間にか強い風に雪が舞う荒天になっていた。