昨日の嘘

3

要するに、コドモ扱いとは「異性として意識していない」ということになるだろうか。

傷の手当てを受けながら頭を抱かれて優しく撫でられた木暮は、ああこれが「コドモ扱い」で、が木暮を「男」だと思っていたなら絶対にしないことなのだろうと気付いた。そうしてひと月ほど前の自分を思い出してみると、なるほどを「女の子扱い」はしていなかったかもしれない。

傷の手当てとはいえ、の膝にも腕にも躊躇なく触れたし、送って帰るにしても、ひとりだけ空席に座らせたり、手を貸してやる時もためらう意識はまるでなかった。

とはいえと木暮は付き合っているわけではないのだし、今のところも木暮もお互いが好きなわけではない。だからそんな特別な意識を持たなければならない理由はない。意識しなくていいし、なんならコドモ扱いの方が接し方としては正しいのかもしれない。

だが、少なくとも「コドモ扱いされている」と感じてしまった木暮はショックを受けていた。

コドモ扱いされているということよりも、突き詰めれば異性として意識されていないということが想像以上につらい。自分はに対して「女の子扱い」をしなかったかもしれないが、には自分はちゃんと「男」なのだと意識して欲しいと思ってしまった。

それは即ちのことが好きということだろうか。

だが自問する木暮はその問いの答えはあまりはっきり見出せなかった。好きだとか愛してるとかいう以前の問題で、自分が思いを募らせていくのではなくて、そんな風に思って欲しい思われたい、それを受けて自分がどうするのかは、また別の話。それが正直なところだった。

だが、真面目な木暮にとってそれは大変なゲス野郎である。それに思い至ると、木暮は無意識にため息をついた。しかしため息をついたのは部活終わりのラーメン屋で、バスケット部に復帰した三井が腹減ったと騒ぐので付き合っていた時のことだった。

「疲れたのか? 珍しいな」
「え!? あ、いや、そういうわけじゃないんだけど」
「なんだよ悩みか? お前のことだから家は問題なさそうだし、勉強も別に、部活もこの通り」

水をくいっと傾けた三井は一本ずつ指を折る。そうして消去していけば後に残るのは――

「女か?」

まあそれしかあるまい。意外そうな顔をした三井だが、笑ったりはしなかった。

「いやそういうわけじゃ……
「そういやこの間保健室にいたの、だったよな」
「ああ、姐さんに捕まってたらしい」
「仲良さそうだったじゃん。付き合ってんだっけ?」
「はは、まさか」

三井があまりにもさらりと話を進めるので、木暮は苦笑いするしかなかった。

「違うのか? それにしちゃ――
「赤木とは中学も一緒だから」
……そっか。ま、いーけど」

三井は納得していない様子だったが、あまり詮索せずに、視線を外して呟いた。

「意地んなっても、何もいいことないぜ。オレみたいになっちまうぞ」

インターハイ予選が始まり、湘北は昨年までの戦績が嘘のように快進撃を続けている。しかしその間にも中間テストはやってくる。ということは体育館が使えない。中間の勉強もしているが、普段バスケットばかりやっているので、1日中机に向かっていると足がむずむずしてくる。

木暮はある程度勉強したところで、息抜きと眠気覚ましを兼ねて外へ出た。動いていないのに夜食を取ると体が重くなるので食べたくはないのだが、なぜか腹が減る。なので少し走ってコンビニに行こう思った。出しなに携帯を確かめると、21時前というところ。早くも遅くもない、いい頃合だった。

少し遠回りをして30分ほど走り、夜の闇に煌々と輝くコンビニにたどり着いた。ハァハァ言いながら入店するのもなんなので、少し息を整えてから入る。ただの惰性の食欲なので、何を食べようか迷う。木暮はしばらく店内をウロウロしていたが、雑誌のコーナーを通り過ぎようとして足を止めた。窓の外にがいたのだ。

!」

店を飛び出した木暮は、制服のの後姿に声をかけた。

「あー、木暮だ」
「どうしたんだ、こんな時間に」
「木暮こそ」

木暮が事情を説明すると、は自分も何か買うと言って店内に入っていった。木暮も後を追う。

「バイト……は辞めたんだよな」
「うん、今日はバイトじゃなくて野暮用」

木暮は夜食を、はプリンを買って店を出る。は何も言わずに自宅の方向に足を向けるし、木暮もそのままついて行く。の家からならまた少し走れる。コンビニ袋をぶら下げては少しうるさいが、ダッシュする必要もないのだし、遠回りは問題にならない。

「勉強の合間にランニングとか自己管理の鬼だね」
「そりゃ赤木だよ。オレは別に。腹減ったし、眠くなってたから」
「ていうかいつもの変Tはどうしたの」

は笑いたくて唇が歪んでいる。木暮と同じクラスになったことのある生徒にとっては、木暮は部活で変なTシャツを着用しているイメージが強い。「木暮の変T」と呼ばれて、ある種のクラス名物になる。

「あれなー、もらいものでもったいないから着てるだけなんだよ。どうせすぐダメになるし」

それとは打って変わって、黒のフィットしたTシャツに反射素材のラインが入ったジャージの木暮は少し大人っぽく見える。はうんうんと頷きつつ、歴代の変Tを思い出し笑いしている。

その時だった。のバッグの中で携帯が鳴り出し、一度は取り出しただったが、画面を確認するとすぐにバッグの中に押し込んでしまった。携帯は鳴り止まず、ずっと鳴り続けている。

「出なくていいのか」
「うん、いいの。出たくないから」

はそう言うが、一旦は止まってもしつこく何度も着信が繰り返される。とうとうは電源を落とした。

……大丈夫か?」
「んー、あんまり大丈夫じゃないかも」

はげんなりした顔で俯いた。密接ではないものの、それなりに長い付き合いのがこんな風に不貞腐れた表情を見せるのは珍しい。木暮のことを自己管理の鬼と茶化したが、自身も要領はいい方だ。

……ねえ、これって、送ってってくれてるの?」
「そのつもりだけど」
「私のどうでもいい話、してもいい?」

木暮の自宅からは遠回りして30分ほどのコンビニだが、の自宅からは40分はかかる。そんな場所を「野暮用」でこんな時間に通り過ぎたのだから、そりゃあ何かあったのだろう。木暮はささやかな興味と共に、調理部のおやつを食べたかったと言った時のの笑顔の理由がわかった。

「話すのがオレでいいなら、いいけど」
「うん、ありがと」

おやつでも話を聞くのでも、必要とされるのは嬉しいのだ。

だらだらと歩きながら、は彼氏が過去形になったいきさつを話し始めた。元彼は2コ上、木暮も名前と顔だけなら知ってる。北村中出身だ。どんな人物かは知らなかったけれど、ともかくそれとはもう3年以上前から付き合っていたという。

「今思うと、かなり『自分に合わせろ』って人で、しばらく私はそれに気付かなくて」
「中3の時じゃ無理もないんじゃないのか」
「まあ付き合うだけならね、それで済むんだけど」

結果としては元彼と同じところでアルバイトをするため、ランクを下げて湘北に入った。それを決めたのが中3の秋だった。彼氏と一緒にいるためには出来るだけシフトを入れなければならない、そのためには楽な高校に入らなきゃいけない。

「横で木暮と赤木くんがバスケに専念したいんですって力説しててさ、今思うとほんとに恥ずかしいんだけど」
「オレたちもずいぶん言われたけどなあ、スポーツで食っていけるわけないとかなんとか」
「何て言われたって、あの頃そんなの頭に入らなかったよね」

木暮は当時のことを思い出しながらうんうんと頷いた。15の決意は固い。

「去年の秋まではそれでも順調だったんだよ。進路も結婚前提で考えてたくらいだったんだけど」

去年の秋、バイト先により1つ年下の可愛い女の子が入ってきた。早い話が、浮気されて捨てられた。しかも年明けまで二股期間があり、はそれに全く気付かなかった。

「クリスマスも年末年始も会わなくて、そこで気付けよって話なんだけどさ」

苦笑いのにどんな言葉をかけてやればいいのかわからない。そしてその元彼を無性に殴りたい。木暮はそんな衝動を努めて抑える。体育館での襲撃事件の記憶を引っ張り出して、あんなものと一緒になってはいけないと気持ちを宥める。

「しかも向こうの女と会えない時だけ連絡が来てたらしくて、いつのまにか私の方が予備になってた」
「予備って……
「だって言われたもん。『予備にちょうどいいと思ったのに偉そうに』とかなんとか」

は言葉にしないけれど、きっと会うだけではなかっただろう、予備、というのはそういう意味だっただろうと木暮は考える。を好きとも思わないのに、男だと意識されたい自分はとんだゲスだと思ってたけれど、上には上がいた。

「まあでも、100歩譲ってそれはよしとしてもさ、なんで私がバイト追い出されなきゃいけないのって話で」
「え、辞めたのってそのせいで!?」
「そう。なんせ2対1で不利だった。元彼はもう5年も勤めてるし、女の子も可愛かったから」
「だからって追い出すなんて……

それが3月の頭だったという。疲れ果てたは体調不良を起こして寝込んだ。

「インフルじゃなかったのか」
「まーそう言っとけばいいかと思って」

学校にはもちろんインフルエンザだとは言わなかったけれど、誰かに聞かれればインフルだったの、と嘘をついてやり過ごした。木暮もそんな記憶があった。それにしても、身も蓋もない言い方をすると、はろくでもない男のために高校生活を2年ばかり棒に振ったようなものだ。

「もったいなかったな、成績、悪くなかったのに」
「ほんとにね。ただまあ、これがまだ今の時期だったからよかったよ。進路も考え直せる」
「ああ、そうだな。……電話は大丈夫なのか」

突っ込まないでやろうかとも思ったが、ここまで話したのだから、いっそ全て吐き出させてやった方が後に残らなくていい。電話の件もそうだし、「野暮用」の方も同じだ。

「バイト先の忘れ物が今頃出てきてさ。取りに行かなきゃいけなくて、案の定鉢合わせちゃって」
「でももう関係ないだろうに」
「あんな人じゃなかったんだけどなあ。なんか気に入らないって言って色々言われて、逃げてきたら電話がね」
「なんだよそれ」

浮気して乗り換えたというのに、「予備」が自分を離反していったのが面白くないのだろうか。もう木暮も不快な顔を隠そうとはしなかった。はうんざり、といった様子でため息をついている。道はそろそろの家に近付いてきたという頃だった。

「あー……、木暮、ありがとね、ここでいいわ」
「え? もう少し先だろ」
「ここでいいよ。ありがとう」

木暮が突然のことに首を傾げていると、の家の方から誰かがやってくる。木暮がそれに気付いて目をやると、見覚えのある顔だった。の元彼である。向こうは向こうで剣呑な表情のまま近付いてくる。木暮はまた手を上げてしまいたい衝動に駆られる。

だが、げんなりした上に今にも泣きそうな顔をしているを置いていけるわけがなかった。

、実はオレたち付き合ってるんだったよな」
「は!?」
「ちなみに付き合いだしたのは4月から。そういうことでよろしく」

木暮は目をひん剥いているの手を取り、勝手に恋人繋ぎにする。が呆然としている間に、元彼はふたりのところにたどり着いてしまった。その元彼くんは2つ年上だというが、幼くて頼りなさそうに見えた。が木暮と手を繋いでいるのを見て、元彼くんはなにやらまくし立てている。

しかしはそんな元彼くんの言葉があまり耳に入っていないようで、繋いだ手をぼんやりと見詰めている。

「あの、何か用ですか」
「何いってんだよお前誰だし、おい――
の知り合いですか?」
「いやだからお前なんなん」
の彼氏ですけど」

木暮がさらっと言うので、元彼くんはポカンとしている。予備には新しい彼氏など出来ないと思っていたか。

「ああ、もしかしての元彼ですか? もう付きまとわないでくださいね。しつこいようなら通報しますよ」
「ハァ!? 通報とか意味わかんねえし」

淡々と言う木暮の言葉に半ばキレ気味の元彼くんだが、木暮より背が低い上に細身なので、手を出したくとも出せないらしく、両手をぶらぶらと動かしては足を踏み変えている。2つ年上のはずなのでそろそろ二十歳になるのだろうが、これではまるで中学生だ。

「おい、! お前男できたなんて一言も――
「えっ!? ああ、うん、言う必要、ないじゃん。もう何の関係もないんだし」

やっと我に返ったは少し木暮の後ろに隠れるようにして、言い返している。

「関係なくないだろ!」
「いやいや、どう考えてもないよ! 別れたんだし、別の相手、いるんだし。完全に他人だから」
「だからって――
「自分で言ったんでしょ、可愛い子の方がいいに決まってるって。私だってかっこいい彼氏の方がいいもん」

そう言っては木暮と繋いでいる手をひょいと持ち上げた。

「勉強できるし、バスケ部のナンバー2だし、背も高いし。比べるまでもないでしょ」

木暮のスペックを簡単に並べてみる。一応間違ったことは言っていない。は元彼くんが口をパクパクさせているので、気分がよくなってきたらしい。声色が明るくなってきた。だが、湘北の正門でヤンキーと新入生の間に割って入った前科のあるは調子に乗らせてはならない。

、もういいだろ。帰ろう」
「えっ、あ、うん。そうだね」
「いや、待っ――

の手を引いてその場を離れようとした木暮だったが、元彼くんがの肩に手をかけるので、ついその手を掴んでしまった。日々190センチ前後の部員たちを見慣れている木暮からしてみると、女の子のように細くて柔らかい手だった。こんな優しそうな手をしているのに、どうして中身が愚劣になるのか不思議だった。

「触るな」
「はっ、はい……

湘北バスケット部ではシックスマンでも、中高6年間とバスケ漬けで過ごしてきた木暮の握力に、女子のような細い手首の元彼くんが適うわけがない。物理的に不利だとやっと悟った元彼くんは、もうを見ることもせず、木暮の方をちらちらと振り返りながら去っていった。

元彼くんが見えなくなったところで、と木暮は揃って肩を落とし、大きくため息をついた。

疲れた。