慣れないことの連続で軽く頭痛を覚えていたミライだったが、いざ部屋の中に入ると妙な浮遊感でボンヤリしてきた。これは本当に現実のことだろうか。鉄男はそのまま変わらないけれど、ホテルの部屋は非日常感を感じさせる南国仕様で余計に混乱してくる。熱、下がりきってなかったのかなあ。
「てっちゃんはラブホ来たことあるの」
「……………………ない」
「あるのか」
誤魔化しようのない長い沈黙を置いてしまったくせに、鉄男は苦し紛れの嘘をついた。素早くミライに突っ込まれてがくりと頭を落とすと、バイクのキーをテーブルの上に置く。
「……昔の話だ」
「あ、違う違う、私責めてるんじゃなくて、来たことあるのかなっていう単純な疑問。いつ来たの?」
「なんでそんなこと聞きたいんだよ」
「私来たことないからさ、どんなもんなんだろって思って」
「別に……使い道なんて」
「そりゃそうなんだけど」
ゴニョゴニョと言いづらそうな鉄男は棒立ちで首を傾げるミライの手を引いて抱き寄せた。
「元カノ?」
「……説明したら満足するんだな」
「えっ、まあうん、そうね」
「彼女じゃない。16ん時に、強引に連れてこられただけ」
「ちょちょちょ、ちょっと待った何それ詳しく」
「満足してねえじゃねえか!」
「しょうがないじゃん! 16歳の可愛いてっちゃんが一体どうして強引に! 相手男じゃないよね!? やばい!」
「やばいのはお前の頭だ」
ミライにとって鉄男は、この同年代の彼だけではなく、30歳前後から40代半ばまでのイメージもある。そういう土台があるだけに、元カノの話くらいなんてことはない。遠い未来には彼は妻帯者であり、子供はいなかったけれど、他の女と何してたくらいではいちいち気にならない。
だが、16歳となれば話は別だ。しかもこの様子では年上が少年を強引に。テンションが上がる。
興奮気味のミライを誘って鉄男はベッドに腰を下ろし、背中をさすってやる。彼は彼で砂浜でキスした時にそれなりの覚悟を決めていたので、なんで出来たばかりの彼女にそんな話を……と思うが、ある程度は話さないと当人が落ち着きそうもない。鼻息荒い。
「16歳のてっちゃんてどんな感じだったの、今よりちっちゃかった?」
「あー……175とかそんなんか」
「相手の人も高校生くらいだったの?」
「年は……確か今のオレくらいか」
「やっば、オトナのお姉さんが16のてっちゃんとマジですかやばい何それ」
「……仕事場の先輩の、彼女だった」
「ファッ!?」
興味津々で目を輝かせるミライを抱き寄せ、鉄男は遠い過去に意識を飛ばす。
「あんまりうまく行ってないっていう愚痴を聞かされてて、興味ねえから適当に聞いてたんだけど……そのうち気晴らしに付き合えって言い出して、飯を奢ってもらえるからよく一緒に出かけてたんだ。今思うと大して大人でもないけど、中型の免許取ったばっかりだったし、小遣いもくれるからへいへい言うこと聞いてた」
何を勘違いしているのか、ミライは鉄男の背中を擦りだし、うんうんと頷いている。
「それで……たぶん大喧嘩したとかだったんだろ。ヤケクソでオレを連れ込んで、金は出すから慰めろって言い出して、だけどこっちも何をどうすりゃいいのかなんてさっぱりわかんねえし、なんか、そのまま適当に」
本当にそれだけだった。勢いで連れ込んだはいいけど後で我に返ったお姉さんは連絡を絶った。
「えーと、それ、てっちゃんはお姉さんのこと好きだったの?」
「いや別に……本人がやれっていうんだから別にいいかと」
「うーん、やっぱり男の人ってそういう感覚なんだね」
非常に勉強になりますという顔でミライが頷いているので、鉄男はまた吹き出し、そして背中をしっかり支えてやりながらベッドに押し倒した。ミライの父親似の真っ直ぐな黒髪がシーツの上に広がる。
「そういう感覚?」
「ええと、女の感覚で言うところの『好きでもないのに』ってやつ」
「まあ……そういう生き物だからな。16だし」
単なる興味で聞いていたはずだが、ここに来てミライはつい肩を強張らせてしまい、しかもそれを気付かれた。鉄男は吹き出すのを堪えてミライを抱き寄せ、鼻がくっつくすれすれまで顔を寄せる。
「今もそうなんじゃないかって思ったんだろ」
「バレた?」
「顔に出てるからな」
ミライの頬に鉄男の指が伸びてきて、するすると撫でていく。
「あの時は……彼女がいたわけでもないし、そういう付き合いには興味なかったし、ヤらしてくれるってんだからいいか、くらいにしか思ってなかったけど…………今は、違う」
ミライが息を呑み喉がゴクリと鳴った音が響く。
「違うの……?」
「まあな」
「どう、違うの」
「……お前は、彼女だろ」
「……てっちゃん、こんな時くらい、言ってほしいな」
皮肉でも意地悪でも見栄でもない。ただ、彼も不慣れなだけ。ミライの言葉に頭を落として目を伏せ、彼女の体を抱く腕に力がこもる。ミライも強く抱き返して頷く。
「お前のことは……好きだから、違う」
「てっちゃん……」
限界だったらしい鉄男は殊更強く抱き締めてミライの髪に顔を埋めた。
「てっちゃん、私も好き、ほんとに好きだから」
「ミライ……」
そしてミライは鉄男の頬を両手でくるみこんで、潤んだ赤い目で囁いた。
「私を、てっちゃんの、女にして、ください」
「……後悔するぞ」
「しないもん。それてっちゃんだって同じだもん。私の秘密を知ったら絶対後悔する」
「秘密って……」
「てっちゃんが、私の言うことちゃんと信じてくれるようになったら話してあげる」
ぱっくりと食いついてくる鉄男に唇に翻弄され、ミライは思わず身を捩る。
「今でも信じてるけど」
「ちょっと種類が違うの。ちょっと……話すのにも勇気がいるから」
「……じゃあ、先にオレの秘密を教えてやろうか」
「えっ、何なに!?」
そういう話には食いつくのが早い。ミライはとろりとしていた目をカッと見開く。
「……さっき、海でキス、したろ」
「うんうん」
「あれ、人生2度目」
「はっ……? ……えーと、じゃあ、その、エッチは?」
「数えてねえけど、たぶん……何十……」
「どうなってんだ?」
そういう過去は想像しないでもなかったし、むしろこの風体で童貞ですと言われる方が困ったかもしれない。ミライはしかしその差にピンと来なくて眉間に皺を寄せた。
「お前、三井やあのねーちゃんのこと言えねえだろ、察しが悪いな」
「ふん、私処女だもんそんなことわかんないもん」
「つまり、さっきの話の人もそうだけど、ただヤッただけだから、キスとかそういうのは」
「へええ、いわゆる体だけの時ってチューしないの」
「別に、いらねえだろ」
「いやわかんないから。……………………ちょっと待っててっちゃんもしかして彼女って」
一瞬サッと体が冷たくなって、直後に今度は心臓が壊れるのじゃなかろうかというほどに跳ねる鼓動がミライに襲いかかる。全身が熱い、燃えそう、ドクドクと心臓の音が聞こえる、私死ぬんじゃないのこれ。
「……そう、彼女は、お前が初めて」
「うそ……」
「ほんと。さっき言ったろ、そういう付き合い興味なかったって」
「だけど何十って……」
「それはまあ、忘れろ」
「ずっと体だけだったから、チューもしなかったの……?」
「まあ、そうだな」
「でも今日はいっぱいしてるよ」
「だから察しが悪すぎるだろお前は」
心臓はバクバク言ってるし高熱が出たのかと思うほど熱いし、ミライはまた涙目になりながら鉄男の頬を撫でる。
「私には、いっぱいチューしてくれるの」
「だから……それは好きだからだろ」
「私美人でも可愛くもないけどいいのチューもエッチも」
「……可愛いと思うけど」
とうとうミライは爆発してあわあわしながら両手で顔を覆った。興奮しすぎて何をどう言葉にすればいいかわからないし、その前に自分の感情がどういう状態なのかも把握できていない。
一方の鉄男は言ってしまったら気が楽になり、そういえばミライを三井に似ていると思ったことをちらりと思い出した。しかしそっくりと言うほどではないし、三井の顔なら見慣れているし、アレもイケメンの部類だろうから、ミライが可愛く思えるのは普通の感覚なんじゃないかと納得してきた。
「自分でも可愛いとかなんとか言ってただろうが」
「そ、そーいうのはほらノリっていうか、ツッコミ待ちというか!」
「ツッコミ待ち、ね」
「てっちゃん!!!!!!」
ミライがパニックになっているので鉄男は楽しそうに笑っている。もう顔を背けたりはしない。ミライのことを好きで可愛いと思っている、それを正直に認めてしまったら心にかかっていたモヤモヤがすっかり晴れ、気持ちの良いゆったりした興奮が体を満たしてきた。ミライを抱きたい。
「お前の秘密はまた今度、な」
「あ! ちょっと待って、せめて、シャワー! 汗かいてるから!」
「別にいいよそんなの」
「よくないよくないよくないから!」
するりとスイッチの入ってしまった鉄男のキスの嵐にミライはジタバタと暴れ、なんとか腕から抜け出ると、バスルームに飛び込んだ。熱い。全身が燃えるように熱い。余計に汗をかいている。臭う気がする。ミライは丹念に体を洗い流し、鏡で何度もあちこちを確かめた挙句にバスルームを出た。
すると、上半身裸の鉄男が目の前に立っていて、つい悲鳴を上げた。
「キャーって何だ、人を化け物みたいに」
「いや十分化け物でしょ! びっくりした……」
「オレも入るわ」
「あ、そ、そか、うん、どうぞ」
正視できなくて狼狽えていたミライを通り過ぎた鉄男だったが、ふいに振り返ると、バスローブ姿で着ていた服を抱えている彼女を後ろから抱き締めた。またミライは「ヒャッ」と変な声を上げる。
「どど、どしたの」
「次はシャワーも一緒に入るからな」
そうして後頭部にキスを落とすと、マヌケな悲鳴を上げているミライを残してバスルームに消えた。
一方ミライはその動揺を抱えたままベッドに倒れ込み、両足をバタバタさせて暴れた。こうでもしないと正気を保てない。興奮していて冷静に考えられないのを差し引いても、ここにきてちらりちらりと頭の片隅によぎる両親とユヒト、そして未来に生きる45歳の鉄男の記憶で爆発しそうだった。
てっちゃんが好きだったのは間違いないよ、てっちゃんが結婚したって聞いた中1の時まで私はてっちゃんが好きだった。誰にも言えなかったけど、小学生の頃も中学生の頃も、ユヒトを好きだと思うのとはまったく別のところでてっちゃんを思い続けてた。叶わないとわかっていたから好きでいられたのかもしれない。
だけど私今、てっちゃんと3歳しか違わない。17歳と20歳、付き合ってる、もうチューもしちゃったし、もうあと数分でエッチもしちゃう。私はそれを心から望んでる。なのに、どこかで本当にこんなことしていいんだろうかって思いが消えない。でも私もう帰れないよ。てっちゃんを置いて帰れない。
これが例えば3ヶ月位で振られちゃったら帰れるかもしれない。てっちゃんに嫌われて、この時代に残る理由がなくなればさっさと帰るかもしれない。だけどさ、てっちゃん、初めての彼女だって言うんだよ、私のこと好きで、それも初めてみたいな言い方、ねえそれ、ほんの3ヶ月位でポイッて捨てるかな。
と寿は高校生の時に知り合って付き合い始めてそのまま結婚したよ。結婚して1年くらいでは妊娠して2年目あたりにはもう私が生まれてた。それって、あのふたりに当てはめると、結婚は6年後、子供が生まれるまでは8年もかからない。遠い遠いと思ってたけど、言うほどでもなくない?
てっちゃんが私を好きなままだったらどうするんだろう。私もてっちゃんが好きなままだったらどうするんだろう。
私、この時代で生きていけるのかな。存在しない人間が生きてても平気? そういうのってどこでバレるの? 結婚て出来るの? てかもしずっとこの時代に生きてたら、8年後には私が生まれてくる。そのままたちの近くにいたら、娘がミライにそっくりになっていくのを見ることになるわけでしょ。そんなの……そんなの……
一気に恐怖に包まれ始めたミライは体が冷たくなって、視界がぼやけた。改めて自分がこの世界にとっての「異物」なのだと心底思ってしまった。まあしかしそれはここから帰れば済むだけの話だが、そんな化け物じみた存在の自分に鉄男を深く関わらせてしまったことに今更後悔が出てきた。
私、今すぐここを出て未来に帰るのが正しいんだろうな。てっちゃんには悪いけど、それがてっちゃんのためだよね? だっててっちゃんにはちゃんと未来が待ってるし、そこに「ミライ」はいないし、そりゃあこのまま一生てっちゃんが「ミライ」を好きなままとは限らないけど、可能性はゼロじゃない。
てっちゃんのためを思うなら、消えなきゃ――
ミライはそういう結論に至ったのだが、もう遅かった。むくりと起き上がったところに、鉄男が戻ってきた。シャワーを浴びて、アメニティで髭を剃り直してきたのかツルリとした頬をしていた。そして、しまったという顔をしているミライの隣に腰を下ろすと、優しく抱き締める。
「どうした。怖くなったか」
「え、いやそういうわけじゃ……ないんだけど、てっちゃんはこれでいいのかなって」
「……いいって言ってるだろ」
「ねえ、本当に後悔しない!? 私が化け物でも宇宙人でも――」
思い余って悲痛な声を上げたミライだったが、ゆったりと押し倒されて息を呑む。
「お前が何か隠してることはわかってるし、それで迷ってることもわかってる」
「ごめんなさい……」
「謝ることか? オレはそれでいいって言ってんだから、いい加減腹括れ」
「てっちゃんは括ってるの……?」
鉄男はしっかり頷き、ミライの手を引き寄せて指に唇を寄せた。
「浜でキスした時に、覚悟した。自分からキスしたいと思ったのは、お前が初めてだったから」
一筋の涙がミライの頬を伝う。不安と恐怖が一緒に流れ出して、彼女の心を洗い流してしまった。
「ミライ、オレと一緒に、いてくれ」
ミライはもう何も思い出さなかった。遠い未来の景色も、家族も、何もかも。ただ目を閉じて鉄男にしがみつき、荒々しいキスに応えながら心を閉じた。私はこの人と一緒にいる、どこにも行かない、私はこの人と共に生きていく。それが例え悲惨な結末でしかなかったとしても――
薄暗いホテルの部屋の中、ミライはほんの一瞬だけ、薔薇とラベンダーの匂いを感じたような気がした。