エンド・オブ・ザ・ワールド

05

ゴツン、という鈍い音と共に全身に痛みを感じたミライは、一瞬わけがわからなくて思考が停止した。

体のだるさ、まぶたの重さ、強張る頬。それが一体何なのかということに気付くまでたっぷり10秒はかかった。そして全てを察した瞬間、彼女は唸り声を上げて体を捻った。

「夢……!」

白っぽく明るい部屋は眩しく、しかし間違いなく自分の部屋だった。ミライはベッドから転げ落ちて目が覚めたらしい。奇妙にねじ曲がってしまった過去を丸く収め、自分の過去とも真正面から向き合えたあの日々はもう、何ヶ月も前のことだ。

そして未来に帰ってきてすぐにユヒトと付き合うことになった。元々幼馴染だし、以来ユヒトとは仲良くやっている。仲良くというか、むしろギクシャクした期間が長かったせいで、少々盛り上がっている。なのでミライは余計に呻いた。今日はユヒトとデート、その後彼の家に行く予定になっているのだ。

付き合い始めて数ヶ月、お互い高校生だしユヒトは部活で忙しいし、しかも幼馴染で親もよく知る関係なので、中々ふたりきりの時間を作れなかった。しかし本日久々にユヒトの父親が出張で不在、ふたりは文化祭の代休で1日予定なし。こんなチャンスはもうない。ふたりは一線を越える約束をしていたのだ。

その朝にこんな夢を見るなんて。ミライはぐねぐねと悶えた。

しかしミライは同時にぞわぞわと背中に恐怖を感じていた。夢なのにリアル過ぎる。時間経過があったことや展開が破綻しないこと、そして今も全身に残る感触はあまりに現実に肉薄していて、恐ろしい。キスの感触だけじゃない、レストランで食べた料理の味もしっかり思い出せる。そんなのおかしい。

さらに鉄男への愛しさまでもが全身を覆っていて、今すぐ彼に抱かれたいという感覚が抜けていない。これも恐怖だ。今日はユヒトに抱かれるはずなのに、今ミライを支配しているのは鉄男への愛情で、いますぐ夢の世界に、あの時の自分に戻りたいという気がしてしまう。

だが、そうやって蠢いていたミライは、ふんわりと優しい薔薇とラベンダーの香りに覚醒、がばりと身を起こすと学習机の上においてあるポプリをひっ掴んだ。その衝撃でまた優しい香りが漂う。一度しか再訪していないが、その時にアンティークショップでもらったサシェだ。

これのせいだ――

ミライはそう直感し、また恐怖に全身を震わせたが、急いでアロマポットを引っ張り出すと、オイル皿の上でポプリに火をつけた。ついでにサシェも燃やしてしまって、燃え尽きたところで窓を開けて匂いを追い出した。新鮮な空気によって薔薇とラベンダーの残り香が薄れていく。

それと同時に夢の感触もどんどん薄れていくので、ミライはこのおかしな夢をもたらしたものがこのポプリだったのだと確信した。タイムスリップ事件からかなり時間が経っていたのですっかり忘れていたけれど、このポプリはあのタイムマシンと同じ店にあったものだ。

ミライの脳裏に年齢不詳のアンティークショップのお姉さんが浮かび上がる。

あの人は、あの店は一体――

しかしそれを突き止めたいとは思わない。もう関わりたくない。ミライはバスルームに駆け込むと、夢の記憶を振り払うようにパジャマを脱ぎ捨ててシャワーを浴びる。さっき浴びたばかりという気がしないでもないが、そこでミライは決断した。今日、ユヒトに全てを話そう。自分が体験したことの全てを。

そして全て話し終わったら、ユヒトと愛し合おう。鉄男ではなく、ユヒトと。それが正しい。

デートの予定だったけれど、ユヒトは元々部活漬けで、どうしても遊びに行きたいところがあるわけでもなく、予定を変更して全部話したいというミライの提案を聞き入れてくれた。父親とふたり暮らしであるユヒトの慌てて片付けました、という部屋でミライは正座をして手をついた。

「だけど先にちょっと謝らせて!」
「えっ、何を」
「私今日変な夢を見たの。ユヒトじゃない人とデートしてラブホ行った!」
「お、おう……
「私夢ん中でその人のことすごく好きだった。本当にごめん!」

涙目でそう言うミライの頭をユヒトはよしよしと撫でてやり、優しく微笑む。彼もこのミライとは10年近い付き合いである。今更そんな程度でネチネチ怒ったりはしない。というかそうでなければミライとなんて付き合えない。

「夢の中のことだろ、今日の約束があったからそんな夢見ちゃったんじゃないの」
「それならいいんだけど、ちょっと様子がおかしい。そのことも含めて全部話すから、聞いて」
「わかったって。今日は時間たっぷりあるんだから、ゆっくり話しなよ」
「ユヒト、私ユヒトのこと好きだからね、私が好きなのはユヒトだからね!」
「大丈夫大丈夫、わかってるから、大丈夫だよ」

涙目を手の甲で擦り上げたミライは、深呼吸をして顔を上げる。

「私――26年前に、タイムスリップ、したの」

「おはよう、ちょっといいかしら」
……おう、あんたか」

バイクショップの店先でしゃがんで作業をしていた鉄男は、頭にぐるりと三つ編みを巻きつけた女性に気付くと手を止めて立ち上がった。まだ営業時間前なのでガレージには鉄男ひとりしかいないが、女性は断りもなく入ってくる。油臭いガレージの中に薔薇とラベンダーの香りが漂う。

「奥様、お変わりない?」
「ああ、何もないが……。何かあったのか」
「ちょっとビーコンの名残が強かったのか……見られたの、過去を」

勝手に椅子に腰掛けた女性は少し申し訳なさそうな顔をして鉄男を見上げた。

「過去って……どれだ」
「あの子の現実と混ざり合って……お見舞いからホテルの途中までよ」
「途中?」
「おっ始める前までね。そこであの子の意識がかなり薄らいだから、強制的に切ったわ」

鉄男は静かに息を吐くと、工具を置いて、いじくっていたバイクに寄りかかった。

「実際のところ、『それ』を体験したのはあの子じゃないんだろう?」
「もちろんそうよ。だけど物質としてはまったく同一の人間だから、過去にアクセスできたみたい」
……何か影響があるのか」
「わからないわ。だから来てみたのよ。奥様に何か異変がないかどうか」
「今朝は特に何もねえと思うが……あるとすれば何が考えられるんだ」

朝の眩しい日差しを避けるようにして、女性は顔を背ける。影が差すと途端に老けて見える。

「それも……わからないわ。私だって全て手探りなんだもの」
「だけどこの17年、異常は出なかったし、あいつらにも気付かれてないし、あの子が戻ってからも――
「だけど歪は消せなかったのよ。わかってるでしょう」

女性は朝日に目が眩んでいるのか、鉄男を睨みあげているのか、眉間にしわを寄せている。

「あなたが愛知で結婚するはずだった女性、4年前にセイトが心中事件を起こした母娘、あの子の祖父」

鉄男もそれを聞きながらしかめっ面をした。聞きたくない、という顔だ。

「何度も干渉して必要なことだけを修正してきたのに、どうしてもどこかが歪む。どうしても綻びができてしまう。それはもう私たちの手ではどうにもならないわ。今回のことも、同じよ。ビーコンに使ってたポプリの香りが媒介になって、意識だけ過去に繋がっちゃったみたいなの」

女性は膝に置いた手を固く握りしめて、吐き捨てるように言う。

「私はもちろん覚悟の上よ。世界を引っ掻き回した結果、その歪に飲まれても後悔しないわ。だけどあなたたちは違うでしょう。この世界で死ぬまで生きていきたい、だからこんなにまで――

感情的になってしまった女性に鉄男は手を上げてまあまあと宥める。

「今更それを言ってもどうにもならんだろう。それを言うなら全ての根源は先輩の件じゃないか。それを修正できなかったんだから、これ以上やりようがあったか? もし何か異変があるようならすぐに報せるし、ここから消えた方がよければその準備もしてある。あんただってそうだろ」

淡々と宥められた女性はため息を付いて椅子に座り直す。

「そう、私がこっちに残らなきゃならない以上はお兄ちゃんのことは限界があるし、あなたはあの腕時計に選ばれなかったしね。あの子が腕時計に選ばれたのは皮肉としか言いようがないわ。ハデスとセイトを葬ることは出来たけど、あとに残ったのはこんな歪みの欠片ばっかり」

そう苦々しく吐き捨てた女性だったが、鉄男はゆっくりと腕を組んで首を振った。

「その歪みの欠片があいつだ。そのことがなかったらオレは協力しなかったぞ」
「わ、わかってるわよ。私たちは共犯だもの、責めてるわけじゃない。後悔もしてない」
「あんたはビビってんだろ。またどこかで欠片が生まれるかもしれないって」
……そうよ。誰かが消えるくらいならまだいいわ。もし世界が崩壊したら……

女性は自分の腕を抱いて苦悶の表情を浮かべたが、鉄男は真顔だ。さっきからいくら女性が不安を訴えても、彼は一切動じない。バイクに寄りかかって腕を組んだまま、身じろぎもせずに話を聞くだけだ。

……あなた、怖くないの?」
「そんなことにビビッててもどうしようもねえからな」
「ま、そうよね。あなたは奥様のためなら何でもするわけだし」
……人のこと言えた義理か」
「私の動機は復讐だもの。種類が違うわ」

自嘲した女性に、鉄男はため息を付いて首筋を掻いた。

「種類が違うから何だ。あんたがオレたちの前に現れた時点で既に2年が経ってた。あいつは19になってたし、今更戻れる状態でもなかった。だから協力もしたし、リスクを抱えた状態で地元に残ったんだろうが」

鉄男は面倒くさそうな顔を隠しもしないでぼそぼそと言う。

「てか、このことで歪みが出るってんなら、もう出てんじゃないのか。あの子はもう見ちゃったんだろ」
……これは私の憶測なんだけど、実は今日、あの子彼氏とセックスするらしいの」
……へえ」
「だけど、なのよ。きっと、そういう欲求があなたの方に向かったんだわ」
「どういう意味だ」
「あの時奥様は自分で自分をふたつに引き裂いた。だから高熱が出た。分岐点もそこ」

女性は宙に指で点を示しながら目を細めた。言いながら考えをまとめているようだ。

「発熱を境に一度世界が歪んでる。今17歳の彼女にとってこの世界は本物であって本物ではない、本物の彼女が選んだのはあなた、だけどあの子はずいぶん腕時計に気に入られてたから、こんなことが起こった。本物の方はあなたと過去に残り、分かたれた方が未来へ帰った。そしてやっと彼氏とひとつになろうとしてる。だけどあなたを選ぶ方が本来は『正解』なの。だから歪んだんだわ」

女性は最後はまた吐き捨てるように言い、視線をそらして腕組みをした。

……つまり、本来ならオレとそういう風になりたいのに、相手が違うから、か?」
「簡単に言えばそう。だけど今あの子が彼氏を大好きなのも真実よ。……妬ける?」
「何が言いてえんだ」
「そういう意味じゃないわ。私、他人を愛する気持ちってものはわからないから」
……先輩はどうなんだ」
「変わらないわ。少し勘が鋭くなってるけど、それでも何も知らない」
「ルイさんは……
「あの女の話はどうでもいいでしょ! 兄とは無関係よ。あなたは大事なのかもしれないけど」
……突っかかるなよ。大事とかそういうことじゃない」
「どうかしら、初めての女性なんでしょ。あの女さえいなかったらこんなことには……
「それはもう何度も試したろ。事件が起こるまで先輩とルイさんはどうやっても離れなかったじゃないか」

女性がすぐ頭に血が上るので、鉄男は徐々に相手をするのに飽きてきた。もしかしたら異変が起こるのかもしれないが、今のところ特に変化はないし、彼女のように怯えても何も解決しない。鉄男は工具を取り直すとため息と共に吐き出す。

「今、変化が起こっていない以上、オレたちは何も出来ないだろ。落ち着けよ」
「私……このままで終われるとは思ってない」
「それも何度も聞いたよ」
「私と、あなたと奥様はいずれ歪みの隙間に落ちるわ」
「それも覚悟の上だ。あんたは復讐を成し遂げたんだし、いつまでもグズグズ言ってんな」

ピシャリと言われたので、女性はサッと椅子から立ち上がり、スタスタとガレージを出て行く。そして入り口で足を止めると、顔だけわずかに振り返って付け加えた。

……これも私の憶測だけど、今日あの子が彼氏と一線を越えることで本体との完全な切り離しが終わるんじゃないかとも思うの。彼氏の方は子供の頃から一緒に育った幼馴染だし、余程のことがない限り、あなたたちみたいに一生離れることはないでしょうし。そうしたらリスクは減るんじゃないかしら。……でも何かおかしいと思ったらすぐに報せて。私が始めたことだもの、歪からは逃げないわ」
「キツい言い方して悪かったな。そっちもまた何かあれば報せてくれ」

女性は頷くと、ガレージを出て朝の光の中に溶けて消えていった。

その日の夕方、ひとりで自賠責保険の書類を片付けていた鉄男のもとに嫁がやってきた。彼女は普段なら夫のバイクショップが閉店するまでは自分が店長をしているカフェにいるのだが、今日は所用で出ていた。手にはスーパーのビニール袋をぶら下げ、携帯で話しながらガレージに入ってくる。

「わかったってば、迷惑かけないようにしなさいよ。え? いいけど別に、だったらお父さんに言うから。当たり前でしょ、父親なんだから。嫌ならこういうことは二度とやらないで。いい?」

彼女は荷物を作業台の上に置き、電話の相手を適当にあしらいながら事務所に入ってきた。

……お疲れ。どうだった」
「なんとか収まったよ〜。まったく……今時殴り合いの喧嘩なんて誰に似たんだか」
「そりゃ両方だろ」
「私、余計なことに首は突っ込んだけど、殴り合いの喧嘩はしてないもん」
「今日も喧嘩してきたんだろ」

鉄男の嫁――ミライは呆れ顔で携帯をポケットに突っ込むと、がっくりとため息を付いた。彼女は今日、午後を丸々潰して次男の中学へ喧嘩しに行ってきた。本人の言うように誰に似たのか、ふたりの次男は血の気が多く、草食の群れの中で喚き続ける肉食に育ってしまった。

「だけどほんと、こういうのは困るわ。私たちが説教できた立場じゃないんだもん」
「一応本人の言い分はおかしかねえんだけど、すぐ手が出るからな……

次男も決してバカではない。その点は長男も同じで、こちらはモロにに似た。穏やかで真面目で少し頑固。だが、次男の方が両親のカッとなりやすいところを受け継いでしまい、親ふたりは何とかしてそれを軌道修正したいと思うのだが、悲しいかな両親はふたり揃って高校中退、しかも父親の方は喧嘩での補導歴をたくさん持っている。次男はそれを知っているので、何を言っても聞きゃしない。

「唯一の救いはこれでも一応お父さんが怖い、ってことだよね」
「怖いの意味がなんか違う気もするけどな」
「怖いのは半分、半分は嫌われたくないんだよねえ」

腕っ節では到底父親に敵わない次男は、母親は完全に小馬鹿にしているが父親には一定の畏れと敬意があって、それだけを拠り所にミライは奮闘している。幸い夫婦の方針はまとまっているので、母親の言うことを聞きたくなくても父親に従えば同じことだ。

「だけど先方の親がまたクソ親でね〜! ウチの子はそんなことしませーん、だもん」
「で、結局?」
「親はほっといて相手の子と話してなんとか収めたけど……あれまたバトるよ」
「どうしようもねえなホントに」
「笑いごとじゃないんだけど! ねえ今日はショウちゃんとこ泊まるって言うから、明日話してよ」
「はいはい」

次男は現在中学2年生で、年が明ければ受験もある。長男は黙っていても勉強するタイプだが、次男は放置していると本当に何もしない。ミライはそれを苦々しく思っているようだが、鉄男はいずれ次男は自分の後を継いでバイクショップをやるのではないかと踏んでいる。なんだか次男は同類の匂いがする。

そして、子供ふたりの顔は揃ってミライに似た。父親に似ているのは身長や嗜好だけ。つまり、三井似だ。

開店前の来客を思い出した鉄男は、書類を片付ける手を止め、ミライの体を引き寄せて抱き締めた。長男に連絡を入れるつもりでいたらしいミライは驚いてたたらを踏み、取り落としそうになった携帯をかろうじて掴んだ。

……どしたの?」
「今朝、『魔女』が来た」
「えっ、ここに? 何かあったの?」
「あの子が、夢で過去を見たらしい。自分の現実と混ざって、見舞いからホテルに入るまで」

夫の低い声にミライは言葉を失い、ぎゅっとしがみついた。

「今日、ユヒトとヤる約束をしてたらしくてな。その意識が『本来のルート』を求めて過去にくっついちまった……てのが彼女の推測。異変はないかって顔出したんだが、何もねえしな」

「本来のルート」を選択した「本体」であるミライは夫の胸に顔を埋めて微かに頷く。鉄男はミライの父親似の真っ直ぐで真っ黒な髪を静かに撫でる。ちらほらと白髪が交じるようになってきたが、それでもミライの髪は今でも美しい。生え際が少し後退気味の鉄男は嫁の髪を撫でるのが好きだった。

「自分は復讐のために世界をいじり回したから、ビビってんだろうな。愚痴ばっかり言ってた」
「私たちとは違う……?」
「本当にお前がこの世界では生きられないほど異常なら、とっくに何か起きてるはずだろ」

鉄男と共に生きることを選んで無意識に自分を引き裂き、ミライは17歳の自分を未来の両親の元へ送り返した。そして「ミライ」として、鉄男のパートナーとして、25年を生きてきた。その間、存在しない人間としての苦労はあったが、それ以外では危険を感じたことはなかったし、異変もなかった。

「彼女が言うには……今日あの子がユヒトという選択をすることで、完全に切り離しが行われるんじゃないかと。どちらにせよ分岐点はあの時なわけだろ。オレを選ぶか、未来を選ぶかでお前はふたつに分かれて、こっちの本体は選択したルートをずっと来てるけど、あの子はまだユヒトというルートに入ってなかったんだ」

仕方あるまい、分離した「ミライ」の方は過去の旅から戻って数ヶ月、しかしその25年前に本体は別ルートを選択していた。時差だ。鉄男に「魔女」と呼ばれているアンティークショップの店主が危惧していたのもそれに依るんだろう。今夜、ミライとミライの完全な切り離しが行われる。異変は起こるのか。

「彼女、よく言ってたよね。私たちはこのままで済むはずがないって」
「今日も言ってたけど、オレはイマイチ信用してねえんだよな……
「私も。彼女は自分で招いた闇に飲まれるかもしれないけど、私たちは……違う気がする」

アンティークショップの店主はこの世で1番愛する兄をハデスに傷つけられ、その復讐のために腕時計型のタイムマシンを生み出すまでに至った。科学ではなく、魔術じみた執念の結晶だ。彼女は世界に手を加えたことで発生する歪を恐れるが、歪は彼女自身の中に生まれ始めている。

その余波でミライは分離した。鉄男と一緒にいたいミライと、未来の正しい時間軸に帰ろうとするミライが高熱の数日間のうちに分離し、それぞれのルートを進むことになった。鉄男は自分の時間軸を離れたことはないが、「魔女」同様、始まりから全てを知るものとして、また本来なら存在しないはずのミライと子供を成したことで世界を歪めている。それぞれ種類は違うが、この世ならざるものであるのは間違いない。

過去に残って7年、ミライ24歳、計画的な妊娠ではなかった。ミライの妊娠がわかった時に「魔女」と3人で集まってさんざん話し合った挙句、異変が認められたらこの土地を離れること、祖父母にあたるふたりと接触させないことなどを取り決めて、産むことを選んだ。これを持って本体の方のルートは固定されたといえる。

「もし、異変が起こって私たちにも何かが起こるんだとしたら、私は、戻ると思う」
「戻る?」
「私が分離したあの時に、私とてっちゃんがこの世界のルールを外れたあの日に帰るんだと思う」

高熱を出したミライは少しずつ分離を始めていて、本来の自分の時間軸を生きなければという「存在としての本能」は未来へ帰ることを選んでいた。結局はその「本能」だけがや三井に別れを告げて未来へ帰り、鉄男を求める本体だけがその場に残った。そして、あのデートの日にとうとう過去に生きるというルートを選ぶに至る。復讐で世界を曲げたアンティークショップの店主と違い、ミライと鉄男は自分たちの恋で世界を歪めた。

果たしてその咎は報いとして還ってくるのか。今夜それは異変として襲いかかってくるのか。

何しろふたりが生きていくのに困ったことといえば、ミライが「存在しない人間」であったことだ。だが、これは結局「金さえあれば抜け道がある」で片付く問題だった。鉄男はと三井の認識が「ミライは親の元へ帰った」であることを確かめると、仕事に没頭し始めた。金があれば全てなんとかなる。

その中で、当然非合法ながらも新たな戸籍を手に入れたミライは、すぐに鉄男と結婚した。「世界のルールから外れた」あの時から5年が経っていて、ミライは22歳になっていた。タイムマシンは今でもミライの手元にあるし、当時もそれを使えば戻れないことはなかった。けれど、ミライは鉄男を選んだ。

三井や徳男には結婚を隠していた。子供が生まれても、ふたりが結婚して式に呼ばれても鉄男は黙っていた。三井たちがそれを知るのは、彼が病気を乗り越えた後のことだった。表情の見えない太いフレームのメガネにメイクで顔の特徴を隠したミライを、経営する飲食店のカウンター越しに紹介しただけで済ませた。一言も喋らない数年ぶりのミライに、ふたりが気付くことはなかった。

鉄男が30歳を前に大病することはミライがよくわかっていた。しかも、ちゃんと治ることも知っていた。これもたっぷりと金があってしっかりした医療保険に入っておけば、もっと確実になる。アンティークショップの店主と全てを打ち明けあってからのミライと鉄男は子供を育てつつも、とにかく金を貯めまくった。

そして治療が完了した後はミライの記憶を正しくなぞるために、鉄男は三井家に出入りして、幼いミライを可愛がった。この時既に長男が生まれていた鉄男は幼いミライの面倒を慣れた手つきで見ていたのだが、三井夫婦はこれを「娘が超懐いている」と解釈してくれた。

そうやってミライと鉄男はふたりで一緒にいるために、「魔女」と協力しながらありとあらゆることに気を配って生きてきた。今のところそれが破綻を見せる兆しはないし、ミライの体が透け始めるようなことも一度もなかった。全く面識のない女性と結婚したと思っているので、三井とも「鉄男の嫁」を疑ったことはない。

「もし私たちが歪めた世界が元に戻ろうとして跳ね返るんなら、私たちも、戻るんじゃないかな」
「なるほどな。あの魔女と一緒に弾き出されるってわけだ」
……そうしたら、どうする?」
「そうだな、今度はオレが未来に行くか?」

ニヤリと笑う鉄男を見上げて、ミライは眉を下げた。それはつまり、ルートは違えどまたミライを選ぶということだ。世界に手を加えた報いとして振り出しに戻されるのだとしても、ミライとのルートを外れる気はないのだ。涙目のミライの髪を撫でながら、鉄男は声を落とす。

「ミライ、今日はデート、しようか」
「え?」
「バイクで海まで行って、レストランでシーフード食べて、浜を歩いて、その後はホテル」

あの日、ミライが「存在としての本能」からの決別を選択した時にしていたことだ。今夜は「存在としての本能」であるミライもユヒトを選択する。完全に分離が行われるのだとするならば、改めて本体も。

「ちょうど子供たちが不在なのも、何かの縁、てことかもしれないね」

次男は喧嘩が原因で親共々呼び出しを食らったので父親が怖くて友達の家に逃げている。長男は進学で家を出ていて、元から不在。ふたりがかりで金を貯めまくった副産物として現在鉄男はバイクショップと飲食店複数を経営する社長だが、それも任せられる人材がいるので問題はない。

鉄男はまだ薄っすらと涙目のミライに顔を近付けて、囁いた。

……もう一度オレを選んでくれるか」

4歳の時の初恋を、世界を捻じ曲げてでも選んだのだ。ミライは頷いて涙をひとしずく零した。

「当たり前でしょ。何度戻されても私はあなた以外を選ばない。私も、腹を括ったの」
「その度に世界を壊すのだとしても、か?」

ミライは涙を払い、最愛の夫にキスをすると、ふんわりと微笑んだ。

「何度壊れても私はてっちゃんと一緒にいる。本当に世界が壊れるまで、何度でも繰り返せばいい」

鉄男はミライの体を強く抱き締めて、何度も頷いた。同じ気持ちだったからだ。

そしてふたりはバイクショップを閉めると、懐かしいバイクに跨り、夜の街を走り出した。鉄男はクリーム地に青と赤のラインのハーフメット、ミライは赤地に白の星マークのついた可愛らしいヘルメット。海が見えるレストランで食事をして、浜辺を歩き、仰々しい外観のラブホテルに入る。部屋は南国風、シャワーは別に浴びて、そこでもう一度選択をするのだ。

「てっちゃん、あの頃も今も、4歳からずっと、私てっちゃんが大好きだからね」
……オレもだ。ミライ、愛してるよ」

……大丈夫か? 本当に――
「いいの、もう決めたんだからいいんだってば!」
「だって震えてるから」
「怖いわけじゃなくて、なんかよくわかんないけど、今すごく大事な時なんだと思えて」

薄暗いユヒトの部屋、ミライは下着姿でカタカタと震えていた。それは緊張のためなのか、それとも別のことに原因があるのか。しかし本人は訳の分からない動揺から抜け出そうと必死である。

「あのさ、他の女の子に全然興味わかないのっておかしいと思うか」
「何だ突然」
「そのくらいずーっと好きなんだよな」
……ごめん」
「えっ!? あ、今朝の夢がどうのってことじゃなくて、違う違う」

ミライは鉄男とデートする夢を見てしまったことを責められているのかと早合点したが、ユヒトは慌てて首を振る。違うらしい。ユヒトは優しくミライの髪を撫でながら、少し照れた。

「子供の頃からずっと好きなままで、今も変わらないんだ。それっておかしいと思う?」
「おかしくは……ないんじゃないの。そういう人もいるかもしれないじゃん」
「だったら、この先もずっと一緒にいたいなと思うのもおかしくない?」
……うん、おかしくないと思う」

ユヒトはミライの話した「冒険の話」を全て信じた。少なくとも、疑いのツッコミを挟んでくるようなことはなく、むしろミライの主観による話なので、こんな解釈もできるんじゃないか、などと真剣に受け取ってくれた。そして、結局は「あのアンティークショップのお姉さんはなんか変」なので、信じたらしい。

その上でベッドに潜り込み、お互い下着姿にはなったが、ミライがカタカタになってしまった。

「オレ、監督と小母さんみたいに、ずっと一緒にいたいと思ってる。ずっと前から」
「私が怪我した時、言ったんでしょ、結婚していい? って」
「そう。それ、今でも本気でそう思ってるんだけど、ダメかな」

ミライは体の芯の震えが遠のいたような気がして、何も考えずに首を振る。ダメじゃない。

そして心から強く思う。私はこの人と一緒にいる、私はこの人と共に生きていく。

「ユヒト、あの頃も今も、8歳からずっと、私ユヒトが大好きだからね」

ミライは目を閉じ心を閉じ、ユヒトの全てを受け入れる。痛みとともに、何か大きなものを失ったような気がしたが、それはきっととうとうユヒトとひとつになれたことによる感慨なのだろうと思った。今ミライにとっては視界いっぱいを埋め尽くすユヒトが全てだった。彼しか見えなかった。

もう、鉄男のことは思い出さなかった。

END