昨日の嘘

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新学期が始まったばかりの4月だというのに、湘北高校では不穏な空気が立ち込めていた。校内には未だにヤンキーとしか言いようのない生徒が多く、普通の生徒との間でもトラブルが起こりやすい。

それは女子生徒でも同様で、今も正門前で女子4人と男子3人が睨み合っていた。

男子は全員2年生、女子4人は1年生が3人、3年生がひとり。2年生のヤンキーに絡まれていた1年生女子を3年生女子が助けに入ったという状況だった。が、1学年上でも女子なら怖くない2年生は一歩も引かない。それでも3年生の女子は1年生を背に腕組みで2年生を睨んでいる。

部活動のない生徒はすっかり下校してしまった時間帯で、助けに入ってくれるような生徒もいなければ、職員室から遠い正門には教師も見回りになどは来ない。両者の睨み合いはもう5分以上続いている。

さすがに3年生の女子の方も引っ込みが付かなくなってきて、この状況を持て余し始めていた。そこに助けが入ったのは、さらに5分後のことだった。体育館の方から走ってくる一団から怒号が飛んできた。

「邪魔だ!」
「何やってんだよお前ら……あっじゃないか」

先頭は2メートル近い身長で湘北でも名の知られたバスケット部主将の赤木、3年生女子をと呼んだのが副主将の木暮だ。体育館を出てランニングをしていたらしい。正門前は彼らのランニングコースだったようだ。声をかけられたはひょいと顔を上げてふたりに呼びかけた。

「あー、いいところに! バカに絡まれちゃって、助けてくれない?」
「バカって何だ、コラァ!」
「うわ、おいやめろ!」

木暮が声を上げるのと、が2年生に張り倒されたのは、ほぼ同時だった。

「お前なあ、あんなこと言ったら逆上するの当たり前だろ」
「だってムカついたんだもん。声かけてきたのは自分たちの方なのにブスブスって!」
「ボキャブラリーが乏しいんだよ。それくらいしか使える言葉がないんだって」
「別に自分のこと可愛いとか思ってないけど、あんまり連呼するから頭に来ちゃって」

木暮は肩で大きくため息をつきながら傷テープのサイズを確認している。ヤンキーに張り倒されたは派手に転倒、それを受けて赤木に成敗されたヤンキー3人はあちこち痛めて保健室送りになった。ヤンキー3人は赤木に睨まれつつ養護の先生に説教されながら手当てを受けている。

そんなわけでの手当ては木暮がしてくれている。は膝の他に腕にも擦り傷を作っていて、自分では上手に出来そうになかった。文句を言いつつパイプ椅子に大人しく座っているの向かいで、木暮は膝をついて傷テープを選んでいる。

「そりゃ、のしたことは偉いけど、オレらが来なかったらどうするつもりだったんだよ」
「いやあ、何も考えてなかったんだよね」
「今日はたまたまオレたちが通りかかったからいいけど、必ずそうなるとは限らないだろ」

と木暮、そして赤木は出身中学が同じで、木暮に関して言えば昨年度、つまり先月まで同じクラスだったせいもあってお互いあまり遠慮がない。木暮は洗浄したの膝に傷テープをぺたりと貼り付ける。いくつも切っているので、膝が傷テープだらけになっている。

「あー、もう、女の子がこんなに傷だらけになってどうすんだよ」
「それはあいつらに言ってよ。私が悪いわけじゃないもん」

ぷいとそっぽを向いたの視線の先では、まだ不遜な態度を続けているヤンキーを赤木が片手でホールドしているところだ。傷の手当ては済んだようだが、担任が来るまでここにいろと言われて暴れかけたらしい。

、あっちはいいから。腕出しな」
「膝よりこっちの方が痛いんだけど」
「だろうな」

痛みで引きつる右腕をはのろのろと持ち上げる。木暮がそれを支えてくれるが、それも痛い。

「いった! ちょ、あんまり強くしないで」
「そのくらい我慢しろ。あーあもう、どうすんだよこれ一番大きいサイズでもはみ出すじゃないか」

縦に長く傷を作ってしまったの腕を木暮は左右から確認して顔をしかめた。傷が残らないようにと浸出液を出させるタイプのテープを貼りまくっていたのだが、一番大きなサイズのものでも覆いきれない。きちんと覆わないと意味がないので、継ぎ接ぎも出来ない。

木暮の情けない声が聞こえたのか、まだ20代ながら生徒たちに「姐さん」と呼ばれて慕われている養護の先生が顔を上げた。悪態をついているヤンキーのおでこにデコピンをかますと、大声を上げる。

「木暮、こっちに保護シートのデッカイのあるから、それ切って貼って!」
「あ、はい!」

先生の指示での腕には透明の保護シートがぴっちり貼られた。貼られたが、何しろ痛むのでは涙目になっていた。木暮も慎重に手当てをしてくれたのだろうが、上げ下げしても痛むのでどうしようもない。はヒリヒリとした痛みに耐えかねてバタバタと暴れた。

「痛い〜痛いよ〜」
「そんなに深い傷じゃないんだけど、何しろ大きいからなあ。……もうあんなことするなよ」
……だって、1年生の子、震えてたんだもん」
「だからさ、そういう時はが突撃するんじゃなくて、誰か呼びに行け。な?」
……ごめん」
「謝るのはおかしいだろ。さっきも言ったけど、のしたことは尊いよ。ただ手段が間違ってただけで」

すっくと立ち上がった木暮は、項垂れるの頭をぽんぽんと撫でた。そこへ保健室のドアが乱暴に開けられて、ヤンキー3人組の担任と強面の教師数人が雪崩込んできた。ヤンキー3人組はああだこうだと文句を言いつつ引き摺られて行く。赤木はそれを見届けるとと木暮の方へやって来た。

、傷の具合はどうだ」
「赤木くーん、超痛いー」
「だいぶ吹っ飛んだからなあ。たぶん1回転してたぞ」

さらにこの3人、出身中学だけでなく中3の時は塾まで一緒だったので、当時から木暮と赤木はと呼ぶ。

「それじゃ荷物持てないんじゃないのか」
「しょうがないなーもう、ここで待ってろよ、オレ今着替えてくるから。送ってくよ」
「いや、いいよ、部活の途中でしょ」
、こういう時は大人しく言うこと聞けよ。木暮、部室の鍵だけ持ってきてくれ」

軽く頷いた木暮は保健室を出ると走って行ってしまった。木暮と鍵を待つと赤木はパイプ椅子を並べて座り、はなんとかしてバッグを右手で持ち上げられないか試してみた。

「無理だろ」
「無理でした」
「木暮に持ってもらえよ」
「なんか悪いことしたなあ」
「気にするな、乗りかかった船だ」

10分もしないうちに木暮が帰ってきたので、赤木は鍵を受け取ると体育館に戻っていった。はよろよろと立ち上がってパイプ椅子を片付けようとするが、左腕1本ではなかなかうまくいかない。横から木暮が手を出して代わりに片付けてくれる。

「右手使えないんだから、無理するなよ。ほらバッグ貸して」
「左肩にかければ持てるってば」
「いいから言うこと聞けよ、もう」

遠慮するに木暮はまたため息をつく。ふたりのやりとりを見ていた姐さんが吹き出す。

「木暮ー、はそんなんでもレディなんだから、もう少し上手く扱ってやれ」
「そんなんでもってどういう意味ですか!」
「レディならちゃんと言うこと聞けよな」
「木暮、絶対私のことコドモだと思ってるよね」

へらへら笑いながら違うと木暮は否定したが、は信用しない。ちなみに赤木が「赤木くん」で木暮が呼び捨てなのは、実はと赤木は1度も同じクラスになったことがないからだ。むくれたはよろよろしつつも、木暮を置いて保健室を出る。の荷物を肩に担いだ木暮もドアに手をかける。

「木暮」
「はい?」
「こういう時は男が一歩下がってやりな。も頑張ったんだから、今日くらい女の子扱いしてやれよ」
「し、してませんかね」
「あれでしてると思ってるなら、お前もまだまだコドモだな」

ニヤニヤ笑いの姐さんに送られて木暮は保健室を出た。前を行くの後姿は、確かに中学生の頃に比べればすっかり大人びているけれど、それを殊更意識したりもしないし、かといってわざと子ども扱いしているつもりもなかった。そこに「女の子扱いしてやれ」などと言われてしまうと、混乱してくる。

「ていうか、部活やってないだろ。なんであんな時間にあんなとこにいたんだ」

昇降口でに追いつき、靴を履き替えた木暮は首を傾げた。確かは帰宅部だ。

「今日はたまたま。野球部のマネージャーやってくれないかって誘われてて、必死で断ってきたとこで」
「ああ、怪我で退部しちゃったんだよな。野球部も人手がないから必死だったろ」
「気持ちはわかるけど今から部活はちょっとねえ……

1年の時から一貫して帰宅部のは勧誘するのにはうってつけだが、今から入部しても夏には引退することになる。3ヶ月やそこらで部に馴染めるとも思えないし、に限って言えば野球のルールなどさっぱりわからない。覚えた頃には引退になっているだろう。

「バイトだから、だっけ」
「うんまあ、それも先月辞めちゃったんだけどね」

いくら同じ中学出身とはいえ、と木暮と赤木が妙に親しいのは、3人とも中学の時点の学力から考えて随分とランクの低い高校に入ったという共通点があるからだ。その件でまとめて呼び出されて後悔しないかと問いただされたこともある。

木暮と赤木はランクを下げてバスケットに専念できるように、はアルバイトを多めに入れつつ成績を保持していたかったから。そんな理由で中3の秋に志望校を決めたが、学校でも塾でもあまり理解は得られなかった。

「辞めた? 1年の頃からずっと同じところだっただろ」
「色々あったんですよ、こんなんでもね」
「根に持ってるな」

が言葉を濁すので、木暮は茶化して深追いはいなかった。

「でもまあ受験だし、辞めるのがちょっと早くなっただけの話だよ」
「暇になっちゃうんじゃないのか」
「まあ、うん。大人しく勉強でもしてるよ」
「あんまり急に生活パターンが変わるとストレスたまるぞ。ちゃんと息抜きしろよ」
「あーもうまたコドモ扱いして!」
「してないだろ!」

右腕が痛むので、は左手で木暮の腕をひっぱたいた。木暮はまた茶化したりふざけたりしながらも、一体どうすればコドモ扱いではなくて女の子扱いになるのか頭を悩ませた。今のは一応の体調を気遣ったつもりだったのだが、どうやら欠片も伝わらなかったようだ。

が女の子なのはわかっている。だから今日も助けに入った。傷が残ってはいけないと思って、できるだけ丁寧に手当てもした。痛む腕で重いバッグを抱えて帰るのは大変だと思ったから、こうして送っている。それはたぶん男相手ならやらないことだと思う。が女の子だからやっていることなのに。

木暮は腕が痛いとぐずるを宥めすかしながら駅に向かった。

「今年はバスケ部どうなのー」
「いい新人が入ったよ。ちょっと扱いにくそうだけど、即戦力すぎて困るくらい」
「何それー。あっ、そうか、木暮より上手いってことか」
「正直に言うなよ」

電車の中では空席を確保して座らせてやり、段差があれば手を貸してやり、木暮は自分でも不思議なほど姐さんの言葉を引き摺っていて、どの程度が女の子扱いなのか模索しつつ、の家に向かって歩いていた。

「赤木くんも木暮も中学から丸々6年バスケかあ」
「赤木は小学生の頃からだよ」
「スポーツの世界はよくわかんない」
「中学の時は部活強制だったけど……あれ? 何やってた?」

軽く吹き出したはわざとらしく咳払いをして、にやつく。

「んふん! 週1回が魅力の調理部です」
……そんな部あったっけ」
「おそらく部活のイメージがない女子はほとんど調理部だったはずだよ。3学年で100人くらいいたんだから」

その半数くらいは週1回の活動にも来ないので、調理部は一番影の薄い部活動だった。内容は主に金曜の午後に顧問の先生の調達した食材で調理して食べて喋って終わり。調理するものもお菓子や軽食が殆どで、特に料理スキルが上がるようなこともなかった。

「えーじゃあ金曜の帰りにんとこ行けば何かもらえたかもってこと?」
「ううん、全員で食べきる分しか作らないから残らないし、衛生管理上の問題で持ち帰りは禁止」
「それじゃおやつ部みたいなもんじゃないか。少しくらいいいのになあ」
「そんなに食べたかった?」

何も考えずにうんと頷いた木暮だったが、はパッと顔を綻ばせた。それを見た木暮はおやっと思う。今のはどういうことだ? まさかこれが女の子扱いじゃないだろうけれど、空席を見つけても手を貸してもこんな笑顔にはならなかった。

「作ってきてあげたいけど……マズいよね、さすがに」
「催促のつもりはなかったんだ、ごめん」
「なんで謝るのー」

はまだにこにこしている。木暮はまたよくわからなくなりながら、の自宅前まで送って帰った。中学が同じで小学校が違うので、木暮の自宅からは少し離れているが、歩いて帰れない距離ではない。あまり近寄らないエリアなので少し不思議な感じがした。

……あの、今日は本当にありがとね。迷惑かけてごめん。赤木くんにも言っといて」
「気にしなくていいよそんなこと。でももう、ああいうのはやるなよ」
「うん、気をつける」

木暮から左手にバッグを受け取ると、は痛む腕をぎこちなく挙げて手を振った。

「またね」
「じゃーな」

木暮も片手を挙げて、その場を離れた。だいぶ薄暗くなった空の下、まだ「女の子扱い」に頭を悩ませながら。