エンド・オブ・ザ・ワールド

02

ユヒトが大好きな幼馴染であることには何の変わりもなかった。今でもミライはもちろんユヒトが好きで、それは家族愛ではなくて恋だった。 しかし、幼馴染のユヒトにすら出会っていない幼児の頃の初恋、それも確かに恋だった。やがて初恋のお兄さんはおじさんになって、他の女と結婚した。恋は終わったはずだった。

それなのに、若かりし頃の初恋のお兄さんとデートできることになってしまった。

ミライは真新しい靴を履いた自分の足元を見下ろし、ちらちらとよぎるユヒトの面影に傷つきながらも、ときめく心を隠せないまま鉄男を待っていた。ざっくりと「いつものミライ」からはみ出すことない服、綺麗な靴、に借りたバッグを斜めがけにしたミライは緊張と期待と不安で顔色が悪い。

「大丈夫? やっぱり怖くなっちゃった?」
「ううん……そうじゃなくて、なんて言えばいいのかな、いいのかなこれ、って」
「どういう……意味?」
「ちょっと、自信なくなっちゃっただけ」

はまさかこのミライが? という顔をした。だが、そっと肩を抱いて寄り添う。

「寿くんの話では、鉄男さんてあんまりお家の話とかしなくて、どうもご家族が少ないというか、いないような感じらしいのね。だから自分もマトモな大人になるはずがないっていう理屈の人らしくて。見た目も怖い感じだし、女の子と仲良くしてるようなところは見たことないって言ってた」

無理もない。この頃の鉄男の手の甲は喧嘩による傷でいっぱいだし、女の子にモテるようにかっこよく装うという気がない様子だし、寡黙だし、その辺は三井が不審がったように未来のことを知るミライが特殊なだけ。

「だから、今日のことOKしてくれた時点で、ミライの不安なんて気のせいだと思う」
……何話せばいいのかな」
「ミライはいっぱい喋る人だからつらいかもだけど……無理に話すことないんじゃないのかな」
「そっか」
「でも、言いたいこと聞きたいことは遠慮しなくてもいいと思う」
「そうかな……
「そのくらいのことでカッとなるような人なら、わざわざお見舞いなんて来ないよ」
「そっか……

ふらふらと頷くミライの肩を揺らしては言う。

「今日は余計なこと考えないで、楽しんでおいでよ。きっとバイク気持ちいいよ!」

あどけなさの残る母親の笑顔にミライはやっと心が決まった。何も今日1日デートしたからと言って、鉄男と付き合うことになるわけじゃない。そもそもユヒトには告白すらしていないし、ギクシャクした関係のまま5年が経とうとしているけれど、今のところは幼馴染の友達だ。自分の負い目以外に問題は何もない。

「そか、そうだよね」
「そうそう、チューくらいしたって何の問題もないよ!」
「バカ、何言ってんだ!」

焦ったミライはの肩をバチンと叩いたが、は嬉しそうに笑った。

……てか今日私いなくて寿来るんだよな。くそ、それはそれで腹立つ」
「なんでよー」
「私のいないところで寿がに手ェ出してるかと思うとだな」
……いつも思うけどミライって私のことどういう意味で好きなの」

ミライのマジボケにが呆れていると、重い響きのバイクのエンジン音が聞こえてきた。に手を引かれてミライが外に出ると、大きなバイクに跨った鉄男がヘルメットを鬱陶しそうに外したところだった。三井によれば鉄男はヘルメット嫌いで有名だそうだが、今日はちゃんと被っている。

「こんにちは〜」
……おう」
「あの、この間のドラゴンフルーツ私も少し頂きました。ごちそうさまでした」

ぺこりと頭を下げたに、鉄男はサッと手を上げて応えている。本当に口数が少ないが、確かに三井が振り返るほどには凶悪な対応ではない。ミライは約10年後の彼を思い出して胸が疼いた。

「もう熱はいいのか」
「あ、うん。もう平熱」
「ほれ、メット」

鉄男はミライにヘルメットを投げてよこした。自分が被っているのはクリーム地に青と赤のラインのハーフメットだが、ミライには赤地に白の星マークのついた可愛らしいヘルメットだった。まさかとは思うが選んできてくれたのだろうかと思うと、ミライの中のユヒトの影が薄れていく。

その上鉄男は清潔なTシャツにジーンズを着ていて、誘拐事件の時などボサボサ頭に無精髭だったのがそれもある程度整えてあって、ミライは胸が焼かれるようなときめきに息を呑む。てっちゃんスタイルいいからTシャツにジーンズでもかっこいい。

「何時頃戻ればいいんだ」
「何時でも私は構いません。今日も寿くんは宿題で缶詰なので、いつでも」
「まだ終わんねえのかよ」

三井と宿題ネタにはツボが反応してしまうらしい。鉄男はまた吹き出した。

「というか今日もやっぱり親は夜勤で不在なので、深夜でもいいです。宿題も終わるまでやらせるので」
……病み上がりは無理しない方がいいんじゃねえのか」
「それはミライ本人次第で。ね」
「う、うん」
「じゃあ気をつけてね。鉄男さん、何かあれば寿くんに連絡くださいね」

既に三井の嫁状態のに背中を押されたミライはヘルメットを被り、バイクの後部座席におずおずと跨った。身長が高くて態度もでかいミライだが、鉄男の真後ろにいると小柄な女の子に見える。

……ちゃんと掴まれ」
「あ、うん」
「いってらっしゃい、ミライ」
「い、いってきます!」

大好きなお母さんに送られて、初恋の人の背に抱きついてデートである。ミライは泣きそうになりながら手を降った。鉄男のバイクが唸りを上げ、ゆったりと旋回すると、エンジン音の大きさに反してスムーズに走りだして行った。それが見えなくなるまでは見送っていた。

鉄男の体に腕を回してしがみつき、バイクの立てる轟音に身を委ねていたミライはドキドキが高じてきて、こっそりと頬を寄せ、幸福感の中で目を閉じていた。本来なら鉄男とは28歳の年齢差だが、今は17歳と20歳だ。それを思うだけでミライのみぞおちは軋む。

幼馴染の影はもう遠く、あり得ないはずの現実がミライの中の初恋を燃え上がらせる。

「海でいいのか」
「えっ、うん、どこでも! てっちゃんが普段行くところでいいよ」
「普段? じゃあバイク屋だな」

信号待ちの間にそんな言葉を交わしてバイクは進む。元よりミライはこの時代の人間ではないので、どこに行きたいと言ってもパッと思いつかない。一応近いので海でいいとは言ったけれど、それも具体的にどこだとかいう注文はつけていない。

そんな「男が一番困る」状態のミライだが、鉄男は黙々とバイクを走らせて海方面に向かっている。

「そういえばてっちゃん、ご飯は? もうお昼過ぎてるけど」
「いや、起きたのさっきだし」
「夜型?」
……仕事が終わるのが遅いからな」

三井によれば鉄男は基本的に午後から深夜勤となっており、セルフスタンドとメンテナンスサービスが一緒になった大きなガソリンスタンドで働いているらしい。愛想は悪いが、男性客からはウケが良いらしいというのでが首を傾げていた。要するに自分のマシンを預けられそうな相手だということだ。

「お腹減ってる?」
「あー、まあそれほどでもねえけど」
「行きたいお店とかあったら連れてってよ。今日もおごるよ!」

まだ「間違って作られた未来」からくすねてきた軍資金が残っているミライは鼻息荒くそう言った。鉄男はゴフッと吹き出し、体を小刻みに震わせている。これもまた三井によれば、どうもミライの突飛な言動は鉄男のツボに入りやすいらしく、こんな風に度々吹き出すなど珍しいとのこと。

ひとしきりくつくつ笑った鉄男は、腹のあたりで組まれたミライの手をポンポンと撫でると、緩やかに頭を振った。

「女におごってもらって喜ぶようなタイプじゃねえから、そういうのはいいよ」
「そう? なんでもいいけど、私好き嫌いないし、お酒はまだダメだけど」
……じゃあ、海に着いたらな」

信号が変わり、数台先の車が発進していく。それを確かめた鉄男は、ミライの手をふわりと包み込むと、するりと撫でて、ゆっくりと走り出した。ミライの心臓が跳ね、ただでさえ熱いというのに、頭がボーっとしてくらくらする。

今の何? なんで撫でたの、なんでこんなに優しく撫でるの、私の手、てっちゃんの手の中に全部隠れちゃった、12でバスケやめてるのにでっかくなっちゃった手なのに。寿は「あいつ病気なんじゃねえの、人に優しいとかいうタイプじゃねえんだけど」って言ってたのに、この頃は確かにそう人だったんだろうに。

そしてミライは頬を寄せた鉄男の背中に、タバコの匂いがしないことに気付いてぎゅっと目を閉じた。この頃のてっちゃんは常に咥えタバコな人なのに、14から吸ってるって言ってたのに、禁煙する方が体に悪いとか言っちゃう人なのに。どうして今日はタバコの匂い、しないの――

幸せに包まれたままミライは海へと運ばれていった。ユヒトのことは、もう思い出さなかった。

の母親、ミライの祖母が慌ただしく夜勤に出かけていったのは、ミライが出かけてから1時間後のことだった。それを確認した三井はかったるい気持ちをなんとか奮い立たせての家へとやってきた。とふたりきりなのは嬉しいけれど宿題は面倒なので、その間でげんなりしている。

「あれ、もう出かけたのかあいつら」
「あのね寿くん……
「何だよ深刻な顔して。鉄男が何か……
「あのね、鉄男さん、ちゃんとしてた」

が眉間にしわを寄せて難しい顔をしているのでギクリとした三井だったが、意味がわからないのでとりあえず床に腰を下ろした。その隣にぺたりと座ったは、首を捻りつつ腕を組む。

「とりあえず、キレーに髭剃ってた」

それを聞いた三井はがいれてくれた烏龍茶をゴハッと吹き出した。慌ててティッシュで拭きつつも、見てはならぬものを見てしまったような驚愕に顎がだらりと下がっている。

「たぶん出かける前にお風呂入ってきたんだと思う。髪もボサボサしてなかったし、服は黒のTシャツにジーンズで、靴もきれいだったし、それにね、タバコの匂いが全然しなかったの」

三井はその場にばったりと倒れてジタバタと悶える。

「意味わかんねえ何だよそれ怖い見たくねえ」
「うん……私もなんかちょっと怖かった」
「てか、なあ、あいつら確かこれで4回目だよな、会うの」
「えーと、そうだね、あの騒ぎの時、お見舞い2回、今日。4回だね」
「そんなんでそんなんなるもんか?」

しかしは腕を組んだまま、また眉間にしわを寄せる。

「正直、私は初めて会った時から寿くんいいなあと思ってました」
「ファッ!? なんだよいきなり……
「だから時間は関係ないんじゃないかと思うんだけど、寿くんから聞く鉄男さんと思うと」
「それなんだよな……

三井が鉄男と知り合ったのは高校1年生の秋頃だ。その頃から一貫して鉄男は喧嘩好きバイク好き、チェーンスモーカー、穏やかな生活など興味ないようだったと三井は記憶している。

例えば人に優しくするとかいうことを「腹立つ」だの「ムカつく」だのと言って嫌悪しているというよりは、そういう感情を持っていないように見えた。人に優しくしたりはしない、誰かが誰かに優しくしていても疎ましく思ったり羨んだり、ましてやそれを罵倒したりもしない。自分には関係のないことだと。

「テンションも低いだろ。楽しくて気持ちがあがるようなこと、あんまりないっぽいんだよな」
「そういうのが苦手とか嫌いって言うより……
「そう、知らないんだと思う。まあ、喧嘩はちょっと楽しいのかもしれないけど……
「鉄男さんて笑ったりすることあるの」
「まあ、ない」
「だけどさっき、ちょっと楽しそうだった。目を細めてるというか、リラックスしてる感じ」

まだ眉間にしわを寄せているの手を取った三井は声を潜める。

……もし、ミライと鉄男が付き合うとかなったら、どうする?」
「どうするって、どうもしないけど」
「え」
「えっ、なんで?」
「あんな凶悪なヤンキーでもいいのかよ」
「ミライに対しては凶悪なヤンキーじゃないじゃん」
「そっ、それはそうなんだけど」

があまりにもあっけらかんとしているので、三井の方がしどろもどろだ。

「ていうかヤンキーでいいのかよとか寿くんが言えたことじゃないでしょう」
「おっ、仰るとおりです」
「ミライと鉄男さんがそれでいいなら、ふたりが幸せならそれでいいもん」
…………無理やっぱ全然想像つかねえどっちもこええよ」

鉄男にしてもミライにしても、三井にとっては優しい恋愛というイメージからは遥か彼方にいる人物である。鉄男は凶悪なバトル体質だし、ミライは暴走暴発ご迷惑体質、恋だの愛だの、まあもっと具体的に言うならラブラブで手を繋いでチューして、なんていうイメージが溶け合わなすぎて脳内で処理できない。

「でも不思議、どっちもだいぶ暴れん坊なわけでしょ。それなのにふたりでいると喧嘩してたボス猫2匹が日向でのんびりしてるみたいに見えて、神経尖らせたりする必要のない相手なんだなって感じがして」

三井は鉄男のようにくつくつ笑うと、ベッドに寄りかかっていた背をずるりと落として頭をの肩に預けた。

「寿くんもすっかりおとなしくなったねえ」
……そりゃお前のせいだ」
「えっ、そうなの。バスケのせいかと思ってた」
「まあ、それもあるけど……なあ――
「あっ、ぼんやりしてたらこんな時間! ほらほら、さっさと宿題片付けよう!」
………………はい」

ちょっとイチャつきたくなっていた三井はがくりと頭を落とした。

傾き始めてはいるものの、まだまだ暑い日差しの下、ミライは鉄男に連れられて海の見える瀟洒なレストランにやってきた。誘拐事件の時や仕事前の鉄男ではあまりに場違いだっただろうが、今日はちゃんと整えてある。それはミライも同じだし、どちらもだいぶ背の高いふたりは並んで歩いていると迫力もあるが、絵になる。

バイクを止めた鉄男はさっさとヘルメットを外して髪をかき混ぜると、モタついているミライに手を差し出した。ミライは誘拐事件の時のことを思い出す。ハデスに鉄の棒で打ちのめされそうになった彼女を間一髪のところで助けたのは鉄男だった。そしてハデスを蹴り倒すと、床にへたり込むミライに手を貸してくれた。

鉄男の手に掴まってバイクを降りたミライもまた髪をササッと整えて鉄男を見上げた。彼は何も言わずにくるりと振り返ると、店の方へと歩いて行く。ミライは慌てて追いかけ、距離を図りながら声をかけた。

「ここ、よく来るの?」
「いや、知り合いがいい店だっつってたから」
「うん……すごいかっこいいお店」

こんなことなら恥ずかしがってないでもっとそれっぽい可愛い服を着て来るべきだったんじゃないだろうか……という後悔が襲ってくるが時既に遅し。それでも一応ラメの散りばめられたキャミソールチュニックに刺繍の入ったジーンズ、バイクなので脱げ落ちたりしないバックバンドのしっかりついたヒールのあるサンダルである。

店の入口に置かれているメニュー一例を見るに、シーフードを使った料理の店らしい。ガッツリ系からライトなサイドディッシュまで中々豊富なようで、ミライは途端に空腹を感じてきた。昼には遅くて夜には早い時間だけれど、ゆっくりお喋りをして日没を待つというのもいいんじゃないだろうか。

「バイクだから飲めないね……
「まあ、いつものことだからな」

席に案内されながらそう言うミライだったが、鉄男はやっぱり殆ど無表情でさらりと返す。

「てかタバコ吸っていいよ、私気にしないから」

どうも禁煙席に通されているようなので、ミライは慌てて鉄男の顔を覗き込んだ。だが、鉄男は案内された席に付き、ミライもそれを追って椅子に腰掛ける。鉄男はスタッフが離れていってからやっと口を開いた。

……お前が煙草臭くなって帰ったらあいつらにどやされるだろ」
「そっ、そうかな、てっちゃんがタバコ吸ってるのは知ってるのに」
「仕事で長い時間吸えないこともあるから気にすんな」
「えー、今は仕事じゃないのに」

鉄男はそれ以上答えようとはせずに、メニューを取って寄越した。渋々開いたメニューにミライはつい喉を鳴らし、また鉄男は顔を背けて吹き出した。こうして度々鉄男は吹き出すのだが、毎回顔を背けたり俯いたりで、中々笑った顔は見られない。

30歳くらい以後の鉄男の笑顔なら、ミライもよく知っている。どんどん優しくなっていって、てっちゃんてっちゃんと纏わりつくミライを可愛がってくれた笑顔なら目を閉じればすぐに思い出せる。けれど、ミライは20歳の鉄男の笑顔を見てみてかった。どんな風でも構わない、この頃の鉄男がどんな表情で笑うのか、見てみてみたかった。

現実にはありえない、起こりえないはずのこのデート、どうせなら彼の笑顔も。

メニューを選びながらちらちらと鉄男の顔を覗き見ては、ミライの胸は高鳴っていた。