ゆきのよる

3

ストーブは可能な限りの火力で焚いていたのだが、やはりこんな猛吹雪を想定している小屋ではないらしく、と三井は少しも体が暖まらないまま毛布にくるまっていた。

それに、もう何杯お湯を飲んだかわからない。暖を取りたいあまり、ふたりともガブガブとお湯を飲んでいたのだが、そうするとトイレが近くなる。水分が排出されると体温が一気に逃げる。なのでそれもちびりちびりと飲み込むしかなくなってしまった。

試しにバケツにお湯を張ってつま先を浸して温めてみたりもしたのだが、それも一瞬だけ。しっかり水気を拭いて毛布の中にくるみ込んでいても、しばらくするとまた冷たくなっていく。

ふたりともそれなりに重ね着をしていたので、その濡れた服が乾けば少しは違ったのだろうが、あいにく靴下ひとつ乾く気配がない。

そして、不用意に触れてしまった相手の手のぬくもりがふたりを圧迫していた。

の手は確かにつめたく冷えていた。けれど、それは指先だけで、手のひらの真ん中は仄温かかった。三井の手はそれほど冷えておらず、つめたいの指先を少しだけ温めた。

手を触れただけでも温かかった。これが全身で触れ合ったら一体どれだけ温かいんだろうか。

しかし現状友達というほどでもない関係のと三井は、そんなことを思っては慌てて頭から締め出していた。雪の夜に小屋の中でふたりきり、なんてベタにもほどがあるだろう。何を緊張してるんだ。

そんな緊張を振り払いたくて、先に口を開いたのはだった。

……春からひとり暮らし?」
「えっ? ああ、そう、寮だけど」
「寮ってどんな感じなの?」
「いやまだ実際に見てないんだよな」
「えっ、大丈夫なの。家具とか」
「ああ、机とかベッドとか、作り付けなんだよ。だから私物を持ち込むだけ」

思考が途切れて気が楽になったふたりは、ソファの上でそれとなく向かい合って話していた。のつま先と三井の膝が今にも触れそうな距離にあるが、それは見ないことにする。

「そっちは進学か?」
「私? うん、そう。県内だけどね」
「湘北は珍しいよな、進学」
「みんな専門か就職だもんね」

ストーブを見つめながらぼそぼそと話すふたりの背後では、さらに風が強くなっていた。時折叩きつけるように吹いては頼りない窓ガラスを揺らしている。しっかり木材が組まれたログハウス風の建物だったけれど、内側は普通の壁。それも風が吹く度にガタガタと揺れる。

「堀田は?」
「あいつは家が商売してるから、それを継ぐんだと思う」
「そーいうのいいよね。就活とかしなくていいし。三井んちは?」
「うち? うちは普通、というかリーマンていうか、まあ会社勤め」
「うちもー。父方は昔一族で商売してたらしいんだけど、何の痕跡も残ってなくて」

だが、こんな気楽な話が延々数時間も続くほど話題があるわけもなく、ふたりとも徐々に言葉が途切れがちになってきた。湘北で過ごした3年間、特に共有している思い出はない。それは三井の方が激しくグレていたせいもあるけれど、それでもは平気で話しかけてきていたし、皆が敬遠するものだから、余計には三井たちヤンキーとそうでない生徒との「繋ぎ目」になっていたが、そこまでだ。

……あのさ、三井って将来とかって、どういう感じになるの?」
「どういう感じって、どういう意味?」
「私スポーツの世界ってよくわかんないんだけど、プロ、とか?」
「ああ、そういう。まあ、うまくいけばな」
「うまくいけばなれるの?」
「そりゃそうだろ。怪我もせず、結果も残して、能力があれば」
「そっかあ……
「どうした、急に」

ふたりとも体はなんとなく向かい合っていても顔はストーブの方へ向けていた。三井は首を戻しての方をちらりと見てみた。は毛布にくるまって立てた膝に顎を乗せて目を細めている。

「いや、去年の春まで怒ってばっかりだった人が、プロに続く道に乗ったんだなあって思ってさ」
「ま、まあな」
「私、同小の子でヤンキーな子けっこういてさ。だから怖いとかなかったんだけど、みんなヤダって言ってて、プリント1枚渡すのも私にすぐ頼んできたりしてさ、そういうの、三井も感じてたよね?」
……まーな」
「でも今そんな目で見る人いないじゃん? なんかそれってすごいことだなあって思ってさ」

むしろ今はそんな目で見るどころか、ちょっとしたスター扱いである。しかもずっと長い髪やマスクで表情を覆い隠して睨みつけてくるだけだった三井が髪を切ると、ずいぶんと小奇麗な顔が出てきた。近寄りがたいのは変わらないけれど、女子たちは一時期それで大いに賑わったものだった。

「三井がプロになったかどうかって、どうやって調べればわかるの?」
「えっ、いやそれは……てか別になれるかどうかは」
「えー。だってプロなら試合とか見に行けるでしょ」
「別に大学の試合だって見られるのあるぞ」
「そんな専門的なところはハードル高い。金払って客で行く方が気楽」
「なんだよメンタル弱えーな」
「そうだよ、全然激弱だもん」

ふたりして鼻で笑い合うと、三井はポケットから携帯を取り出した。

……試合、見られるのあったら、連絡するよ」
「えっ、いいの!? まじで!?」
「何だよ、だったら去年も見に来ればよかっただろ」
「しょうがないじゃん。いつどこで何やってたのか私たちには何の情報も」

確かに何月何日にどこでバスケット部が試合しますから応援に行きましょう! なんていう空気ではなかった。5月からこっち、バスケット部は目覚ましい躍進をしたけれど、のような生徒がそれを知るのは夏休みが明けてからだった。以後、校外で行われる公式な試合は数えるほどしかない上に、ほとんどが平日で授業のある時間だった。

……夏、すごかったんだぞ、オレたち」
「オレ『たち』? 三井がそんなこと言うの珍しいね」
「いやっ、それはその、団体競技だから」

連絡先を交換すると、はその画面をきらきらした目で見ていた。の目の中にストーブの炎が踊り、輝くフィルターでもかかっているみたいだ。三井はそれをじっと眺めている。

「それも見てみたかったけど、これからもすごいんでしょ?」
……まーな」
「えへへ、三井の連絡先知ってる女子とか少ないよね? やばい、バレないようにしな――

ニタニタしていたは急に言葉を切ると、体をブルリと震わせ、続けざまに3回くしゃみをした。

「ご、ごめん。てかまずここから生きて帰らないとねー。朝まで持つかな、この毛布だ――

はまた言葉を切って息を止めた。くしゃみでむず痒くなった鼻をこすっていたと思ったら、三井の両腕の中に抱き寄せられていて、彼の毛布でくるまれていたからだ。は息を止めたまま固まる。が突き飛ばしてきたりしないので、三井はもう少しにじり寄って腕を狭める。

……ちょっとは違うだろ」

はややあってから我に返り、ぎゅっと身を縮めた。

……わ、私は暖かいけど、三井は寒いんじゃないの」
「そんなこともないけど」

言いながらまた三井が腕を狭めたので、はそのまま足を崩して三井の肩に倒れ込んだ。

「い、いいのかな、こんな」
……別に、ダメなことは何もないだろ、誰もいないんだし」
「そ、それはそうなんだけど」
……隙間、あると寒い」
「えっ」

あまり密着してはマズかろうとは背筋を伸ばして体を反らしていた。その結果、毛布にくるまった状態で向かい合ったふたりの体の間には微妙な隙間が出来ていた。すっかりくるまっているのでひとりよりはよっぽど暖かいけれど、その隙間に上から容赦なく冷気が流れ込む。

「え、えーと、いいの、かな?」
「早く」

三井の声に肩をびくりと強張らせただったが、スッと息を吸い込むと、毛布を被り直し、三井にもかかるように持ち上げてからするりと抱きついた。三井は改めて腕を組み換え、を毛布ごとぎゅっと抱き締めた。

ふたりとも薄着なので、お互いの温度がダイレクトに伝わる。相手の心臓の音まで聞こえそうな距離だけれど、自分の心臓のドクドクいう音でよく聞こえない。抱き合っているので、耳にかかる相手の息遣いとその音がやけに大きく聞こえる。

は三井の言葉を反芻していた。誰も、いないんだし――

だから、ぎゅっと抱きついて目を閉じた。

……人肌って本当に、暖かいんだね」

それに応えるように、三井の唇がこめかみに触れた――ような気がした。

それからどれだけ経っただろうか、ふたりは言葉もなく抱き合っていたのだが、しばらくするとは本当にこめかみに柔らかい感触を感じて目を開けた。明らかに三井の唇がこめかみのあたりを彷徨っている。たまに漏れ出る吐息が熱い。

ええと、これはどうしたことだろう……

あまりに非日常的な時間が長く続いているので、は自分が現実感を失って普段より冷静さを欠いているという自覚があったのだが、それでもこめかみの辺りでふらふらしている三井の唇には正直疑問を感じた。頭の中をクエスチョンマークが大量に駆け抜けていく。

にとって三井はもう「自分とは住む世界が違う人」だった。

入学したての頃はもちろん、ヤンキー時代も親しいと言うほどではなかった。ただがヤンキー慣れしているせいで、声を掛ける機会が多かっただけ。ヤンキーを怖がらない女子にありがちな「実はずっと心配してるんだゾ!」なんていう甘酸っぱい意識もなかった。

そして更生後はもっと遠い人になったと感じていた。突然髪を切って登校してきたと思ったら、毎日朝に晩に練習に精を出すようになってしまった三井。彼に同級生たちが気軽に声をかけられなかったのは、ヤンキー時代の記憶が抜けないだけではなかった。

そこにいたのはかつて神奈川でナンバーワンの称号を与えられた優秀な選手だったからだ。

それを証明するように、夏休みの間には日本一の強豪校を破るという快挙を成し遂げ、新学期になって初めてそのことを知ってざわめくたちをよそに国体にも出場し、そこでスカウトされて推薦入学まで手に入れてしまった。

彼がほんの数ヶ月前まで喧嘩に明け暮れたヤンキーだったなどということは、実に些細な問題だと感じる生徒も多かった。というか、あいつが激しくグレてたことの方が、なんだか夢みたい。目の前にいる彼が、別の意味で近寄りがたくなってしまった。

それは本人も自覚があるはずだ。推薦入学が決まるや否や、彼はそれまでもほとんどしていなかったに等しい勉強をさらに投げ出し、テスト前になると引退した副部長に追いかけ回されていたくらい、三井の2学期は9割方バスケット部だった。彼の目には他のことは映らないように見えた。

そこに「今までお互い敬遠していたクラスメイトたちと距離を縮める」などという余裕はなかったし、縮めたところで卒業は目の前だ。友達なら堀田たちがいるし、その他のことは全て進学していく彼には必要のないものだったはずだ。例えば新たな友達、例えば、彼女。

それは新天地で、新たに三井のフィールドとなる大学で見つければいいもののはずだ。が通うことになっている素朴な私大と違って、三井が乗り込んでいくのは、名前だけなら誰でも知っているレベルの学校だからだ。

そうした「事実」を積み上げてゆくと、このこめかみの辺りで遠慮がちに、しかし何か目的を持ってふらついている様子の三井の唇には疑問しか出てこない。それはやがて、少しの悲しさとともに、ほんのりとした苛立ちに変わった。

……どしたの?」
……どうしたのって」

が顔を上げると、目の前に三井の顔があった。薄っすらと頬が赤らんでいるように見えたのは気のせいだろうか。ストーブの中でごうごうと燃え盛る火の色だろうか。三井は答えず、そっと顔を寄せてきた。俯き気味の顔同士、額が触れそうな距離にある。

そして、の体を抱き締めていた腕が緩み、指が頬に触れた。その途端はまた体をビクリと強張らせ、思わず身を引いた。

「ど、どしたのほんとに。やっぱり背中、寒かった?」

は自分の毛布と三井の毛布でくるまれているけれど、三井の背中は彼の分の1枚しかない。それをダシに茶化してみただったが、三井は真顔のまま動かない。しかも、

……離れると寒い」

そう言ってもう一度を抱き寄せようとした。は思わず腕を突っ張って押し返す。近付いてきた三井の顔が少し傾いていたように見えたからだ。そのままのコースを維持していたら、それはまるでキスでもするんじゃないかというような角度で――

……
……えーと、あれかな、三井はそういうの、よくあることなのかもしれないんだけどさ」

そしての思考は自虐を孕んで暗転していく。

「あはは、私、遊び慣れてないんだよね。だから、こーいうの」
「オレも遊び慣れてなんかいないけど」

そう言いながら三井の手が腕に触れたので、は上ずった声を上げた。

「そっ、そうなの? じゃ、じゃあもしかして、進学する前に卒業しておかなきゃとかそういう」

の顔に触れようとしていた三井の手がピタリと止まる。

「あれっ、やっぱそういうこと? で、でもさ、そういうのって、違くない?」
「そういうことって……
「嘘じゃなく私もそーいうの経験ないから、そーいうのはやっぱり、ちょっと、困るなあ、なんて」

上ずったり掠れてみたりを繰り返す声は次第に震え始め、それを飲み込んだの喉がゴクリと鳴る。の顔に触れようとしていた三井の手は膝に落ちて、そしてまた手を取って緩く包み込んだ。の腕もまたギクリと強ばる。

……すまん、『そういうの』って、どういう意味?」
「だから、その……進学する前に、後腐れなさそうな女で童貞捨てたいのかなって」

俯いたままか細い声でが言うと、そのまましばらく沈黙が続いた。

に思いつく「可能性」なんて、その二択くらいなものだった。ひとつは三井はこうした「その場限り」の関係に慣れていて、またそれを特に疑問に感じないという可能性。もうひとつは、ちょうどいいところに現れた「練習台」という可能性。

前者はグレていた頃を考えると傍目には無理がないように感じる。実際のところ三井はチャラチャラと軟派に女遊びをしていたと言うよりは「硬い」グレ方をしていたわけだが、それでも少なくとも町で仲間と徒党を組んで深夜でも徘徊していた。慣れていたとしても不自然ではない。

後者はその「硬い」グレ方をしていたせいで、またなぜか律儀に学校に通って3年生に進級していた割には同類であるグレた男友達とばかり群れていて、少なくとも校内では女の影はなかった。そんな状態のまま進学するのはかっこ悪いと思ったかもしれない。一度でいい、既成事実さえあれば未経験と言わなくて済む。意外に感じるところもあるが、考えられなくはない。

それ以外の可能性なんて、候補に挙げることすら思いつかなかった。

なので、緩く包まれた手を握り返すことも出来なかった。

……どっちも、違うけど」

またギクリと体を強張らせたは、その三井の声がやけに甘く聞こえて身を縮めた。なんか変だよ、三井ってほら、未だに目付きが悪くてさ、ぶっきらぼうで愛想なくて、男子とはバカ話とかしてるけど、女子とはそういうことあんまりしないし、なのになんでそんな甘ったるい声出してんの!?

それとも私がそういう風に聞こえてるだけ!?

だが、その三井の甘い声はぼそぼそと続ける。

……どっちも違うけど、どっちもちょっと合ってる、かもしれない」

意味のわからなかったはつい顔を上げた。三井は俯いたまま少し顔を逸らしていて、しかしの手を緩く包み込む手に少しだけ力を込めた。

「思った以上に、オレは湘北に未練があるかもしれなくて、今ずっとふたりで話してて、やっぱりそうかもなって思い始めて……実は、未練よりも後悔の方が、多くて、ワルぶって遊んでた頃もそれはそれで楽しかったはずなんだけど、そういうの全部、無駄な時間だったって、思ってて」

話が明後日の方向に流れたので、は苛立ちを忘れて三井の目を凝視していた。何の話……

「でもそれってバスケのことだけで、高校生活については何の感傷もなかったと思ってたんだけど、もしかして、こういうことも、あったのかもしれないって……

話は見えないけれど、はつい口を開いた。

「こういうこと?」

途端に三井の顔が戻ってきたので驚いただったが、三井があまりに真剣な顔をしているので、その目に吸い込まれるようにして息を止めた。

「同じクラスの女子のこと、いいなと思って、ふたりになって、距離が、縮まること――

徐々に近付いてくる三井の顔、凝視していた目が視界いっぱいを埋め尽くす。は言葉の意味をするりと飲み込んで、思考を止めた。可能性は、どちらも不正解。それが嘘である可能性は依然ゼロではないけれど、燃え盛る炎が踊る三井の目は、嘘をついている人のようには見えなかったから。

ふたりは初めて寒さを忘れ、そしてそのまま、静かに唇を重ねた。