ゆきのよる

2

温泉施設から旧館に戻るまでの間に「外」を通らなければならない箇所は3つ。温泉施設から本館、本館と新館の間の渡り廊下、そして新館から旧館までの一番長いコース。温暖な時期ならともかく、ただでさえ寒い1月、しかも吹雪いてきてしまった。

生まれも育ちも湘南であると三井は雪道を素早く歩くのも下手くそだし、横殴りに吹き付ける雪が頬に当たって痛いので、進みがのろい。そんなふたりがヨタヨタしつつ本館に到着すると、正面玄関にはなぜか人が溢れていた。

どうやら今夜から宿泊の団体客が到着したところのようだが、3台まとめて到着するはずのバスが1台途中で消えてしまったと大騒ぎしている。

……なんかどこも似たようなことで慌ててんね」
「オレは見つかったんだからいいだろよ。しょうがねえな、新館まで外で行くか」

こちらも早めに戻らないと騒ぎが大きくなるので、三井はの背を押して本館の正面玄関を外れた。どちらにしてもホテルの敷地内なのだし、まっすぐ行けばたどり着けるはずだ。

慣れない雪道をヨタヨタと歩くこと10分ほど、雪を舞い散らす風の音が甲高くなってきた。はもう普通に息が出来なくてゼィゼィ言っている。

「ね、ねえ三井、なんか、遠くない?」
「えっ? 遠い?」
「本館てそんなに大きくなかったよね? 新館、見えてこない」
「そうだっけ? てか本館と新館て渡り廊下で繋がってたんじゃなかったか?」
「そう。だから本館が途切れたら新館が見えてくるはずなんだけど」

現在、メインの宿泊施設となっているのは新館で、旧館の軽く3倍はありそうな巨大な建物である。それが見えてこない。明かりは点々と続いているが、本館も見えなくなってしまったというのに、新館が見えてこない。

……てか、ここどこ」
……わかんない」

ふたりは思わず立ち止まって顔を見合わせた。と言ってもふたりともマフラーやら帽子やらで顔は殆ど見えていないのだが、とにかく足を止めて黙ってしまった。現在地がわからない。

「だけど本館からは坂をまっすぐ下りていくだけだし、道なんか一本しかないし、迷いようがないよ」
「でもその道が見えてない」
……まあそうなんだけど」

三井が今来た方向を振り返ると、自分たちの足跡は今にも消えそうになりながらも、やや左方向から湾曲していた。それは想定しているコースから外れる道筋のはずだ。

「ほんとだ。ちょっと逸れちゃったのかもしれないね。じゃ、こっちだ」
「大丈夫かよ」
「でも向こう何も見えないし、このまま進んでも逸れるばっかりじゃない?」

降り積もった雪はフカフカと柔らかいが、そんな優しげな雪の道はつま先を容赦なく冷やす。痺れるような冷たさに足の感覚がなくなっていく。は真っ赤な頬に流れる溶けた雪の雫と汗を振り払うと、またヨタヨタと歩き出した。

その後を着いて行った三井だが、ほんの20歩ほど歩いたところで突然がガクリと傾いた。

「おい、大丈夫か!」
「あ、平気平気。ここなんか雪が深くなっ――――
!!!」

上半身だけひねって振り返ったは、全て言い終わらないうちにぐらりと傾き、そのまま足元の雪と一緒に消えた。慌てた三井の叫び声が吹雪の中に飲み込まれ、そして思わず駆け出した彼もまた、ふんわりと柔らかそうな雪とともに、暗闇に飲まれた。

……どこだ」

甲高い悲鳴のような風が高く渦巻いている暗闇の中、三井は顔についた雪を払うと、うまく動かない口でそう言った。一体何が起こったのかわからないが、斜面を滑り落ちたような気がする。

体が冷たい、冷えたつま先がじんわりと痺れ、巡る血液が必死に温度を戻そうとしているのがわかる。顔も冷たい。冷たすぎて痛い。だけどどこか火傷のようなヒリヒリした感触もあって、雪の中に頬をこすりつけたくなってくる。指先の感覚はとっくにない。しかしの返事がないので、三井は強ばる体を起こして膝をついた。辺り一面、雪の白と真っ暗闇しかない。

!!! 聞こえるか!!!」

大声を出すために深く吸い込んだ息ですら喉や気管を冷やして傷つける気がする。冷たい空気に満たされた肺はきゅっと縮む気がする。すると、少し離れた場所の雪が崩れ、中からの手がにゅっと出てきた。見覚えのあるピンクとオレンジの手袋だった。

三井は雪に四つん這いになったまま這いずっていき、その手を掴んで力任せに引っ張り上げた。すると、顔面に雪が張り付いて真っ白な顔をしたが出てきた。咳き込んでいる。

「大丈夫か」
「へ、へいき……たぶん。三井は?」
「なんともない。起き上がれるか」

は顔についた雪を払い落とすと頷き、三井の手に捕まって立ち上がった。

「どうしよう」
「まず明かりか。携帯で……

ふたりで携帯を取り出してライトを点灯させてみたのだが、周囲は雪と木と暗闇しかない。

「一応電波は大丈夫だし、ネットも大丈夫そうだね。堀田に連絡して……
「あ、おい、あれ」

堀田に連絡して救助を、と考えたの袖を三井が引いた。見ると、ハイキングコースなんかによくあるような、通路と森林を隔てる杭と、その間に差し渡されたロープが見えた。つまり、ここは人の手が届かない山奥ではなく、整地された場所ということになる。

三井は深い雪の中をロープのところまで向かうと、大きな声を出してを呼んだ。

「どした!?」
「あれ見えるか!? 家がある!」

携帯を目一杯差し出しながら、三井は指差した。かすかに携帯のLEDライトが照らす向こうには、ログハウスのような木組みの外観をした小屋がぽつんと建っていた。窓に明かりはないようだが、テラスがある。屋根の張り出しがあるので雪が積もっていない場所もある。

「とにかくあそこまで行こう。救助に来てもらうにしても、ここで待つよりいいだろ」

というかどんどん吹雪がひどくなる。目にも雪の粒が直撃するので、見開いていられない。三井は頷くの手を取ると、一度腕を組んでからしっかり繋いだ。そしてふたりで携帯を掲げて足元と小屋を交互に確認しながら歩いていった。

「た、助かった、雪のないところがある……
「あ、やっぱりここもホテルの中だ! 三井、見てこれ、このマーク」
「ほんとだ。何の小屋なんだ……
「とりあえず堀田に連絡しよう」

バタバタと全身の雪を落としたふたりは小屋の壁にへばりついて肩で息をしていた。よく見れば小屋にはホテルのロゴマークがあるし、人が住んでいるようにも見えないけれど、掃除が行き届いていて、放置されている廃墟というわけではなさそうだった。

が急いで堀田に連絡を入れると、こっちはこっちで間に合わずに騒ぎになっていた。

「ひとまず無事でよかったけど、先生泣いてるぞ」
「それはどうなの。生徒を預かる立場の人が」
「お前まで黙って消えた上に話が聞こえた2組の女子が神隠しだって泣き出してな」
「あ、それ知ってる。集団ヒステリーってやつだ」
「何を呑気なこと言ってるんだ。どうも、救助に行かれないみたいだぞ」
「え!?」

あくまでも大人たちが大騒ぎしているのを中継してくれている堀田によると、三井がみつからないと3組の担任が気付いてから1時間半、までもが消えたと気付いてからも1時間近くが過ぎていた。現在20時37分。天候は悪化するばかりで二次災害の危険があるという。

たちの予想通り、ここはホテルの敷地の中で間違いないらしい。だが、ハイキングコースとして開放されているのは夏季営業中のみで、都市部で桜がほころび始める頃でも雪が残る山なので、よほど暖かくなってからでないと使わない管理小屋とのこと。

ただ幸いなことに、ハイキングコースとしてはかなり奥まった場所に位置するため、救急用具など緊急時に必要なものは揃えてあるという。

「でも鍵がかかってるでしょ?」
「それを今話して……はい、はい、、三っちゃんに代わってくれ」
「三井、堀田」

三井が電話に出ると、堀田ではなく、ホテルのスタッフだと名乗る男性の低い声が聞こえてきた。

「正面のドアは鍵がないと開かないんだけど、裏口があります。行ってくれるかな」
「はい。ありました。これドアですか? 取っ手が……
「二重扉になってるんだ。南京錠がかかってるだろう」
「はい。あります」
「その南京錠を外すと中に鍵のかかってないドアがあって、そこから入れる」
「この南京錠を壊すんですか」
「無理だと思う。だから、その南京錠がかかってる金具の方をなんとか破壊してほしい」

電話の向こうで、やたらと甲高い声がキーキー言っているのが聞こえるが、淡々と落ち着いて説明してくれる男性の声のおかげで三井も気持ちが落ち着いてきた。寒いけど、この鍵がかかってる金具を壊せれば中に入れる。

「薄いけど金属のプレートだから、女性の力では厳しいけど、君なら外せると思う」
「何か金属の棒状のものがあれば……
「じゃあ今度はもう1回正面に戻ってくれるかな。テラスの下に、花壇があるんだ」
「雪で埋まってて……
「だけどその中に、鉄製の杭が刺さってると思う。そこに細いロープが差し渡してあるんだけど」

先程ふたりで見つけたハイキングコースにあるようなやつか。三井はにも声をかけて雪をかきだす。すると50センチほどの鉄の杭が出てきた。先端が尖っていて、これがホラー映画なら凶器にうってつけの一品だ。

「南京錠がかかってる金具は隙間があったと思うんだけど」
「あります。ちょっとやってみます。、これ頼む」

に携帯を戻した三井は、その尖った先端を隙間に押し当て、ぐいぐいと差し込んでみた。南京錠はともかく、それがぶら下がっている金具の方は薄っぺらいので、何とかなりそうだ。はホッとして弾んだ声を上げた。

「あ、意外と柔らかい。いけそうだね」
「外れそうか?」
「はい、少しずつですけど、隙間が開いて金具が曲がってます。あ、取れた!」
「よし、じゃあ中に入って、ブレーカーを上げてほしい」
「エアコンがあるんですか?」
……いや、通電はしてると思うんだけど、そういう暖房器具は」
「そ、そうですか……

中に入ると、やはり真っ暗闇である。三井が携帯で室内を照らすと、仕切りのない一間の小屋であることがわかる。窓は少なく、棚が壁にへばりついていて、あれこれと物が詰まっている。

「今入ってきたドアを背にして、左側に小さなキッチンとトイレがあるだろう」
「はい、あります」
「そのトイレのドアの上に、ブレーカーがないか?」
「あります!」
「よし、じゃあそれのレバーを全部上げてみてくれ」

さすがに立ったままでは届かなかった三井だが、幸いバスケ選手。ジャンプして全てのレバーを上げた。小さい流しにクッキングヒーターがくっついているだけのキッチンの脇にスイッチがあるというので、入れてみる。

「うわ!?」
「きゃー!!!」
「どうした!?」
……えと、電球が、バキャッて音して、火花出て、消えました」

長く放置されていたせいだろうか、小屋の中の電球は通電した途端にスパークして死んだ。の耳にスタッフのため息が聞こえる。

しかし真っ暗では何も出来ないので、ふたりはスタッフの指示通りに小屋の中を漁って、何とかランタンを見つけた。だがそれもオイルランタンだったので、点火するまでが一苦労。どちらも携帯のバッテリーは瀕死の状態。

「でも私、モバイルバッテリー持ってます」
「じゃあ絶対に携帯は繋がるようにしておいてください。次に、ストーブを付けます」
「ストーブ!?」
「だけど、薪ストーブです。薪は重いから作業は三井くんにやってもらってください」

フェミニストなのだろうか、低い声のスタッフは先程から何かと言うと作業は三井に任せてにはやらせない。それが少し心苦しいだったが、三井も嫌な顔せず淡々とやってくれるので、ひとまず余計な口出しはしないことにする。

なにぶん明かりも乏しいしやったこともないしでモタモタしてしまったけれど、スタッフの指示でストーブに火がつくと、も三井もワッと歓声を上げた。これで何とか死なずに済むだろう。小屋にたどり着いてからさらに1時間以上が経過していた。

「さっきより吹雪がひどくなってきてますが、予報では早朝には止む見通しです。もしそれより早く止んでも、積雪の量によっては夜明けを待つことになるかもしれません。薪は足りると思うし、基本的には夏に使う場所なので、水とか、簡単な食料もあると思います。それらは好きに使ってくれて構いませんので、出来るだけ暖かくしてその場を動かないでください」

半ばファッションで付けたに過ぎなかった薪ストーブだったが、役に立ってよかった、とスタッフは締めくくり、わからないことがあればすぐに連絡をくれと言って、通話を切った。その瞬間、ふたりはまたハーッと大きくため息を付いて肩を落とした。

「三井、ごめんね」
「は? なんで?」
「私が変な方向行こうとしたから、こんなことに」
「いやオレが温泉で温まって爆睡してたからだろ……っくしょん!!!」

もとを辿れば三井がコソコソと単独行動したからで間違いないわけだが、大きなくしゃみにふたりは我に返った。ストーブはついたけれど、寒い!

「ちょっとどうにかしないと、いくら火がついてても冷えるばっかりだな」
「てかまず何があるのか探そうか。ランタン、もうひとつあったよね?」

小屋の中のものはなぜか基本的に2つセットで置かれている。玄関先に立てかけてあった雪かきシャベルですら2つ並んでいた。もうひとつのランタンに火を灯すと、ふたりは小屋の中をくまなく見て回り、明け方まで暖を取るのに使えそうなものを見つけると、全て小屋の真ん中に設えられているテーブルに集めた。家具はこのテーブルに椅子が4脚、革張りの応接セットがあるだけ。

「意外と使えそうなものあったな。ロウソク助かる」
「水も結構あるね。賞味期限ギリギリだけど。あとは塩飴と、乾パンと、クッキーかな?」
「あの奥に積んであるのなんだろう、見たか?」
「ううん、死体が入ってたらどうする?」
「そういうこと言うなよ!」
「あれ、三井はホラー苦手?」
「そういうわけじゃないけど! あっ、毛布だ!」

ふんわりふかふか、とは行かないけれど、それでも毛布だった。は思わず歓喜の声を上げて飛び上がった。暖を取れるものなら何でも宝物のように見える。

「これなら結構暖かく過ごせるんじゃない?」
「さっき薬缶なかったか? ストーブの上でお湯が沸かせるんじゃないか」
「お、お湯、お湯〜!」

ふたりはにわかに興奮して、小屋中を駆けずり回った。ストーブの向かいに応接セットのソファを引っ張ってきて、その周りに衝立を巡らせて熱気が逃げないようにし、毛布はあるだけ引っ張り出してきて、薬缶に水を入れてストーブにかける。

「てか靴下とか濡れたままだけど……これ乾かさないとだめだよな」
「衝立にかけておけば乾くかもしれない。てか救急バッグの中にタオル……あった! これで拭こう」

今度はコートやダウンを脱ぎ、濡れてしまった衣服を乾かさなければ。しかし雪の中を転がり落ちた上に、ふたりとも何ひとつ防水防雪装備ではなかったために、かなり湿気てしまった。特にはナイロン素材のような、軽く濡れたくらいなら染み込まない素材がなく、コートなどは水をかけたようにびちょびちょ。

……乾くかなあ」
「救助に来てもらうときに何か持ってきてもらったらいいんじゃないか」
「そうだね……って三井何その重ね着」

は顔を上げると、思わず吹き出した。彼は裏起毛の防風パンツの中に普通にジーンズを履き込んでいた。その上襟元を見るに、トップスも何枚も重ね着していたらしい。

「でもけっこうやられた。ジーンズは重ねた中に織り込んでたから無事だったけど、袖とか首のところから雪が入って……ああクソ、これもダメだ! 背中濡れてる」

そうやってふたりで重ね着を脱いでいたら、気付くとだいぶ薄着になっていた。

……お前もだいぶ薄くなったな」
……あんなに火があっても中々暖まらないね」

なんとなく不安は残るが、濡れた服を着ている方がもっと体を冷やす。特にふたりとも靴と靴下が完全に濡れてしまったので、裸足だ。ソファをストーブに寄せてあるので、火にあたって温めるしかない。靴の代わりになるようなものはなかった。

そして、薬缶の水がお湯になったところで乾パンとクッキーを食べた。何しろもう21時半を回っていたし、ふたりとも昼を軽く食べたきり、三井は温泉施設で爆睡していて、はゲレンデでビギナー教室に参加していて、ほぼ飲まず食わず。一気に食べてしまった。

が、午後いっぱい運動していたと、体の大きな三井がそれだけで足りるはずもなく、ふたりは後に残った塩飴を恨めしそうに眺めていた。それを除けばもうお湯しかない。

空腹というのは想像以上に体の温みを奪うし、お湯を飲めば体の中から温まるけれど、保温性は高くない。一瞬じんわりと暖かくなって、そしてすぐに冷める。それにしても、部屋が暖まらない。

「こんなにストーブガンガンに焚いてるのに」
「こんな雪の季節を想定して作られてないのかもな。裏口の二重扉は開いてるし」
「あっ、そうか。あそこ鍵かかってないのか。ホラー映画だったらやばいね」
「またその話かよ」
「やっぱりホラー苦手なんじゃないの」
「そんなことねえっつってんだろ」

はニヒヒと笑いつつ、しきりと手をこすり合わせていた。つま先も忙しなく動いている。

……手、冷たいのか」
「なかなか温まらなくない? 冷えたまま戻らないんだよね。ほら」
……オレも冷えてっからよくわかんねーな」

差し出されたの手を掴んだ三井はそう言って笑った。だが、笑い合ったところでふたりはハッと息を吸い込んで止まった。誰もいない誰も来ない、この小屋からはしばらく出られない、冷えた体に心許ない薄毛布。

ふたりの脳裏を余計な妄想が一気に駆け巡った。

寒い時は人肌で温め合うのが一番いいとかいうあれは本当なんだろうか。このまま部屋が温まらないまま、深夜になって気温だけが下がっていったら、果たしてこの少ない衣服に薄毛布で耐えられるんだろうか。ストーブは目の前でごうごうと燃えているけれど、体温は維持できるんだろうか。

というかそもそも向こうは自分のことどう思ってるんだろうか。

そんな益体もない考えを飲み込んだふたりは、手を離すと毛布にくるまる。

……雪、早く止むといいね」
……そうだな」