昨日の嘘

2

数日後、は授業が終わると、紙袋を手にこそこそと教室を出てクラブ棟へ向かった。主に運動部の部室が並ぶクラブ棟1階の廊下は、これから部活に出る生徒が徐々に集まり始めている。

バスケットボール部と書かれた表札を確かめると、は素早くノックする。普段なら部員しか入ってこない部室がノックされるということは、部外者の来訪である。少し間を置いてドアが開かれると、中から小柄な男子生徒が出てきた。何事かと思ってドアを開いたら女の子なので、きょとんとしている。

「あのー、3年生、いる?」

バスケット部の3年生は木暮と赤木のふたりしかいないので、知らない顔なら後輩ということになるし、本日のが用があるのは木暮でも赤木でもどちらでもいいので、そう言った。1年生か2年生のその小柄な男子はこくりと頷くと振り返って木暮の名を呼んだ。

「どうした……あれ、、どうしたんだこんな所まで」
「ごめん、ちょっといい?」

赤木はいないようだ。は手招きをして木暮を廊下に引っ張り出した。

「これ、この間のお礼もかねて、差し入れ」
「えっ、嘘」
「ほんと。だけど木暮にだけだと困るだろうから、たくさん作ってきた。よかったらみんなで」

から紙袋を受け取った木暮は、取っ手を広げて中を覗きこんだ。

「大したものは作ってないよ。あんまり凝ってもアレだし、普通のサンドイッチ」
「そ、そうか、ありがとう……なんか逆に悪かったな」
「気にしないで〜おかげさまで傷も調子いいし」

は右腕をサッと掲げて見せる。まだ保護シートは貼られているだろうが、もう痛まないらしい。安心して頬が緩んだ木暮の視界に、ぬっと影が差した。それに気付いたもひょいと顔を上げると、ふたりの真横に赤木が立っていた。

「あー、ちょうどいいところに。差し入れ〜」
「赤木、この間のお礼だって」
「律儀なやつだなあ。そんなこと気にしなくていいのに」

赤木も紙袋の中を覗きこんで申し訳なさそうな顔をした。

「赤木くん、今年いい感じなんでしょ。頑張ってね」
「おう、すまないなわざわざ。ありがたく頂くよ」

照れくさくなってきたのか、は落ち着きなく手を振ると、じゃあ、とだけ言い残して小走りに去っていってしまった。廊下に残された木暮と赤木はまたちらりと紙袋に目を落とす。

「なんかオレ、催促しちゃったのかも」
「まあいいんじゃないか。の気持ちだと思えば」
「そんなに大したことしてねえのになあ」

赤木はやけにくすぐったそうな顔をしている木暮に気付いたが、余計なことは言わないでおいてやった。送って帰る道すがら、木暮は催促するようなことを言ったのかもしれないが、それに応えるだからだ。

の言う通り、紙袋の中身はごくごく普通のサンドイッチであったが、木暮はなんだか喉が詰まり、味がよくわからなかった。パンの味も具材の味もわかるけれど、それら全てが舌の上を通り過ぎていくみたいだった。

それからほぼ1ヶ月ヶ月後に当たる5月初旬のことだった。帰宅部であり、それを見越して早々に文化祭実行委員を押し付けられているは、クラス内での雑用も仰せつかりがちで、この日の放課後も年に一度の男女別保健体育の際に使う資料の余りを返しに保健室に来ていた。

「そういや、先月の傷はどうよ」
「もうほとんどわからないくらい。腕も、ほら」
「おー、きれいになったな。よかったよかった」

保護テープの中で浸出液に浸された傷はすっかり癒えて、今はうっすらと痕が残る程度にまで治癒した。

「んじゃちょっと仕事手伝って行きなよ」
「どうしてそうなるんですか」
「バイト辞めたっつってたじゃん」
「いやそうだけど」

返却された資料の山の中でだるそうに肘を付いていた姐さんは、きれいになったの腕をガッチリ掴んだまま離さない。不服そうな顔をしただが、姐さんの言うようにバイトは辞めたのだし、特に忙しくない。まあいいかと小さく息を吐いて、は資料の山の反対側にパイプ椅子を引きずってきた。

「とりあえず種類ごとにまとめてー」
「姐さんこれ男子用も混じってるけど」
「いいじゃんそのくらい。見てもいいよ」
「見たくないって、そんなの」

男女共用の資料より、男子用女子用の資料の方が多い。は男子用の資料の方にちらりと目をやると、困ったような顔をした。企業協賛の性教育用冊子は至極真面目で、その割にはやけに生々しくて、あまり真剣に目を通す気にならなかった。高校生にもなると現実味がないし、何を奨励して何を抑止したいのかが不明瞭だ。

「へえ、は男の子あんまり興味ない?」
「そういうわけじゃないですけど。彼氏いたし」
「過去形?」
「まあちょっと色々ありまして。こんなんでも」
「根に持ってんな」

姐さんは表紙に赤文字ででかでかとAIDSと書かれた冊子でを突っついた。

はどれだけ突っつかれても詳しいことは話さなかった。彼氏が過去形になったのはあまり遠くない日のことで、なおかつ思い出したいような内容ではなく、人に話しても返ってくる言葉はいつもだいたい同じなので、話したくもなかった。

それから1時間あまり、は資料の整頓を手伝いつつ、姐さんと雑談を続けていた。おそらくこっちの方が姐さんの目的であったのだろう、資料の整理は遅々として進まず、まだかなりの量が雑然と積み上げられたままになっている。しかしお茶やお菓子は出てくるし、姐さんの口も閉じる気配がない。

とうとう姐さんが3月に見合いをしたなどという話にまで発展してしまい、が若干逃げたくなってきた時のことである。急に廊下が騒がしくなったかと思ったら、保健室のドアが乱暴に開かれて、血だらけの男子生徒が大勢雪崩れ込んできた。せっかくまとめた資料の山が崩れて床に散らばる。

「ちょ、また喧嘩!? あっ、三井に宮城、あんたたちまたやったの!? って何人いるのよコレ!」

姐さんは一瞬で沸騰する。は出血量の多さに驚いてパイプ椅子から飛び退き、血まみれを避けるようにして壁際の棚にへばりついた。あまりのことに言葉が出ないの前を、ヤンキーとバスケット部が交互に通り過ぎていく。途中赤木の妹が通り過ぎたのに気付いたが、それでも声が出なかった。

どう見ても殴り合いの喧嘩の末の血まみれのようだが、なぜまたバスケット部なのだ。硬直しているの前に木暮が現れると、に気付いて目を丸くした。彼も頬が少し腫れている。殴られでもしたのだろうか。

「あれ、?」
「木暮、なに、これ」

よく知った顔が現れたので硬直が解けたは、思わず木暮の腕に縋りついた。湘北が未だにヤンキーがうろつく高校であることはよくわかっていたが、こんな現場に遭遇したことはなかった。木暮の腕にかけて初めて手が震えていることに気付いたは、膝も笑っていた。

「ちょっと色々あって、さ。ごめん、怖いだろ、出てた方がいいんじゃないか」

木暮は腫れた頬で静かに微笑み、震えるの手に手を重ねてくれた。木暮の手のひらに包まれて、少しだけ震えが止まる。木暮の言うように保健室は急に殺伐として怖かったが、ひとりで外に放り出されるのも怖かった。思わずぶんぶんと首を振ったの後ろから、今度は赤木が入ってきた。

じゃないか」
「あ、赤木くん……
「具合悪いんじゃないなら、すまんが手伝ってくれ。制服のヤツは触らなくていい。木暮を手伝ってくれ」

木暮は困った顔をしたが、は何度も頷いた。床には血が飛び散っているし、怒声も飛び交うし、その中でなぜか赤木だけは完全なる無傷で、それもなんだか怖い。そんな状態なので木暮の側を離れたくなかった。赤木が制服のヤンキーを威圧しに行ってしまうと、木暮はてきぱきと部員たちの手当てを始めた。

「あ、先輩、この間はごちそうさまでした……
「こんな時に何言ってるの! 他に痛いところない?」
、ハサミあるか?」
「あ、さっき晴子ちゃんに……晴子ちゃんハサミ貸してー!」

10人以上いる怪我人をと木暮、赤木の妹、そしてバスケット部のマネージャーが手分けして手当てしていく。姐さんは特に傷が深い数人の様子を後からやってきた教師たちと話し合いつつ、間に説教を挟んで忙しそうだ。赤木もまだ腕組みで制服ヤンキーを監視し続けている。

バスケット部員たちの手当てがあらかた終わると、特に傷が深い数人の病院送りが決定したようで、教師がカリカリしながら保健室を出て行く。車で送っていくらしい。部員たちが体育館の片付けに戻っていくと、後にはヤンキーたちと木暮に赤木、そしてだけが残された。

木暮はホッと一息ついたの背に手を置いて、話しかけた。

、もういいよ。ありがとな。この埋め合わせは――
「何言ってんの、木暮がまだでしょ」

もういいと言うが、の私物はまだ呻いているヤンキーたちの向こう、姐さんのデスクの上であり、木暮の頬はまだ何も手当てをしていなかった。保健室に入ってきた時より腫れているように見える。は冷蔵庫から保冷材を取り出し、遠慮する木暮の背を押して空いているベッドに座らせた。

そこへ赤木も顔を出して、木暮の隣に腰を下ろした。赤木もやっと一息ついた風だ。

「悪かったな、。巻き込んじまって」
「どうせ姐さんに捕まってたからそれはいいけど……大丈夫なのバスケ部」
「ははは……辛うじて、な」

また困った様子で微笑む木暮の頬にガーゼでくるんだ保冷材を押し当てる。の手にまた木暮の手が重なったので、は保冷材を任せて濡らしたガーゼをアルミのトレイの上で絞る。腫れている辺りを拭ってみたが、傷はないようだった。

「他に痛むところは? まあ明日になるとあちこち出てくるだろうけど……
「そういや頭、このあたりチクチクしてたんだよな」
「このあたり……あっ、切れてるじゃない!」
「それ、宮城担いで体育館出る時にぶつけたやつだろ」

喧嘩と関係なかったらしい。赤木は笑うのを堪えている。

「別に詮索はしないけどさ、赤木くんだけ見事な無傷っていうのが怖い」
「いやオレはあらかた終わったところに来たからだ」
「まあでも普通赤木くんに殴りかかろうとは思わないよね」

今度は保冷材を頬に当てたままの木暮が肩を震わせている。そこへ先ほどカリカリしながら保健室を出て行った教師が数人戻ってきて、赤木に声をかけた。ある意味では被害者でも、騒ぎの場はバスケット部内である。事情も聞かずにご苦労さんとはいかないだろう。赤木は神妙に頷いて立ち上がった。

「あ、赤木、オレも行くよ」
「いやお前は手当てしてもらえ。それにまだ病院送りも残ってるから、それが片付くまでここにいてくれ」

有無を言わさぬ声色でそう言うと、赤木は保健室を出て行った。は病院送りが静かにしているのを確かめると、姐さんに声をかけて頭皮の傷の処置法を仰いだ。まだ沸騰している姐さんは血を洗ってこれ塗っとけ、と軟膏を投げて寄越した。

「ね、ねえ、あれ三井じゃないの、どうしたのあいつ」
「いやほら、あいつ元々バスケ部だろ」
「だけど辞めちゃったじゃない」
……辞めてなかったんだよ。来てなかっただけで、退部届けは出てなかったんだ」

は開け放してあるベットカーテンの陰に隠れてちらちらと病院送り組を見ている。姐さんの投げて寄越した軟膏は未開封で、は病院送り組をこそこそ見つつ、軟膏の箱をこじ開けていた。

……色々、あったんだね」
「ああ、ほんとに色々……あったんだよ」

軟膏を箱から取り出したは、ベッドに座る木暮の傍らに膝をついて傷を探す。傷は耳の上辺りの側頭部にあった。水を含ませたガーゼを当てると、思っていたより出血していた。

は自分の制服に刺してあったヘアピンを取り出して木暮の髪を留め、血を拭う。頬に保冷材を当てていた木暮は、それをぼんやりと眺めている。本当に色々あったんだなと思ったきり、思考がぼやけて気が抜けてしまった。目の前にあるの制服の体が作り物のように見えてくる。

見慣れた湘北の女子の制服。けれど、なぜだか初めて見るような気がする。スカートから覗くの膝は確かに生きている人間のものなのに、マネキンか何かのような気がして、不思議な感覚に囚われた。

「それにしても、赤木くんてば高3とは思えない貫禄ついちゃったねえ」

そんなことを小声で話しているの声すら遠くに聞こえて、木暮は無意識に手を上げた。ちょうどの背中、ベストとスカートが分かれるあたりにそっと置いてみる。硬さのない制服のベストがさらりと指に触れた。

「あれっ、痛い?」
「え? あ、いや……
「大丈夫大丈夫、傷、そんなに深くないから。すぐよくなるよ」

そう言っては木暮の肩を引き寄せると、背中と頭をよしよしと擦ってくれた。

「色々あるけどさ、木暮はすっごい頑張ってるんだから、大丈夫」

に頭を抱かれ、こめかみのあたりにおそらくの胸元が触れた。そして、優しいの声を聞いた木暮は、その時一瞬で「女の子扱い」ができていないと姐さんが言う、その意味がわかった。

今まさに、自分が「男扱い」されていなかったからだ。