昨日の嘘

4

「ほんとに、ほんとになんて言ったらいいか……!」
「いやいいよ、何事もなく終わったんだから、それだけでよしとしようぜ」
「だけど木暮が機転を利かせてくれなかったらどうなってたか」
「自分でもよくまあ頭が回ったもんだと思うよ」

翌日の朝、は木暮の教室まで来て頭をぺこぺこと下げた。昨夜はふたりとも疲れてしまって、をさっさと送り届けた木暮はの自転車を借りて帰った。体は疲れてなどいないが、いわゆる気疲れである。

「チャリ、西口の駐輪場にとめておいたから。これ駐車券と鍵」
「ありがとう。ねえ、木暮って夜中勉強する派?」
「いや、決まってないけど。昨日も帰ってから2時間くらいで寝ちゃったしな」

少し視線を外したは小さく頷くと、少し顔を寄せて声を潜めた。

「そしたら、今日20時頃出て来れない?」
「いいけど、どうした?」
「黙ってご飯奢らせて。私の気が済まないから。とりあえず公園口のセガフレードね」
「ええー、いいってそんな――
「いいから! 行き場のないバイト代が燻ってんの!」

迫力のある理由に木暮は押し切られてこくこくと頷いた。木暮が頷くとはにっこりと笑った。

「よしよし、食べたいもの考えておいてね。おやつとか食べて来ないでよ」
「わかったわかった」
「あれ、どうした」

木暮がに押し切られていると、の後ろから赤木が顔を出した。赤木の場合、テスト期間中でも朝は自主的に練習をしてくるので、登校は遅い。自己管理の鬼はのりしろのない生活が当たり前になっていて、それにストレスを感じなくなっているという修行僧状態だ。

「おー、おはよー。いやー、また昨日木暮に助けてもらっちゃってさ」
「またなんかやったのか」
「てほどでもないんだけど。それでこうして平身低頭で感謝しに来てたところ」
「とてもそうは見えねえな」

真面目な顔で突っ込む赤木にはへらへらと笑って見せた。今日の夜、食事を奢るんだなどとは、言い出さない。木暮はそれに思い当たると、鳩尾の辺りがキュッと軋むのを感じた。赤木には、内緒なのだ。助けたお礼というだけだけれど、内緒なのだ。

それはなんだかとても嬉しいことのような気がした。

20時を少し回ったところで木暮は待ち合わせの場所に着いた。既には来ていて、木暮の姿を見つけると手を振った。おそらく初めて見る私服姿だった。

「遅れてごめん」
「いやまだ20時4分だよ」

木暮も少し着ていくものを迷ったのだが、着飾って出かけるには時期が悪いし、そもそも着飾る必要もない。例の「変T」でなければいい。もそんなようなものだった。ただ、の向かいに座る時に見えた足元がヒールのあるパンプスで、それに少しだけどきりとした。

元彼くんは中身だけでなく外見も幼いのに、その隣ではこんなパンプスを履いていたのだろうか。

「何食べよっかー」
「安いのでいいよ」
「私は安物なんか食べたくないけど」

燻るバイト代をバラ撒くつもりらしいは木暮の気遣いなど意に介さない。

「遠慮する気持ちはわかるけど、あのさ、ごめんね、要するにさ、パーッとお金使っておいしいもの食べてスッキリしたいんだ。それに付き合って欲しいんだけど、どうかな。テスト前だってのに強引に連れ出したので、私が奢るってことならどう?」

木暮にお礼をしたいというのももちろんあるが、これも正直な気持ちだっただろう。ひとりではちょっと恥ずかしいし、それなら木暮に奢ってお礼も出来て、一石二鳥。そんなところだろう。

……わかった。じゃあに任せるよ」
「何も食べたいものないの? 好き嫌いは?」
「平気平気。の行きたいところにしなよ」

まあいいか、という顔をしたは、国道沿いのちょっと高めファミレスに行くと言って席を立った。そもそも駅前はふたりとも小学生の頃からの地元最寄り駅。誰かに見られて勝手な憶測をされても面倒だ。少し歩いて国道沿いまで出れば、もう別の中学の校区になる。

結局木暮はの奢りでたらふく食べてしまい、このまま帰ったら強烈な睡魔に襲われるのは必至という状態になってしまった。中間初日まではまだ時間はあるけれど、部活のためにも手は抜きたくない。そう言って木暮はを徒歩で送って帰ることにした。

「歩くとどのくらいになる?」
「私の足で1時間かからないくらいだと思う」

が疲れてしまうかとも考えたが、そんなこともないらしい。はすたすたと歩いている。駅まで戻ってバスなら30分で着くだろうが、まあいいだろう。木暮は無駄に膨れた重い腹をさすりつつ、の歩く速度に合わせて歩き出した。

「なんかこの間から送ってもらってばっかりで、ごめんねぇ」
「オレには遠慮するなとか言うくせに。送るくらい慣れなよ」
……そっか。まあそうだよね、木暮なら安心だし」

安心? その言葉が心に引っかかってしまった木暮は、ははは、と作り笑いをする。はきっと深い意味でそんな言葉を口にしたわけではないだろう、特に意識しないで選んだ言葉だっただろう。それはよくわかっているのに、木暮はちくりちくりと胸が痛む。

「木暮って、大人受けもよさそうだしねえ」

深い意味などない。そう自分に言い聞かせるけれど、どうしても頭から離れない。自分が安心なのは、何についてのことなんだろう。自分なら「何が」安心だというのだろう。

「それは赤木くんも同じなのかもしれないけど、気をつけないと赤木くんには説教されそうだし」

なんで今赤木が出てくるんだ? 赤木の話なんか、しなくてもいいじゃないか。ここは今教室でも部活でもないんだし、今目の前にいるのはオレなのに。

ただでさえ重い胃を抱えた木暮は、の言葉がさらにずっしりと伸し掛かってく来るような気がして、また腹をさすった。どうもこのところのことになると思考が濁ってしまい、モヤモヤする羽目になる。四六時中頭を悩ませるほどではないから放置しているが、それにしても今日はやけにの言葉が重い。

「元彼がアレじゃあ私の人を見る目なんてゴミレベルだけどさ、木暮、中学の時から変わらないもんね」
「そんなこと、ないよ」
「えっ、そう? まあ確かに背は伸びたよねーにょきにょきと」

楽しそうなを見ているともっと胃が重くなる。木暮は適当な返事がし辛くなってきた。

「そうそう昨日もさ、咄嗟にあんなこと言ったけど、そう考えると私、元彼の何がよかったんだろうって今更ながら疑問になっちゃって……。のぼせてただけなのかな。やっぱりもっと早く気付けって話だよね」

勉強が出来てバスケで背が高くて。色々細かいことを省くと一応そういうことになる。それをは「比べるまでもない」と言った。咄嗟に頭がフル回転しただけの方便だと何度も何度も言い聞かせているのに、木暮は頭がぼうっとしてくるのを感じていた。オレは、元彼くんより、かっこいいってこと?

「判断力ないんだなーって、よくわかったよ。ヤンキーにも突撃しちゃうし」
「判断力、ね」
「やっぱ、ないよね私」
…………ないね」

国道を逸れたひと気のない住宅街で、木暮はの腰に手を回すと勢いよく引き寄せ、顔を近付けてぴたりと止めた。は真顔で固まっている。街灯の鈍い明かりの中で、木暮は声を潜める。

「オレは全然安心じゃないし、変わったのは身長だけじゃないし、、全然わかってない」

そんな風に無害な男だと思われるのも、嫌だった。

「気晴らししたいのはいいけど、お礼だからってオレを誘う? オレなら何にもしないと思ってた?」

驚いて浮き上がったままだったの両腕が静かに下りてきて、木暮の腕に、胸にそっと触れる。

「そう思ってたんなら、やっぱり判断力、ないよ」
……なくてもいいや」
「え?」

ぼそりと呟くと、は手を伸ばして木暮の頬を引き寄せ、そのまま唇を押し当てた。今度は木暮の方が固まった。あんまりの言葉が胃にもたれるから、ついブチ撒けてしまったのだが、何かするより前にされてしまった。けれど、唇が触れたと同時に細かいことは全て吹き飛んだ。

……また失敗かもしれないぞ」
「そっちこそ」
「オレは判断力あるから」
「じゃあいいじゃん。……木暮がいいなら、昨日の嘘、本当にしてよ」

実は4月から付き合ってることになっていたらしい。その嘘を、咄嗟についた嘘を本当に。木暮は言葉で答える代わりに、もう一度キスして、そして強く抱き締めた。

「オレも判断力ないかも」
……どういう意味よ」
「もうどの辺から好きだったのかよくわからないし」

を好きだと自覚した瞬間など覚えがない。それでもこうしてを腕に抱いてぴたりとくっついていると、を好きだということ、それは間違いないと思う。咄嗟に出てきた昨日の嘘も、ただの思いつきなんかではなくて、そう装いたかったのかもしれない。

ヤンキーと対峙していたを助けに入ったあの時から始まっていたのかもしれない。を女の子扱い出来てないと言われて、じゃあどんな風にしたら女の子扱いになるのだろうと頭を悩ませたのも、を女の子扱いしたかったからなのかもしれない。

変なところで、気付かない内に落ちたんだなあ。木暮はあまりに自覚のない恋に頬が緩む。

「何笑ってるの」
「いや、確か知り合ったのは中2の時で、まさかこんなことになるとはと思って」
……後悔しない?」
……しそうにないけど」

木暮はの髪を指で梳きながら、また鼻で笑った。

「あのさ、怒るかもしれないけど、なんだかよくわからないけど好きなんだよ」
「怒らないよ。私もなんかそんな感じだから」
「そっか、ならいいや」

お互いなんだかよくわからないと言いつつ、ふたりは吸い寄せられるようにもう一度キスして、ちらちらと点滅し始めた街灯の明かりを遠くに見ながら身を寄せ合っていた。

「なんだよ、やっぱり付き合ってたんじゃねーか」
「いや、あの後なんかそういうことになったんだよ」
「なんかって、そんな曖昧でいいのかよ」

再度が持ってきた差し入れを部室で広げているのは、木暮に加えて赤木三井の3年生3人である。もう木暮ひとりにだけ差し入れしても困らないはずなのだが、少々お節介焼きの気があるはまた部員全員が食べられる量を作ってきた。燻るバイト代の新たな使い道だ。

もちろん木暮もこんなことに使うのはもったいない、自分の欲しいものに使えと言ったのだが、元彼くんと一緒にいたいがためにしていたアルバイトで稼いだ金は、途中から結婚資金のつもりで貯めていたらしく、どうにも清浄な金という気がしなくて嫌だと言われてしまった。

「まあ、曖昧でも上手くいってんならいいんじゃねーの」
「元々その場凌ぎの嘘だしな」
……何笑ってんだ、赤木」
「いや、別に」

納得した様子で頷きあっていた木暮と三井を交互に見つつ、赤木は口元を覆って声を殺して笑っていた。

その場凌ぎの嘘、だって? ヤンキーに張り倒されて転がっていったを見て、真っ先に飛び出して行ったのは誰だ。あまり関わりたくないと思っていたのに、そのせいで2年生3人を張り倒す羽目になった赤木は、それを思い出して我慢が出来なくなったというわけだ。

嬉しげに頬を緩めている木暮に、それが少し羨ましそうな三井を見ていると、今にも大声で笑ってしまいそうだ。まあでもそれは、木暮の幸せそうな顔に免じて言わないでおいてやる。そしてまた赤木にとっても友人であるのためにも。ふたりが手を取り合うことになったのは、素直に嬉しかった。

まあそんなことは言ってやらないがな。

しかし口元が歪むのを抑えきれない赤木を、木暮と三井は心配そうに眺めていた。

END